春告鳥は鳴かず飛ばず

 第七霊災以降、クルザスの地はとこしえの雪山へと変貌した。砕け散った月の衛星ダラガブの破片が、流星のごとく降り注いで地を抉ったために、エーテルを乱し異常気象さえ及ぼしたのである。しかしそもそもクルザスは、夏の短い冷涼な高地だ。千年続く竜との戦争に備えた石造りの城壁は、厳しい寒さから人々を守る家の役割も果たしていた。奇しくもその伝統的な建築が、万年雪の殺意から、イシュガルドの民を逃がしていたのである。
 特に、建国に携わったという古の騎士の血筋、四大名家の屋敷ともなれば、強固かつ万全だ。煌々と燃える暖炉の火の熱が、石壁を伝って建物全体を温める仕組みが備わっており、屋内に在りさえすれば凍えることはない。
 その恩恵を受けながら、温もりの中で胡座をかくことなく、危機の前には死の銀世界へ駆け出すのが騎士たる所以か。壁の内側こそ温かいが、外は氷点下。まさにこの国の人々の気性を表しているようだと、サンクレッドは町並みを見下ろしながら、ひっそりと笑った。
 凍えながら守られる民と、誇りに体温を奪われる騎士。つい最近まで教皇トールダン七世が君主として治めていたイシュガルドの形は、未だ歪だ。隠蔽された裏切りの歴史、偽りの建国神話、謂れのない貧富の差────しかし全てが暴かれた今、皇都は民主制へと移行し、ドラゴンたちとの対話を始めようとしていた。不器用で不格好ながらも、新しい未来へと、融和の時代へと、戦の哀しみなき希望の道へと歩み始めたのである。
 きっとこの道が、あの子の夢見たエオルゼアの救済へ繋がってゆくのだろう、と。サンクレッドは眇のヘーゼル・アイを淡く細め、その足をフォルタン伯爵邸へと向けた。

 明日はいよいよ、聖竜の眷属であるヴィゾーヴニルを招き、人と竜との和平を宣言する記念式典がある。そのためか、月が夜空の天辺を過ぎる頃だと言うのに、イシュガルド都市内は何処と無く気忙しい様子だった。かくいうサンクレッドも、今宵は何故だか落ち着かず、見回りを兼ねて皇都を散策していたのである。
 堅牢にして壮麗な石造りの街、イシュガルド。かつてエオルゼア軍事同盟より脱退した後、異邦人の侵入を許すまじと固く門戸を閉ざしていた山の都を、こうして歩き回ることが出来るのは感慨深かった。忌々しくも仕組まれた戦勝祝賀会から向こう、サンクレッド自身も生き延びるために必死の毎日を送っていたが、この地で再起を図ってくれたアルフィノやタタル、そして我らが英雄の苦難はそれ以上だ。絶望のさなかで氷雪の高地へと逃れながら、希望の灯火を繋ぎ続け、その貢献がより良い明日を招きつつある。そのことを、誰よりも喜んでくれるだろうミンフィリアが────サンクレッドが愛し、慈しんだ妹が、此処にいないことだけが切なかった。
 あるいは、彼女と離れ離れになってしまった水路を思い出すから、気がそぞろになるのかもしれない。あの時も、世界が善に傾いていると信じていて、己の油断と無力を突き付けられるように手酷く裏切られた。今回の式典はめでたく終われば良いのだが、と考えて、サンクレッドはゆるく首を振る。自分がそんな目に遭ったものだから、過敏になっているだけだと信じたい。そうでなくてはならない。少なくとも、ここまで歩み続けてきた仲間たちの肩は、解れなければいけない。

 思考を宛てなく漂わせながら戻ったフォルタン伯爵邸は、微かな明かりと、少しだけ冷えた静寂に包まれていた。この分ではとっくに皆休んでいるかもしれないな、と考えながら、不寝番の兵に軽く挨拶をして、サンクレッドはふと応接間に気配を感じ取った。誰かが起きている。
 足音を殺して入り込んでしまったことをふと反省したので、何気なく靴裏で絨毯を掻いて、その何者かに居場所を知らせ、そしてサンクレッドはその直感と機転を心の内で自賛する。ほとんど燻るだけの薪が鈍く光る暖炉の前、ソファの上で膝を抱えていたのは、我らが光の戦士たる女傑だったからである。
 生きて動くものの音を的確に感知した彼女は、野生の鳥獣がごとき俊敏さで顔を上げた。もし近くで脅かしていれば、素っ首を叩き折られていたかもしれない。焔のごとき眼光に閃いた殺意が、サンクレッドを捉えた瞬間、ぷすりと鎮火していくのを眺めていた。

