春告鳥は鳴かず飛ばず
「……どうしました、その頬は」
最初、彼女の変化に気付いたのはウリエンジェだった。
北洋に位置する知の都、オールド・シャーレアン。未曾有の世界危機である終末の災厄を退けた今、俄に外つ人で賑わっていた港も、常どおり凪いできた頃だった。
地下に広がる巨大施設『ラヴィリンソス』は、かつて月に持ち行く知識や生物を集積する役目を持っていたが、現在では造られた当初の目的である“保管”に重きが置かれるようになっていた。未来に遺されるための楽園。命の人工奔流。天の果てへと翔けた魔導船をも収容しているそんな場所へ、サンクレッドとウリエンジェは、各地を巡る旅から舞い戻っていた。其処で働く職員たちと、月の船員レポリットたちとの橋渡しをするためだ。
我らが光の戦士が訪ねてきたのは、そんな折である。救世の英雄として名を轟かせた彼女は、そんな栄誉は何のその、ただの冒険者みたいな顔で世界中を歩き回っては、定期的に仲間のもとへ手土産と共にやってくる。
今日はラザハンの酒を持ってきたと人懐っこく笑う彼女の顔を目にした途端、ウリエンジェは不思議そうに目を丸くした。アウラ族である英雄の頬に躊躇なく手を伸ばして、その表皮が奇妙に破れている箇所を撫でる。戦闘で負ったものではなさそうだし、そもそも傷ではないらしい。癒し手を担う彼は、特に他人の異常というものに目敏く、不可解な皮膚の状態を気に留めたようだった。
ウリエンジェの冷えた指の感覚に、心地良さそうに目を細めると、英雄と呼ばれる女は事も無げにこう答えた。
「そろそろ脱皮するから、痒くて掻いちゃった」
「脱皮」
横でやり取りを聞いていたサンクレッドが、すっとんきょうな声でおうむ返しする。脱皮。それは蟹や蛇など特定の生き物が起こすことであるが、少なくともサンクレッドは、ヒトが古皮を脱ぐなんて聞いたことがなかった。ウリエンジェを見れば同じく驚いたようで、深く考え込みながら英雄たる女を見つめる。
「失礼ですが……、それはアウラ族にとって、一般的な事象なのでしょうか……?」
「一般的……ではないかもしれないね」
彼女が続けて言うことには、アウラの生態の中でも特に個体差の大きいものらしい。そもそも脱皮を必要としない者も多く、また脱皮をする者でも、尻尾や角のみだとか、鱗部分だけ剥けるだとか、月に何回も剥かなければならない者も数年に一度で済む者もいて、頻度も程度も全く違う。
「アウラ族同士で話すなら、まあ珍しいことでもないかなーって思うし。剥いてる間ってどうしても無防備でしょう。わざわざ教えたり記録したりしないんじゃない?」
「なるほど……」
文献に見られないのは、そんな理由もあるかもしれない。感心したようにウリエンジェが唸るが、ふと英雄を見下ろして首を傾げる。
「……よろしかったのですか。私どもに打ち明けて」
今まであまり他言をしなかったのは、彼女も同じだったろう。訊ねてしまった手前ではあるが、そう簡単に話してしまって良かったのだろうかと、ウリエンジェは今更ながら気遣う。対して英雄たるアウラは、特に構う様子もなく、からりと笑って頷いた。
「聞かれなきゃ言わないってだけだからさ」
「そう、ですか……」
特に親しい者がアウラ族にいない限り、そう簡単に知ることは出来ない情報は、ウリエンジェの知識欲を刺激したようだった。あんまりに快活な様子の英雄に甘えて、そうっと髪を撫でるような声が差し出される。
「……貴女は、その。どの程度……?」
「全部」
「全部?」
「へぇ」
思わず大きくなったウリエンジェの声に、サンクレッドのそれが重なった。感嘆の意、というよりも、十つにも満たない少年が好奇心のままに吐く息だとか、立派な昆虫を見つけて喜ぶ笑みだとかに近い。
全部。というなら、全身だろう。ヒトの形をしたものが、しなやかな爬虫類のように古皮を脱ぎ捨てて、新たな皮膚を得ると言う。脱皮という行為はしばしば“新生”や“変化”の象徴として語られ、そして英雄たる彼女がそれを行うのは、いかにも神話的な美しい事象のように思えた。
そう思ってしまったからこそ、サンクレッドは心向くままに、未知なる生物の観察を申し出るような調子で、口を開いた。
「なあ。見てても良いか、脱皮」
「は?」
「……サンクレッド……」
英雄の丸くなった目、そして呆れたウリエンジェが首振るのを見て取ることが出来た。何故そんな反応をされるのか、いまいち理解できないサンクレッドは、不思議そうに首を傾げる。
「最中は無防備になるんだろう? お前の事だから、安全な場所があるんだろうが、側に守る奴がいた方が良いんじゃないか」
「それは……そうだけども。それっぽいこと言わないでよ……」
珍しく後退るなどする彼女の鼻先を追って、サンクレッドは一歩進む。
「もちろん、俺の知的好奇心を満たすためでもあるんだが……何か手伝えることがあれば、それもするぞ」
「えー……あの……えーと……」
歯切れの悪い英雄の肩を捕まえて顔を覗こうとするも、頑なに視線を逸らされてしまう。そこに、そっとウリエンジェが長い腕を伸ばして、英雄とサンクレッドの間を断絶した。いつになく強引な調子の相棒に、ウリエンジェは困り果てた月色の瞳を向ける。
「サンクレッド。……全部ということは、全身、なのですよ」
「ああ、全身……」
そう窘められて頷きかけたサンクレッドだったが、あ、と微かな声を上げると、改めて光の戦士たる女を見つめた。
小さな足、細くも存外とたくましい脚。彼女がアウラ・レンであることを表す、白い鱗に覆われた尻尾。くびれた腰に、小柄な割には豊満な胸部。手折れそうな首、すらりと伸びた角、赤く血色が映える唇まで、くまなく舐めるようにその姿を眺めてしまってから、彼女のじっとり此方を睨む瞳と視線がかち合って、サンクレッドは片手で口許を覆う。
