春告鳥は鳴かず飛ばず
「……ん……、そう。良い子にしててね……」
彼女が囁くとともに、腹部に圧迫感を感じて、サンクレッドは返事の代わりに息を詰めた。朝食を食べ終えたばかりの胃には少しばかり苦しい刺激だ。
開け放たれた円い窓枠の向こう、午前の陽光の中、高く鳴きながら晴天をゆく隼の影が、畳の上をさっと撫でて行くのが視界に入った。遠く波の音に混じって、微か、衣擦れが耳朶に触れていく。
随分と長い間、こうしている気がする。流石に焦れた心地で見下ろせば、彼女────暁の英雄ともあろう女傑が、膝をついて甲斐甲斐しくこの男の世話をしている光景が網膜に映り込んで、サンクレッドは思わず唾を飲み込んだ。戦場において誰より武功を上げる女が、いかにも慎ましげな様子でサンクレッドの前に跪いているという事実は、支配欲だとか征服欲だとか、よろしくない優越感を刺激してくるから困り果てている。この景色を快いと感じてしまう、己の薄暗く凶暴なさがにも。井草の香りが旅情をそそり、邪な心を浮わつかせるから、サンクレッドはせめて誤魔化したくて深く深く息を吐き出した。
白鱗のアウラ族である彼女は、同族の中でも特に小柄で、そう上背が高いわけでもないサンクレッドとすら見上げるほどの身長差がある。そんな彼女が膝立ちになると、それはもうちょうど良いところに頭があって、腰回りを悩ましげにまさぐってきてまでいるから、煩悩など一〇八以上に湧こうものだ。同じ部屋、同じ寝台で寄り添って眠ったって自然な仲なのだから、尚更。炙られるようなささやかな快感に、つい彼女の髪へと潜りそうになる指を握り込めて、サンクレッドはもう一度長く溜め息を吐いた。
彼女の低い体温を近くに感じると、心の内の悪魔が調子に乗ってくる。そんなことはもう良いからと、抱き上げて、布団に押し込んで、そのまま贅沢に朝寝と洒落込めたなら、どれほど心地好いか。しかし彼女の献身をふいにするような真似も憚られたし、せっかく二人で味わう異国情緒というものを“いつも通り”で塗り替えてしまうのも勿体無いような気がしていた。せめて早くこの優しい拷問が終わることを祈りながら目を閉じて、いや視界を塞いだのは失敗だったと後悔する。何せ瞼の裏に浮かぶのは、今はこの身を撫でるように這う彼女の指が、昨夜背中に爪を立てていた時のことで────。
「できたー!」
彼女の明るい声が天井に跳ね返った。ポンと軽い調子で男の腰を、否、小粋に巻いた濃紺の帯を叩いてみせて、英雄は満足げに笑みを浮かべる。その笑顔を見下ろしたサンクレッドはといえば、解放の合図に安堵したような、ほんの少し残念だったような、振り回された気になって積もった疲労感に、がっくり肩を落とすのだった。
ひんがしの国最大の港にして、唯一外つ国との貿易が許されている黄金の都、クガネ。漆の朱色が彩る街並みは絢爛に美しく、海の青の上へ鮮烈に浮かび上がっている。その絶景を一望できる都最大の温泉宿が、此処、『望海楼』だ。
終末の災厄────遥か彼方より贈られし絶望を退け、輝かしき母星は平和を取り戻した。平和、と言ってしまえば、語弊があるかもしれない。魔導船を操り天の果てへ翔け、すべてを賭けてやっと届いたのは、謂われなくおびやかされることのない『アーテリス』だけだ。未来なき者たちから明日ある者たちに向けられた、憤怒、嫉妬、憎悪、綯交ぜになった底なき殺意の脅威を、ひとたび払ったのみに過ぎない。これから真に平和と呼べる時が訪れるかは、良くも悪くも、今を生きる者たちに託されたというわけである。
では時代はどう移ろっていくのだろうか。新たなる命題の前に、自分が出来ることは何か。サンクレッドは未だ混乱する人々の助けとなるべく、あるいは迷う人々の標となるべく、愛用のガンブレードと共に各地を渡り歩くことに決めた。それが、誰より世界を愛し、憂い、信じたミンフィリアへと捧げる鎮魂歌になるとも思えたし、何より己でそう望むことができたからだ。彼を拾い上げた恩人であるルイゾワと、そして可愛い妹分であるミンフィリアと続けてきた、エオルゼアを救済するための活動は────その短く永い時間は、今のサンクレッドの核を成していた。受け継いだ想いはいつの間にか自分の願いともなったから、進んで行こうと誓えたのだ。
東方へと訪れたのもその一環で、ただ今までの旅と少し違うのは、我らが英雄である女傑が、道中を案内してくれるとサンクレッドの後を追ってきたことだった。
東方に連なる国のひとつである、ドマ。帝国の支配より自由を勝ち取ってみせた、したたかな小国だ。その解放までの功労者こそがこの光の戦士で、当然彼女はサンクレッドよりもこちらの事情に詳しい。直前まで極彩色の島サベネアへと赴いていたはずの彼女だが、そちらでの用事が一段落したからと、わざわざ同行を申し出てくれたのだ。当然断る理由はなく、二つ返事で受け入れた。
「一生決まらないかと思った。スタイルが良すぎるのも考えものね」
彼女の細い指が、精巧な装飾でも撫でるみたいに、サンクレッドの前髪を丁寧に梳いた。少しだけ伸びている白銀の毛先を、耳にかけたり、後ろへ撫で付けてみたりして、結局いつも通りで良いと手櫛で直される。触れられる箇所から慈しまれていることが伝わって、じわりと心地好いから、サンクレッドは愛しき英雄へと小さく笑ってみせた。
「そりゃ、どうも。……しかし、よく俺の体に合うものがあったな」
そして、彼は自分の姿を見下ろす。今この身を包むのは、いつもの白いコートではなくて、自分の瞳の色よりも随分渋くて深い、うぐいす色の着物だった。言うまでもなくこの光の戦士が用立ててくれたものだが、袖を通すだけで質の良さが分かるほどの代物で、ゆえに東方系ミッドランダーとは体格の違うサンクレッドにぴったりと────まるで誂えたみたいに丁度良いことが、少し不思議に思えた。
「こんなに良いもの、現地の金持ちどもが主な客層だと思ってたんだが」
「最近は観光で来るエオルゼアの人も多いから。異邦人向けにも力を入れてるみたいよ」
そう答えながら、仕上がった“作品”をじっくり眺めて、彼女は嬉しそうに白鱗の尾を揺らした。
せっかくだから東方の民族衣装を着てみないか、と提案してきたのは彼女だった。観光や娯楽のつもりではないのだが、何かしらの危機に直面した緊張感のある旅でもない。たまには気楽に異文化に触れてみて損もないだろうとサンクレッドが頷いたら、最初からこのつもりだったような手際で、せっせと着付けられたのである。
しかし、だ。どうやら男の着物とは帯の位置が粋を演出するらしく、順調に進んでいた作業はそこで大いに滞った。曰く、「帯が決まらない」「足が長すぎてバランスが取れない」「腰の位置が高い」「本当に足が長すぎる」と。何とも可愛らしい文句を滔々と垂れながら、彼女は目の前の男をより良く見せることにこだわって、何度も何度も帯の巻き直しをしたのである。これにはただ着付けられるだけのサンクレッドも参ったが、何だかいやに楽しそうな彼女の顔を眺めていると、必要な苦労であったかもしれないと思い直せてしまったから、想い人可愛さも重症だ。
サンクレッドが着ていたコートをハンガーにかけている彼女の背中は無防備なもので、だから難なく抱き込めて捕まえ、髪に唇を触れさせることができた。
「……ありがとうな」
腕の中で鼻先を向かい合わせ、サンクレッドは改めて彼女の額に口付ける。何への感謝かと訊かれれば、勿論この着物の用意から着付けまでの世話に対してでもあるし、良い宿があると教えてくれた事も、箸なる不思議な食器の使い方を仕込んでくれた事にもある。彼女の瞼に、それから角の先にキスを落としていくと、くすくす笑う振動が伝ってきた。
愛しの英雄とこうして過ごしていると、二人で婚前旅行にでも来たみたいな、呑気で幸せなひとときに思えた。実際そのような優しい時間になるのだろう。目的のある旅ではあれど、厳格で禁欲的に過ごすつもりはないし、ただの男が好いた女と行き先を共にするのだから、多少浮かれるのは仕方がない。サンクレッドは彼女の髪に鼻先を潜らせると、深く息を吸った。オールドローズの香油に混じって、嗅覚に馴染んだ人肌の匂いを感じる。いつも忙しく各地を駆け回っている彼女と、こんなにも穏やかに過ごせるなんて都合の良い白昼夢のようで、だから余計に、たがが外れてしまいそうだ。
「どういたしまして。……よく似合って良かった」
彼女の囁く声音が上向いたので、サンクレッドはその発生源、小さな唇を目掛けて頭を垂れた。
暁の英雄、救世の女傑、光の戦士と名高い女が、大人しい生き物みたいにこの腕へおさまってくれていることが、サンクレッドの庇護欲から独占欲までを慰めた。武勇の権化である彼女が、いかにも優しげな声で彼を呼ぶことも、彼を見つめてうっとりと目を細めることも、口付けを求める際に角で彼を傷付けぬようじいっと待ってくれることも、他の誰が知る由もない。そうして遠く異国の地では、二人を知る者も一握りで、嗚呼本当に二人きりだと、サンクレッドは閉じた空間を噛み締める。
もちろん、仲間たちは可愛い。守ってやりたいし、大事だ。それぞれを頼りにしているし、共に過ごしていると炉に火が入るように漲る心地がする。一方、この女と過ごす時間は、何だか質が違う。心臓をじっくり炙られるような、そのせいで少しくすぐったいような、その熱が全身を回って体を温めるような、ともかく大勢と同じ感情ではないのだ。────どちらがより好ましいかと問われてしまうと、今のサンクレッドは、答えを持たない。答えを出してしまうと、他人との関係性にいちいち優先順位をつけるみたいで憚られて、このひとを好いているという簡単な言葉さえ口に上らないでいた。
「サンクレッド、」
彼女のまあるい声が男の頬を撫でる。大切に呼ばれたその名前に、サンクレッドは銀色の睫毛の先を上下させて微笑むと、腕に力を込めてぎゅうと彼女を抱き締めた。
男女の仲であるが、恋仲と呼べる関係ではない。サンクレッドと暁の英雄との間柄は、名付けるにしてはあまりに曖昧なものだった。
妹と娘が何より大事で、『暁の血盟』に集う仲間も大事なサンクレッドだから、守りたいものたちを脅かすものがあればなりふり構わず駆け出してゆく。どんなにこの光みたいな女を愛したところで、安寧を望んだとて、きっとその性質は変わらないだろう。確かに彼女の存在がサンクレッドの心をひびや隙間を埋めるのに、一番大事にしてやることはできなくて、一番大事だなんて嘘も吐きたくなくて、だのに彼女が他の男のもとに行ってしまうことも今更許せなくなって。不誠実で矛盾ばかりの、愚かな男だ。────それが良いと言ってくれたのは、彼女だった。
「ねえ。いつまでこうしてるつもり」
ぴたぴたとこの背を叩く小さな手を、小さなだけで決してか弱くはない、何でも壊し何でも助ける彼女の手を、可愛いと思う。この感情の名など既に知れているというのに、何一つ、表すに適当な言葉が見当たらないまま。
「サンクレッド」
彼女があやすような優しい声で呼んでくれるから、サンクレッドは唇を、すらりと艶やかに伸びた彼女の角に滑らせた。可愛くて愛おしくて、自然と差し出す柔らかな皮膚だ。未だ渡してやれない一言の代わり、のつもりではないが、きっとそのように映るのだろう。くすくすと肩を揺らす彼女が、ぶるりと尾を震わせる。
「そろそろ私も着替えたいな。お出かけしよう?」
「ああ。……お前も着物を?」
「うん、持ってるやつがあるから」
そう言って体を離そうとしたところで、どちらともなく額を寄せて、重ね、擦り合わせる。いつだって触れられるくせにいつまでも熱を名残惜しむ、愛着の仕草だった。
