春告鳥は鳴かず飛ばず

 ベスパーベイの空は、ザナラーンの何処より青い気がした。
 そうというのもまず、其処に至るまで荒野には、黄色い砂が絶えず天高く吹き上がって、景色は煙りくすんで見える。そしてホライゾンから続く昇降機の道は、積み荷が多く行き来するために狭く、続く先は朽ちた遺跡と煉瓦のトンネルで、頭の上が低く感じた。
 それらがもたらす閉塞感が、この集落の門に立ってやっと、海めがけて抜ける風に飛ばされてゆくのである。砂漠色の家々の壁をなぞるように視線を上げて、その向こうに一層鮮やかな蒼穹を見つければ、自然と顔も日射しに明るくなる。だから『砂の家』まで赴くこの道は、面倒であったが、好ましくもあった。
 数奇な巡り合わせの果て、意図せず流れ着いた場所も、幾度か通えば慣れて親しみを持つ。『暁の血盟』────エオルゼアの政治や文化に詳しくない自分であるからか、どうも彼女らが掲げる“救済”という言葉は、抽象的で、的を射ず、実体のない陽炎のようだと感じていた。ただひとつ確かなことは、此処に集う人々は、この地を、ここで生きるものを心から愛しているということだけ。愚かに思えるほどお人好し。虹の根を追う童女みたいに、純粋のくせ、しぶとい。腕が良いだけの冒険者によくも心預けるものだと呆れもしたし、持ち上げるだけ持ち上げて何かをさせたいのだろうと疑って、それでも彼女たちが眼差す未来と意思には光満ちていると感じられたから、つい爪先がそちらの方に向いた。

 『砂の家』は今日もいつも通り賑やかで、新鮮な武勇伝やら、煮詰まった愚痴やら、混ぜ返したゴシップが飛び交っている。軽く挨拶をすれば、気圧されるほどの好意たちを文字通り面に食らって、表情筋をくちゃくちゃにしながら逃げ出す勢いで奥に向かった。その場その場を何とか掻い潜ってきただけだと言うのに、向けられる感情が、どれも偽りなく温かいから、この場所は少しだけ頬が痒い。
 落ち着かない鼻先や額を掻きながら歩を進めるのは、この『暁の血盟』の盟主がおわす部屋だ。『暁の間』と呼ばれる其処は、彼女の書斎というには広すぎて、盟員たちを集めるには手狭だ。しかし飾られた杖の場所からは、賢人各々の顔がよく見えるから、もしかしたらちょうど良い部屋なのかもしれない。
 ノックをして入室したつもりだが、何やら書類に夢中でかじりついている彼女には聞こえていなかったようだ。ちょうど、ザナラーンに注ぐ午後の日射しみたいな金色の髪。文字の上を滑る目の色は青く輝いていて、先ほど見た空によく似ていた。ミンフィリアと呼ばれる女性は、しばらくそうして紙とにらめっこをしていて、何かしら書き付けようとしたのだろう、手で机上のペンを探して、いつもの場所になくて顔を上げ、そうしてようやくこちらに気が付いた。悲鳴一歩手前の、驚いた声が上がる。

「あっ……あなた、いたの? いつから?」
「さっきから。長い時間じゃないよ」

 大げさに肩を竦めてみせると、ミンフィリアは安心したのだか照れたのだか曖昧にはにかんで、握りしめていた書類を置いた。何事かの資料だろうか。見れば机の上は、嘆願書だの、報告書だの、礼状だのまで重ねられていて、『砂の家』と同様に大変賑やかな有り様だ。

「声をかけてくれれば良いのに」
「ノックはしたの。返事がないから、何かあったかと思って」
「嫌だわ。つい熱中してしまって」

 ミンフィリアは両の手で頬を挟むと、いけないわね、と首を振った。確かにこんな調子では、万が一敵襲があった時に、気付かないまま犠牲になってしまいそうだ。
 『超える力』を持つ以外、武勇に優れるわけではない、深く政治を知るわけでもない、迂闊で優しすぎるただの女。ミンフィリア。彼女ひとりで出来ることは数少なく、その割に、『暁の血盟』盟主として背負う仕事と重圧の比率は大きい。何気なく置かれた資料を覗けば、蛮神────いわゆるヒト以外と分類される“蛮族”たちが呼び出す破滅の神────それに関するものだと教えてくれた。