「……なぁんだ」

 つまらなそうな彼女の反応だが、声には安堵が随分混じっていた。敵ではないと判断すると、彼女は何だか満腹のドラゴンみたいに、その白鱗の尻尾ごと、おっとりと丸く座り直して暖炉に向き合った。足元にはきちんと並べられたスリッパがある。

「ごめんね。少しだけ、気が立ってるのかも」
「構わないさ。だが……」

 サンクレッドは彼女に歩み寄ると、窺うように顔を覗き込んだ。
 ことん。いよいよ火種は尽きたのはその仕草と同時で、焼き切られた炭が灰の上に寝転がる音が、静寂へじんわり溶けていく。

「……薪、足すか?」

 光の戦士であるアウラ・レンの女は、いつも顔が青白い上、あんまり苦痛を表に出さなくて────それどころかサンクレッドの前では、にこりと笑うことすら珍しくて────だから彼の観察眼を以てしても、彼女の調子や気分を読み取るのは難しい。ぺとり、と先だけソファに跳ねた尾が、何を申したいのかも分からない。
 すっかり静かになってしまった暖炉は、それでも余熱で少しばかり温かく、じっとその前に居座ったままの彼女は、やっとサンクレッドへ視線を移してのんびり首を振った。

「良いの。もうすぐ寝るから」
「……冷えたから暖を取ってたんじゃないのか。ちゃんと温まったか?」

 寝支度を済ませたのは真実なのだろう。いつもの旅装ではなく、質の良いガウンに身を包んだ彼女からは、清潔な香りが上っている。きちんと湯浴みをしたのだろうが、アウラ女性の中でも特に小柄な彼女では、体温を保ちきれなかったらしい。膝を抱えて、靴下をはいた爪先を握り込む姿には、このイシュガルドにおいて救国の英雄と呼ばれる勇ましい面影なんて少しもない。頼りなく、あどけない、ただの女のようだ。
 ただの女、なはずがあるか。サンクレッドの知る限りでも、蛮神を屠り、アルテマウェポンを破壊し、あらゆる猛者に膝を突かせた暴力の権化だ。災害めいて大暴れする様を近くで見ることもあるから、今更そんな誤解はしないが、こうも大人しい爬虫類みたいに振る舞っていると────なるほど、とサンクレッドは小さく息を吐いた。これは、放っておきにくい。
 どう答えるか迷う素振りを見せている彼女の右横に腰かけると、サンクレッドは両の手を差し出した。答えなんて、迷った時点で決まってるようなものだ。彼女の視線が、彼の手へ、それから顔へ向けられて、もう一度手に戻った。意図を理解したのか、観念するような吐息が溢れたあと、足先から離れた細い手指がサンクレッドの掌に重なる。予想通り、しんと冷えていた。

「……体に障ったらどうする」

 サンクレッドは、唸るような低い声をあげながら、彼女の指をそうっと握り込んだ。
 和平式典という、変化する時代の象徴たる祝事を前に、風邪なんか引かせて倒れさせるわけにはいかない。彼女という光の戦士は、暁の灯火たる希望の姿で、イシュガルドをここまで導いてきた立役者で────そうでなくたって彼女は、サンクレッドの恩人で、ミンフィリアのともだちだ。寝付けないほど冷えているなら、彼女自身のために薪を使ったって文句など言わせないし、言われようはずもないだろうに。
 案ずるあまりにきつい物言いをしてしまったかと、サンクレッドは手の上に招いた冷たい指を擦りながら彼女を観察する。されるがままの女はといえば、特に堪えた様子はなくて、不思議そうにサンクレッドの手を眺めていた。

「あんた、手あったかいね」

 応答は明後日の方向から、急カーブで投げ込まれた。

「……あのな」

 忠告に聞こえていなかったのかと、サンクレッドがじろりと眇を細めると、彼女はゆるりと首を振る。

「話を逸らそうとしたんじゃないの。ただの感想。さっきまで外にいたんでしょう?」

 アウラ族特有の、エーテルを含んでじっとりと光る瞳が、彼の体温に快く蕩けた。

「なのに熱いくらい。体温高いのね」
「……元々高い方なんだ」

 日向ぼっこでもしているような穏やかさで言われてしまうと、どうにも、たしなめきれない。サンクレッドは短く応じると、口を閉ざして黙々と、せめて彼女の氷柱みたいな指を温めようと擦り続けた。
 人より身軽なサンクレッドの体は、当然丈夫な筋骨を持つ。時に擬態する梟となり、時に獲物を追い続ける猟犬となり、時に縄張りを守る獅子となるための血潮は、いつでも燃えて巡っている。そのため保持する熱は高く、寒さにも強い方で、この鳴り止まぬ生き意地汚さに救われたこともいくらかあった。
 サンクレッドの手の中で、彼女が微かに熱を握ろうと指を動かす。

