掌に小春日和
南風が蕾の気配を運んできた。日射しの熱を頬に広く感じるようになった頃、ラヴィリンソスに滞在していたサンクレッドとウリエンジェを訪ねてきたのは、我らが英雄そのひとだった。腕に花束と絹の服を抱いて、コーヒークッキーでも焼いたのだろう香りを袖に纏わせているから、何事かと問えば彼女はとても楽しそうに笑う。
「これからノルヴラントに行くの。プリンセスデーだから、リーンとガイアに会いにね」
溢れるほどのプレゼントは、可愛い姫君たちへの献上品だそうだ。どうせ男たちは季節の催しに疎いだろうと踏んで、気を利かせた彼女が、文のひとつでも寄越せば届けてやると立ち寄ってくれたのだった。
「お心遣い、感謝いたします……。今も大切に想っている、と。伝える機会が巡ってくるのは重畳」
ウリエンジェはゆっくり頷くと、金色の目を柔らかに細めて微笑んだ。噛みしめるような、懐かしむような声音には、少しの後悔が滲んでいて、おそらく全てを伝えきれずに離別した誰かを思い出しているのだろう。そしてそれはサンクレッドも同じで、しかしただ嘆き苦しむだけではない、大事に握り込んでいた心を、今は広げた手のひらの上で愛しく見つめることが出来る。
「少し待っててくれるか。手紙なんか……まともに書いたのはいつ以来だ……どう切り出したもんか」
「難しく考えなくていいの。元気かとか、こちらでは最近こんなことがあったとか」
首の後ろを掻くサンクレッドを可笑しそうに眺めながら、英雄はレポリットたちと戯れ始めた。プリンセスデーという催しがどういった意図で行われるか────平民の姫に執事として仕えた王の逸話、女の子であれば誰もが大事にされる夢のような春の日であることを語れば、大きな耳が不思議そうにゆさゆさ揺れた。
「では、あなた様もお姫様になりますの?」
英雄と呼ばれる女傑相手に、臆せずそう訊ねたのはリヴィングウェイだ。対する彼女はといえば、数度瞬きするなり曖昧に首を傾げて、腕の中のプレゼントを見下ろした。
「お姫様は柄じゃないな。とりあえず今日は執事王をしに行くよ」
それは卑下でも諦観でもない。彼女は────世界を救った英雄は、蝶でも花でもないことを自覚していた。彼女は剣である。矛であり、盾であり、牙である。勇猛にして果敢、雄壮にして剛胆、歩いたあとに残る噂は伝説になる。彼女は強くて────それに、人を笑顔にする方が好きだった。
「あの子達がどんなに喜んでくれるかなって想像するの。そうすると、勇気が出る。楽しみで、早く会いに行きたくてたまらない」
抱き締めた花束に似て笑う。英雄は未だにリーンやガイアのことを、幼いこどもみたいに思っていて、だからいつまでも可愛くて、いとおしく、慈しんでいた。今日だってプリンセスデーという口実を得たに過ぎず、本当ならいつだって抱き締めにいきたい。
大好きだから喜んでほしいのた。そう言えば、永く月から青き星を見つめ続けたレポリットたちにも通じるものがあるようで、しかし笑顔のあとには渋い表情をされた。
「そういうことでしたら、御用事が済み次第、すぐこちらにお戻りくださいませ。あなた様を我らがプリンセスとして、歓待させていただきますわ」
英雄たる光の戦士が何か言おうとする前に、リヴィングウェイは、短くて丸っこい人差し指をぴんと上向けて続けた。
「わたくしどもだって、あなた様が大好きなんです。たくさんアーテリスのことを学びましたから、活かすことも出来ましょう。今度こそ、心から喜んでいただきたいのです」
レポリットたちの瞳ときたら、星空をぎゅっと詰めたような深い色合いをしているものだから、熱心に見つめられるとつい視線を返してしまう。空回りがちな兎型の愛は、そもそもは創造主から分け与えられただろうもので、そのひとが星で生きるものをどんなに可愛いと思うかを説いてくれたから、いつかレポリットたち自身の心になった。血の通う毛皮、命そのものの温かさに、思わず眦が和む。
「それに、わたくしどもだけではありませんわ。そうでしょう、ウリエンジェ、サンクレッド?」
いつの間にか娘たちに宛てた手紙を書き終えたらしい。成り行きを見守っていた二人は、リヴィングウェイの呼びかけに顔を見合わせると、思い思いに微笑んだり肩を竦めたりした。ウリエンジェの長身が膝をつき、英雄の顔を覗き込むよう見上げる。
「勿論です。我らが光の戦士にして、心置けぬ友人。貴女に愛されてばかりの私たちに、どうか、礼をする機会を頂けませんか」
その眼差しほどに、ウリエンジェの言葉は真摯で曇りない。声にするひとつひとつが花弁と同じ、銀のうてなに乗せるよう慎重に選ぶものだから、聞くに心地いい。そうして意味ありげに視線を送る先にはサンクレッドが、何やら神妙な面持ちで立ち尽くしていた。