全身の皮を脱ぐというからには、当然衣服の類いは邪魔になる。従って、脱皮の間は一糸纏わぬ姿のままでいるしかなく、それを観察するということは裸身を直視するということになり────そして彼女の肌をありありと思い浮かべることが出来てしまったのは、サンクレッドと英雄たる女傑が、いわゆる男女の仲だからである。ウリエンジェを初めとする仲間たちにも決して隠していることではないが、既に目と指に馴染んだ身体であると公言するように、そうも堂々と扱われてしまうと。
「……あー……」
サンクレッドは曖昧な声を上げながら、英雄から視線を逸らし、微かな声で謝罪した。
「……すまん。その……そういうつもりでは」
「やめて……そのつもりがあってもなくても困るから……言わなくて良いそういうことは……」
英雄たる女は体の前で両腕を組むと、気恥ずかしそうに赤らんだ顔を俯けた。サンクレッドのことだから、色めいた意図なんかこれっぽっちもなく、興味や親切からの申し出だったろう。
そもそも脱皮なんて、アウラ族である彼女にとっては垢を擦り落とすようなことで、例えば汚れを払う様子を他人にじっくり見せられるかと問われれば否である。ただこれが、種族の違う彼にとって興味深い事柄であることも理解できるし、惚れた男の我儘みたいな好奇心くらい受け止めてやるのも吝かではない。
吝かではないのだが、どうしてくれよう、この空気。サンクレッドがあんまり自然に言ってくれたものだから、周囲の目を気にして恥じらってしまった自分が可笑しい反応をしたように思えて、英雄は落ち着かなさげに尾の先を揺らした。せめて二人きりの時に言ってくれたなら、まだ返事のしようがあったのに。
「…………なるほど。アウラ族が進んで脱皮の話をしないのは……興味本位に覗かれることを防ぐため、というのも、理由のひとつのようですね」
訳知り顔で口を開いたのは、痴話に巻き込まれた第三者であるウリエンジェだった。遠回しにサンクレッドの軽率な発言を責めるようでいて、その口許がほんのり笑っているものだから、冗談と見抜いたサンクレッドは気楽にウリエンジェの長身を小突く。
「本当に悪かった。除け者にしたわけじゃないんだ」
「仲睦まじいようで何よりです。しかしサンクレッド……貴方はもう少し……デリカシーというものを持って彼女に接した方がよろしいかと……」
「……まさかウリエンジェ大先生から、デリカシーについて講釈を受けるようになるとはなぁ……」
深く長い溜め息をついたサンクレッドに微か笑うと、ウリエンジェはそっと英雄の顔を覗き込む。
「ですが、サンクレッドの言うように……そういった状態でいるのなら、余計に……気心知れた相手を側に置いておくのも、身を守る手段かと」
低く穏やかな彼の声は、南風のような旋律の、独特な響きを持っていて、優しく聴覚に届くからいつも聞き入ってしまう。そうしてその言葉を紐解いていけば、可とも否とも言えなくなっていた彼女に助け船を出そうとしているのだろうウリエンジェの意図が感じられて、英雄はほんのり笑った。
もちろん、英雄たる女傑にもセーフハウス────人に場所を明かさないことで安全を守る、秘密基地みたいな棲みかがあって、脱皮は常にそこで行っていた。しかし、滅多にないことであるが、有事の際にはそのまま応戦しなければならないことも確かで、各方向から慕われ、持て囃され、つけ狙われる立場にある身としては、心許なく感じる時があるのも確かだ。
その点、サンクレッドは守護の技にも長けた手練れで、懸念を潰すに適した存在だ。それに今更体のどこを見られても構うような間柄ではないし、万が一、途中で“そのつもり”になったとしても自然な相手ではある。むしろそういう仲である女の裸体を前にしてそうならないのはどうかと思うが、いや、それはまた別の話だ。
「護衛としての力量なら申し分ないことは、貴女もご存じのはず……受けた無礼の分、働かせるとよろしいかと……進言させていただきます」
「……さては、根に持つタイプだな」
わざとらしい恭しさで頭を垂れるウリエンジェと、渋い顔でそれを見ているサンクレッドの様子に、英雄はくすくすと肩を揺らした。
彼らがお互いに見せる気の置けなさは見ていて愉快なもので、二人の旅路の、実に痛快な様子がありありと想像できた。こうして軽口を叩きあいながら共に歩いているのだろう。その関係性はきっと、サンクレッドとウリエンジェにしかないもので、そうやって彼らが友情を深め合うのを、英雄は何だか嬉しく思っていた。
かつて独断でミンフィリアを第一世界に送り込んでしまったと悩んでいたウリエンジェと、ミンフィリアを妹のように大事に思っていたサンクレッド。お互いに思うことは山となるほどあっただろうが、今は、良いのだろう。言葉よりも態度が示す二人の在り方は、明るくて、強固で、温かくて、英雄には少しだけ羨ましく思えた。
「……良いな、男同士の友情って」
「何だよ、急に」
ウリエンジェにじゃれていたサンクレッドが、照れ隠しの怪訝そうな顔でこちらを見るので、英雄はゆったり首を振った。
「まあ、ウリエンジェがそう言うなら、雇ってあげても良いよ」
「…………そりゃ、光栄だな」
エーテルの光でほんのり輝く彼女の瞳に、サンクレッドは安堵の笑みを溢した。我らが英雄にして愛しい女性である彼女に機嫌を損ねられてしまうと、未だに確かな懐柔法が分からなくて難儀するのだ。感謝の意を込めて、サンクレッドがウリエンジェの肩をぽんと叩くと、穏やかな月色の瞳が微笑みの形に細められた。
「その間は、私もしばし、休息の時といたしましょう」
「少し時間がかかっちゃうかも。大丈夫?」
「お気遣いなく。……私も、久方ぶりにゆっくりと……月との逢瀬を楽しもうかと、思っているのですよ」
ウリエンジェが、あまりに優しい笑顔でそう言うものだから、英雄もサンクレッドもしばし言葉を失って、顔を見合わせた。それから淡い笑みを口許に浮かべると、英雄は手土産の酒をウリエンジェに渡す。
「そういうことなら、持っていって。ムーンブリダも喜ぶでしょう」
優れた錬金術の賜物であるラザハンの蒸留酒は、香り良く、美しい琥珀の色で、故人の思い出と語らう友に適したものと思われた。酒豪で知られた満月の君も、きっと気に入ることだろう。ウリエンジェは、英雄から差し出された酒瓶をそうっと受け取ると、大事そうに腕でくるんだ。