「何か手伝うか?」
「大丈夫。見たいものでも考えておいて」
体温の余韻を残して、彼女は柔らかな拘束から離れると、自分の荷物を広げに行ってしまった。早々に戦力外通告をされてしまったサンクレッドは、小さく息をついて窓辺に座り込むと、縁に頬杖をつき、向こう側の枯山水を眺めた。石と砂のみで山の隆起や水の流れを表現している庭のことで、侘びだか寂びだか、ひんがし特有の美意識が込められているらしい。清閑とした空間に、反面の豊かさを見いだすのだとか。
分からない感覚ではないな、と、サンクレッドはぼんやりと灰色の川を見つめる。そうしてふと、睫毛の先を掠めていく陽光の温度が上がってきたことに気付いて、その榛色の視線を蒼穹へと移した。雲ひとつなく、陰ることなき空の青だ。隼の声が聞こえる。静けさが、まるでぬるま湯のように部屋を包んでいた。とっぷりと浸かった意識が底の方で揺蕩う感覚を覚えて、サンクレッドは微睡むように瞼を落とす。何があるわけではないが、飢えてはいないし、凍えてもいない。孤独ではない。上向いた鼻先に触れた匂いは、彼女がつけている香油のものか。あのひとが側にいれば、それだけで豊かだ。
沈黙という不可視の水に潜っていれば、衣擦れの音があぶくみたいに浮き上がって聴覚をくすぐる。目を開けたサンクレッドがそちらへと視線を向ければ。
「すけべ」
笑った悪態と共に、彼女が先程まで着ていた服が彼の顔面に飛んできた。布の中で片眉を跳ね上げたサンクレッドは、顔からひっぺがしたそれを丁寧に畳んでやると、にまりと口角を、ゆっくりと腰を上げる。おとなしくしていてやろうと思っていたのだが、聞き捨てならない暴言と許しがたい暴挙で挑発されては仕方がない。狙うは彼女の脇腹だ。
────英雄たる女傑の悲鳴みたいな笑い声が、畳の上にころころと転がっていった。
じゃれ合いは結局、時計の針が真上を指そうとする頃まで続いた。あれから心ゆくまで遊んで、せっかく着付けてもらった着物を乱したため、一から直されてこの時間だ。サンクレッドが働いた無礼に、光の戦士はといえば、文句をつけこそすれ怒りはしなかった。彼女の寛容さはサンクレッドを特別に扱っていることの示唆で、だから彼は許されるたびに、愛されているなあと実感する。
「あんたのやんちゃにも困ったものだわ!」
背を叩く平手だってあんまりに軽やかで、腕を振るだけで大の男を三人薙ぎ倒すと言われている怪物の力と思えない。サンクレッドは、鳩尾にじわりと歓喜が滲むのを自覚しながら、くつくつと喉を鳴らす。
「お前のお転婆ぶりもなかなかだぞ」
そう言い返しながら、サンクレッドはすっと左肘を差し出した。彼女はその大きな瞳を光らせて、それからほんのり眦に喜色を浮かべて、彼のたくましい腕に指を伸ばす。
「ひんがし式のエスコートも、これで良かったか?」
「こっちはエスコートの文化じゃないのよ」
「驚いた。俺にとっては信じがたい異文化だな」
大袈裟に肩をすくめてみせると、たまらず笑い出した彼女が、角をサンクレッドの腕に寄せた。
「女は三歩後ろを歩くのが慎ましくて良いの」
「お前にとっても考えられないだろうな。いつも何歩も先を行くから」
「ふふ。今日はこれで良いわ」
機嫌の良い手を絡ませて、ぺたりと二人は密着する。クガネを行く男女に珍しい距離感は、賑やかな通りの中に浮き上がるようだった。
「これが良いわ」
ささやかな声音で言い直した彼女の笑みに、サンクレッドは微かに頷いた。
小金通りはその名の通り、硬貨紙幣小判に小切手、金という金が巡るクガネの市場である。長く鎖国しているひんがしの貿易最前線である此処には、諸外国から買い付けた絢爛な品々の他、訪れる異邦人の目を引く輸出品も豊富だ。鮮やかな番傘、漆塗りの鎧、生魚、土を焼いたひんがしの酒器。あらゆるものにヘーゼルの視線を滑らせて、サンクレッドはぱちりとひとつ瞬きした。エオルゼアの商業都市であるウルダハの活気も大変なものだが、この狭い通りに凝縮された営みもなかなかの迫力がある。売り付ける気概がそこかしこで跳ねているのに加え、歌舞伎座に客を呼び込む声も鼓膜を打つ。
そんな中、からりと下駄が石畳を打つ音を聴覚で拾ったので、サンクレッドは丸い瞳のまま、英雄たる女を見下ろした。
彼の腕を抱えるようにして寄り添う彼女は、黒地の着物をまとっていた。金で描かれた水の流れと、こぼれるように咲いた睡蓮の柄が何とも雅やかである。生来より身を飾る白金の鱗と対照的な宵闇の布地は、彼女を飾るに相応しく華やかだった。こうして隣を歩くようになってから、彼女の匂い立つ麗しさには驚かされてばかりだ。がま口の小さな鞄を持った指先の爪は、戦うものにしては丸く整っていて、角も鱗も貴金属をあしらったみたいに輝かしく、ぬるりとたおやかにうねる尾には色気すら感じてしまう。
「……どうしたの。お腹減った?」
彼から注がれる視線をいよいよ無視できなくなったか、彼女は首を傾げるようにしてサンクレッドを見上げた。はにかむ彼女に笑んでみせると、彼はぺたりとサンダルを鳴らす。慣れない下駄では足の皮を剥いてしまうだろうからと、着物と合わせても違和感のない物を、彼女が選んでくれたのだった。
「見とれてたのさ。……綺麗だ。似合ってる」
あれほど滑らかで耳障りの良い言葉を駆使して女を口説いてきたのに、それらと同じように格好をつけるのは何だか違うような気がして、サンクレッドは心のままの飾らない言葉で伝えた。あんまり簡単になってしまうから、褒め方が足りないだとか、ベストを尽くしてないだとか、文句を言われても仕方ないとちらりと考えたのだが、彼女はとびきり嬉しそうに笑ってくれた。
「そうでしょう。いい物を持ってて良かったよ」
得意気な袖をひらりと振って、彼女はおっとりと目を細める。
「でも私ばっかり見てても仕方ないでしょ。気になるものとかないの?」
「そうだな……ああ、でも、腹は減ったよ」
「お昼時になるしね。誰かが暴れるせいで、宿を出るのが遅くなって」
「あれはお前のせいだろ」
責任をなすりつけ合いながら、くるりと通りを見回した。ちょうど太陽は真上に差し掛かり、道行く人々も舌の気分で食事処を探している様子だ。魚に淡く焼き目がつく匂いだとか、出汁の上品な香りだとか、景気の良い嗅覚への刺激は呼び込み以上の威力がある。
「何か食べたいものある?」
彼女からそう問われて、サンクレッドはゆるりと首を傾げた。東方の食文化には詳しくないが、それでもドマの忍衆から聞いて興味をそそられたものはいくつかある。例えば、音を立てて啜るのが礼儀だという麺料理とか、生魚と白飯を豆のソースで食べるだとか、切り刻んだキャベツをごちゃごちゃと混ぜて鉄板で焼いたものだとか。人伝の情報のみのため、それがどういった味や匂いがするのかまでは分からず、何が食べたいかと腹の虫に訊ねてみたところで、答えは帰ってこない。
「せっかくなら、こちらの料理に挑戦してみたいものだが……」
「がっつり食べたいとか、さっぱりが良いとか……がっつりかな。あんた食べるから」
思案し始めた彼女とのんびり歩を進めながら、サンクレッドは左腕にかかる微かな重みに、絡む彼女の指に、口角を上げた。
サンクレッドはこれで結構な大食漢である。潜入任務などの間は、いつも食べるものがあるとは限らず、また満腹になって油断が生じるのもよろしくないから、二日三日程度断食するくらいわけもない。しかし普段の生活においてはその限りでない。彼の丈夫で鍛え抜かれた筋骨は、維持するために大量の燃料を必要とするため、必然的に健啖家となるわけだ。最近では英雄たる女の手料理にありつくことも多く、そのたびに彼女がサンクレッドの食べっぷりに驚いて、驚いたあとに笑って、おかわりが要るかと訊いてくれる。この体質でなくたって、彼女の作るものはすべて美味と思えるから、もう少し味わっていたくなって、きっと頷いてしまうのだろう。
明確にそうと感じられるほど、彼女から愛されている。ほんの少し前────この晴天を抜けて宙の果てまで赴いた時には、考えもしなかった事態である。彼女は我らが光の戦士で、英雄で、世界中から愛され慕われ求められる女傑だ。本来なら、好意を伝えられもしない男に付き従うような真似をしていて良い女ではない。彼女に懸想する“まともな男たち”も多く、きっと彼らに任せた方が、蝶よ花よと慈しまれて幸福な余生を送ることができるはずだ。だと言うのに、この女が半ば強引に引っ掴んだのは、妹や娘、家族が愛したものを守ることで手一杯なサンクレッドの袖だった。彼女の大事なものをすべて守ってくれたサンクレッドが良いのだ、と、誰にも見せない甘い顔で笑ってくれた。
だから、いつでも振りほどけるつもりでいた指は、愚かしくも強張って、彼女の肩に食い込んでしまった。捕まえてしまって、放せない。放し方なんて忘れてしまうほど、彼女はサンクレッドに優しかった。
「あ、」
はためく暖簾たちを眺めながら物思いに耽っていると、彼女が微かな声を上げたので、意識がひょいと手元に戻ってくる。サンクレッドが何事かと彼女に視線を下ろすと、白魚のような指がついついと彼の腕を引いた。
導かれるままに歩く途中で、目的地は視覚から明らかになって、サンクレッドはなるほどと頷いた。どうやら装飾品の店らしい。店頭には華やかな髪飾りが並んでいて、妖精郷の花畑がごとき彩りだ。その近くに寄ると、店員の女性が、いらっしゃいませと滑らかに発声する。つるりとサンクレッドの腕から離れた彼女は、迷わぬその指でひとつ簪を取り上げてみせると、明るい笑顔で彼の視界へと差し向けた。
「ねえ、これ」
真っ白な小花を束ねてしだれさせた、派手すぎずに愛らしい品だ。あんまり嬉しそうに彼女が笑うから、サンクレッドもつられて頬を緩め、頷く。
「リーンに似合いそうだ」
「でしょう!」
救世の英雄たる女傑は、頬に血色を乗せてはしゃいだ。次元の向こう側で暮らしている少女のことをいつでも想っているから、例えばこうしてアクセサリー類を覗いた時なんかに、あの子に似合うものはと探してしまう。だから彼女が言わんとすることも、通じ合ってるみたいにすぐ分かったし、より相応しいものはないかと品々を覗き込んでしまう気持ちも理解できた。
サンクレッドも彼女の横から、選ばれるときを待っている簪たちを見つめて、ふとひとつに指をさす。真っ赤な大輪の椿を模した華美なもの。
「これは、ガイアだな」
リーンと仲良しの少女を思い浮かべたものだ。流行やお洒落に親しんできたあの子には、これくらい大人びたものが似合うに違いない。サンクレッドの指に鼻先を向けて、光の戦士はうんうんと首を縦に振る。
「ほんとだ、ガイアだ!」
彼女は花を摘むように、その簪を手に取った。
「ねえ、あれ、アリゼーじゃない?」
「あの手鞠がついたやつか。……ほら、あれはクルル嬢だ」
「可愛すぎって怒られちゃいそうだけど。……ふふふ、これはね、ヤ・シュトラ」
「……それこそ我らが魔女には可愛すぎやしないか?」
「良いの、これで。サンクレッドには内緒だけど、すごいことがあったんだから」
「おいおい、ここでも蚊帳の外にするなよ。……これはタタルだ」
「タタルね!」
そんな風に、思い付く女性陣の顔を二人で描きながら、簪を集めていく。それらは彼女の手の中で、溢れそうなほど大きな花束みたいになって、見かねた店員が一つずつ引き取って包みはじめてくれた。
「贈り物ですか」
