掌に小春日和
喉の奥に居残るざらついた違和感に、気付いたのは汗を流し終えたときだった。短期の調査から帰ってきたサンクレッドは、湯船に浸かる気力もなく、熱いシャワーをくぐって浴室をあとにする。細やかな出張が重なったための疲労だろうかと考えていたが、どうにも目頭が煮えているし、頭蓋の中で岩神タイタンが踊っているのではと思うほどに重い鈍痛が響いている。
いよいよ無視することができなくなった不調の予感に、深く長い溜め息を吐くと、サンクレッドは下着とルームパンツのみを身につけた。肩にかけたバスタオルで乱雑に髪の水気を拭いながら、襲いくる気だるさと戦う。
風邪なんか、いつ以来だろう。これまでのサンクレッドといえば、大小の傷を負うことはあったが、それ以外────病気の類いに対しては、すこぶる丈夫で健康だった。自分の担う仕事柄、特に気を遣っていたがゆえであるし、元々そういうものには強かった。今まではそこに、若さという強化魔法も付与されていたのだが。
(いつまでも、そのつもりじゃいられないな……)
零時の鐘は毎夜鳴り続け、魔法は消えてゆく。容赦なく訪れる老化への憂いと虚しさを、再度の嘆息に込めた。これも久しい感覚であるが、どうも体が弱ると、心も参りがちでよろしくない。
「そんな溜め息ついてると、幸せが逃げちゃうよ」
肩にのしかかる暗雲を払うような、軽やかな笑い声が睫毛の先に触れるので、サンクレッドは俯いていた顔をのっそりとあげた。照明が少しだけ目に染みる。そのせいでぼやけたような、眩しいような視界に、ひとりの女の姿が映り込んだ。質素で清潔なワンルーム、設けられたオープンキッチンで、鍋の中身の面倒を見ている愛しい妻────光の戦士にして我らが暁の英雄は、何だか可笑しそうにサンクレッドを眺めていた。
「どうしたの。お腹減った?」
「いや、」
あんまりに優しい景色に、サンクレッドはつい笑い出しそうになって、代わりに咳が飛び出した。上顎が粘膜を失ってひりつくような、からりと乾いた音である。その咳を聞くや否や、もっぱらヒーラーを担う女傑は、まあるく和んでいた眼差しをきりりと鋭くした。鍋を一旦火から遠ざけると、彼女はサンクレッドに小走りで駆け寄って、たおやかな指で彼の頬を包む。
彼女はいつもサンクレッドより体温が低いものだから、肌が触れ合うとひんやりと心地良い。今日は特に離れがたい気がして、ついその手にすり寄れば、耳の下から、剥き出しの喉の両側までを撫でられた。
「熱いみたい。具合悪いの?」
「少しだけな、……さっき気付いたんだ」
何も不調を隠していたわけではないと、サンクレッドは降参するみたいにひらりと両手を振る。その仕草を見ていた彼女は、ほんのり笑うと、まだ少しだけ湿っている彼の髪を指でとかす。
「最近ちょっと忙しかったものね」
労ってくれる彼女の声音と、幼い子どもを宥めるかのような手つきがあんまりに優しくて、サンクレッドはうっとりと目を閉じた。この快さに風邪なんかすべて蕩けていってしまえば良いのにと、願ってもなかなかそうはなってくれない。瞼を下ろしたのは愚策だったか、淡い暗闇を見た途端、くらりと平衡感覚が揺れたので、彼女が肩を支えてくれた。
「ほら、こっち」
彼女に手を引かれ、促されてサンクレッドが腰かけたのは、二人で眠るにはいつも少しだけ狭いベッドの上だ。きしりとスプリングが軋む。その音を気にする間もなく、彼女の胸にふんわりと頭を抱え込まれて、そうと思えば歌うような呪文が聞こえてきた。何度も何度も髪をすいてくれる指と、温かな風を感じるから、おそらく魔法で髪を乾かしてくれているのだろう。
エーテルの放出が不得手になってしまってから、魔法はサンクレッドにとって縁遠いものとなってしまった。だから、彼女が手足みたいにエーテルを操るところを見ていると、なめらかな美しさについ感嘆してしまう。そしてその鮮やかな魔力を、彼のために惜しみなく注いでくれているという事実が、しょぼくれていた心を幸せで潤してくれた。頭皮に、耳朶に触れる彼女の指が、愛していると言い含めてくる。
さらりと前髪を撫でられた。それを合図にサンクレッドがやっと瞼を上げると、思ったよりも彼女の顔が近くにあって、だから網膜に直接慈愛の眼差しを食らってしまって、ただえさえ熱い頬に火が入った心地になる。