「……では、有り難く」
「お前はあんまり飲みすぎるなよ。弱いんだから」
「紅茶に垂らしても美味しいんだって。試してみて」
笑って肩をすくめるサンクレッドと、頷いた英雄の顔を丁寧に覗き込んで、ウリエンジェは長い睫毛を上下させた。淡い金色の、月の光を映し込んだような瞳が細められる。
「彼女のご両親にも、差し上げても?」
「もちろん。良い休暇をね、ウリエンジェ」
友たる英雄の言葉に、ウリエンジェはゆっくり頭を垂れた。
「ええ。そちらも、良い休暇を。お二人とも、ごゆるりと、お過ごしください」
ウリエンジェを見送ったあと、サンクレッドと光の戦士が向かったのは、森の都グリダニアである。テレポの使えないサンクレッドの足に合わせて、北洋からリムサ・ロミンサまでを船旅で、その先は飛空艇を使うことで、エオルゼア随一の森林地帯、深緑の景色広がる黒衣森へとやってきた。
と言うのも、彼女が個人的に持っているセーフハウスが、『リリーヒルズ』────冒険者居住区である『ラベンダーベッド』、その一角に建てられたアパルトメントの一室にあるからだ。オールド・シャーレアンからの移動に数日かかるため、今回はバルデシオン分館のナップルームを借りようかとも思ったのだが、慣れない場所で慣れない相手の存在を意識しながらおこなっては疲れるだろうと、サンクレッドに促されてのことだった。
「俺だけが此処を知っていると言うのも、気分が良いしな」
「……もしかして、それも目的?」
とぷん。水に深く沈む音が反響した。
いかにも訝しげな声を出す彼女に、サンクレッドは薄手のシャツに包んだ肩を揺らして笑いながら、開け放たれた窓から差す陽光に目を細める。
「良い相手のことなら何でも知りたいだろ?」
「呆れた男!」
言い捨てるような口調には、鈴のように転がる親愛と信頼が込められていた。輝くような白い鱗の、滑らかな動きが見える。ぺしゃりと温い水飛沫が頬に飛んでくるので、サンクレッドは手で顔を拭いながら、改めてその場所────浴室を見渡した。
彼女の部屋は、簡素で、質素で、飾り気はないが落ち着いた、採光の良いワンルームだった。美しい木目の壁と床、必要最低限の家具と、少ない食器が行儀良く収まっている。
しかしその素朴さから一転して、奥にある浴室は賑やかなものだった。一般的に必要とされるよりもやや広めにスペースを取っていて、開放的な印象だ。大きな出窓から見える蒼穹と緑の景色も、浴室にありがちな閉塞感と湿っぽさを払拭する。備え付けられた棚には、薬品らしきものが入った瓶が、様々に、色とりどりに並べられていて、サンクレッドは何気なくひとつを手にとって揺すってみた。
「これは?」
「ハニーヤードの蜂蜜を使った保湿剤」
「……これは?」
「ロッホ・セル湖で採れた泥のパック」
「…………これもか?」
「それは塩スクラブ。ロッホ・セル湖産」
「多いな、ロッホ・セル湖……」
「肌に良い成分がいっぱい入ってるんだって」
とぷん。水の中を蠢く音に、サンクレッドはそちらへと、榛色の瞳を向ける。
カーバンクルの意匠を施した大理石の小型浴槽、温かな湯の中に、英雄たる女は揺蕩っていた。オールドローズの花弁をたっぷり散らした水面の合間、熱にほぐれた白い肌と、濡れた光を放つ白鱗が見える。彼女が湯船の中を泳ぐたび、薔薇の香りを纏った湯が溢れて、細やかな波になってサンクレッドの爪先に触れるので、スラックスの裾を捲っておかなければならなかった。
お気に入りの水槽に入れられて寛ぐ、観賞用の水棲生物みたいだ。そう思ってもまた怒られてしまいそうで口にはしなかったが、彼女がそういう、人知の及ばない、美しい生き物であるような感覚がサンクレッドにはあって、それは彼女の尾の滑らかな曲線が陽光を反射するたびに強くなる。
衣服も肩書きもすべて脱ぎ捨てて湯の中を滑るアウラの女は、興味のままに浴室中を歩き回るサンクレッドの様子を、エーテルでほんのり光る瞳で観察していた。
「あとでやってあげる。すべすべになるよ」
「俺にやってどうするんだ」
笑う彼女の申し出に、サンクレッドは首を振って遠慮を示すと、バスタブの側に置かれた丸椅子に腰かけた。
ラフな軽装に身を包んだサンクレッドの腰には、護衛の役目を果たすためのコンバットナイフが、二本一対で下げられていた。愛用のガンブレードを持ち込んでも良かったのだが、アパルトメントの一室という限定された空間であれば、より攻撃的で身軽な双剣術の方が有利に事を進められる。よって、相棒の得物はコートと共に、部屋の中で留守番中だ。
彼女と睦みながら過ごすための装いに、懐かしい手触りの武器。サンクレッドにとっても彼女にとっても今の状態は非日常的で、少しばかり高揚して、それ以上の安寧に夢見るような心地だ。サンクレッドは湯の中に手を入れると、彼女の細い肩に湯をかけてやる。
「湯加減はいかがですか、お嬢様」
「ちょうど良いわ。ありがとう」
くすくすと響く笑い声に、とぷん、と水音が重なった。
この浴室が、彼女のプライベート中のプライベートを彩るために造られたものであるのは、一目瞭然だった。聞けば、兆候を感じたのちに入浴することで古皮をふやかし、同時に新皮を潤わせながら脱皮するのが今時の流行りらしい。当然湯に浸かっている時間も長くなるため、目で、鼻で、指先で楽しめるものを多く取り入れており、快く過ごせるよう工夫を凝らしているとのことである。
「もともとお風呂用品って好きだしね。いろんなものを気兼ねなく試すなら、自分の家しかないし」
小さな浴槽でも、小柄な彼女にとっては広々としたものだ。尻尾の先まで身体を伸ばすと、とぷん、と音を立てて湯を掻き分け、サンクレッドに鼻先を向ける。
「意外だな。そういうものに興味があるのは……」
サンクレッドの指が、彼女の濡れた髪を額からよけていった。角に触れ、艶やかな鱗のひとつひとつをなぞり、緻密な細工めいた表皮が脈動していることに感嘆の息を漏らす。