「どうしても今のうちに読み込んでおきたくて。気になる記述を見つけたから、関連しそうな本を送ってもらおうと思っていたのよ」
「また読み物を増やすつもり?」

 自分で思うよりも呆れた声が出たが、この紙束どもを見ればそうもなる。ミンフィリアといえば、悪びれたこどもみたいな調子で、誤魔化すように笑った。

「ちゃんと全部目を通してはいるのよ?」
「それは知ってるけど、そうじゃなくて。休めてる?」

 寄った眉根の下から視線を送れば、彼女は不思議そうに瞬きをしたあと、例の懐っこそうな顔で小首を傾げた。
 ────ミンフィリアにこういう顔をされると、何となく、二の句が詰まる。こちらのことを善人だと信じきって疑っていなくて、だから彼女の前でだけは、善人でいなくてはならないような気がする。不用意に責めるような、追いたてるような言葉を使いたくなくて、もちろん彼女はそんな意図なんかないと理解しているだろうに、それでもほんの少しだけ思索する間に、ミンフィリアが口を開いている。

「私は大丈夫よ。むしろ、あなたの方が心配だわ。いつも最前線を任せてしまっているし……先も、イフリート討伐があったばかりだもの」
「……ただ戦うだけなら楽だから。国も政治も貧富もそこにはない。全部叩き込んでやるだけ」

 結局、分かりやすい“良い人”を演じるのが気恥ずかしくて、悪ぶった物言いをした。

「自分の力が、対峙したものを屠っていくのは、気持ちが良いしね。興奮する。……私が好きでやっているだけだから、あんたが心配することないのよ」

 悪ぶった物言いをした、が、これは本心だった。自己研鑽といえるほどの綺麗な本音で技を磨くわけではない。ただ強く傲ったものを、より強い己が、野望ごと踏み潰してやるのが楽しかった。さながら増長したこどもの遊びだ。勝つことが分かっている。あるいは勝てることが分かっている。勝利に鬨の声をあげる一方で、何だか自分が、非情で残忍な生き物になった気がして────だからミンフィリアの青い瞳に見つめられるのは苦手なのかもしれない。透き通るような光の意思が、目の前の怪物を案じてくれるのを映すから。
 女性らしく華やかに紅をひいた彼女の唇が、笑った。

「それでも、あなたにはたくさん助けられているわ」

 伏せられた睫毛の、金色の輝きが、視界にちらつく。

「あなたはそうやって言うけれど……あなたのその戦いが、多くの人を救っているということは、事実よ。向けられる感謝も、ね」

 優しい声音に、そんなものだろうかと首を傾げて、いつの間にか自分がミンフィリアの言うことに聴覚を集中させていることに気が付いた。柔らかくて、ひとつも棘がなくて、差し出された分だけ内に入る。
 それが彼女の持つ『超える力』────言葉の壁を、心の壁を超えて相手と繋がる力の一端であるのか。あるいはミンフィリアの生来の特性なのかは分からない。ただ、彼女たちが掲げる玩具みたいな正義と同じくらい、甘くて温く、心地よい日向の言葉だった。
 自分がその感謝を受け取って良いのだろうか、と。喉に刺さって抜けない小骨のような、鬱陶しい躊躇の端っこが、僅かに良い方向へ溶ける。

「私は、……戦うことができないから。あなたの強さが、羨ましくもあるわ」

 そう言って笑うミンフィリアの顔を、眺めていた。
 彼女は非力だ。しかし、無力ではない。戦う力がないだけで、誰かのことを想い、誰かのために繋ぎ、誰かとともに走る力がある。その熱心な原動力が盟主を託された理由だろう。だから彼女が、こんな捩じ伏せるだけの力を、羨む必要なんかないのだ。
 なかば揶揄うつもりで、わざとらしく瞬きをする。

「相手を殺せる力が?」
「……今日は、何だか意地悪ね」

 ミンフィリアが、僅かに眉根を寄せて目を丸くした。気を悪くした、と言うよりは、“光の戦士”らしからぬ過激な発言に面食らったような顔だ。不意に頭の後ろを小突かれた反応にも似ている。してやったような気がして、いかにも悪い女のように、唇の両端を上げてみせた。