「……情けないな……」
サンクレッドがつい漏らしたのは、自嘲まじりの短い笑い声だった。愛しい女に世話を焼かれて、こんなにも喜んでしまう自分の弱さを思い知って、我ながら呆れ果てる。彼女よりもずいぶん年上で、それなりに波乱の人生を経てきた大の男が、甘ったれてこの様だ。
「良いのよ、情けなくっても」
彼の苦笑を遮るようにして、英雄たる女は肌触りの良いシャツを、サンクレッドの頭から被せた。袖を通させ、裾を払って着心地を落ち着かせて、彼を押し倒すようにして、ベッドの上に横たわらせる。肉食の獣がもつたてがみみたいな銀髪に、彼の妻である女は恭しく鼻先を寄せた。
「私はあんたのお嫁さんなんだから。たくさん甘やかさせて」
恋を歌うさえずりのような女声が、サンクレッドの頬に染みていく。ずきずきと痛んで鈍くなっていく思考に、ひとさじの蜂蜜みたいな安堵がゆっくりと広がっていった。
数々の戦を平定した稀代の大英雄である女傑が、愛情深く慎ましい妻としてサンクレッドを慕ってくれていることは、仕草の処々から見ても明らかだった。その事実が、十分すぎるほどに、彼に活力を与えてくれる。
「サーモンとキノコの、クリームスープを作ってたの。お米を入れて、リゾットにしてあげようか」
彼女が汗ばむ額を撫でてくれるのを感じる。サンクレッドは、のしかかっている妻の優しい重みを抱き寄せると、掛け布団がわりの温かさと良く乾いたシーツの心地よさに微睡み始めていた。
「薬はそのあと飲もうね。他に欲しいものはある?」
触れているだけで苦痛を和らげてくれる────少なくともそう錯覚できるだけの効能を持つ、サンクレッドだけの、ヒトの姿をした万能薬だ。
「何でも言って。好きなこと、何でもしてあげる」
彼女があんまりにも愛おしげに慈しんでくれるものだから、サンクレッドは唇を綻ばせた。いつもは強張りがちな本音が、うっかり転げ出るほどに。
「ここに、」
「うん」
甘やかな相槌に勇気をもらって、サンクレッドは、掠れた声で囁いた。
「ここにいてくれ」
「うん」
返答に喜色が浮かんでいることなんて明確で、だからサンクレッドは、オールドローズの花束みたいな妻を、今できる目一杯で抱き込めた。その髪にまとう薔薇の香油が、鈍った嗅覚も刺激する。
上がってゆく熱のせいで、体は鉛のように重く沈み、節々が痛みを訴えかけてくる。それでもなかなか、愛しいひとを手放せなくて、浮かされるまま戯れる。
「俺が、何にもできないジジイになっても、こんな風に愛してくれるか」
戯れる、ふりをした不安を、彼女の胸元に擦り付けた。同じ時間を生きるものだから、必然的に、サンクレッドは老いを早く迎えるし、その分世話も苦労もかけるだろう。彼女が色好い返事しかしないことに頼りきって打ち出す姑息な問いだった。そうしてやはり、可愛い妻はうっとり微笑んで頷いてくれるのだ。
「勿論。その時はおしめ換えてあげるね」
「それは……」
嫌だな。
格好がつかなさすぎると大笑いしそうになったが、調子にのるなよと言わんばかりに、干からびた喉が咳を運んできた。抱えた妻ごと寝返りを打ったサンクレッドが、こんこんと体を揺らすごとに、彼女はそっと広い背を撫でる。
「お水持ってくるよ」
「……ここにいてくれ……」
「ずっといるでしょ、もう」
仕切りもほとんどないワンルームなのだから、妻が部屋のどこにいたって姿を探せるはずなのに。体温が離れる少しの間すら惜しむサンクレッドに、彼女はくすくすと肩を揺らした。
おそろしくなるほど我慢強くて、周りの人間を甘やかしてばかりで、自身の命さえ簡単なことみたいに賭けてくる男だ。そんな頼れる暁の守護者が、すがるほどの弱さを差し出してくれることが、愛しくて、嬉しくて、どこか誇らしい心地だった。今まで散々無視されてきた彼の孤独な幼心を、どうかこの病とともに癒せるようにと、願っていた。
「愛してるわ、サンクレッド。だから、大丈夫よ」
無防備な耳朶に、そっと祈りを注ぐ。熱のために潤んだヘーゼル・アイが、虚をつかれたように呆然と、彼女を見つめていた。男らしい精悍な顔立ちの向こう側に、ついぞ風邪など許されなかった少年を透かし見る。