女性店員の声は微笑みを含んでいる。異邦人が冗談みたいな本数の簪を買い求めようとしているのだから、多少愉快にもなるだろう。英雄たる女は、轟く武勇なんか欠片も見せず、上機嫌で頷いた。
「お友だちに配って歩こうかと思って。ね」
そうして彼女の、エーテルを含んで光る瞳が、サンクレッドめがけて上向くので、彼も穏やかに笑みを返す。
「たまには良いな。野郎連中には不公平だと文句をつけられるかもしれないが」
「あ、そうね。じゃあ……、……男のひとって何をあげたら良いかいつも迷うのよ」
「適当に食い物でいいんじゃないか」
「やあだ、雑で」
サンクレッドのすました言葉に、彼女は可笑しそうに広い肩を叩いた。びくともせず、少しも痛がらない様子で以て答えて、視線を絡めたふたりはまたひとつ笑う。くすくすと、店員が思わずといった風に肩を揺らす、軽やかな声が重なった。
「睦まじいご夫婦でいらっしゃいますね」
ひくり。財布を取ろうと鞄に伸びた彼女の指が微かにすくんだのを、サンクレッドは見ていた。
夫婦。恋人をすっ飛ばして、旦那と妻に見えるのか。サンクレッドは後頭部を殴られたような衝撃を感じた。確かに甘酸っぱい仲であれば、他人に贈るものより先に、目の前の女の髪に差す一本を夢中で選ぶのだろう。二人の今し方のやり取りは、より熟れて落ち着いた関係の男女のそれであり、年頃や並んだ様子を鑑みれば、事情を知らない他人の口から夫婦という単語が出てくることは何一つおかしくない。
サンクレッドは、笑い出しそうな口許を、きつく手で覆う。夫婦。夫婦か。何故だか全く思い至ることがなかった答えを不意に得たような、胸のすく思いだった。天啓みたいに降ってきた、関係性をそうと成すことばは、不思議なほどにしっくりとサンクレッドの腑に落ちた。
にわかに活性化した脊髄に思考が巡ったのは、サンクレッドの体感よりも短い時間だったようで、その間に可愛い英雄が唇を引き結んだ顔を上げる。その表情が決意に満ち満ちていたから、言わせてはならないと直感して、サンクレッドは彼女より先に口を開いた。
「オーゥ、これはこれは、奇遇ですネ~!」
口を開いた、のだが、全然違うところから、具体的に言えば背後から、知らない男の声が朗々と飛んできたので、言葉が喉元で大渋滞を起こした。結局通るに通れなくなった声を一度飲み込んで、サンクレッドは肩越しに振り向く。やはり見覚えのない男だ。金色の髪に不釣り合いな東方衣装と、胡散臭いパンスネ。これだけ特徴的な人間なら、まずサンクレッドが忘れるはずはない。ならば彼女の知り合いだろうと、随分低い位置にある頭へ視線を下げれば、英雄ともあろう女があたふたと手と尾を揺らしている様子が見えた。
「は、ハンコック、何でここに!?」
「珍しいコトではないデショ~、私はこのクガネで商いをしているんデスからネ!」
東方訛りでもなければ、エオルゼアでもそうそう耳にしない、何とも妙なアクセントである。ともかく、怪しいわけではない────否、どう見ても怪しくはあるのだが、少なくとも彼女に害のある男というわけではなさそうで、サンクレッドは踏みしめていた足を楽にした。パンスネのせいで視線の動きが判断しづらいが、鼻の向きから、サンクレッドを見ているだろうと予測できた。
「そちらの方は、もしや……暁の?」
「ああ。サンクレッドだ」
「オォーウ。お噂はかねがね。お会いしてみたいと思ってましたヨ」
差し出した右手同士を握って、軽く振る。その、微かな力の込め方に、ハンコックと呼ばれた青年の意思のようなものを感じ取って、サンクレッドは片眉を上げた。
「東アルデナード商会、クガネ支店の番頭を務めておりマス、ハンコックと申しマース」
「ええと、そう、こっちで活動する時にね、随分お世話になって……」
「……なるほど」
色眼鏡の奥に隠された瞳はやはり観察できないが、その分口角が表情豊かだ。ハンコックの含みを持った笑みの誘いに、サンクレッドは乗った。懐から自分の財布を出すと、落ち着かなさげな彼女の手に握らせて、鼻先同士を近付ける。
「あちらを待たせるのも悪いからな。勘定を頼んで良いか」
「えっ。あ、う、でも、」
どうせ、自分が金を出すだの、話すことがあるなら自分がだの、言い出すつもりが混線しているのだろう。サンクレッドはすっかり慌てた彼女の額に、わざと聞こえるようなリップ音を残して、抵抗を封じた。びくりと震える尾の動きが可愛らしくて、銀の睫毛を伏せる。少しだけ時間が欲しいのだと理解した彼女は、わなわなと肩を震わせると、むくれた頬のまま、鋭い眼光でサンクレッドの向こう側を貫いた。
「私のいない間に変なこと喋らないでよ、ハンコック!」
「不如意デース」
その釘を刺さなければ、後ろめたいことがあるなんて分かりはしないのに。サンクレッドは、たまに迂闊なところがある彼女が、会計をするために店員と話し始める様子を見つめていた。
さて、このハンコックとかいう男は何の用事があるのか。彼女に関することであるなら、最低限の威嚇────これ見よがしの口付けをしておいたので、話が早いはずなのだが。ああでも、きちんと牽制するなら、彼女にも簪を選んでやるべきだった。サンクレッドはそんなことを考えながら、横目に商人を睨んだ。パンスネの奥の眼差しの先は、やはり分からない。
「……美しいデスよネ」
うっとりと、ハンコックが声を上げた。サンクレッドの指がぎしりと強張る。
「あの着物。よくお似合いでショウ?」
一瞬訪れた緊張感は何だったのか。どこまでも上滑りする口ぶりで会話を進めていくハンコックに、サンクレッドは肩透かしを食らって苦く奥歯を噛み締める。表向きにはポーカーフェイスを保ちながら、勿体ぶって頷いた。
「そうだな。……商会の品か?」
「ご明察。先日、流水紋をあしらったものをと、お求めになりましてネ」
サンクレッドはひとつ瞬きのあとに、ハンコックを見た。確か彼女は、もともと着物を持っていたような言い方をしていなかったか?
榛色の訝しげな視線を受けて、金髪の商人は朗らかなつもりの笑顔を見せる。
「あの方は大事なお得意様でもありマスからネ。これからのニーズにお答えするためにも、意中の殿方を一目拝んでおけたのは僥倖でシタ」
「……それは、」
「ねえ何話してるの!!」
存外と早く会計を終わらせてきた彼女が、怒り肩でずんずんと歩み寄ってきた。気迫だけで轢かれそうになったか、からからと高く笑うハンコックが一歩向こう側に飛び退いた。彼女がその手に下げる紙袋を引き取って、サンクレッドは曖昧に首を捻る。
「何てコトはない世間話ですヨ。さて、チョコボに蹴られて死ぬのはゴメンですカラ、この辺でおいとまいたしマース!」
本当に彼は何だったのか。サンクレッドは、威嚇音をあげている我らが英雄の背を宥めてやりながら、あまりにあっさり歩き去ろうとするハンコックを眺めていた。まさか言葉通りにサンクレッドを見物しにきただけなんてことはないだろうし、彼女の買い物がごく最近だったと知らせるためだけでもないだろう。得もなければ、義理もない。行動原理が読めない。
ああそうだ、とわざとらしく思い出したなんて素振りをする理由も。
「サンクレッドさん、そのお色、とってもよくお似合いデース。我が商会自慢の反物なんですヨ!」
「ハンコック!!」
英雄たる女が怒号と共に駆け出した。ので、サンクレッドは咄嗟に小さな体を捕まえた。小型のドラゴンと言っても差し支えないパワーで振り切ろうとしてくるので、ようやく彼女が歴戦の猛者であることが思い出されて、さすがのサンクレッドでも本気で抑え込まざるを得ない。
「落ち着けって……!」
「放してよ、ふんじばってタタルに言いつけてやる!」
「アッハッハ。残念ですが、“グル”デース!」
「ううう裏切り者ー!!」
愉快そうに遠ざかる背中に、ギャアー、と怒りの声をぶつけ続ける彼女を何とか抱き込めて、サンクレッドは話題を整理した。まず、タタルとハンコックは何かしらの“グル”であるらしい。騙しは知らないがしたたかである我らが受付嬢のこと、大商会の番頭すら顎で使って何かするつもりだったようで、しかし内容はどうも定かでない。だが、サンクレッドが知らない間に、何が起こっていたかは推察できた。サンクレッドは深く、深く息を吐いて、まだ怒り続けている彼女を抱きすくめる。
「縫ってくれたのか。俺の着物」
ぎくりと、腕の中の体が跳ねて静かになった。
反物とは、着物に使う生地のことだ。この英雄の手に渡ったときには服の形でなかったから、ハンコックはわざわざその言い方をしたのだろう。職人としても名高い彼女が、サンクレッドに似合いの色を選ぶところから仕立てたと考えれば、誂えたかのようにぴったりと着ることができたことにも納得がいった。実際に、手ずから誂えられていたのだから。
「……お前の、着物も。……俺と歩くから、用意したんだな」
見下ろした金の流水紋。自惚れでなければ、彼女がわざわざ柄を指定したのは、彼の姓である“ウォータース”にちなんだためだろう。そしてその予想は正しいと、震える彼女の肩が教えてくれた。
「……何で、」
何で、隠すんだ。そう問うために、サンクレッドは彼女の顎の下に指を差し込んで、上向かせて────続けるための言葉を取り落とした。角の先まで染まってしまうのではないかと思えるほど、赤面して熱を持った彼女が、ほろほろと涙していたから。
ぐす、と鼻をすすった彼女が、突如腕を振り上げる。
「いやいや待て待て!」
声を荒げたサンクレッドは、動揺しながらもしっかり彼女の拳を止めた。彼を殴りつけるためではない、いつの間にか握られた煙幕を投げつけるための小さな拳だ。一体この華やかな装いのどこに隠していたのか。全身武器庫だなんて、物騒なところを似通わせなくても良いだろうに。
「は、はなして」
「こんな往来で煙幕はまずいだろ……落ち着いてくれ、な」
そう、ここは小金通りだ。昼食をとりに店へ入る者があってか、行き交う人気は常より少ないが、それでも注がれる視線は多く、この騒ぎに足を止める者まで出てきている。サンクレッドは小さく舌打ちすると、すんすんと鼻をすする彼女の手を引いて、まず簪が梱包されている紙袋を買い付けた店に預けた。チップを握らせ、望海楼のとある部屋まで送ってほしいと言い付ける。
それから、もはや振り払って逃げる気力も削がれたらしい彼女を、抱え上げて歩き出した。いやいやと微かな抵抗を感じるが、サンクレッドが頬を寄せると途端に小さく大人しくなる。
「場所を変えるぞ。……それで、良いな?」
サンクレッドが、低く穏やかな声でゆっくりと言い含めると、彼女は無言のままこっくりと頷いた。
喧騒を抜ければ、石畳を緩やかに蹴る足音だけが反響する。途中、彼女があんまり辛そうに鼻をすするので、その度に抱き上げる腕に力を込めながら、サンクレッドは歩を進めた。異人街────各国の大使館が点在する区画を、散歩みたいな何気なさで通りすぎ、その端にある東方風の庭園までやってくる。憩うにちょうど良い場所であるが、不思議と人の気配はなく閑散としたもので、此処ならと彼女を近くの長椅子に腰掛けさせた。溢れ続ける涙のせいで、目の際はすっかり赤くなっていて、哀れみさえ覚えるほどだ。
「お前は……、……本当に、良く泣くな」
英雄なんて猛々しい異名を持つとは思えないほど、背を丸める彼女は弱々しい。サンクレッドはその前に膝をつくと、笑って彼女の頬に指を添えた。
彼女が人目も憚らず泣き出すのは、珍しいことではない。悲しがっているときもあれば、愛しさに耐えきれず溢すこともある。懐深くて、感情の振れ幅が大きくて、そんな彼女の感受性さえサンクレッドにとっては可愛らしい一面だった。