「もともと意地が悪いよ、私。あんたが知らなかっただけでしょう」
「……そう。そう、よね……」

 よくよく咀嚼するような調子で、ミンフィリアはしばし視線を落として、何事か深く考え込んだ。

「そういえば、あなたと落ち着いて話をしたことはないわね。いつも任務に行ってもらっているもの」

 真に受けてどうする。呆れた視線には気付かなかったか、彼女は、まったく無邪気で無垢で無害な調子で、ぽんと手を叩いた。

「良かったら、一緒にお茶でもどう?」

 満面の笑みも束の間。あっ。と声をあげると、途端に眉尻を下げて狼狽え始める百面相ぶりだ。先を促すつもりで首を傾げると、ミンフィリアははにかんで米神を軽く掻いた。

「タタルさんが買い出しに行ってて、何処に茶葉があるのか……こっちを読んでいる間に帰ってくるかしら……?」

 それとなく仕事を続けようとするな。落ち着かなさげに書類の端を弄るミンフィリアの手を掴むと、体の横につけさせて、直立させた。ぱちぱちと瞬いた、不思議そうな青い瞳が、こちらを見る。

「……私が淹れてくるよ」
「えっ?」

 その申し出に、ミンフィリアのすっとんきょうな声が上がった。

「あなた、厨房のこと分かるの?」
「自前のカモミールがあるから、煎じてくる。……戦うことしか取り柄がないと思った?」

 わざわざそういう態度を演じるまでもなく、不機嫌な声が出た。ミンフィリアときたら、いかにも意外だなんて顔中で言ってくれるものだから、この光の戦士には茶を出す程度の嗜みも似つかわしくないかと捻くれたくもなる。
 冒険者として、荒っぽい依頼をこなして日当を稼ぐ傍らで、いわゆる製作業や採取業にも手を出し始めた頃だった。戦うことも勿論好ましかったが、各ギルドで学ぶ人の技術はそれ以上の好奇心を刺激してくれたし、それまで武具しか持たなかった手が何かを生み出す力を持つ過程に、存外と達成感を感じていた。
 そしてカモミールを使った茶の淹れ方は、調理師ギルドから与えられたレシピを眺めている際に目に付いて覚えた。花を煎じるなんてお洒落で可愛いではないか。鎮静作用に、美肌効果、消化機能の改善など、嬉しい効能もたくさんあることまで分かったから、浮き足気味に高地ラノシアで採取して日干ししておいたのだ。
 学べば試してみたくなるし、知れば実践してみたくなるのが人のさが。この光の戦士も例に漏れず、何処か宿をとったときにでも試してみようと、小分けの瓶にカモミールを詰めていた。まさか、他人に振る舞う流れになるとは考えなかったし、そしてその事に驚かれるとも思わなかったのだが。
 じろりとミンフィリアを睨むと、彼女は慌てて首を横に振る。

「違うの、……いえ、半分はそうかも……だって、戦うあなたしか、知らないんだもの」

 それは、その通りだ。遺憾ながら同意を示して頷いた。先にも触れた通り、世界の平和を謳う秘密結社の盟主である彼女と、実力と実績のある冒険者に、世間話をする時間なんて用意されたことはなかった。起こった事態への報告のため、どんな相手を倒したかと語る必要はあっても、カモミールを摘んで干したなんて呑気な日常は共有するべくもない。
 ミンフィリアは、未だ丸い瞳に微か笑みを灯すと、小さく頷いた。

「早速あなたのことが知れて、嬉しいわ」

 心から喜んでくれていることは、彼女と同じく『超える力』を持つ自分でなくたって、その青い瞳を見つめれば察せられた。

「……へんなひと」

 だから、とてもとても面映ゆい気がして、視線を逸らしながら踵を返した。向かう先に言い訳があることが有り難かった。

「じゃあお湯だけ借りてくるから、その紙っきれども片付けておいてよ。……目は通さない。休む準備」
「ありがとう。……あ、そうだわ」

 呼び止められればうっかり進みが止まる。振り向かないわけにもいかず、胸中に残るむず痒い照れを押し込めて、渋々ミンフィリアを見た。彼女は思った通りに笑っていて、日向と同じように輝かしい。