「凍えて死んでしまった女の子がいたのよ」

 何気ないように囁く彼女の声が、天井に溜まった冷気を裂いた。雪のように肩に落ちかかる静寂を感じながら、サンクレッドはつい手を止めて、光の戦士たる女の表情を覗く。相変わらず心中は分かりにくいが、薄明かりの中に浮かぶ瞳の色が、僅か翳ったようだった。

「雲霧街はまだ物資が行き届いてないでしょう。だから、……気が引けて。…………少しだけ」

 何度目かも分からない溜め息を吐いて、サンクレッドは彼女の手を包み直した。武器を握るはずのその手は、小さくて、肌どころか鱗まで滑らかで、冷たくて、ダイヤモンドで造られた人形のようだなあと、何処か呑気なことを思っていた。

「……変な遠慮をしたって、亡くなった命が戻るわけじゃない」
「うん」
「まだ生きているお前が、寒がってたって仕方ないだろう……」
「うん……」

 サンクレッドから注がれる苦言に、光の戦士たる女傑は、何だか大人しい童女みたいな緩慢さで、こっくりこっくり頷いた。何も彼女を責めようなんてつもりはサンクレッドになく、彼女も心配されているだけと分かっていて、分かっていても応えられないから受け止めるままなのだ。
 彼女は英雄で、壁の向こう側で倒れた誰かを悼み、自身を温める炎で誰を救えただろうと考えてしまうから。
 何もかもが違う。苛立たしく舌打ちしそうになるのを、サンクレッドは堪えて奥歯を噛み締めた。真っ直ぐ進めよ、と。そう言ったのは彼自身だ。それは身や心を切り崩しながら茨道を選べという意図ではない。優しいばかりに、背負うばかりに、ひとりで傷付いてくれなんて言っていない。
 英雄であれと望むばかりに、ミンフィリアが望んだ世界を求めるばかりに、人知れず微かな熱にすがるこの手を、誰もが蔑ろにしてはいないか。自分もその他力本願の当事者ではないかと、自身にさえ腹を立てながら彼女の顔を見つめて────その微笑みが、あんまりに柔らかいから、サンクレッドは閉じた唇の奥に言葉を飲み込んだ。
 彼女は英雄たる境遇を嘆くどころか、気に留めてすらいないのだ。彼女は誰より強い光の戦士で、今は凍えていないから。
 サンクレッドは、鳩尾に滞る鬱憤を、長い長い息にして吐き出した。こんな怒りですら、彼女にとっては理解しがたい無意味なものなのだろうと肩を落とす。
 光の戦士たるこの女は、ミンフィリアと同じく、世界を愛おしいと感じるからこそ力を奮う。歩を進めるだけで荒野を広げるような、そうと願えば破滅を現実に出来るような、化け物じみた強大な力だ。その怪物の爪に、いつしか花が握られた。
 いたいけな者は当然庇護するものであって、そして彼女の前では騎士も子供も同じように脆弱なるものであって、それらを守る戦いに彼女の安寧と幸福があって─────だからその背に庇う弱き者から、まるで同等の存在みたいな口を利かれるなんて、背伸びする子供のいじらしさに微笑むのと同じに、ほんのりと愉快なことでしかない。
 高みより人の営みを見つめる、神なる獣めいた存在。彼女の慈悲に甘んじているだけの人間が、何故、『仲間』だなんて言えるだろう。

「サンクレッド?」

 不思議そうな彼女の声を聞きながら、サンクレッドは重く項垂れるまま、細い指を包む手に額に寄せた。祈るような仕草は、神頼みのつもりではない。

「……理解できるかどうかと、呑み込めるかどうかは、違うよな」

 それは、今温められなければならない彼女に宛てた言葉でもあるし、無力を痛感するサンクレッド自身にも向けた言葉だった。いつか────いつかきっと、この小さな怪物の横に立とう、もっと望むならその前にすら躍り出て、背に守られることを教えてやろうと、誓う独白がほとんどだった。
 光の戦士である女は、彼の様子をじいと見つめていた。表情の分かりにくい彼女だが、眼差しはもう少し分かりやすいということに、サンクレッドが気付いたのはこの時である。顔を上げれば、彼女のまあるい瞳が、問うようにこちらを見つめているから、笑ってみせて首を振った。彼女は彼女なりに、どうにか肩を並べようとする愚か者を理解しようとしているのかもしれない。