辛抱強く彼女の涙を拭い続けていれば、そのうちに、彼女がこくりと唾を飲む。
「……っは……恥ずかし、くて」
震える声がひきつったので、宥めるために、サンクレッドは彼女の細い手を握った。肌から鱗まで滑らかな、少しだけ体温の低い手だ。すん、と彼女が鼻を鳴らす。
「浮かれてる、みたいで。……知られたくなかった、のに」
「……知らなきゃ、ちゃんと感謝も言えないだろ。俺だって、お前とこうしてると多少浮わつくさ」
そう慰めるのだが、彼女は頑なに首を横に振る。無理に促すよりは自然な言葉を待つ方が得策かと、サンクレッドはじっと彼女を見つめる。彼と違ってこの女は、伝えるための言葉をたくさん持つし、それに彼女を待つ時間は存外と好ましかった。
「だって、あんたどうしても、意識するでしょ」
ほろりとまた大粒の涙が落ちるので、サンクレッドは律儀にそれを拾う。
「わた……私が、そんなふうに、浮かれてたら。……サンクレッドっぽい、ものを、身につけたい、とか。つ、作ったもの着てほしいとか、言ったら……困るじゃない、あんた」
彼女の頬を拭う武骨な手が、止まった。視線が水滴ごしに絡む。
「大事にできないのに、って。また……悩んで、しまうから。……こっそり自分、だけで、楽しもうと思っ、たの。せっつくみたいなこと、して……無理やり考えさせるのじゃ、意味ない……」
それきり、彼女は押し黙ってしまった。ぐす、ぐす、と断続的に鼻をすする音が、庭園の池の水面に跳ねる。その気配を餌にでも違えたか、鯉がぱくりと風を食べて、光る鱗を閃かせながら潜っていった。
サンクレッドは彼女の前に跪いたまま、ゆっくりと視線を下ろして、俯いて、たまらず額を彼女の膝に埋めた。びくりと揺れる彼女の腰に腕を回して、すがるように抱き締める。
彼女こそ、長く待ってくれていたのだ。二人が幸せと思える道を共に考えようと、そう言って側にいてくれた。あからさまに恋人のような真似をすれば、未だ愛情の整頓ができないサンクレッドを萎縮させてしまうからと秘めて、それでも好いた男とのデート気分を味わいたくて趣向を凝らす乙女心だった。案内という名目に隠した、隠れきれなかった恋心だ。どうしてそれを恥と思わせてしまうのだろう。
嗚呼、もう、駄目だ。サンクレッドは項垂れて丸まった肩を勢い良く張った。
「……わかっ、た」
喉が渇いて声がひりついている。にわかにぎらつくヘーゼル・アイが、濡れた彼女の瞳を射抜いた。
もう駄目だ。このひとがいとおしい。
「結婚しよう」
「分かってねーだろうがよぉ!!」
悲壮なしおらしさから一転、喚いて暴れてサンクレッドを蹴飛ばす勢いの小さな怪物を、彼は慌てて押さえ込んだ。びたびたと怒りの尻尾が長椅子を叩いている。
「妥協点になりたくないって言ってるのに結局そうやって、分かってないじゃない何にもー!!」
「待て、頼む、待ってくれ、今思い付きで言ったわけじゃない!」
ここで彼女に逃げられたらさすがに立ち直れない。サンクレッドは必死に女傑にしがみついて、抱き込めて、背を撫でたり米神に唇を寄せたりして、どうにか鳥獣めいた叫声を微かな唸り声程度にまで落ち着かせた。
タイミングは最悪で、彼女が怒り出すのも当然であるし、この答えだってサンクレッド自ら叩き出したものではない。何気ない他者の一言に合点がいっただけだ。これが数多の女性と色恋に親しんできた男の成れの果てかと、我ながら情けなくなりながら、しかしやっと手に入れた結論は譲歩でも折衷でもない。
サンクレッドは、改めて膝をつくと、彼女の顔を見つめた。少しだけ不満は感じているもようだが、話を聞く気にはなってくれたらしい。嗚呼、また許されてしまったなあと小さく笑って、彼は静かに言葉を選び始めた。
「お前を、……いちばんにすることは、出来ない」
暁の英雄。救世の使徒。光の戦士たる女。この世界のために力を尽くしてきた彼女だから、せめて彼女が心寄せる者から相応の想いを返されて、世界で一番大切にされなければいけない。サンクレッドは今もそう思っているし、守りたいものを多くを抱え込んだ彼にはその役目が相応しくないことも分かっている。そしてそうと伝えなければ、これから告げる何もかもが嘘になることも。
愛しい女に簪を贈ることも思い至らない、愚かな男だ。サンクレッドは、美しき怪物を縛るに足らない。それでも。
「……それでも、一緒に生きていくなら、お前が良い。お前の優しさに漬け込んで二の次にするだとか、都合が良いからとか、そういうことじゃない」
恋人と呼ぶにはあまりに熱烈さが足らず、仲間の延長線上にしては近すぎて、身体の関係と言い切るには情が深すぎる。────では、夫婦なら。
「お前を、隣に置いて、生きてみたい」
家族という枠組みの中、血ではなく心で繋がる絆なら、どうだろう。世界で一番ではなくて、世界で唯一ならば。背に庇われるだけではない彼女が、共に歩み、守るものであれば。サンクレッドが駆け出すときに、軽々隣を走ってくれる彼女であれば。
「俺の……いちばん大事なものを、お前と一緒に持っても良いんだと、思ったんだ。押し付けたり背負わせたりするつもりはない、ないんだ、そうじゃなくて……安心を、したんだ。同じように、大事にしてくれるから」
だって彼女はあんなにも嬉しそうに、娘たちへの贈り物を選んでくれるではないか。サンクレッドにとっての宝物は、彼女にとっての宝物でもあると、以前そうと言われたことを、今になってやっと咀嚼できたのだ。
たどたどしく形を成していく本心は、しかし何だかそっくりそのままではないような気がして、いやに焦る。背中は汗で濡れてきているというのに、喉ばかりがざらついて、サンクレッドは唾を飲んだ。格好が悪い。口が回らない。彼女が目を大きく見開いたまま、何も言わず聞いてくれていることが救いだった。
「勿論、その、それだけじゃない。お前の人柄を尊敬してるし……美人だと思う。だから余計に他の男にはやりたくなくて、ああ、くそ、」
苛立たしく前髪を掻き混ぜた。言葉を重ねれば重ねるほど、言い訳じみていて、ふてぶてしくて、もどかしさに涙が出そうだった。どうしてこの想いのままを伝えられる気がしないのだ。眩しさに目を細めるような、柔らかな花弁に触れるような、確かにそんな美しさを感じているはずなのに、ほんの少しさえ表せない。
それでも、言葉にしなければならないのだ。言わずとも理解してくれることに甘えているばかりでは、形にならない心の一欠片すら渡してやれなくて、胸の内の真実なんて伝えられようもなく、それでは無に等しいのだ。
恋も執着も。庇護欲も、支配欲も、征服欲も、独占欲も。絶望も、切望も、希望も。このひとの姿に見る光を。正しさに怯えながら、過ちにおののきながら、どうしようもなく握り込めた心の欠片たちを、そうと呼んで良いのなら。
サンクレッドは深く息を吸い込んだ。
「愛してる、」
石みたいに凝り固まった言葉が、唇から転がり落ちた。喉を傷付け、舌の根を裂いて、痛みに震えながら吐く、しゃがれた精一杯だった。
「俺の嫁さんになってくれ!」
肺の収縮だけでは吐息にすらならないから、五臓六腑からやっと絞り出す、切なる叫びだった。
────鯉の尾鰭が水面を打つ、涼やかな音が聞こえる。
やっと泣き止んだはずの彼女の瞳が、盛大に湿ってきたので、サンクレッドはぎくりと肩を強張らせた。大振りの真珠めいた涙がほたほたと落ちていくのに、今回ばかりは触れるのを躊躇う。
「……す、まん。……嫌だったら、」
「ばかやろう!」
日和ったサンクレッドの脛を、彼女の鋭い蹴りが捉えた。くぐもった呻き声が上がる。普段盾役をしているサンクレッドとはいえ、防具もつけていない急所を、底の固い下駄で蹴られたらさすがに痛い。文句のひとつは許されるだろうとサンクレッドが口角をひくつかせていると、彼女の柔らかな重みが肩にのしかかってきた。
「こっ、……この期に、及んで、誰が……だれが嫌だ、なんて」
震える細い指がサンクレッドの背に回って、くちゃりと着物を握り込んだ。応えるように彼女の体を抱き込めると、彼は鼻先をその髪に差し込む。
「あんたみたいな、朴念仁のお嫁さんに……私以外の、誰がなりたがるっていうんだよ……!」
オールドローズの花束を抱えているみたいだ。彼女の文句めいた口振りの行き先が、YESであることを悟って、サンクレッドはじわりと眦を和ませる。
「何でも考え込んで、背負い込んで、ばか、サンクレッドの大馬鹿者。……ばかみたいに優しいから、大好きだって言ってるじゃないの」
いよいよ笑い声を立てると、男は歓びのまま妻を抱き上げ、くるりと一回転踊ってみせた。知っている。知っていたのだ。彼女がこの答えを気に入ってくれることを、どこかで確信していた。だって彼女は、サンクレッドを慕ってくれているのだから。
涙みたいに、雨みたいに降り注ぐ慈愛が、渇いた喉を打って潤わせる。一度発することのできた言葉は、ずっと素直で滑らかに舌の上を通り、彼女の角へ真っ直ぐ向かった。
「……愛、してる」
重ねるたびに、連ねるたびに、歓喜と衝動の輪郭が確かとなっていく。
「愛してる、 」
サンクレッドは、込み上げる万感の思いを乗せて、彼女の名を呼んだ。
「俺と結婚してくれ!」
「はい!」
嬉しそうに笑った彼女が、はっきりと頷いた。陽光と同じくらいに眩しく破顔して、サンクレッドに角を寄せる。ざらざらと髪に擦り付ける、愛着の仕草だ。
「私も。……わたしも、愛してる、サンクレッド」
彼女の声が、サンクレッドの頬に染みていく。甘やかな吐息を追って、眼差しを絡め、今触れることのできる中で一番柔らかな皮膚をお互いに目指した。
顔を守るように聳える角があるおかげで、彼女の唇に触れるのは容易ではない。真正面から見つめあって、探るように額を重ねて、慈しむように鼻先を合わせて、サンクレッドの頬を擦る丸い尖端を感じながら、そうしてやっとキスをする。彼女がこちらを向いていてくれなければ出来ない行為だから、愛されていると自信が持てる気がして、このまどろっこしさが好きだった。
「さっきの店で、簪を贈らせてくれ。お前に似合いそうなやつを選ぶから」
サンクレッドが唇を重ねたまま囁けば、彼女は頷く代わりに、ゆっくりと優しく瞬きをした。
時候の花はすでに紫陽花から向日葵に代わる頃。季節外れのうぐいすが、キュルキュルと下手くそな求愛を歌う声が聞こえる────否。断じて鳥の声ではない。くちゃくちゃに泣いて化粧を剥がした彼女が、空腹を訴える虫を鳴らしたのだ。まさか自分が出した音だと思わなくてすぐ理解できず、女傑はまるで呆けた童女みたいにぱちぱち瞬くと、事態を理解して、恥じらって、サンクレッドの肩口に額を埋めた。
彼女の背を宥めてやりながら、サンクレッドは、そういえば昼食を食べ損ねていたことを思い出す。それどころではなくなってしまっていたため忘れていたが、買い物をしながら、何が食べたいか考えようとしていた、はずだ。蕎麦か。寿司か。お好み焼きか。道中見かけた店の看板を思い返していれば、一世一代の大告白を終えて安堵した彼の腹からも、それはそれは元気で現金な音が響いた。
世界中から呆れられたような、短い沈黙のあと。
「…………先に腹ごしらえにするか」
「……そうしよっか!」
ふたりは可笑しそうに笑い合うと、鼻先を触れ合わせた。確かめるように、誓うように、慈しむように重ねる軟骨同士だ。
互いのためにばかり生きられはしないが、互いの背を押し合って生きていける。隣にある命と駆ける、そんな在り方を、愛と名付けよう。
からり、からり、下駄が石畳を打ち慣らす軽やかな音が、クガネの町並みに響き渡った。