「……いや。普段が女らしくない、と言っているんじゃないんだが」
噛み付かれる前に言い訳をしながら、彼女の赤みを帯びた唇を親指で撫でた。
「何て言うんだろうな。……いつも、戦わせてばかりだったから」
光の戦士であり、救世の英雄である彼女には、とにかく今まで埃っぽく血腥い戦いを強いてばかりで、だから色っぽい話はおろか、お洒落なんてものにも気が向いていないように見えていたのだ。このささやかな宝物庫を見たあとでこれまでを思い返せば、彼女はいつも綺麗で清潔で、それが努力の賜物であったことが察せられた。
慎重に言葉を選ぶサンクレッドの心中を悟ったか、アウラの女はニンマリと笑みを溢すと、湯で柔らかく解れた指先で彼の頬に触れた。
「全部私がしたくてやったの」
「……ああ、そうだろうな。お前ほどのお人好しなんか見たことがない」
サンクレッドは伸びてきた彼女の手を握ると、労るようにゆっくり撫でた。小さくて、細くて、爪が丸い。こんなに頼りなく思える手指なのに、望まれれば何だって己の意志に変えて戦う彼女は、サンクレッドよりもずっとずっと多くを守ってきた強き英雄だ。そしてそんな彼女の肌が、目の前で無防備に晒され、従順に差し出されているのは、ひどくサンクレッドの庇護欲を刺激した。他の誰も触れることのない、知るよしもない、彼女の秘された柔らかさを守ってやれる権利が自分にあることに、陶酔にも似た優越感さえ沸き上がる。
「大きい手」
彼女がそう言って心地よさげに瞼を落とすから、サンクレッドも笑った。彼女の手の甲を飾る硬質な鱗は意外にも滑らかなもので、唇を寄せても傷付くことはなく、そうしてひとつひとつを愛撫していれば、いつの間にかその指先が奇妙にふやけていることに気付いた。なるほど古皮が剥がれてきたか、と察して弄っていれば、くすぐったがった彼女が尾を大きく動かしてザブンと湯水を被せてくる。温さと共に打ち上がったオールドローズの花弁が、サンクレッドの踵に触れていった。
「そんなに遊ばないでよ!」
「っは。つい、な」
景気よく濡れた顔を拭いがてら彼女の手を放せば、湯船の中に引っ込まれてしまった。名残惜しさを覚えながら、サンクレッドは額に貼り付いた髪を掻き上げ、彼女の様子を見守る。
とぷん。とぷん。花に彩られた水面下で、アウラの女の身体が蠢く音が断続的に響いた。肌の様子を確認して、爪の先をうなじに差し入れて引っ掻く。
「……いけそうか?」
「うん」
サンクレッドに頷くと、彼女は少しだけ首を捻って、改めてこちらを見ている男を眺めた。榛色の瞳から注がれる視線が、ありありと関心と好奇心を伝えてくるから、呆れるやら安堵するやらで笑ってしまう。
「本当に見たいのね」
「……そう言っただろ?」
「こういうの、気味が悪いと思う人だっているんだろうのにさ」
何かを言い連ねようとしたサンクレッドを制して、女は自らのうなじに爪を立てた。ぷち、と皮の裂ける音がする。
「あんたっていつも、綺麗なものみたいに私を見てる」
そう囁くと、破いた古皮に指をかけた。
首が露出する。次いで、たおやかな頬の曲線、自慢げに伸びた角、つんと上向いた鼻先が、水滴を弾いて煌めきながら現れる。包装紙みたいに簡単に剥がれていくその向こう側、新しい皮膚の真っ白な輝きが、サンクレッドの視界を焼いた。真珠みたいな柔らかい光沢の鱗は、風に触れたその瞬間から硬化を始めて、白金色の鎧となって翼のように肌の上へと浮き上がっていく。
例えば、雄大なる雲海の朝焼けを見渡した時に、同じ衝撃を受けるだろう。繊細な装飾にルビーを埋め込んだ、古代の宝剣を前にした時と同じ。星降る夜に鯨の声を聞く時と同じに。視界が急に開けるような、音が消えるような、清々しさが鼻を通るような。サンクレッドの目前で起こる神秘は、彼にとってまさしくそういった類いの感動で、彼女は曇りなく“新生”の象徴であり、“変化”の体現であった。
胸元まで一息に古皮を脱いでしまうと、彼女はサンクレッドの顔を見るなり、はにかんで首をすくめる。
「……そんなに楽しい?」
「そりゃあ……そう、だろ」
サンクレッドはうわごとみたいに呟きながら、誘われるように彼女の頬へと指を伸ばした。硬く変質が始まっているものの、剥き出しになったばかりの鱗はいつもより随分柔らかくて、圧倒されそうな美しさとは裏腹の、あどけなささえ感じた。不躾な指に彼女が唇を寄せるから、サンクレッドはたまらず破顔する。
「こんなに綺麗なんだぞ」
彼女の睫毛の先に水滴の珠が浮かぶのを、もっと側で見ていたくて、サンクレッドは愛しい姿に額を寄せた。
情欲を煽られる、と言うよりは、己の信じたものが疑いようもなく貴いことを思い知って嬉しがるような、少年みたいに無邪気な顔をするものだから、アウラの女は引き寄せられるままに鼻先を重ねて目を閉じる。彼のそんな視線を間近で浴びてしまうのは、戸惑うほどに気恥ずかしかった。
「……変な人……」
「変なもんか。綺麗だ、すごく」
サンクレッドの唇が、彼女の瞼に触れた。濡れた睫毛を拭っていくと、微笑む気配が角を撫でていく。
「こんなに綺麗なんだぞと、知ってる奴ら全員に見せびらかしてやりたいところだが、絶対に誰にも見せたくない……」
まるで秘密の宝物をしまいこむ子どもみたいな台詞だ。思わず笑ってしまった彼女は、うっかり彼のヘーゼル・アイが輝くのを覗き込んでしまった。
綺麗だと言うのなら、サンクレッドもそうだ。女や彫刻や宝石のような繊細さではなくて、男として、命として、刃としての精巧さと精悍さだ。涼しげに整った目鼻立ちはいかにも色男で、しかししっかりした顎や振りかざすような眼光からは力強さも感じられる。
美しくて、逞しくて、鮮やかな男だ。光の戦士として多くを見てきた彼女からしても、サンクレッドは特にハンサムで、おまけに命を預けたって良いつわもので、そんな男が愛おしげに眼差してくれることが、彼女の心をくすぐって浮き立たせる。
そうしてしばらく見つめ合っていれば、サンクレッドの、灰銀の睫毛に縁取られた榛色の瞳が、眩しそうに細められた。