「……温まれそうか?」

 サンクレッドが訊ねれば、アウラ族の女は、ゆらゆらと曖昧に頭を揺らした。今の素振りも何となく読める。今の状況を図ったのだろう、生き物が自然と身に付けているクエスチョンのジェスチャーだ。

「うん、……でももう良いよ、悪いから。あんたも、もう休むんでしょ」
「……俺も、目が冴えててな。お嬢さんを寝かし付けてから休むさ」

 いつか色男ぶっていた時のように、サンクレッドが半ばおどけて肩を竦めると、今度は彼女が明らかに首を捻って唇を綻ばせた。これは、少し呆れている、気がする。
 榛色の右目だけで微笑むと、サンクレッドは左手の上に恭しく彼女の十本指をまとめて、空いた右手で膝をぽんと叩いた。

「……何?」

 その、いかにも優しげな仕草の意図を解せず、彼女が微かに強張った声を上げる。

「ここに、足乗せてくれ」
「は?」

 低く威嚇のような音が押し出された。と同時に、光の戦士たる女はサンクレッドの手から指を逃すと、警戒したみたいにソファの端まで身体を引いた。今しがた角に届いた彼の言葉を、もしかしたら聞き違えたのかもしれないと、彼女は忙しなく瞬きをした。

「な……、……なに?」
「足を乗せてくれ」
「本当に何?」

 聞き取りやすいよう明確な発音で繰り返したサンクレッドから、彼女は仰け反るように距離を取る。何処の世界に、言われて素直に、男の膝をオットマンにする女がいるのだ。英雄とはいえ厚顔無恥の貴族ではないし、彼は奴隷ではない。親密な触れ合いをする仲でもない。誰かに見られたらどう言い訳をしようか考えなくてはならないような体勢に、何故いざなうのだろうかと、彼女はサンクレッドのヘーゼル・アイを抉り込むように睨んだ。
 彼もそこまで拒絶されて、やっと自分の提案が少しばかり歪なことに気付いたのだろう、しかし何だか面白がるような軽やかな調子で喉を鳴らして、白銀の髪の先を微か揺らした。

「考えてるような変な真似はしないさ。その様子じゃ、足も冷えてるんだろ?」
「……それは変な真似じゃないの?」

 じとりと、女傑は瞼を半分下ろして、狭く明瞭な視界の中にサンクレッドを見た。彼の手は今、膝の上で彼女を手招いていて、おそらくその指で爪先をくるんでくれるつもりなのだろう。
 この男とは、この距離感で良いのだろうか。光の戦士たる女は、サンクレッドのかさついた手のひらの皮膚を見つめた。
 あんまりに近すぎやしないか。例えばこれが、ミンフィリアであれば、彼がそうする理由も必要もあったかもしれない。けれど自分は、家族じゃない。妹ではなく、姉でもない。他人と呼ぶには関わりすぎて、しかし彼の献身を穏やかに受け取れるほどの時間は過ごしていない。想いもない。信頼は未だ難しいが、信用のおける、腕の立つ冷静な男。ただそれだけの彼が、可愛い妹から暁の灯火を託された化け物のために、その手で温めてくれるものなのか。
 尻尾の先まで緊張させた彼女の様子に、サンクレッドは苦く笑いながら、膝の上で手持ち無沙汰な指を、ゆっくりと開閉した。