「すっかり言い忘れてた。おかえりなさい!」
「…………うん、」

 今となっては、そうして帰りを迎える言葉も滅多に聞くことはなくて、しかも彼女が両の手を広げるような物言いをするから、余計にその笑顔が瞼に染みる。思わず、ほんのりと口角が上がるほどに。

「ただいま、ミンフィリア」

 そう応えれば、青い瞳がまた驚いたように瞬くから、今度こそ急ぎ足に『暁の間』を後にした。



 半ば逃げ込むように足を踏み入れた『砂の家』の厨房は、幸運にも人影はなく静かなものだった。いつも騒がしい拠点の中にも閑散とした場所はあるものかと、僅かな間、ひとり膝を抱えて遠い喧騒を聞いた。思えば進んで茶菓子を振る舞ってくれる者なんか、受付のタタル以外には思い浮かばなくて、だから此処を使う者も僅かなのだろう。
 ここは優しすぎる。柔らかな砂色の壁の、微かな凹凸を視線でなぞりながら、集う人々の顔を想った。そんな風に懐に入れないでほしい。利用してくれるくらいが丁度いいのだ。体よく、腕の良い冒険者。本来奔放な生き物だから、義務も責任もお金の通りに背負えば良くて、人の気持ちは重すぎる。渡す方だって簡単ではないだろうに、当然のように差し出されるから、愛おしくなってしまう。
 泥の上澄みを掬うみたいな、平和のための活動なんてものが、いつか全ての痛みを取り除いてく力となってくれれば、と。彼女の────ミンフィリアの、大それた目標のために踏み出す意思の強さが、そして世界を愛する優しさが、そのための薬になるのではないかと、期待をしていた。

 そんなことを、ささやかな時間で考えた。お茶を淹れてくると言った手前、あまり待たせるのも良くないと、膝を伸ばして立ち上がるとのろのろ行動を始める。
 くるりと見渡せば目につく場所に、ザナラーン式の銀製茶器が見つかった。コンロ上のケトルには、冷めた水が入っていたため、ゆすいでから新しく湯を沸かし始めた。銀のポットに乾燥カモミールを振り入れれば、独特の淡い香りが鼻腔まで昇ってきて、心地よさをもたらしてくれた。
 焼いてみたジンジャークッキーがあるから、それを茶請けに出そう。きっと合うはずだ。ミンフィリアの正直な青い瞳が、どんな風に色を変えるだろうと思いながら茶の用意をするのは、少しだけ楽しかった。
 カモミールティーに添えるための蜂蜜を、小さなピッチャーに移す間に湯が沸くので、花の入ったポットに注ごうとして────その時、あまりにも唐突に、気配を感じた。ケトルを傾けた手をひたりと止める。
 こちらを見張っている、にしては、あまりに粗末な存在感の発露。違う。わざと滲ませたのだ。こちらに気付かせるために。技量を測っているつもりか、あるいは警戒を解いたからかは定かでない。

「……何か面白いものでも見える?」

 改めて湯をポットに注ぎ込み、カモミールの花弁が膨らんでいく様子を眺めなから、そう声をかける。いつの間にか、あるいは最初から其処にいたのかもしれない、厨房の入口付近に背を預けて立っていた男がにっこりと口角を上げた。白銀の髪に、榛色の瞳のハンサムだ。
 彼の名を、サンクレッドと言う。先の炎神イフリート討伐の折に行動を共にした、シャーレアン賢人位を持つ手練れである。

「我らが光の戦士は、調理師もこなすのかと。鮮やかなお手並みだな、見惚れたよ」
「褒められて悪い気はしないわ」

 手練れと明言したのは、彼が持つ技能と身のこなしから、そうであると判断したからだ。ひらりと手を揺らす動作は、自分が他人から美男と見られることを知っている色男のもので、いかにも女慣れした遊び人の様子。その気安い口振りに反して、一瞬だけ目の当たりにした滑らかなナイフ捌きは達人の域であったし、その刃の鋭さと同じ眼光を影に溶かすことも出来るのだろう。
 カモミールティーのセットをトレイに乗せると、半ばおどけるように手を開いて、サンクレッドに見せつける。