「きっとこの先、俺の前には、お前以上に綺麗なひとなんか現れないんだろうな」
────とんでもない口説き文句をぶつけられるものだ。女は大きく目を見開くと、怯んで首を引っ込めようとして、サンクレッドの手に肩を掴まれ止められてしまった。
「ぬ、っ、濡れる、濡れるから」
「もう濡れてる」
「……大袈裟でしょう、こんなことで……!」
「妥当だろ。自分に詩の才能がないのを、こんなに悔やんだことなんかないぞ」
サンクレッドときたら熱っぽく浮かれた声音で、頬擦りまでしてくるものだから、英雄たる女傑は小娘みたいな悲鳴を噛み潰した。むずむずと微弱な抵抗を試みるもまったく通用しない。
そんなことをしているうちに、サンクレッドの指が鎖骨のあたり、破りかけの古皮に触れたので、彼女はギャアと鳥獣めいた叫び声を上げた。
「何してんの!?」
「剥いても良いか?」
「“剥いても良いか”ァ!?」
慌てて体を捻って拒否を表すも、好いた男に対して拒絶はできようはずもなく、捕まったままじゃれているみたいになる。
「えっ、何で、剥きたいの!?」
「気持ちよさそうじゃないか、景気よく剥けたら」
「人の皮を何だと思ってんだよぉ!」
一生懸命威嚇してみるのだが、綺麗な笑みが近くにあっては動揺して空回るばかりだ。サンクレッドの唇が、彼女を宥めようと角や頬を撫でるので、尚更。込み上げる羞恥と、体温と共に染み込む安堵に思考を揺らされて、もはや彼の思うつぼ、されるがままになりつつある。それでも投げ出しそうになる腕を突っ張って、彼女は勢いよくかぶりを振った。
「だめ、やだ、」
「嫌か」
低く優しい声が舐るように囁くので、彼女はひくりと水滴を跳ねさせて動けなくなった。
サンクレッドは、決して無理強いをしない。触れるときはいつも丁寧で、こちらを窺っていて、探って、だから彼の手はいつだって心地よさを与えてくれるものだった。その感覚を思い出すから、本当は駄目でも嫌でもない。ただ、あんまりに、無垢に高揚した瞳でこちらを見るから、美しくて大事でたまらないなんて声音を吐くから、驚いて竦んだだけ。そして彼ときたら、英雄と呼ばれる女がそんなふうに気を許してくれるのを知っていて、わざと言葉で問うのだ。とんでもない男だ。
とぷん、と音立てて尾の先を巡らせると、女はうんうん唸りながら、それとなく彼の肩を押して離れようとして、抱き寄せられて失敗した。逃げられない。
「…………ま、……待って」
「……それは良いが、あんまり時間をかけても良くないんだろ?」
「うぐゥ……」
至極楽しげな顔でこちらを見るサンクレッドに、女は今度こそ恥じらった呻き声を溢した。
確かに、脱皮という行為に時間がかかりすぎるのはよろしくない。脱ぐはずの古い皮が、乾燥して癒着したり、そのせいで壊死や腐食をおこしたりするからだ。それが原因で起こる皮膚トラブルや、四肢の切断処置に至る重篤な被害も少なくない。
サンクレッドが迫るのはもちろん彼女の健康を案じてのことだろうが────いや、わからない、表情を見るに急かして楽しんでいるのかもしれない────ともかく彼女にとって、今頷くことは、何だか取り返しのつかない事態を招きそうでひどく躊躇われることであった。
視線を逸らして黙り込んだ女の様子を、じいと覗き込んで、サンクレッドはひとつ息をついた。そうしてゆっくりと、彼女を拘束していた腕の力を抜く。
「……、サンクレッド?」
諦めたのだろうか。アウラの女が、不思議そうに彼を見上げるや否や。
「邪魔するぞ」
サンクレッドの足がバスタブ内に侵入してきた。
「ちょっと!!」
慌てて端まで逃げる彼女を追うように、スラックスをまとったままの彼の両足が、それからナイフを外した腰が、シャツの向こうの肌が透けるほど濡れた胸元が、ふてぶてしく湯船に浸かっていった。オールドローズの花弁がひとひら、流れ出る湯に押されてこぼれ落ちていく。
呆気にとられて咄嗟の言葉すら出ない彼女の腕を軽く引いて、サンクレッドは女を身体の上に乗せると、肩まで沈み込んで大きく呼吸した。花の甘やかな香りが、湯気とともに立つ。
「……いや……いやー……いやいやいやいや……」
急展開にまともな言語が口に上らない。もはや抵抗する気力すら失って、彼女はぐったりとサンクレッドに全身を預けた。
「いや…………何、これは……?」
「この方がやりやすいだろ?」
「剥かせてもらえる前提で話を進めるんじゃないよ!」
いっそ牙を剥いてやろうかと間近で唸ってみせても、それすら可愛いと眼前のヘーゼル・アイが微笑むものだから。
今回の根比べで負けたのは、彼女の方だった。
「…………、……好きにして」
唇を噛む彼女の口許を指で解しながら、サンクレッドはへらりと緩むように笑った。
武器を握るせいで厚く硬くなった彼の指の皮が、ゆっくりと女の肌を撫で下ろす。破れた古皮をつまんで、引き下ろして、剥がすのに意外と力が要ることに気付いて息を吐く。
「こりゃ、重労働だな」
「まあ……慣れたけどね……」
こうなってしまえば腹は決まったもので、サンクレッドの手が身体中を這い回る間、彼女はおとなしく彼の上に寝そべっていた。何が楽しいのかはまでは読み取れないが、彼は熱心に古皮を裂き続ける仕事をこなした。残骸が薔薇の横に浮き上がるのを気にすら留めず、たまに興味深そうに指で弄って、そして剥き出しになっていく新しい表皮の白い輝きを丹念に撫でて、残した古い皮がないか探る。まるで自分のものみたいな態度で、当然みたいに、腹も尻尾も、あられもないところまで触るので、もしかしたら“その気”になっているのではないかとサンクレッドの顔を見るのだが、榛色の瞳は変わらず優しい色合いをしていた。
「…………、したい?」
「んー……」
彼女の問いにサンクレッドは、内腿の古皮を剥いてやりながら、曖昧な声をあげる。
「……いや。触っていたい。今は」