彼女が囁くとともに、腹部に圧迫感を感じて、サンクレッドは返事の代わりに息を詰めた。朝食を食べ終えたばかりの胃には少しばかり苦しい刺激だ。
開け放たれた円い窓枠の向こう、午前の陽光の中、高く鳴きながら晴天をゆく隼の影が、畳の上をさっと撫でて行くのが視界に入った。遠く波の音に混じって、微か、衣擦れが耳朶に触れていく。
随分と長い間、こうしている気がする。流石に焦れた心地で見下ろせば、彼女────暁の英雄ともあろう女傑が、膝をついて甲斐甲斐しくこの男の世話をしている光景が網膜に映り込んで、サンクレッドは思わず唾を飲み込んだ。戦場において誰より武功を上げる女が、いかにも慎ましげな様子でサンクレッドの前に跪いているという事実は、支配欲だとか征服欲だとか、よろしくない優越感を刺激してくるから困り果てている。この景色を快いと感じてしまう、己の薄暗く凶暴なさがにも。井草の香りが旅情をそそり、邪な心を浮わつかせるから、サンクレッドはせめて誤魔化したくて深く深く息を吐き出した。
白鱗のアウラ族である彼女は、同族の中でも特に小柄で、そう上背が高いわけでもないサンクレッドとすら見上げるほどの身長差がある。そんな彼女が膝立ちになると、それはもうちょうど良いところに頭があって、腰回りを悩ましげにまさぐってきてまでいるから、煩悩など一〇八以上に湧こうものだ。同じ部屋、同じ寝台で寄り添って眠ったって自然な仲なのだから、尚更。炙られるようなささやかな快感に、つい彼女の髪へと潜りそうになる指を握り込めて、サンクレッドはもう一度長く溜め息を吐いた。
彼女の低い体温を近くに感じると、心の内の悪魔が調子に乗ってくる。そんなことはもう良いからと、抱き上げて、布団に押し込んで、そのまま贅沢に朝寝と洒落込めたなら、どれほど心地好いか。しかし彼女の献身をふいにするような真似も憚られたし、せっかく二人で味わう異国情緒というものを“いつも通り”で塗り替えてしまうのも勿体無いような気がしていた。せめて早くこの優しい拷問が終わることを祈りながら目を閉じて、いや視界を塞いだのは失敗だったと後悔する。何せ瞼の裏に浮かぶのは、今はこの身を撫でるように這う彼女の指が、昨夜背中に爪を立てていた時のことで────。
「できたー!」
彼女の明るい声が天井に跳ね返った。ポンと軽い調子で男の腰を、否、小粋に巻いた濃紺の帯を叩いてみせて、英雄は満足げに笑みを浮かべる。その笑顔を見下ろしたサンクレッドはといえば、解放の合図に安堵したような、ほんの少し残念だったような、振り回された気になって積もった疲労感に、がっくり肩を落とすのだった。
ひんがしの国最大の港にして、唯一外つ国との貿易が許されている黄金の都、クガネ。漆の朱色が彩る街並みは絢爛に美しく、海の青の上へ鮮烈に浮かび上がっている。その絶景を一望できる都最大の温泉宿が、此処、『望海楼』だ。
終末の災厄────遥か彼方より贈られし絶望を退け、輝かしき母星は平和を取り戻した。平和、と言ってしまえば、語弊があるかもしれない。魔導船を操り天の果てへ翔け、すべてを賭けてやっと届いたのは、謂われなくおびやかされることのない『アーテリス』だけだ。未来なき者たちから明日ある者たちに向けられた、憤怒、嫉妬、憎悪、綯交ぜになった底なき殺意の脅威を、ひとたび払ったのみに過ぎない。これから真に平和と呼べる時が訪れるかは、良くも悪くも、今を生きる者たちに託されたというわけである。
では時代はどう移ろっていくのだろうか。新たなる命題の前に、自分が出来ることは何か。サンクレッドは未だ混乱する人々の助けとなるべく、あるいは迷う人々の標となるべく、愛用のガンブレードと共に各地を渡り歩くことに決めた。それが、誰より世界を愛し、憂い、信じたミンフィリアへと捧げる鎮魂歌になるとも思えたし、何より己でそう望むことができたからだ。彼を拾い上げた恩人であるルイゾワと、そして可愛い妹分であるミンフィリアと続けてきた、エオルゼアを救済するための活動は────その短く永い時間は、今のサンクレッドの核を成していた。受け継いだ想いはいつの間にか自分の願いともなったから、進んで行こうと誓えたのだ。
東方へと訪れたのもその一環で、ただ今までの旅と少し違うのは、我らが英雄である女傑が、道中を案内してくれるとサンクレッドの後を追ってきたことだった。
東方に連なる国のひとつである、ドマ。帝国の支配より自由を勝ち取ってみせた、したたかな小国だ。その解放までの功労者こそがこの光の戦士で、当然彼女はサンクレッドよりもこちらの事情に詳しい。直前まで極彩色の島サベネアへと赴いていたはずの彼女だが、そちらでの用事が一段落したからと、わざわざ同行を申し出てくれたのだ。当然断る理由はなく、二つ返事で受け入れた。
「一生決まらないかと思った。スタイルが良すぎるのも考えものね」
彼女の細い指が、精巧な装飾でも撫でるみたいに、サンクレッドの前髪を丁寧に梳いた。少しだけ伸びている白銀の毛先を、耳にかけたり、後ろへ撫で付けてみたりして、結局いつも通りで良いと手櫛で直される。触れられる箇所から慈しまれていることが伝わって、じわりと心地好いから、サンクレッドは愛しき英雄へと小さく笑ってみせた。
「そりゃ、どうも。……しかし、よく俺の体に合うものがあったな」
そして、彼は自分の姿を見下ろす。今この身を包むのは、いつもの白いコートではなくて、自分の瞳の色よりも随分渋くて深い、うぐいす色の着物だった。言うまでもなくこの光の戦士が用立ててくれたものだが、袖を通すだけで質の良さが分かるほどの代物で、ゆえに東方系ミッドランダーとは体格の違うサンクレッドにぴったりと────まるで誂えたみたいに丁度良いことが、少し不思議に思えた。
「こんなに良いもの、現地の金持ちどもが主な客層だと思ってたんだが」
「最近は観光で来るエオルゼアの人も多いから。異邦人向けにも力を入れてるみたいよ」
そう答えながら、仕上がった“作品”をじっくり眺めて、彼女は嬉しそうに白鱗の尾を揺らした。
せっかくだから東方の民族衣装を着てみないか、と提案してきたのは彼女だった。観光や娯楽のつもりではないのだが、何かしらの危機に直面した緊張感のある旅でもない。たまには気楽に異文化に触れてみて損もないだろうとサンクレッドが頷いたら、最初からこのつもりだったような手際で、せっせと着付けられたのである。
しかし、だ。どうやら男の着物とは帯の位置が粋を演出するらしく、順調に進んでいた作業はそこで大いに滞った。曰く、「帯が決まらない」「足が長すぎてバランスが取れない」「腰の位置が高い」「本当に足が長すぎる」と。何とも可愛らしい文句を滔々と垂れながら、彼女は目の前の男をより良く見せることにこだわって、何度も何度も帯の巻き直しをしたのである。これにはただ着付けられるだけのサンクレッドも参ったが、何だかいやに楽しそうな彼女の顔を眺めていると、必要な苦労であったかもしれないと思い直せてしまったから、想い人可愛さも重症だ。
サンクレッドが着ていたコートをハンガーにかけている彼女の背中は無防備なもので、だから難なく抱き込めて捕まえ、髪に唇を触れさせることができた。
「……ありがとうな」
腕の中で鼻先を向かい合わせ、サンクレッドは改めて彼女の額に口付ける。何への感謝かと訊かれれば、勿論この着物の用意から着付けまでの世話に対してでもあるし、良い宿があると教えてくれた事も、箸なる不思議な食器の使い方を仕込んでくれた事にもある。彼女の瞼に、それから角の先にキスを落としていくと、くすくす笑う振動が伝ってきた。
愛しの英雄とこうして過ごしていると、二人で婚前旅行にでも来たみたいな、呑気で幸せなひとときに思えた。実際そのような優しい時間になるのだろう。目的のある旅ではあれど、厳格で禁欲的に過ごすつもりはないし、ただの男が好いた女と行き先を共にするのだから、多少浮かれるのは仕方がない。サンクレッドは彼女の髪に鼻先を潜らせると、深く息を吸った。オールドローズの香油に混じって、嗅覚に馴染んだ人肌の匂いを感じる。いつも忙しく各地を駆け回っている彼女と、こんなにも穏やかに過ごせるなんて都合の良い白昼夢のようで、だから余計に、たがが外れてしまいそうだ。
「どういたしまして。……よく似合って良かった」
彼女の囁く声音が上向いたので、サンクレッドはその発生源、小さな唇を目掛けて頭を垂れた。
暁の英雄、救世の女傑、光の戦士と名高い女が、大人しい生き物みたいにこの腕へおさまってくれていることが、サンクレッドの庇護欲から独占欲までを慰めた。武勇の権化である彼女が、いかにも優しげな声で彼を呼ぶことも、彼を見つめてうっとりと目を細めることも、口付けを求める際に角で彼を傷付けぬようじいっと待ってくれることも、他の誰が知る由もない。そうして遠く異国の地では、二人を知る者も一握りで、嗚呼本当に二人きりだと、サンクレッドは閉じた空間を噛み締める。
もちろん、仲間たちは可愛い。守ってやりたいし、大事だ。それぞれを頼りにしているし、共に過ごしていると炉に火が入るように漲る心地がする。一方、この女と過ごす時間は、何だか質が違う。心臓をじっくり炙られるような、そのせいで少しくすぐったいような、その熱が全身を回って体を温めるような、ともかく大勢と同じ感情ではないのだ。────どちらがより好ましいかと問われてしまうと、今のサンクレッドは、答えを持たない。答えを出してしまうと、他人との関係性にいちいち優先順位をつけるみたいで憚られて、このひとを好いているという簡単な言葉さえ口に上らないでいた。
「サンクレッド、」
彼女のまあるい声が男の頬を撫でる。大切に呼ばれたその名前に、サンクレッドは銀色の睫毛の先を上下させて微笑むと、腕に力を込めてぎゅうと彼女を抱き締めた。
男女の仲であるが、恋仲と呼べる関係ではない。サンクレッドと暁の英雄との間柄は、名付けるにしてはあまりに曖昧なものだった。
妹と娘が何より大事で、『暁の血盟』に集う仲間も大事なサンクレッドだから、守りたいものたちを脅かすものがあればなりふり構わず駆け出してゆく。どんなにこの光みたいな女を愛したところで、安寧を望んだとて、きっとその性質は変わらないだろう。確かに彼女の存在がサンクレッドの心をひびや隙間を埋めるのに、一番大事にしてやることはできなくて、一番大事だなんて嘘も吐きたくなくて、だのに彼女が他の男のもとに行ってしまうことも今更許せなくなって。不誠実で矛盾ばかりの、愚かな男だ。────それが良いと言ってくれたのは、彼女だった。
「ねえ。いつまでこうしてるつもり」
ぴたぴたとこの背を叩く小さな手を、小さなだけで決してか弱くはない、何でも壊し何でも助ける彼女の手を、可愛いと思う。この感情の名など既に知れているというのに、何一つ、表すに適当な言葉が見当たらないまま。
「サンクレッド」
彼女があやすような優しい声で呼んでくれるから、サンクレッドは唇を、すらりと艶やかに伸びた彼女の角に滑らせた。可愛くて愛おしくて、自然と差し出す柔らかな皮膚だ。未だ渡してやれない一言の代わり、のつもりではないが、きっとそのように映るのだろう。くすくすと肩を揺らす彼女が、ぶるりと尾を震わせる。
「そろそろ私も着替えたいな。お出かけしよう?」
「ああ。……お前も着物を?」
「うん、持ってるやつがあるから」
そう言って体を離そうとしたところで、どちらともなく額を寄せて、重ね、擦り合わせる。いつだって触れられるくせにいつまでも熱を名残惜しむ、愛着の仕草だった。