「ちゃんと、見ていてくれたんでしょうね。毒も薬も入れてないって」

 彼は笑んだまま微動だにしなかった。

「まさか。疑っちゃいないさ」
「それなら、もう癖のようなものってこと?」

 見るからに茶汲み係ではないサンクレッドが、何をしに来たのかと考えれば、ミンフィリアの口に入るものの選定だろうとすぐ理解できた。信頼に足る働きは出来ているとはいえ、あくまで協力者たる自分はまだ、力ある余所者と等しい。蛮神さえ屠る得体の知れない女なのだ。盟主に危害を加えるつもりなど無いと分かっていても、それが拠点を動き回り、あまつさえ毒薬を混入しやすい飲み物を運ぶのは心地の良いことではないだろう。少なくとも、サンクレッドとはそんな危機感と価値観を共有できそうで、むしろ好感を持った。きっと今までも、こうして秘密裏に『暁の血盟』を────彼女を、守ってきたのだろう。
 とはいえ、探るような真似をされると、流石に気分がささくれだつ。せめてもの仕返しに揶揄してやろうと、サンクレッドに向けた睫毛の先を、ゆっくり上下させた。

「……ミンフィリアが可愛いのね。よっぽど」

 盛大に含ませた言葉に、彼は正しくその意図を読み取った。サンクレッドは大袈裟に肩を竦めると、快活な笑みで以て答える。

「……まあな。あの子は、妹みたいなものだから」
「……妹?」

 誤魔化しか、あるいは強がりか、と思ってサンクレッドを眺める。
 エオルゼアにおける代表的な恋の物語は、時神アルジクと運命の女神ニメーヤにまつわる神話だ。渦より出でしアルジクは、同じように生まれたニメーヤを妹として育て、しかしその親愛は情愛となり、二柱は夫婦になったとか。
 彼もまたその手の、いずれ恋へと裏返る想いを、無意識に封じ込めている男だろうかと観察するのだが、どうも違うらしい。図星を突かれて動揺する素振りもなければ、それこそ気の良い兄がお転婆な妹を見守る眼差しそのものを纏っていて、そこに違和感がある。血の繋がらないだろう女に、果たしてそんなに深い愛情を、歪ませることなく向けることが出来るのか?

「恋人、ではないのね」
「お嬢さん方は、ラブストーリーが好きだな」

 念を押すように訊ねれば、サンクレッドは目をまあるくして息を吐いた。的外れな質問に呆れて馬鹿にする、風ではない。これまでにも何度か同じように、あるいはもっと下品に問われていて、変わらぬ答えを出す作業自体に辟易しているような。そして、戦闘力の権化のような目の前の女が、男女の関係に言及することが意外のような、そんな様子だ。
 少し、悪いことを訊いたかもしれない。覆水盆に返らず、口から溢れ出た言葉も喉に戻すことは出来なくて、ほんの少し迷っていれば、彼は長い前髪の奥から苦笑いを向けてくれた。

「ああ、いや。別に責めているわけじゃないんだが。……そうだな……」

 次の句を慎重に選ぶサンクレッドの様子は、ドライボーンで美人の修道女にうつつを抜かしていた横顔と別人に見えた。そうか、こういう男か、と腑に落ちる。
 淡くも鮮烈な色彩を持つ彼は、道行く女性の視線を惹き付けては応えながら、一方で『暁の血盟』の仲間たちを不用意に口説く真似をしなかった。少なくとも、ヤ・シュトラのように、冗談と分かる者にしか軽口も叩かない。サンクレッドにとって色目は、偽装のため、情報のため、利用するための、卑怯で姑息な手段だった。

「……何て言ったら、良いんだろうな」

 銀の睫毛が縁取るヘーゼル・アイが、視線で床の石の継ぎ目をなぞっているのを、見ていた。存外と厚く筋肉のついた腕を組み、彼はまた小さな息を吐く。

「可愛く思ってるよ。だから守ってやりたいんだ」

 サンクレッドは、そう短い言葉を連ねた。収まりきろうはずもない心を、無理矢理に押し込めて、はみ出た分は削って、何とか形に表しただけの、そのせいで随分小さく軽くなってしまった言葉だ。
 彼の歌う恋は、最上の愛ではない。だからミンフィリアに向ける感情として、恋では間違いなのだ。そんなものより、もっとずっと、いたいけで、純朴で。例えば幼心に、美しいと思って古い小箱に仕舞い込んだ、石や羽根やリボンと同じの、宝物だった。
 咄嗟に返す言葉もなく彼を見ていれば、僅かな沈黙の後、例の色男の笑みを口許に戻した。