「お前がそう思うなら、変な真似になる」

 光の戦士は顔を上げた。揶揄われたのか、挑発されたのか、あるいは委ねられたのか判断できなかったからだ。
 薄明かりの中でこちらを見ているサンクレッドは、淡く笑んでいた。小馬鹿にしている様子も雄の発するいやらしさもなく、ただ小さな生き物を怯えさせないようにと、辛抱強く待ち続ける眼差しであることが不可解だった。
 もう一度、膝の上の指が招くから、彼女はその手の体温が心地好かったことを思い出す。思い出したから、釣り上げていた眦が、春めくような温かさを思ってまあるく和んだ。サンクレッドが指摘した通り、確かに足先は比でないほど冷えてしまっていて、少し痛みさえ感じるほどだ。暖炉の残り火では癒しきれなかったが、この人間の持つ熱を借りることができたら、どんなにか、救われるだろう。
 彼女はしばらくサンクレッドの手を見つめていたが、そのうち行儀悪く、尻をずりずりと擦るようにソファ上を移動して、傍に寄った。靴下をはいた爪先を軽く丸め、そいつでちょんと男の膝に触れる。彼は何にも言わず、目を細めるばかりだった。ちょん、ちょん、と確かめるように幾度か触れて、彼女はやっとその足を、サンクレッドの膝の上に落ち着ける。ガウンの裾に彼が触れたので、ギクリと肩が強張ったが、出ていた足首まで布を引いて隠してくれただけだった。
 サンクレッドの両手が、彼女の小さな爪先を包む。

「……冷たいな」

 氷の塊と違えるほどの低温に、サンクレッドは低く声を上げた。本当に血が通う人間の身体だろうか。冷えとは程遠い体質のサンクレッドは、血行を促すよう爪先を揉みながら首を傾げる。

「いつもこうか?」

 問いながら、サンクレッドは目線だけを女傑に向けた。一度預けてしまいさえすればもう接触は気にならないのか、彼女はゆっくりと瞬きをしながらソファの背にもたれている。無用の警戒もしていないようで、彼にはそれが、現時点で引き出せる最大の信頼のように思えた。

「ううん。今日は……」

 彼女が僅か言い淀んだのは、気付かないふりをする。言いたくないことなら最初から応じないだろう。ゆらゆらと彼女の頭が揺れる。

「……いつもは、温まったらそのまま布団に入るの。でも今日は……落ち着かなくて、つい歩き回っちゃって」

 靴下ごしに感じるサンクレッドの指に、彼女は器用な爪先を丸めて添わせ、手と足の指先を繋いだ。冷えて強張った皮膚に、じんと熱が染みていく。

「…………たぶん、祝賀会の時を思い出すのね」

 光の戦士たる女傑の、心細い声に、サンクレッドは顎を上げた。薄明かりの中で彼女と視線がかち合って、パチリと、火花が弾けた心地がした。エーテルでじっとりと光る彼女の瞳は、蛇のそれみたいに底深くて、しかし今更不気味だなんて思わない。────綺麗だとさえ、感じた。

「……俺も、」

 彼女の声音に、不安と呼べる心を見付けたから、サンクレッドも自分が不安を感じていたのだと認められた。あの時のように失いたくはないから、目を光らせ、耳をそばだてて、跳ねる指先ひとつにさえ気が抜けずにいて、だから眠れなくなる。

「…………俺も。似たようなことを思ったよ」

 サンクレッドが笑うように吐き出した白状が、転がって彼女の爪先に触れた。

「…………、……そう」

 彼女は俯くサンクレッドの横顔を見つめたまま、それだけ相槌を打った。もしかしたら案外近い場所にいるのかもしれないと、そう思ったのは彼女も同じで、だからふと彼の黒布に覆われた左目が気になった。サンクレッドに対する興味の延長上、ささやかな好奇心だ。
 蛇の頭みたいな静けさで、光の戦士たる女傑の指がサンクレッドに伸びた。彼の視界は不自由なはずだが、こちらに向かう無邪気な気配は察せられたのだろう、僅かに鼻先を上げるがそれっきりで、サンクレッドは黙々と女の足先を温めている。
 おそらく、許されているのだろう。彼女の手がさっと眼帯代わりの黒布を奪っても、長く伸びた白銀の前髪を耳にかけてやっても、サンクレッドは不意に頬に当たる冷たさに眉根を寄せるだけだった。

「こら。悪戯だな」

 咎めるというよりは、やんちゃな生き物をたしなめるような調子でサンクレッドは笑う。露になった彼の左目は、元来の榛色がころりと抜け落ちて、水晶みたいな青が残っている。
 その青い色に覚えがあって、彼女は唇を震わせた。

「……ミンフィリアと同じ色」

 彼の横顔が小さく頷く。
 最初はエンシェントテレポの影響かと考えたのだが、話を聞けばサバイバル生活の最中の負傷であるらしい。おそらく頭部への強い衝撃、あるいは目そのものへのダメージで、眼球の一部が傷付いたのだろう。
 自力でのエーテル操作が出来ないため、自己回復には至らずそのままとなってしまっているが、癒し手と合流した今ならば治せるはずだ。