「何か手伝うか?」
「大丈夫。見たいものでも考えておいて」
体温の余韻を残して、彼女は柔らかな拘束から離れると、自分の荷物を広げに行ってしまった。早々に戦力外通告をされてしまったサンクレッドは、小さく息をついて窓辺に座り込むと、縁に頬杖をつき、向こう側の枯山水を眺めた。石と砂のみで山の隆起や水の流れを表現している庭のことで、侘びだか寂びだか、ひんがし特有の美意識が込められているらしい。清閑とした空間に、反面の豊かさを見いだすのだとか。
分からない感覚ではないな、と、サンクレッドはぼんやりと灰色の川を見つめる。そうしてふと、睫毛の先を掠めていく陽光の温度が上がってきたことに気付いて、その榛色の視線を蒼穹へと移した。雲ひとつなく、陰ることなき空の青だ。隼の声が聞こえる。静けさが、まるでぬるま湯のように部屋を包んでいた。とっぷりと浸かった意識が底の方で揺蕩う感覚を覚えて、サンクレッドは微睡むように瞼を落とす。何があるわけではないが、飢えてはいないし、凍えてもいない。孤独ではない。上向いた鼻先に触れた匂いは、彼女がつけている香油のものか。あのひとが側にいれば、それだけで豊かだ。
沈黙という不可視の水に潜っていれば、衣擦れの音があぶくみたいに浮き上がって聴覚をくすぐる。目を開けたサンクレッドがそちらへと視線を向ければ。
「すけべ」
笑った悪態と共に、彼女が先程まで着ていた服が彼の顔面に飛んできた。布の中で片眉を跳ね上げたサンクレッドは、顔からひっぺがしたそれを丁寧に畳んでやると、にまりと口角を、ゆっくりと腰を上げる。おとなしくしていてやろうと思っていたのだが、聞き捨てならない暴言と許しがたい暴挙で挑発されては仕方がない。狙うは彼女の脇腹だ。
────英雄たる女傑の悲鳴みたいな笑い声が、畳の上にころころと転がっていった。
じゃれ合いは結局、時計の針が真上を指そうとする頃まで続いた。あれから心ゆくまで遊んで、せっかく着付けてもらった着物を乱したため、一から直されてこの時間だ。サンクレッドが働いた無礼に、光の戦士はといえば、文句をつけこそすれ怒りはしなかった。彼女の寛容さはサンクレッドを特別に扱っていることの示唆で、だから彼は許されるたびに、愛されているなあと実感する。
「あんたのやんちゃにも困ったものだわ!」
背を叩く平手だってあんまりに軽やかで、腕を振るだけで大の男を三人薙ぎ倒すと言われている怪物の力と思えない。サンクレッドは、鳩尾にじわりと歓喜が滲むのを自覚しながら、くつくつと喉を鳴らす。
「お前のお転婆ぶりもなかなかだぞ」
そう言い返しながら、サンクレッドはすっと左肘を差し出した。彼女はその大きな瞳を光らせて、それからほんのり眦に喜色を浮かべて、彼のたくましい腕に指を伸ばす。
「ひんがし式のエスコートも、これで良かったか?」
「こっちはエスコートの文化じゃないのよ」
「驚いた。俺にとっては信じがたい異文化だな」
大袈裟に肩をすくめてみせると、たまらず笑い出した彼女が、角をサンクレッドの腕に寄せた。
「女は三歩後ろを歩くのが慎ましくて良いの」
「お前にとっても考えられないだろうな。いつも何歩も先を行くから」
「ふふ。今日はこれで良いわ」
機嫌の良い手を絡ませて、ぺたりと二人は密着する。クガネを行く男女に珍しい距離感は、賑やかな通りの中に浮き上がるようだった。
「これが良いわ」
ささやかな声音で言い直した彼女の笑みに、サンクレッドは微かに頷いた。
小金通りはその名の通り、硬貨紙幣小判に小切手、金という金が巡るクガネの市場である。長く鎖国しているひんがしの貿易最前線である此処には、諸外国から買い付けた絢爛な品々の他、訪れる異邦人の目を引く輸出品も豊富だ。鮮やかな番傘、漆塗りの鎧、生魚、土を焼いたひんがしの酒器。あらゆるものにヘーゼルの視線を滑らせて、サンクレッドはぱちりとひとつ瞬きした。エオルゼアの商業都市であるウルダハの活気も大変なものだが、この狭い通りに凝縮された営みもなかなかの迫力がある。売り付ける気概がそこかしこで跳ねているのに加え、歌舞伎座に客を呼び込む声も鼓膜を打つ。
そんな中、からりと下駄が石畳を打つ音を聴覚で拾ったので、サンクレッドは丸い瞳のまま、英雄たる女を見下ろした。
彼の腕を抱えるようにして寄り添う彼女は、黒地の着物をまとっていた。金で描かれた水の流れと、こぼれるように咲いた睡蓮の柄が何とも雅やかである。生来より身を飾る白金の鱗と対照的な宵闇の布地は、彼女を飾るに相応しく華やかだった。こうして隣を歩くようになってから、彼女の匂い立つ麗しさには驚かされてばかりだ。がま口の小さな鞄を持った指先の爪は、戦うものにしては丸く整っていて、角も鱗も貴金属をあしらったみたいに輝かしく、ぬるりとたおやかにうねる尾には色気すら感じてしまう。
「……どうしたの。お腹減った?」
彼から注がれる視線をいよいよ無視できなくなったか、彼女は首を傾げるようにしてサンクレッドを見上げた。はにかむ彼女に笑んでみせると、彼はぺたりとサンダルを鳴らす。慣れない下駄では足の皮を剥いてしまうだろうからと、着物と合わせても違和感のない物を、彼女が選んでくれたのだった。
「見とれてたのさ。……綺麗だ。似合ってる」
あれほど滑らかで耳障りの良い言葉を駆使して女を口説いてきたのに、それらと同じように格好をつけるのは何だか違うような気がして、サンクレッドは心のままの飾らない言葉で伝えた。あんまり簡単になってしまうから、褒め方が足りないだとか、ベストを尽くしてないだとか、文句を言われても仕方ないとちらりと考えたのだが、彼女はとびきり嬉しそうに笑ってくれた。
「そうでしょう。いい物を持ってて良かったよ」
得意気な袖をひらりと振って、彼女はおっとりと目を細める。
「でも私ばっかり見てても仕方ないでしょ。気になるものとかないの?」
「そうだな……ああ、でも、腹は減ったよ」
「お昼時になるしね。誰かが暴れるせいで、宿を出るのが遅くなって」
「あれはお前のせいだろ」
責任をなすりつけ合いながら、くるりと通りを見回した。ちょうど太陽は真上に差し掛かり、道行く人々も舌の気分で食事処を探している様子だ。魚に淡く焼き目がつく匂いだとか、出汁の上品な香りだとか、景気の良い嗅覚への刺激は呼び込み以上の威力がある。
「何か食べたいものある?」
彼女からそう問われて、サンクレッドはゆるりと首を傾げた。東方の食文化には詳しくないが、それでもドマの忍衆から聞いて興味をそそられたものはいくつかある。例えば、音を立てて啜るのが礼儀だという麺料理とか、生魚と白飯を豆のソースで食べるだとか、切り刻んだキャベツをごちゃごちゃと混ぜて鉄板で焼いたものだとか。人伝の情報のみのため、それがどういった味や匂いがするのかまでは分からず、何が食べたいかと腹の虫に訊ねてみたところで、答えは帰ってこない。
「せっかくなら、こちらの料理に挑戦してみたいものだが……」
「がっつり食べたいとか、さっぱりが良いとか……がっつりかな。あんた食べるから」
思案し始めた彼女とのんびり歩を進めながら、サンクレッドは左腕にかかる微かな重みに、絡む彼女の指に、口角を上げた。
サンクレッドはこれで結構な大食漢である。潜入任務などの間は、いつも食べるものがあるとは限らず、また満腹になって油断が生じるのもよろしくないから、二日三日程度断食するくらいわけもない。しかし普段の生活においてはその限りでない。彼の丈夫で鍛え抜かれた筋骨は、維持するために大量の燃料を必要とするため、必然的に健啖家となるわけだ。最近では英雄たる女の手料理にありつくことも多く、そのたびに彼女がサンクレッドの食べっぷりに驚いて、驚いたあとに笑って、おかわりが要るかと訊いてくれる。この体質でなくたって、彼女の作るものはすべて美味と思えるから、もう少し味わっていたくなって、きっと頷いてしまうのだろう。
明確にそうと感じられるほど、彼女から愛されている。ほんの少し前────この晴天を抜けて宙の果てまで赴いた時には、考えもしなかった事態である。彼女は我らが光の戦士で、英雄で、世界中から愛され慕われ求められる女傑だ。本来なら、好意を伝えられもしない男に付き従うような真似をしていて良い女ではない。彼女に懸想する“まともな男たち”も多く、きっと彼らに任せた方が、蝶よ花よと慈しまれて幸福な余生を送ることができるはずだ。だと言うのに、この女が半ば強引に引っ掴んだのは、妹や娘、家族が愛したものを守ることで手一杯なサンクレッドの袖だった。彼女の大事なものをすべて守ってくれたサンクレッドが良いのだ、と、誰にも見せない甘い顔で笑ってくれた。
だから、いつでも振りほどけるつもりでいた指は、愚かしくも強張って、彼女の肩に食い込んでしまった。捕まえてしまって、放せない。放し方なんて忘れてしまうほど、彼女はサンクレッドに優しかった。
「あ、」
はためく暖簾たちを眺めながら物思いに耽っていると、彼女が微かな声を上げたので、意識がひょいと手元に戻ってくる。サンクレッドが何事かと彼女に視線を下ろすと、白魚のような指がついついと彼の腕を引いた。
導かれるままに歩く途中で、目的地は視覚から明らかになって、サンクレッドはなるほどと頷いた。どうやら装飾品の店らしい。店頭には華やかな髪飾りが並んでいて、妖精郷の花畑がごとき彩りだ。その近くに寄ると、店員の女性が、いらっしゃいませと滑らかに発声する。つるりとサンクレッドの腕から離れた彼女は、迷わぬその指でひとつ簪を取り上げてみせると、明るい笑顔で彼の視界へと差し向けた。
「ねえ、これ」
真っ白な小花を束ねてしだれさせた、派手すぎずに愛らしい品だ。あんまり嬉しそうに彼女が笑うから、サンクレッドもつられて頬を緩め、頷く。
「リーンに似合いそうだ」
「でしょう!」
救世の英雄たる女傑は、頬に血色を乗せてはしゃいだ。次元の向こう側で暮らしている少女のことをいつでも想っているから、例えばこうしてアクセサリー類を覗いた時なんかに、あの子に似合うものはと探してしまう。だから彼女が言わんとすることも、通じ合ってるみたいにすぐ分かったし、より相応しいものはないかと品々を覗き込んでしまう気持ちも理解できた。
サンクレッドも彼女の横から、選ばれるときを待っている簪たちを見つめて、ふとひとつに指をさす。真っ赤な大輪の椿を模した華美なもの。
「これは、ガイアだな」
リーンと仲良しの少女を思い浮かべたものだ。流行やお洒落に親しんできたあの子には、これくらい大人びたものが似合うに違いない。サンクレッドの指に鼻先を向けて、光の戦士はうんうんと首を縦に振る。
「ほんとだ、ガイアだ!」
彼女は花を摘むように、その簪を手に取った。
「ねえ、あれ、アリゼーじゃない?」
「あの手鞠がついたやつか。……ほら、あれはクルル嬢だ」
「可愛すぎって怒られちゃいそうだけど。……ふふふ、これはね、ヤ・シュトラ」
「……それこそ我らが魔女には可愛すぎやしないか?」
「良いの、これで。サンクレッドには内緒だけど、すごいことがあったんだから」
「おいおい、ここでも蚊帳の外にするなよ。……これはタタルだ」
「タタルね!」
そんな風に、思い付く女性陣の顔を二人で描きながら、簪を集めていく。それらは彼女の手の中で、溢れそうなほど大きな花束みたいになって、見かねた店員が一つずつ引き取って包みはじめてくれた。
「贈り物ですか」
女性店員の声は微笑みを含んでいる。異邦人が冗談みたいな本数の簪を買い求めようとしているのだから、多少愉快にもなるだろう。英雄たる女は、轟く武勇なんか欠片も見せず、上機嫌で頷いた。