「……さて。覗くような真似をしてしまった詫びには足りる話だったか?」

 何て野郎だ。というのが、正直な感想だった。安直に性愛を向けているというのであればまだ理解できるのに、サンクレッドのそれは確かに家族に向けるもので、だから理解しきれない。他人を、血の繋がったもののように扱うことが出来るなんて、本当の家族以上の執念が要るだろう。垣間見るだけでは愛の深さの全容を把握できなくて、微かにうなじの鱗が逆立つ。どうしたらこんなにも、誰かを肯定できるのだろう。
 見たくて見た腹の内でもなし、むしろ気味悪さを感じて損をした、と思ったのがうっかり表情に出たのだろう。サンクレッドは可笑しそうに喉を鳴らすと、壁に寄っていた重心を、軽快に二本の足へと戻した。

「ミンフィリアに捧げる愛の詩を期待されていたのなら、意に沿えず申し訳ないけどな?」
「それはどうでも良いけど……いや、嘘だな。興味はあるかも」
「おっと。分が悪くなってきたようだ」

 こちらの返答に参ったなんて素振りをして、サンクレッドはくるりと踵でターンをして背を向けた。厨房の出口に指をかけ、肩越しにヘーゼル・アイが細められる。

「邪魔してすまなかったな。さっさと退散するよ」

 おそらく、彼は笑ったのだと思う。ただその顔が、何故だか不釣り合いに寂しそうに見えて、少しだけ戸惑った。サンクレッドがどれだけミンフィリアを大事に思うか。その一端を見たせいで、彼はいつまでそうやって、影から彼女を見守るつもりだろうと、こちらが感傷的になっていたからかもしれない。
 側で守ってやりたい口実も関係性も何だって良いのだろうに、誤解されないように、気取られて負担にならないように、気障な仕草で隠れている。
 気付けばサンクレッドの背に、呼び止める言葉をぶつけていた。

「一緒に、飲んでいく?」

 まさに出ていこうとしたサンクレッドの歩が、ぎくりと強張った。再び振り向く表情は、虚を突かれて驚いたみたいな、そうしていると少しだけ幼げに見えた。

「……俺は、」
「あらかじめ作ってきたジンジャークッキーも出すよ。……“お兄ちゃん”なら、気になるでしょうね?」

 何で出来ているか分からない物を可愛い妹の口に入れるつもりか、と言外に込めながら、これ見よがしにカップを一つ多く用意した。
 勢いで言い出してしまった気恥ずかしさも、また彼の思わぬ顔を見てしまった気まずさも、悪ぶった物言いと釣り上げた唇に隠した。サンクレッドの、榛色の瞳が瞬く。彼は妹と違って、疑り深くて、用心深くて、だから今も、この女が何を示しているのか、正しく読み取って呆れたように笑った。

「…………、随分と。意地の悪い言い方をするな、今日は」
「ふふっ」

 血も繋がらないくせに、兄妹で似たようなことを言うものだから、可笑しくなって噴き出した。不思議そうにこちらを見る首の角度も、そっくりだ。

「……もともと意地が悪いよ、私。あんたが知らなかっただけでしょう」
「……違いないな」

 だから、ミンフィリアに返したときとそっくり同じに言い放った。サンクレッドはといえば、両の手のひらをやれやれと振って、横からティーセットの乗ったトレイを掠め取っていく。