「サンクレッド。特に貴方は……この日のために用意していたものがあるのでは?」
「ウリエンジェ」
促すような茶化すような響きに、咎めることで照れ隠しする声が重なった。目を丸くする英雄の前、年甲斐なくウリエンジェを小突いてから、サンクレッドは唸りながら進み出る。その手に一輪の花を持って。
それは、淡く想う薄紅色をしていた。そして、言葉に成せぬ影の色をしていた。彼が英雄を見つめる瞳と同じ、その身に希望を透かし見る光の色をしていた。エルピスの花は、いつかのように鮮やかな心の色を映し出して、無防備に彼女へと晒された。
「……プリンセスデー、忘れてなかったの?」
「そりゃあ……、ほら。分かるだろ?」
「元、色男が活きたわけだ」
くすくす肩を揺らす英雄の顔は、焼かれたように赤くはにかんでいた。その髪にエルピスの花を挿したサンクレッドの手が、やわく額を撫でていく。
「少し無理を言って譲ってもらってな。後で個人的に渡すつもりでいたんだが……こうなってしまえば、仕方ないな」
囁く声に吐息が混じったのは、安堵ゆえだろうか。どうやら英雄たる彼女に嫌な顔をされないと見れば、恭しく頭を垂れて鼻先を寄せる。
「その花を証に、約束してくれるか」
つやつやと幸福そうに輝く目を、サンクレッドに向けて、それからウリエンジェに向けて、最後にレポリットたちに向けた英雄は、綻んだ唇から思わず笑い声を漏らした。
「今日はあちらに泊まり込んでくるつもりなんだ。だから、明日なら。それでも良い?」
「良い準備期間になりますわ。どうぞ、期待していてくださいませね!」
彼女以上に嬉しそうに飛び上がったリヴィングウェイは、絶対ですよと念置いて、仲間たちと作戦会議に走っていってしまった。ウリエンジェには、手紙を鞄に捩じ込んでもらいがてら、お気を付けてと声をかけられる。
「リーンたちにも、よろしくお伝えください」
「わかった。行ってきます!」
言うが早いか、アンテロープみたいな軽やかさで走り出した英雄は、少し先で振り返って、蕩けるような笑顔を見せて行った。花飾りの下、髪を翻す姿は、年頃の娘のようで、誰もが憧れるお姫様みたいに可憐に映る。かの妖精王にさえ寵愛を受ける、春運ぶ若木の香りを残して。
彼女の後ろ姿を見送ったサンクレッドとウリエンジェは、ようやくレポリットたちが駆けていったあとを追った。
「これからノルヴラントに行くの。プリンセスデーだから、リーンとガイアに会いにね」
溢れるほどのプレゼントは、可愛い姫君たちへの献上品だそうだ。どうせ男たちは季節の催しに疎いだろうと踏んで、気を利かせた彼女が、文のひとつでも寄越せば届けてやると立ち寄ってくれたのだった。
「お心遣い、感謝いたします……。今も大切に想っている、と。伝える機会が巡ってくるのは重畳」
ウリエンジェはゆっくり頷くと、金色の目を柔らかに細めて微笑んだ。噛みしめるような、懐かしむような声音には、少しの後悔が滲んでいて、おそらく全てを伝えきれずに離別した誰かを思い出しているのだろう。そしてそれはサンクレッドも同じで、しかしただ嘆き苦しむだけではない、大事に握り込んでいた心を、今は広げた手のひらの上で愛しく見つめることが出来る。
「少し待っててくれるか。手紙なんか……まともに書いたのはいつ以来だ……どう切り出したもんか」
「難しく考えなくていいの。元気かとか、こちらでは最近こんなことがあったとか」
首の後ろを掻くサンクレッドを可笑しそうに眺めながら、英雄はレポリットたちと戯れ始めた。プリンセスデーという催しがどういった意図で行われるか────平民の姫に執事として仕えた王の逸話、女の子であれば誰もが大事にされる夢のような春の日であることを語れば、大きな耳が不思議そうにゆさゆさ揺れた。
「では、あなた様もお姫様になりますの?」
英雄と呼ばれる女傑相手に、臆せずそう訊ねたのはリヴィングウェイだ。対する彼女はといえば、数度瞬きするなり曖昧に首を傾げて、腕の中のプレゼントを見下ろした。
「お姫様は柄じゃないな。とりあえず今日は執事王をしに行くよ」
それは卑下でも諦観でもない。彼女は────世界を救った英雄は、蝶でも花でもないことを自覚していた。彼女は剣である。矛であり、盾であり、牙である。勇猛にして果敢、雄壮にして剛胆、歩いたあとに残る噂は伝説になる。彼女は強くて────それに、人を笑顔にする方が好きだった。
「あの子達がどんなに喜んでくれるかなって想像するの。そうすると、勇気が出る。楽しみで、早く会いに行きたくてたまらない」