やがて、雪解けのように笑ったサンクレッドは、蕩けるように脱力して、閉じ込めていた妻を解放するのだった。
いよいよ無視することができなくなった不調の予感に、深く長い溜め息を吐くと、サンクレッドは下着とルームパンツのみを身につけた。肩にかけたバスタオルで乱雑に髪の水気を拭いながら、襲いくる気だるさと戦う。
風邪なんか、いつ以来だろう。これまでのサンクレッドといえば、大小の傷を負うことはあったが、それ以外────病気の類いに対しては、すこぶる丈夫で健康だった。自分の担う仕事柄、特に気を遣っていたがゆえであるし、元々そういうものには強かった。今まではそこに、若さという強化魔法も付与されていたのだが。
(いつまでも、そのつもりじゃいられないな……)
零時の鐘は毎夜鳴り続け、魔法は消えてゆく。容赦なく訪れる老化への憂いと虚しさを、再度の嘆息に込めた。これも久しい感覚であるが、どうも体が弱ると、心も参りがちでよろしくない。
「そんな溜め息ついてると、幸せが逃げちゃうよ」
肩にのしかかる暗雲を払うような、軽やかな笑い声が睫毛の先に触れるので、サンクレッドは俯いていた顔をのっそりとあげた。照明が少しだけ目に染みる。そのせいでぼやけたような、眩しいような視界に、ひとりの女の姿が映り込んだ。質素で清潔なワンルーム、設けられたオープンキッチンで、鍋の中身の面倒を見ている愛しい妻────光の戦士にして我らが暁の英雄は、何だか可笑しそうにサンクレッドを眺めていた。
「どうしたの。お腹減った?」
「いや、」
あんまりに優しい景色に、サンクレッドはつい笑い出しそうになって、代わりに咳が飛び出した。上顎が粘膜を失ってひりつくような、からりと乾いた音である。その咳を聞くや否や、もっぱらヒーラーを担う女傑は、まあるく和んでいた眼差しをきりりと鋭くした。鍋を一旦火から遠ざけると、彼女はサンクレッドに小走りで駆け寄って、たおやかな指で彼の頬を包む。
彼女はいつもサンクレッドより体温が低いものだから、肌が触れ合うとひんやりと心地良い。今日は特に離れがたい気がして、ついその手にすり寄れば、耳の下から、剥き出しの喉の両側までを撫でられた。
「熱いみたい。具合悪いの?」
「少しだけな、……さっき気付いたんだ」
何も不調を隠していたわけではないと、サンクレッドは降参するみたいにひらりと両手を振る。その仕草を見ていた彼女は、ほんのり笑うと、まだ少しだけ湿っている彼の髪を指でとかす。
「最近ちょっと忙しかったものね」
労ってくれる彼女の声音と、幼い子どもを宥めるかのような手つきがあんまりに優しくて、サンクレッドはうっとりと目を閉じた。この快さに風邪なんかすべて蕩けていってしまえば良いのにと、願ってもなかなかそうはなってくれない。瞼を下ろしたのは愚策だったか、淡い暗闇を見た途端、くらりと平衡感覚が揺れたので、彼女が肩を支えてくれた。
「ほら、こっち」
彼女に手を引かれ、促されてサンクレッドが腰かけたのは、二人で眠るにはいつも少しだけ狭いベッドの上だ。きしりとスプリングが軋む。その音を気にする間もなく、彼女の胸にふんわりと頭を抱え込まれて、そうと思えば歌うような呪文が聞こえてきた。何度も何度も髪をすいてくれる指と、温かな風を感じるから、おそらく魔法で髪を乾かしてくれているのだろう。
エーテルの放出が不得手になってしまってから、魔法はサンクレッドにとって縁遠いものとなってしまった。だから、彼女が手足みたいにエーテルを操るところを見ていると、なめらかな美しさについ感嘆してしまう。そしてその鮮やかな魔力を、彼のために惜しみなく注いでくれているという事実が、しょぼくれていた心を幸せで潤してくれた。頭皮に、耳朶に触れる彼女の指が、愛していると言い含めてくる。
さらりと前髪を撫でられた。それを合図にサンクレッドがやっと瞼を上げると、思ったよりも彼女の顔が近くにあって、だから網膜に直接慈愛の眼差しを食らってしまって、ただえさえ熱い頬に火が入った心地になる。
「……情けないな……」
サンクレッドがつい漏らしたのは、自嘲まじりの短い笑い声だった。愛しい女に世話を焼かれて、こんなにも喜んでしまう自分の弱さを思い知って、我ながら呆れ果てる。彼女よりもずいぶん年上で、それなりに波乱の人生を経てきた大の男が、甘ったれてこの様だ。