「それじゃ、ご相伴に預かろう。麗しいレディの誘いを断っちゃ、愛の吟遊詩人の肩書きが廃るってもんさ」
「言ってろ」

 心なんか少しも籠っていない口説き文句に、サンクレッドの背中を叩いた。思ったよりも大きくて広くて、固い背中だった。



────そんなことがあったのを。そんな話をしていたことを、唐突に思い出した。砂塵渦巻く荒野の空が、その日はいやに青かったからかもしれない。



「…………そんなことが……」

 深刻な面持ちで顎を撫でたのは、パパリモだった。
 この星は、ハイデリンの力によって十四の世界線に分かたれていた。そのひとつである第一世界からやってきた、闇の戦士一行とともに、ミンフィリアが旅立っていった直後のことだった。光の力が高まりすぎたために停滞の滅びを迎えつつある彼らの世界を、彼女は次元を超えて、調停者として救いに行ったのだ。
 それを見送ったあと、アルフィノとともにリトルアラミゴへ向かい、待機していたパパリモとイダに経緯を説明し終わったところだ。と言っても、ほとんどをアルフィノが語ってくれたために、自分が何か加えて話すことはない。この子は頭が良いから、わざわざ注釈なんて入れる必要もなく、簡潔だが的確に表してくれた。自分がすることと言えば、それを何処か遠く聞きながら、ミンフィリアとの思い出を何とはなしに掻き集めることばかり。
 いろいろな事があった。陳腐で貧相な語彙ばかり、けれどそうと言うしかないほど充実した日々を、辛酸を舐めたり、じゃれあったりしながら過ごしてきた。数多の蛮神を屠り、魔導城すら破壊し、そして感じていた不安の通りに事態は起きて、追われる水路の中で託されたランタンは重かった。暗闇の中で煌々と光る、意思の強い、青い瞳を、今も覚えている。

「……、……どうしたの? 大丈夫?」

 いつも快活なイダの、ほんの少し柔らかな声音にそちらを向いた。大丈夫。そう答えようとした唇が、ただ震えるばかりなのを、自覚していた。決壊したように頬を伝い落ちる涙の冷たさも。

「えっ、ええーっ!? 本当にどうしちゃったの? 何処か痛い? ねえパパリモ、何とかしてよ!」
「何とかしろって言ったって……」

 歪んだ視界の隅に、あたふたと手足をばたつかせるイダと、困り果てながらも中途半端に手を差し上げるパパリモが映った。背を撫でてくれているのは、アルフィノの手だろうか。
 自分は誰より強いから、泣いている場合ではない、大丈夫だと言わなければならない。だのに。

「……ミンフィリアが行っちゃった、」

 絞り出したのは、呆然たる寂寞だった。
 いつも帰りを待っているのは、ミンフィリアの方だったのに。たったひとり、何があるかも分からないところに、彼女しか成し得ない使命を負って。
 あんたなんか、私の背中に隠れていれば良かったのに。戦ったこともない、痛い思いなんてしてはいけない、弱くて、馬鹿で、仕事の鬼で、人の良すぎは長所にすらならなくて。
 誰より強く、真っ直ぐで、優しかった、私のともだち。誰かを救うための手段を、最後まで諦めない人。
 行ってしまったのだ。それ以上が言葉にならなくて、ただ目の前の仲間を困らせてばかりの雫さえ抑えられなくて、ごめんねと謝ろうとしたときに、温かな体温に抱き締められた。イダの、力強い腕だった。

「そう、だよね。辛いよね。……大丈夫だよ、ミンフィリアなら!」

 彼女の馬鹿力に包まれるのは大層苦しいが、今は何となく心地よくて、それはミンフィリアの眼差しに似た熱のような気がして、溶け出す眦もそのままに喉をひきつらせた。

「……きっと大丈夫……ごめんね、アタシ、バカだから、こんなことしか言えなくて。でも、きっと大丈夫だから」

 ただ慰めようとするだけの、薄くて軽い言葉だ。誰かを助ける力なんて持っていない、それでも、心から誰かを案じる声だ。刺さらずとも投げ続ける、届かずとも願い続ける、イダなりの優しさだった。

「……だから、泣き止んで。君が泣いてると、アタシも……」

 言葉尻に涙が混じるから、あんたまで泣いてどうするのと、そうは茶化せずにしばらく二人で泣き続ける。アルフィノは静かに背を撫でてくれていたし、パパリモは仕方なさそうにイダの隣で腕組みをしていた。
 ミンフィリアと同じ、日向みたいな匂いのするイダの背に手を回しながら、ふとサンクレッドのことを想った。今はアマルジャ族の本拠地、ザンラクにて後始末をしているだろう兄のことを。妹みたいに可愛いあの子の決意を受け取り、たったひとりで行かせた彼の心境など、察するにはあまりに愛着が足らない。
 彼は、ひとりで泣いていやしないだろうか。その厚い手のひらに爪痕が残るほど、拳を握り込んではいないか。彼も同じように、あの時のことを思い出しただろうか。問えども答えのない沈黙が、その孤独が、せめて彼の心を慰めますようにと、願っていた。
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