改めて彼女を湯の中で抱き締めると、サンクレッドはひとことひとことを、自分でも確かめるように囁いた。どうしたって男で、好いた女の前だから、いやらしい気持ちの欠片だってある。のだが、それよりも自身の手が彼女を生まれ変わらせているということが、自身でも理解できないくらい嬉しくて、その悦びを咀嚼するのに大分時間がかかっていた。触れているだけで苦しいほど満たされるのだと、彼女の輪郭をなぞるたび、少しずつ愛の概念が書き換わる。
彼女のかさついていた踵が、柔らかくつややかに露出するのを触れて確かめると、サンクレッドは一仕事を終えた満足の息を吐いた。
「どうだ?」
「んー」
彼女自身も肌を撫でて、剥がし残しがないか確かめて、頷く。
「良いみたい。…………ありがと」
「こちらこそ。貴重な体験をさせてもらったな」
結果的に、そう体力を消費せず脱皮を終えられたのはサンクレッドのお陰だ。渋々礼を述べる彼女の額にたっぷりと口付けて、サンクレッドは湯の上に広がる古皮の破片を拾い上げると、陽光に透かして観察した。
「記念にもらっても良いか?」
「ダメに決まってんでしょ!」
女は悲鳴じみた声を上げた。縁起の良いものでも、薬の材料でもない、これからただ不潔になるだけのごみを取っておきたい奴の気が知れない。
「駄目か?」
「だめ、それはだめ、絶対だめ、持ち帰ったら三回殺す」
「物騒だな……おとなしく諦めるとしよう」
サンクレッドは肩を竦めると、改めて彼女の頬を撫でた。彼女がアウラ・レンに分類される所以である、白金色の、まだ柔らかな鱗だ。彼女がまとう白こそ、無垢の色で、純真の色で、光と午睡の色だと、思った。
「……綺麗だ」
サンクレッドが、のぼせたように何度も何度も口にするから、彼女はむず痒い心を隠すように視線を落として、彼の喉元を見ていた。汗をかいた首筋に、賢人位を表す刺青が見える。
「…………白は。後ろ暗い奴が纏う色だ、と」
ふと、彼の声が水面に落ちて波紋を作るので、女は思わず顔を上げてサンクレッドの目を見つめた。淡い色彩のヘーゼルアイは、不思議に思うほど凪いで、こちらを見返している。
「だから、白い髪の俺は、生まれながらに悪党向きだと。……言われたことがあるよ」
「…………誰が、そんなこと言うの」
「俺の腕を買ってた悪い奴、さ。……二十年近くも前のことだし、今更、何を思うわけじゃないんだが」
手のひらいっぱいで彼女の頬を包みながら、サンクレッドは笑った。可笑しくて噴き出すようにも見えたし、嘆きを掻き消すかのようにも見えた。怒りをすり替えたようにも見えたし、それから────愛おしさで泣き出しそうにも、見えた。
「……何だって、こんなにも……俺の白と、お前の白は、違うんだろうなあ……」
睫毛を震わせたのは、サンクレッドではなく、彼を愛する彼女だった。思わず伸びた細い腕が、彼の頭をきつく抱き締める。
唐突に打ち明けられた、過去に彼が受けた言葉は、確かに幼い心を刻んだはずなのに、その傷痕を戒めの楔のように語るものだから、彼女は悔しくて歯痒くて仕方なかった。鏡に白銀の髪を映すたび、何を思って生きてきたというのだろう。
同じだ。サンクレッドも、彼女も、同じ色であるはずなのだ。纏う白は穢れなき意思の色で、未来を誓う愛の色で、立ちはだかる絶望を切り裂く白刃の色だ。
「同じよ」
「違うんだ」
「おんなじよ」
「……こんなに綺麗じゃないんだ」
「綺麗だよ」
サンクレッドの髪に指を差し入れて、ゆっくり撫でながら、彼女はそう言い聞かせた。頭の先に角を擦り付けるのはアウラ族の愛情表現で、こんなことで彼がどんなに大事で可愛いか伝わってくれればいいのにと、願う仕草だった。
「好きよ」
彼女の声に、サンクレッドは目を細めて、小さく頷いた。
漂うみたいな沈黙の中、しばらくそうやって抱き合っていた。乗り出した彼女の背に、サンクレッドは湯をかけてやる。
「温くなったな。…………湯、足すか」
「……その前に脱いだら」
どうやらしばらく湯船に居座る気になったらしいサンクレッドの、身に付けたままの衣服をつまんで、彼女は腕の力を緩めて彼を見下ろす。微笑んだサンクレッドの唇が、彼女の角の先に触れて、鼻先を撫でて、それから小さな口を吸おうと近付いた。いつもそれ以上の接近を阻むような彼女の角は、今ばかりはサンクレッドを傷つける鋭利さを持たなくて、丸い吐息がキスを迎え入れた。
とぷん。水音が響く。
「……脱いだら催しそうだ。付き合ってくれるか?」
「最低だよこの流れで……」
明け透けなサンクレッドの言い様に、アウラの女は思わず噴き出してしまいながら、彼の肩に頭をもたれた。
「馬鹿ね」
小さく囁かれた彼女の声が、字面と裏腹に、愛している、と言っているような気がして、サンクレッドはその心地よさに瞼を落とした。
とぷん。水音が聞こえる。
「……次は普通に、一緒に入るか?」
「…………、良いよ。スクラブで擦ってあげる」
「俺にやってどうするんだって……」
くすくすと、さざめくような笑い声が、水滴で濡れた壁に反響して響いた。
最初、彼女の変化に気付いたのはウリエンジェだった。
北洋に位置する知の都、オールド・シャーレアン。未曾有の世界危機である終末の災厄を退けた今、俄に外つ人で賑わっていた港も、常どおり凪いできた頃だった。
地下に広がる巨大施設『ラヴィリンソス』は、かつて月に持ち行く知識や生物を集積する役目を持っていたが、現在では造られた当初の目的である“保管”に重きが置かれるようになっていた。未来に遺されるための楽園。命の人工奔流。天の果てへと翔けた魔導船をも収容しているそんな場所へ、サンクレッドとウリエンジェは、各地を巡る旅から舞い戻っていた。其処で働く職員たちと、月の船員レポリットたちとの橋渡しをするためだ。
我らが光の戦士が訪ねてきたのは、そんな折である。救世の英雄として名を轟かせた彼女は、そんな栄誉は何のその、ただの冒険者みたいな顔で世界中を歩き回っては、定期的に仲間のもとへ手土産と共にやってくる。