「治さなくて良いの」
「……ああ。今は良いんだ。そんなに困ってはいないし」

 彼の返答もその理由も分かっていながら、それでも彼女は『暁の血盟』に与する同志として訊ねた。彼は問題ないと言うが、本来なら、エーテル操作能力に加えて視力の半分も失っている現状はよろしくない。彼の並々ならぬフィジカルとセンスがかろうじて実力を支えているだけであって、治療し、視力だけでも戻れば、限りなく本来の力にまで戻せるはずなのだ。

「あの子の瞳の色を、忘れないでいられる気がするんだ」

 けれどそれが、今のサンクレッドの理由で、彼女もひとことに愚かと撥ね付けることが出来なかった。人の記憶は薄れてしまう。だからせめてこの時ばかり、魂にその青が焼き付くまでは。

「…………そのうちには、治さないとダメだからね」
「分かってる」

 分かっているのだ。サンクレッドは、深く頷いた。いつかこの英雄の前を目指すのなら、自分の色を取り戻さねばならない。しかしそれを今にはしたくない。彼の心を読み取ったみたいに、あっさりと追及をやめた光の戦士へ、サンクレッドはほんのり口角をあげた。

「……ありがとうな」

 情けなく未練にしがみつくなんて、戦闘員としても諜報員としてもあるまじき浅短だ。サンクレッド自身も理解している。『暁の血盟』随一のつわものである英雄からしてみれば、彼の悔いも憂いも先に進めぬ腑抜けの言い訳でしかなく、しかし彼女は、決して詰りはしなかった。戯れるみたいに奪った黒布を、まるで宝物を閉じ込めるみたいに、改めてサンクレッドの左目に巻き直して笑ったのだった。彼女の笑顔というものをこうも真っ直ぐ向けられた記憶はあまりないが、ずっと前から、よく知っているような表情に思えた。微か体温を取り戻した細い指が、眼帯代わりの布ごしに、彼の左瞼に触れていく。
 交わす言葉はそこで途絶えて、沈黙の帳が下りた。ごうごうと自身に流れる血の奔流と、互いの息遣いだけが聴覚を伝う。時折サンクレッドが小さな爪先を軽く握るものだから、彼女は応えるように足指を動かして、その声なき会話はしばらく続いた。不揃いの双剣を操る彼の手は、指の腹の皮膚が硬化して厚く、関節が太い。少しだけかさついていて、爪が短くて、それから────それから、とても熱かった。

「あったかい」

 雪解けに零れ出す、ささやかな春の水みたいな、微睡みの声だった。光の戦士たる女傑は、注ぐ陽射しに喜ぶ少女みたいに、おっとりと目を閉じる。塞いだ視界の向こう側で、サンクレッドがふっと微笑んだ気がした。

「寝るなよ。……寝室まで運んでも良いなら構わないが」
「えー。んー。ちょっと嫌だな」

 彼女はぱっと瞼を上げると、この爪先を包むサンクレッドの指を名残惜しく見つめた。先程よりは随分と温まって、血が巡っているのを感じる。鈍く肌を刺すような痛みも引いた。だから、そろそろお仕舞いだ。快く体温を分けてもらったためか、淡く眠気が上ってきていて、自覚した途端にふかりと欠伸が出る。
 最後に一度だけ、サンクレッドの手の中で足指を丸めた。彼の親指が、すり、とひとつ撫でてくれて、それを皮切りに手が離れていく。サンクレッドよりうんと冷たい空気がひやりと爪先に触れるので、熱を失う前にスリッパへと足を捩じ込んだ。

「ありがとう、サンクレッド」
「お安いご用さ。……ゆっくり休めよ」
「うん」

 眠たげに白鱗の尾をしならせると、光の戦士であるアウラの女は、のったりのったり応接間から出ていこうとする。扉の前で改めて振り返り、薄明かりの中に男の姿を捉えると、よく見ようとして目を細めた。

「おやすみなさい」
「……ああ。おやすみ」

 短く言葉を交わして、彼女は宛がわれている部屋の方へと姿を消し、サンクレッドはひとり応接間に残った。榛色の眇が、火の消えた暖炉に向けられる。そうしてしばらく眺めながら、彼は何度か、彼女を温めていた手を開閉する。冷たくて、小さくて、女らしく柔らかい、あの足の何処に大地を踏み込む力があるのだろうと考えていた。
 やがてサンクレッドもソファから立ち上がると、音なく自室へと向かい始める。いつの間にかその胸の内は、雪原の星空みたいに凪いで、穏やかなものだった。
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