抱き締めた花束に似て笑う。英雄は未だにリーンやガイアのことを、幼いこどもみたいに思っていて、だからいつまでも可愛くて、いとおしく、慈しんでいた。今日だってプリンセスデーという口実を得たに過ぎず、本当ならいつだって抱き締めにいきたい。
大好きだから喜んでほしいのた。そう言えば、永く月から青き星を見つめ続けたレポリットたちにも通じるものがあるようで、しかし笑顔のあとには渋い表情をされた。
「そういうことでしたら、御用事が済み次第、すぐこちらにお戻りくださいませ。あなた様を我らがプリンセスとして、歓待させていただきますわ」
英雄たる光の戦士が何か言おうとする前に、リヴィングウェイは、短くて丸っこい人差し指をぴんと上向けて続けた。
「わたくしどもだって、あなた様が大好きなんです。たくさんアーテリスのことを学びましたから、活かすことも出来ましょう。今度こそ、心から喜んでいただきたいのです」
レポリットたちの瞳ときたら、星空をぎゅっと詰めたような深い色合いをしているものだから、熱心に見つめられるとつい視線を返してしまう。空回りがちな兎型の愛は、そもそもは創造主から分け与えられただろうもので、そのひとが星で生きるものをどんなに可愛いと思うかを説いてくれたから、いつかレポリットたち自身の心になった。血の通う毛皮、命そのものの温かさに、思わず眦が和む。
「それに、わたくしどもだけではありませんわ。そうでしょう、ウリエンジェ、サンクレッド?」
いつの間にか娘たちに宛てた手紙を書き終えたらしい。成り行きを見守っていた二人は、リヴィングウェイの呼びかけに顔を見合わせると、思い思いに微笑んだり肩を竦めたりした。ウリエンジェの長身が膝をつき、英雄の顔を覗き込むよう見上げる。
「勿論です。我らが光の戦士にして、心置けぬ友人。貴女に愛されてばかりの私たちに、どうか、礼をする機会を頂けませんか」
その眼差しほどに、ウリエンジェの言葉は真摯で曇りない。声にするひとつひとつが花弁と同じ、銀のうてなに乗せるよう慎重に選ぶものだから、聞くに心地いい。そうして意味ありげに視線を送る先にはサンクレッドが、何やら神妙な面持ちで立ち尽くしていた。
「サンクレッド。特に貴方は……この日のために用意していたものがあるのでは?」
「ウリエンジェ」
促すような茶化すような響きに、咎めることで照れ隠しする声が重なった。目を丸くする英雄の前、年甲斐なくウリエンジェを小突いてから、サンクレッドは唸りながら進み出る。その手に一輪の花を持って。
それは、淡く想う薄紅色をしていた。そして、言葉に成せぬ影の色をしていた。彼が英雄を見つめる瞳と同じ、その身に希望を透かし見る光の色をしていた。エルピスの花は、いつかのように鮮やかな心の色を映し出して、無防備に彼女へと晒された。
「……プリンセスデー、忘れてなかったの?」
「そりゃあ……、ほら。分かるだろ?」
「元、色男が活きたわけだ」
くすくす肩を揺らす英雄の顔は、焼かれたように赤くはにかんでいた。その髪にエルピスの花を挿したサンクレッドの手が、やわく額を撫でていく。
「少し無理を言って譲ってもらってな。後で個人的に渡すつもりでいたんだが……こうなってしまえば、仕方ないな」
囁く声に吐息が混じったのは、安堵ゆえだろうか。どうやら英雄たる彼女に嫌な顔をされないと見れば、恭しく頭を垂れて鼻先を寄せる。
「その花を証に、約束してくれるか」
つやつやと幸福そうに輝く目を、サンクレッドに向けて、それからウリエンジェに向けて、最後にレポリットたちに向けた英雄は、綻んだ唇から思わず笑い声を漏らした。
「今日はあちらに泊まり込んでくるつもりなんだ。だから、明日なら。それでも良い?」
「良い準備期間になりますわ。どうぞ、期待していてくださいませね!」
彼女以上に嬉しそうに飛び上がったリヴィングウェイは、絶対ですよと念置いて、仲間たちと作戦会議に走っていってしまった。ウリエンジェには、手紙を鞄に捩じ込んでもらいがてら、お気を付けてと声をかけられる。
「リーンたちにも、よろしくお伝えください」
「わかった。行ってきます!」
言うが早いか、アンテロープみたいな軽やかさで走り出した英雄は、少し先で振り返って、蕩けるような笑顔を見せて行った。花飾りの下、髪を翻す姿は、年頃の娘のようで、誰もが憧れるお姫様みたいに可憐に映る。かの妖精王にさえ寵愛を受ける、春運ぶ若木の香りを残して。
彼女の後ろ姿を見送ったサンクレッドとウリエンジェは、ようやくレポリットたちが駆けていったあとを追った。
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