今日はラザハンの酒を持ってきたと人懐っこく笑う彼女の顔を目にした途端、ウリエンジェは不思議そうに目を丸くした。アウラ族である英雄の頬に躊躇なく手を伸ばして、その表皮が奇妙に破れている箇所を撫でる。戦闘で負ったものではなさそうだし、そもそも傷ではないらしい。癒し手を担う彼は、特に他人の異常というものに目敏く、不可解な皮膚の状態を気に留めたようだった。
ウリエンジェの冷えた指の感覚に、心地良さそうに目を細めると、英雄と呼ばれる女は事も無げにこう答えた。
「そろそろ脱皮するから、痒くて掻いちゃった」
「脱皮」
横でやり取りを聞いていたサンクレッドが、すっとんきょうな声でおうむ返しする。脱皮。それは蟹や蛇など特定の生き物が起こすことであるが、少なくともサンクレッドは、ヒトが古皮を脱ぐなんて聞いたことがなかった。ウリエンジェを見れば同じく驚いたようで、深く考え込みながら英雄たる女を見つめる。
「失礼ですが……、それはアウラ族にとって、一般的な事象なのでしょうか……?」
「一般的……ではないかもしれないね」
彼女が続けて言うことには、アウラの生態の中でも特に個体差の大きいものらしい。そもそも脱皮を必要としない者も多く、また脱皮をする者でも、尻尾や角のみだとか、鱗部分だけ剥けるだとか、月に何回も剥かなければならない者も数年に一度で済む者もいて、頻度も程度も全く違う。
「アウラ族同士で話すなら、まあ珍しいことでもないかなーって思うし。剥いてる間ってどうしても無防備でしょう。わざわざ教えたり記録したりしないんじゃない?」
「なるほど……」
文献に見られないのは、そんな理由もあるかもしれない。感心したようにウリエンジェが唸るが、ふと英雄を見下ろして首を傾げる。
「……よろしかったのですか。私どもに打ち明けて」
今まであまり他言をしなかったのは、彼女も同じだったろう。訊ねてしまった手前ではあるが、そう簡単に話してしまって良かったのだろうかと、ウリエンジェは今更ながら気遣う。対して英雄たるアウラは、特に構う様子もなく、からりと笑って頷いた。
「聞かれなきゃ言わないってだけだからさ」
「そう、ですか……」
特に親しい者がアウラ族にいない限り、そう簡単に知ることは出来ない情報は、ウリエンジェの知識欲を刺激したようだった。あんまりに快活な様子の英雄に甘えて、そうっと髪を撫でるような声が差し出される。
「……貴女は、その。どの程度……?」
「全部」
「全部?」
「へぇ」
思わず大きくなったウリエンジェの声に、サンクレッドのそれが重なった。感嘆の意、というよりも、十つにも満たない少年が好奇心のままに吐く息だとか、立派な昆虫を見つけて喜ぶ笑みだとかに近い。
全部。というなら、全身だろう。ヒトの形をしたものが、しなやかな爬虫類のように古皮を脱ぎ捨てて、新たな皮膚を得ると言う。脱皮という行為はしばしば“新生”や“変化”の象徴として語られ、そして英雄たる彼女がそれを行うのは、いかにも神話的な美しい事象のように思えた。
そう思ってしまったからこそ、サンクレッドは心向くままに、未知なる生物の観察を申し出るような調子で、口を開いた。
「なあ。見てても良いか、脱皮」
「は?」
「……サンクレッド……」
英雄の丸くなった目、そして呆れたウリエンジェが首振るのを見て取ることが出来た。何故そんな反応をされるのか、いまいち理解できないサンクレッドは、不思議そうに首を傾げる。
「最中は無防備になるんだろう? お前の事だから、安全な場所があるんだろうが、側に守る奴がいた方が良いんじゃないか」
「それは……そうだけども。それっぽいこと言わないでよ……」
珍しく後退るなどする彼女の鼻先を追って、サンクレッドは一歩進む。
「もちろん、俺の知的好奇心を満たすためでもあるんだが……何か手伝えることがあれば、それもするぞ」
「えー……あの……えーと……」
歯切れの悪い英雄の肩を捕まえて顔を覗こうとするも、頑なに視線を逸らされてしまう。そこに、そっとウリエンジェが長い腕を伸ばして、英雄とサンクレッドの間を断絶した。いつになく強引な調子の相棒に、ウリエンジェは困り果てた月色の瞳を向ける。
「サンクレッド。……全部ということは、全身、なのですよ」
「ああ、全身……」
そう窘められて頷きかけたサンクレッドだったが、あ、と微かな声を上げると、改めて光の戦士たる女を見つめた。
小さな足、細くも存外とたくましい脚。彼女がアウラ・レンであることを表す、白い鱗に覆われた尻尾。くびれた腰に、小柄な割には豊満な胸部。手折れそうな首、すらりと伸びた角、赤く血色が映える唇まで、くまなく舐めるようにその姿を眺めてしまってから、彼女のじっとり此方を睨む瞳と視線がかち合って、サンクレッドは片手で口許を覆う。
全身の皮を脱ぐというからには、当然衣服の類いは邪魔になる。従って、脱皮の間は一糸纏わぬ姿のままでいるしかなく、それを観察するということは裸身を直視するということになり────そして彼女の肌をありありと思い浮かべることが出来てしまったのは、サンクレッドと英雄たる女傑が、いわゆる男女の仲だからである。ウリエンジェを初めとする仲間たちにも決して隠していることではないが、既に目と指に馴染んだ身体であると公言するように、そうも堂々と扱われてしまうと。
「……あー……」
サンクレッドは曖昧な声を上げながら、英雄から視線を逸らし、微かな声で謝罪した。
「……すまん。その……そういうつもりでは」
「やめて……そのつもりがあってもなくても困るから……言わなくて良いそういうことは……」
英雄たる女は体の前で両腕を組むと、気恥ずかしそうに赤らんだ顔を俯けた。サンクレッドのことだから、色めいた意図なんかこれっぽっちもなく、興味や親切からの申し出だったろう。
そもそも脱皮なんて、アウラ族である彼女にとっては垢を擦り落とすようなことで、例えば汚れを払う様子を他人にじっくり見せられるかと問われれば否である。ただこれが、種族の違う彼にとって興味深い事柄であることも理解できるし、惚れた男の我儘みたいな好奇心くらい受け止めてやるのも吝かではない。