「お友だちに配って歩こうかと思って。ね」
そうして彼女の、エーテルを含んで光る瞳が、サンクレッドめがけて上向くので、彼も穏やかに笑みを返す。
「たまには良いな。野郎連中には不公平だと文句をつけられるかもしれないが」
「あ、そうね。じゃあ……、……男のひとって何をあげたら良いかいつも迷うのよ」
「適当に食い物でいいんじゃないか」
「やあだ、雑で」
サンクレッドのすました言葉に、彼女は可笑しそうに広い肩を叩いた。びくともせず、少しも痛がらない様子で以て答えて、視線を絡めたふたりはまたひとつ笑う。くすくすと、店員が思わずといった風に肩を揺らす、軽やかな声が重なった。
「睦まじいご夫婦でいらっしゃいますね」
ひくり。財布を取ろうと鞄に伸びた彼女の指が微かにすくんだのを、サンクレッドは見ていた。
夫婦。恋人をすっ飛ばして、旦那と妻に見えるのか。サンクレッドは後頭部を殴られたような衝撃を感じた。確かに甘酸っぱい仲であれば、他人に贈るものより先に、目の前の女の髪に差す一本を夢中で選ぶのだろう。二人の今し方のやり取りは、より熟れて落ち着いた関係の男女のそれであり、年頃や並んだ様子を鑑みれば、事情を知らない他人の口から夫婦という単語が出てくることは何一つおかしくない。
サンクレッドは、笑い出しそうな口許を、きつく手で覆う。夫婦。夫婦か。何故だか全く思い至ることがなかった答えを不意に得たような、胸のすく思いだった。天啓みたいに降ってきた、関係性をそうと成すことばは、不思議なほどにしっくりとサンクレッドの腑に落ちた。
にわかに活性化した脊髄に思考が巡ったのは、サンクレッドの体感よりも短い時間だったようで、その間に可愛い英雄が唇を引き結んだ顔を上げる。その表情が決意に満ち満ちていたから、言わせてはならないと直感して、サンクレッドは彼女より先に口を開いた。
「オーゥ、これはこれは、奇遇ですネ~!」
口を開いた、のだが、全然違うところから、具体的に言えば背後から、知らない男の声が朗々と飛んできたので、言葉が喉元で大渋滞を起こした。結局通るに通れなくなった声を一度飲み込んで、サンクレッドは肩越しに振り向く。やはり見覚えのない男だ。金色の髪に不釣り合いな東方衣装と、胡散臭いパンスネ。これだけ特徴的な人間なら、まずサンクレッドが忘れるはずはない。ならば彼女の知り合いだろうと、随分低い位置にある頭へ視線を下げれば、英雄ともあろう女があたふたと手と尾を揺らしている様子が見えた。
「は、ハンコック、何でここに!?」
「珍しいコトではないデショ~、私はこのクガネで商いをしているんデスからネ!」
東方訛りでもなければ、エオルゼアでもそうそう耳にしない、何とも妙なアクセントである。ともかく、怪しいわけではない────否、どう見ても怪しくはあるのだが、少なくとも彼女に害のある男というわけではなさそうで、サンクレッドは踏みしめていた足を楽にした。パンスネのせいで視線の動きが判断しづらいが、鼻の向きから、サンクレッドを見ているだろうと予測できた。
「そちらの方は、もしや……暁の?」
「ああ。サンクレッドだ」
「オォーウ。お噂はかねがね。お会いしてみたいと思ってましたヨ」
差し出した右手同士を握って、軽く振る。その、微かな力の込め方に、ハンコックと呼ばれた青年の意思のようなものを感じ取って、サンクレッドは片眉を上げた。
「東アルデナード商会、クガネ支店の番頭を務めておりマス、ハンコックと申しマース」
「ええと、そう、こっちで活動する時にね、随分お世話になって……」
「……なるほど」
色眼鏡の奥に隠された瞳はやはり観察できないが、その分口角が表情豊かだ。ハンコックの含みを持った笑みの誘いに、サンクレッドは乗った。懐から自分の財布を出すと、落ち着かなさげな彼女の手に握らせて、鼻先同士を近付ける。
「あちらを待たせるのも悪いからな。勘定を頼んで良いか」
「えっ。あ、う、でも、」
どうせ、自分が金を出すだの、話すことがあるなら自分がだの、言い出すつもりが混線しているのだろう。サンクレッドはすっかり慌てた彼女の額に、わざと聞こえるようなリップ音を残して、抵抗を封じた。びくりと震える尾の動きが可愛らしくて、銀の睫毛を伏せる。少しだけ時間が欲しいのだと理解した彼女は、わなわなと肩を震わせると、むくれた頬のまま、鋭い眼光でサンクレッドの向こう側を貫いた。
「私のいない間に変なこと喋らないでよ、ハンコック!」
「不如意デース」
その釘を刺さなければ、後ろめたいことがあるなんて分かりはしないのに。サンクレッドは、たまに迂闊なところがある彼女が、会計をするために店員と話し始める様子を見つめていた。
さて、このハンコックとかいう男は何の用事があるのか。彼女に関することであるなら、最低限の威嚇────これ見よがしの口付けをしておいたので、話が早いはずなのだが。ああでも、きちんと牽制するなら、彼女にも簪を選んでやるべきだった。サンクレッドはそんなことを考えながら、横目に商人を睨んだ。パンスネの奥の眼差しの先は、やはり分からない。
「……美しいデスよネ」
うっとりと、ハンコックが声を上げた。サンクレッドの指がぎしりと強張る。
「あの着物。よくお似合いでショウ?」
一瞬訪れた緊張感は何だったのか。どこまでも上滑りする口ぶりで会話を進めていくハンコックに、サンクレッドは肩透かしを食らって苦く奥歯を噛み締める。表向きにはポーカーフェイスを保ちながら、勿体ぶって頷いた。
「そうだな。……商会の品か?」
「ご明察。先日、流水紋をあしらったものをと、お求めになりましてネ」
サンクレッドはひとつ瞬きのあとに、ハンコックを見た。確か彼女は、もともと着物を持っていたような言い方をしていなかったか?
榛色の訝しげな視線を受けて、金髪の商人は朗らかなつもりの笑顔を見せる。
「あの方は大事なお得意様でもありマスからネ。これからのニーズにお答えするためにも、意中の殿方を一目拝んでおけたのは僥倖でシタ」
「……それは、」
「ねえ何話してるの!!」
存外と早く会計を終わらせてきた彼女が、怒り肩でずんずんと歩み寄ってきた。気迫だけで轢かれそうになったか、からからと高く笑うハンコックが一歩向こう側に飛び退いた。彼女がその手に下げる紙袋を引き取って、サンクレッドは曖昧に首を捻る。
「何てコトはない世間話ですヨ。さて、チョコボに蹴られて死ぬのはゴメンですカラ、この辺でおいとまいたしマース!」
本当に彼は何だったのか。サンクレッドは、威嚇音をあげている我らが英雄の背を宥めてやりながら、あまりにあっさり歩き去ろうとするハンコックを眺めていた。まさか言葉通りにサンクレッドを見物しにきただけなんてことはないだろうし、彼女の買い物がごく最近だったと知らせるためだけでもないだろう。得もなければ、義理もない。行動原理が読めない。
ああそうだ、とわざとらしく思い出したなんて素振りをする理由も。
「サンクレッドさん、そのお色、とってもよくお似合いデース。我が商会自慢の反物なんですヨ!」
「ハンコック!!」
英雄たる女が怒号と共に駆け出した。ので、サンクレッドは咄嗟に小さな体を捕まえた。小型のドラゴンと言っても差し支えないパワーで振り切ろうとしてくるので、ようやく彼女が歴戦の猛者であることが思い出されて、さすがのサンクレッドでも本気で抑え込まざるを得ない。
「落ち着けって……!」
「放してよ、ふんじばってタタルに言いつけてやる!」
「アッハッハ。残念ですが、“グル”デース!」
「ううう裏切り者ー!!」
愉快そうに遠ざかる背中に、ギャアー、と怒りの声をぶつけ続ける彼女を何とか抱き込めて、サンクレッドは話題を整理した。まず、タタルとハンコックは何かしらの“グル”であるらしい。騙しは知らないがしたたかである我らが受付嬢のこと、大商会の番頭すら顎で使って何かするつもりだったようで、しかし内容はどうも定かでない。だが、サンクレッドが知らない間に、何が起こっていたかは推察できた。サンクレッドは深く、深く息を吐いて、まだ怒り続けている彼女を抱きすくめる。
「縫ってくれたのか。俺の着物」
ぎくりと、腕の中の体が跳ねて静かになった。
反物とは、着物に使う生地のことだ。この英雄の手に渡ったときには服の形でなかったから、ハンコックはわざわざその言い方をしたのだろう。職人としても名高い彼女が、サンクレッドに似合いの色を選ぶところから仕立てたと考えれば、誂えたかのようにぴったりと着ることができたことにも納得がいった。実際に、手ずから誂えられていたのだから。
「……お前の、着物も。……俺と歩くから、用意したんだな」
見下ろした金の流水紋。自惚れでなければ、彼女がわざわざ柄を指定したのは、彼の姓である“ウォータース”にちなんだためだろう。そしてその予想は正しいと、震える彼女の肩が教えてくれた。
「……何で、」
何で、隠すんだ。そう問うために、サンクレッドは彼女の顎の下に指を差し込んで、上向かせて────続けるための言葉を取り落とした。角の先まで染まってしまうのではないかと思えるほど、赤面して熱を持った彼女が、ほろほろと涙していたから。
ぐす、と鼻をすすった彼女が、突如腕を振り上げる。
「いやいや待て待て!」
声を荒げたサンクレッドは、動揺しながらもしっかり彼女の拳を止めた。彼を殴りつけるためではない、いつの間にか握られた煙幕を投げつけるための小さな拳だ。一体この華やかな装いのどこに隠していたのか。全身武器庫だなんて、物騒なところを似通わせなくても良いだろうに。
「は、はなして」
「こんな往来で煙幕はまずいだろ……落ち着いてくれ、な」
そう、ここは小金通りだ。昼食をとりに店へ入る者があってか、行き交う人気は常より少ないが、それでも注がれる視線は多く、この騒ぎに足を止める者まで出てきている。サンクレッドは小さく舌打ちすると、すんすんと鼻をすする彼女の手を引いて、まず簪が梱包されている紙袋を買い付けた店に預けた。チップを握らせ、望海楼のとある部屋まで送ってほしいと言い付ける。
それから、もはや振り払って逃げる気力も削がれたらしい彼女を、抱え上げて歩き出した。いやいやと微かな抵抗を感じるが、サンクレッドが頬を寄せると途端に小さく大人しくなる。
「場所を変えるぞ。……それで、良いな?」
サンクレッドが、低く穏やかな声でゆっくりと言い含めると、彼女は無言のままこっくりと頷いた。
喧騒を抜ければ、石畳を緩やかに蹴る足音だけが反響する。途中、彼女があんまり辛そうに鼻をすするので、その度に抱き上げる腕に力を込めながら、サンクレッドは歩を進めた。異人街────各国の大使館が点在する区画を、散歩みたいな何気なさで通りすぎ、その端にある東方風の庭園までやってくる。憩うにちょうど良い場所であるが、不思議と人の気配はなく閑散としたもので、此処ならと彼女を近くの長椅子に腰掛けさせた。溢れ続ける涙のせいで、目の際はすっかり赤くなっていて、哀れみさえ覚えるほどだ。
「お前は……、……本当に、良く泣くな」
英雄なんて猛々しい異名を持つとは思えないほど、背を丸める彼女は弱々しい。サンクレッドはその前に膝をつくと、笑って彼女の頬に指を添えた。
彼女が人目も憚らず泣き出すのは、珍しいことではない。悲しがっているときもあれば、愛しさに耐えきれず溢すこともある。懐深くて、感情の振れ幅が大きくて、そんな彼女の感受性さえサンクレッドにとっては可愛らしい一面だった。