「良いのよ、情けなくっても」
彼の苦笑を遮るようにして、英雄たる女は肌触りの良いシャツを、サンクレッドの頭から被せた。袖を通させ、裾を払って着心地を落ち着かせて、彼を押し倒すようにして、ベッドの上に横たわらせる。肉食の獣がもつたてがみみたいな銀髪に、彼の妻である女は恭しく鼻先を寄せた。
「私はあんたのお嫁さんなんだから。たくさん甘やかさせて」
恋を歌うさえずりのような女声が、サンクレッドの頬に染みていく。ずきずきと痛んで鈍くなっていく思考に、ひとさじの蜂蜜みたいな安堵がゆっくりと広がっていった。
数々の戦を平定した稀代の大英雄である女傑が、愛情深く慎ましい妻としてサンクレッドを慕ってくれていることは、仕草の処々から見ても明らかだった。その事実が、十分すぎるほどに、彼に活力を与えてくれる。
「サーモンとキノコの、クリームスープを作ってたの。お米を入れて、リゾットにしてあげようか」
彼女が汗ばむ額を撫でてくれるのを感じる。サンクレッドは、のしかかっている妻の優しい重みを抱き寄せると、掛け布団がわりの温かさと良く乾いたシーツの心地よさに微睡み始めていた。
「薬はそのあと飲もうね。他に欲しいものはある?」
触れているだけで苦痛を和らげてくれる────少なくともそう錯覚できるだけの効能を持つ、サンクレッドだけの、ヒトの姿をした万能薬だ。
「何でも言って。好きなこと、何でもしてあげる」
彼女があんまりにも愛おしげに慈しんでくれるものだから、サンクレッドは唇を綻ばせた。いつもは強張りがちな本音が、うっかり転げ出るほどに。
「ここに、」
「うん」
甘やかな相槌に勇気をもらって、サンクレッドは、掠れた声で囁いた。
「ここにいてくれ」
「うん」
返答に喜色が浮かんでいることなんて明確で、だからサンクレッドは、オールドローズの花束みたいな妻を、今できる目一杯で抱き込めた。その髪にまとう薔薇の香油が、鈍った嗅覚も刺激する。
上がってゆく熱のせいで、体は鉛のように重く沈み、節々が痛みを訴えかけてくる。それでもなかなか、愛しいひとを手放せなくて、浮かされるまま戯れる。
「俺が、何にもできないジジイになっても、こんな風に愛してくれるか」
戯れる、ふりをした不安を、彼女の胸元に擦り付けた。同じ時間を生きるものだから、必然的に、サンクレッドは老いを早く迎えるし、その分世話も苦労もかけるだろう。彼女が色好い返事しかしないことに頼りきって打ち出す姑息な問いだった。そうしてやはり、可愛い妻はうっとり微笑んで頷いてくれるのだ。
「勿論。その時はおしめ換えてあげるね」
「それは……」
嫌だな。
格好がつかなさすぎると大笑いしそうになったが、調子にのるなよと言わんばかりに、干からびた喉が咳を運んできた。抱えた妻ごと寝返りを打ったサンクレッドが、こんこんと体を揺らすごとに、彼女はそっと広い背を撫でる。
「お水持ってくるよ」
「……ここにいてくれ……」
「ずっといるでしょ、もう」
仕切りもほとんどないワンルームなのだから、妻が部屋のどこにいたって姿を探せるはずなのに。体温が離れる少しの間すら惜しむサンクレッドに、彼女はくすくすと肩を揺らした。
おそろしくなるほど我慢強くて、周りの人間を甘やかしてばかりで、自身の命さえ簡単なことみたいに賭けてくる男だ。そんな頼れる暁の守護者が、すがるほどの弱さを差し出してくれることが、愛しくて、嬉しくて、どこか誇らしい心地だった。今まで散々無視されてきた彼の孤独な幼心を、どうかこの病とともに癒せるようにと、願っていた。
「愛してるわ、サンクレッド。だから、大丈夫よ」
無防備な耳朶に、そっと祈りを注ぐ。熱のために潤んだヘーゼル・アイが、虚をつかれたように呆然と、彼女を見つめていた。男らしい精悍な顔立ちの向こう側に、ついぞ風邪など許されなかった少年を透かし見る。
やがて、雪解けのように笑ったサンクレッドは、蕩けるように脱力して、閉じ込めていた妻を解放するのだった。
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