辛抱強く彼女の涙を拭い続けていれば、そのうちに、彼女がこくりと唾を飲む。
「……っは……恥ずかし、くて」
震える声がひきつったので、宥めるために、サンクレッドは彼女の細い手を握った。肌から鱗まで滑らかな、少しだけ体温の低い手だ。すん、と彼女が鼻を鳴らす。
「浮かれてる、みたいで。……知られたくなかった、のに」
「……知らなきゃ、ちゃんと感謝も言えないだろ。俺だって、お前とこうしてると多少浮わつくさ」
そう慰めるのだが、彼女は頑なに首を横に振る。無理に促すよりは自然な言葉を待つ方が得策かと、サンクレッドはじっと彼女を見つめる。彼と違ってこの女は、伝えるための言葉をたくさん持つし、それに彼女を待つ時間は存外と好ましかった。
「だって、あんたどうしても、意識するでしょ」
ほろりとまた大粒の涙が落ちるので、サンクレッドは律儀にそれを拾う。
「わた……私が、そんなふうに、浮かれてたら。……サンクレッドっぽい、ものを、身につけたい、とか。つ、作ったもの着てほしいとか、言ったら……困るじゃない、あんた」
彼女の頬を拭う武骨な手が、止まった。視線が水滴ごしに絡む。
「大事にできないのに、って。また……悩んで、しまうから。……こっそり自分、だけで、楽しもうと思っ、たの。せっつくみたいなこと、して……無理やり考えさせるのじゃ、意味ない……」
それきり、彼女は押し黙ってしまった。ぐす、ぐす、と断続的に鼻をすする音が、庭園の池の水面に跳ねる。その気配を餌にでも違えたか、鯉がぱくりと風を食べて、光る鱗を閃かせながら潜っていった。
サンクレッドは彼女の前に跪いたまま、ゆっくりと視線を下ろして、俯いて、たまらず額を彼女の膝に埋めた。びくりと揺れる彼女の腰に腕を回して、すがるように抱き締める。
彼女こそ、長く待ってくれていたのだ。二人が幸せと思える道を共に考えようと、そう言って側にいてくれた。あからさまに恋人のような真似をすれば、未だ愛情の整頓ができないサンクレッドを萎縮させてしまうからと秘めて、それでも好いた男とのデート気分を味わいたくて趣向を凝らす乙女心だった。案内という名目に隠した、隠れきれなかった恋心だ。どうしてそれを恥と思わせてしまうのだろう。
嗚呼、もう、駄目だ。サンクレッドは項垂れて丸まった肩を勢い良く張った。
「……わかっ、た」
喉が渇いて声がひりついている。にわかにぎらつくヘーゼル・アイが、濡れた彼女の瞳を射抜いた。
もう駄目だ。このひとがいとおしい。
「結婚しよう」
「分かってねーだろうがよぉ!!」
悲壮なしおらしさから一転、喚いて暴れてサンクレッドを蹴飛ばす勢いの小さな怪物を、彼は慌てて押さえ込んだ。びたびたと怒りの尻尾が長椅子を叩いている。
「妥協点になりたくないって言ってるのに結局そうやって、分かってないじゃない何にもー!!」
「待て、頼む、待ってくれ、今思い付きで言ったわけじゃない!」
ここで彼女に逃げられたらさすがに立ち直れない。サンクレッドは必死に女傑にしがみついて、抱き込めて、背を撫でたり米神に唇を寄せたりして、どうにか鳥獣めいた叫声を微かな唸り声程度にまで落ち着かせた。
タイミングは最悪で、彼女が怒り出すのも当然であるし、この答えだってサンクレッド自ら叩き出したものではない。何気ない他者の一言に合点がいっただけだ。これが数多の女性と色恋に親しんできた男の成れの果てかと、我ながら情けなくなりながら、しかしやっと手に入れた結論は譲歩でも折衷でもない。
サンクレッドは、改めて膝をつくと、彼女の顔を見つめた。少しだけ不満は感じているもようだが、話を聞く気にはなってくれたらしい。嗚呼、また許されてしまったなあと小さく笑って、彼は静かに言葉を選び始めた。
「お前を、……いちばんにすることは、出来ない」
暁の英雄。救世の使徒。光の戦士たる女。この世界のために力を尽くしてきた彼女だから、せめて彼女が心寄せる者から相応の想いを返されて、世界で一番大切にされなければいけない。サンクレッドは今もそう思っているし、守りたいものを多くを抱え込んだ彼にはその役目が相応しくないことも分かっている。そしてそうと伝えなければ、これから告げる何もかもが嘘になることも。
愛しい女に簪を贈ることも思い至らない、愚かな男だ。サンクレッドは、美しき怪物を縛るに足らない。それでも。
「……それでも、一緒に生きていくなら、お前が良い。お前の優しさに漬け込んで二の次にするだとか、都合が良いからとか、そういうことじゃない」
恋人と呼ぶにはあまりに熱烈さが足らず、仲間の延長線上にしては近すぎて、身体の関係と言い切るには情が深すぎる。────では、夫婦なら。
「お前を、隣に置いて、生きてみたい」
家族という枠組みの中、血ではなく心で繋がる絆なら、どうだろう。世界で一番ではなくて、世界で唯一ならば。背に庇われるだけではない彼女が、共に歩み、守るものであれば。サンクレッドが駆け出すときに、軽々隣を走ってくれる彼女であれば。
「俺の……いちばん大事なものを、お前と一緒に持っても良いんだと、思ったんだ。押し付けたり背負わせたりするつもりはない、ないんだ、そうじゃなくて……安心を、したんだ。同じように、大事にしてくれるから」
だって彼女はあんなにも嬉しそうに、娘たちへの贈り物を選んでくれるではないか。サンクレッドにとっての宝物は、彼女にとっての宝物でもあると、以前そうと言われたことを、今になってやっと咀嚼できたのだ。
たどたどしく形を成していく本心は、しかし何だかそっくりそのままではないような気がして、いやに焦る。背中は汗で濡れてきているというのに、喉ばかりがざらついて、サンクレッドは唾を飲んだ。格好が悪い。口が回らない。彼女が目を大きく見開いたまま、何も言わず聞いてくれていることが救いだった。
「勿論、その、それだけじゃない。お前の人柄を尊敬してるし……美人だと思う。だから余計に他の男にはやりたくなくて、ああ、くそ、」
苛立たしく前髪を掻き混ぜた。言葉を重ねれば重ねるほど、言い訳じみていて、ふてぶてしくて、もどかしさに涙が出そうだった。どうしてこの想いのままを伝えられる気がしないのだ。眩しさに目を細めるような、柔らかな花弁に触れるような、確かにそんな美しさを感じているはずなのに、ほんの少しさえ表せない。
それでも、言葉にしなければならないのだ。言わずとも理解してくれることに甘えているばかりでは、形にならない心の一欠片すら渡してやれなくて、胸の内の真実なんて伝えられようもなく、それでは無に等しいのだ。
恋も執着も。庇護欲も、支配欲も、征服欲も、独占欲も。絶望も、切望も、希望も。このひとの姿に見る光を。正しさに怯えながら、過ちにおののきながら、どうしようもなく握り込めた心の欠片たちを、そうと呼んで良いのなら。
サンクレッドは深く息を吸い込んだ。
「愛してる、」
石みたいに凝り固まった言葉が、唇から転がり落ちた。喉を傷付け、舌の根を裂いて、痛みに震えながら吐く、しゃがれた精一杯だった。
「俺の嫁さんになってくれ!」
肺の収縮だけでは吐息にすらならないから、五臓六腑からやっと絞り出す、切なる叫びだった。
────鯉の尾鰭が水面を打つ、涼やかな音が聞こえる。
やっと泣き止んだはずの彼女の瞳が、盛大に湿ってきたので、サンクレッドはぎくりと肩を強張らせた。大振りの真珠めいた涙がほたほたと落ちていくのに、今回ばかりは触れるのを躊躇う。
「……す、まん。……嫌だったら、」
「ばかやろう!」
日和ったサンクレッドの脛を、彼女の鋭い蹴りが捉えた。くぐもった呻き声が上がる。普段盾役をしているサンクレッドとはいえ、防具もつけていない急所を、底の固い下駄で蹴られたらさすがに痛い。文句のひとつは許されるだろうとサンクレッドが口角をひくつかせていると、彼女の柔らかな重みが肩にのしかかってきた。
「こっ、……この期に、及んで、誰が……だれが嫌だ、なんて」
震える細い指がサンクレッドの背に回って、くちゃりと着物を握り込んだ。応えるように彼女の体を抱き込めると、彼は鼻先をその髪に差し込む。
「あんたみたいな、朴念仁のお嫁さんに……私以外の、誰がなりたがるっていうんだよ……!」
オールドローズの花束を抱えているみたいだ。彼女の文句めいた口振りの行き先が、YESであることを悟って、サンクレッドはじわりと眦を和ませる。
「何でも考え込んで、背負い込んで、ばか、サンクレッドの大馬鹿者。……ばかみたいに優しいから、大好きだって言ってるじゃないの」
いよいよ笑い声を立てると、男は歓びのまま妻を抱き上げ、くるりと一回転踊ってみせた。知っている。知っていたのだ。彼女がこの答えを気に入ってくれることを、どこかで確信していた。だって彼女は、サンクレッドを慕ってくれているのだから。
涙みたいに、雨みたいに降り注ぐ慈愛が、渇いた喉を打って潤わせる。一度発することのできた言葉は、ずっと素直で滑らかに舌の上を通り、彼女の角へ真っ直ぐ向かった。
「……愛、してる」
重ねるたびに、連ねるたびに、歓喜と衝動の輪郭が確かとなっていく。
「愛してる、 」
サンクレッドは、込み上げる万感の思いを乗せて、彼女の名を呼んだ。
「俺と結婚してくれ!」
「はい!」
嬉しそうに笑った彼女が、はっきりと頷いた。陽光と同じくらいに眩しく破顔して、サンクレッドに角を寄せる。ざらざらと髪に擦り付ける、愛着の仕草だ。
「私も。……わたしも、愛してる、サンクレッド」
彼女の声が、サンクレッドの頬に染みていく。甘やかな吐息を追って、眼差しを絡め、今触れることのできる中で一番柔らかな皮膚をお互いに目指した。
顔を守るように聳える角があるおかげで、彼女の唇に触れるのは容易ではない。真正面から見つめあって、探るように額を重ねて、慈しむように鼻先を合わせて、サンクレッドの頬を擦る丸い尖端を感じながら、そうしてやっとキスをする。彼女がこちらを向いていてくれなければ出来ない行為だから、愛されていると自信が持てる気がして、このまどろっこしさが好きだった。
「さっきの店で、簪を贈らせてくれ。お前に似合いそうなやつを選ぶから」
サンクレッドが唇を重ねたまま囁けば、彼女は頷く代わりに、ゆっくりと優しく瞬きをした。
時候の花はすでに紫陽花から向日葵に代わる頃。季節外れのうぐいすが、キュルキュルと下手くそな求愛を歌う声が聞こえる────否。断じて鳥の声ではない。くちゃくちゃに泣いて化粧を剥がした彼女が、空腹を訴える虫を鳴らしたのだ。まさか自分が出した音だと思わなくてすぐ理解できず、女傑はまるで呆けた童女みたいにぱちぱち瞬くと、事態を理解して、恥じらって、サンクレッドの肩口に額を埋めた。
彼女の背を宥めてやりながら、サンクレッドは、そういえば昼食を食べ損ねていたことを思い出す。それどころではなくなってしまっていたため忘れていたが、買い物をしながら、何が食べたいか考えようとしていた、はずだ。蕎麦か。寿司か。お好み焼きか。道中見かけた店の看板を思い返していれば、一世一代の大告白を終えて安堵した彼の腹からも、それはそれは元気で現金な音が響いた。
世界中から呆れられたような、短い沈黙のあと。
「…………先に腹ごしらえにするか」
「……そうしよっか!」
ふたりは可笑しそうに笑い合うと、鼻先を触れ合わせた。確かめるように、誓うように、慈しむように重ねる軟骨同士だ。
互いのためにばかり生きられはしないが、互いの背を押し合って生きていける。隣にある命と駆ける、そんな在り方を、愛と名付けよう。
からり、からり、下駄が石畳を打ち慣らす軽やかな音が、クガネの町並みに響き渡った。