吝かではないのだが、どうしてくれよう、この空気。サンクレッドがあんまり自然に言ってくれたものだから、周囲の目を気にして恥じらってしまった自分が可笑しい反応をしたように思えて、英雄は落ち着かなさげに尾の先を揺らした。せめて二人きりの時に言ってくれたなら、まだ返事のしようがあったのに。
「…………なるほど。アウラ族が進んで脱皮の話をしないのは……興味本位に覗かれることを防ぐため、というのも、理由のひとつのようですね」
訳知り顔で口を開いたのは、痴話に巻き込まれた第三者であるウリエンジェだった。遠回しにサンクレッドの軽率な発言を責めるようでいて、その口許がほんのり笑っているものだから、冗談と見抜いたサンクレッドは気楽にウリエンジェの長身を小突く。
「本当に悪かった。除け者にしたわけじゃないんだ」
「仲睦まじいようで何よりです。しかしサンクレッド……貴方はもう少し……デリカシーというものを持って彼女に接した方がよろしいかと……」
「……まさかウリエンジェ大先生から、デリカシーについて講釈を受けるようになるとはなぁ……」
深く長い溜め息をついたサンクレッドに微か笑うと、ウリエンジェはそっと英雄の顔を覗き込む。
「ですが、サンクレッドの言うように……そういった状態でいるのなら、余計に……気心知れた相手を側に置いておくのも、身を守る手段かと」
低く穏やかな彼の声は、南風のような旋律の、独特な響きを持っていて、優しく聴覚に届くからいつも聞き入ってしまう。そうしてその言葉を紐解いていけば、可とも否とも言えなくなっていた彼女に助け船を出そうとしているのだろうウリエンジェの意図が感じられて、英雄はほんのり笑った。
もちろん、英雄たる女傑にもセーフハウス────人に場所を明かさないことで安全を守る、秘密基地みたいな棲みかがあって、脱皮は常にそこで行っていた。しかし、滅多にないことであるが、有事の際にはそのまま応戦しなければならないことも確かで、各方向から慕われ、持て囃され、つけ狙われる立場にある身としては、心許なく感じる時があるのも確かだ。
その点、サンクレッドは守護の技にも長けた手練れで、懸念を潰すに適した存在だ。それに今更体のどこを見られても構うような間柄ではないし、万が一、途中で“そのつもり”になったとしても自然な相手ではある。むしろそういう仲である女の裸体を前にしてそうならないのはどうかと思うが、いや、それはまた別の話だ。
「護衛としての力量なら申し分ないことは、貴女もご存じのはず……受けた無礼の分、働かせるとよろしいかと……進言させていただきます」
「……さては、根に持つタイプだな」
わざとらしい恭しさで頭を垂れるウリエンジェと、渋い顔でそれを見ているサンクレッドの様子に、英雄はくすくすと肩を揺らした。
彼らがお互いに見せる気の置けなさは見ていて愉快なもので、二人の旅路の、実に痛快な様子がありありと想像できた。こうして軽口を叩きあいながら共に歩いているのだろう。その関係性はきっと、サンクレッドとウリエンジェにしかないもので、そうやって彼らが友情を深め合うのを、英雄は何だか嬉しく思っていた。
かつて独断でミンフィリアを第一世界に送り込んでしまったと悩んでいたウリエンジェと、ミンフィリアを妹のように大事に思っていたサンクレッド。お互いに思うことは山となるほどあっただろうが、今は、良いのだろう。言葉よりも態度が示す二人の在り方は、明るくて、強固で、温かくて、英雄には少しだけ羨ましく思えた。
「……良いな、男同士の友情って」
「何だよ、急に」
ウリエンジェにじゃれていたサンクレッドが、照れ隠しの怪訝そうな顔でこちらを見るので、英雄はゆったり首を振った。
「まあ、ウリエンジェがそう言うなら、雇ってあげても良いよ」
「…………そりゃ、光栄だな」
エーテルの光でほんのり輝く彼女の瞳に、サンクレッドは安堵の笑みを溢した。我らが英雄にして愛しい女性である彼女に機嫌を損ねられてしまうと、未だに確かな懐柔法が分からなくて難儀するのだ。感謝の意を込めて、サンクレッドがウリエンジェの肩をぽんと叩くと、穏やかな月色の瞳が微笑みの形に細められた。
「その間は、私もしばし、休息の時といたしましょう」
「少し時間がかかっちゃうかも。大丈夫?」
「お気遣いなく。……私も、久方ぶりにゆっくりと……月との逢瀬を楽しもうかと、思っているのですよ」
ウリエンジェが、あまりに優しい笑顔でそう言うものだから、英雄もサンクレッドもしばし言葉を失って、顔を見合わせた。それから淡い笑みを口許に浮かべると、英雄は手土産の酒をウリエンジェに渡す。
「そういうことなら、持っていって。ムーンブリダも喜ぶでしょう」
優れた錬金術の賜物であるラザハンの蒸留酒は、香り良く、美しい琥珀の色で、故人の思い出と語らう友に適したものと思われた。酒豪で知られた満月の君も、きっと気に入ることだろう。ウリエンジェは、英雄から差し出された酒瓶をそうっと受け取ると、大事そうに腕でくるんだ。
「……では、有り難く」
「お前はあんまり飲みすぎるなよ。弱いんだから」
「紅茶に垂らしても美味しいんだって。試してみて」
笑って肩をすくめるサンクレッドと、頷いた英雄の顔を丁寧に覗き込んで、ウリエンジェは長い睫毛を上下させた。淡い金色の、月の光を映し込んだような瞳が細められる。
「彼女のご両親にも、差し上げても?」
「もちろん。良い休暇をね、ウリエンジェ」
友たる英雄の言葉に、ウリエンジェはゆっくり頭を垂れた。
「ええ。そちらも、良い休暇を。お二人とも、ごゆるりと、お過ごしください」
ウリエンジェを見送ったあと、サンクレッドと光の戦士が向かったのは、森の都グリダニアである。テレポの使えないサンクレッドの足に合わせて、北洋からリムサ・ロミンサまでを船旅で、その先は飛空艇を使うことで、エオルゼア随一の森林地帯、深緑の景色広がる黒衣森へとやってきた。
と言うのも、彼女が個人的に持っているセーフハウスが、『リリーヒルズ』────冒険者居住区である『ラベンダーベッド』、その一角に建てられたアパルトメントの一室にあるからだ。オールド・シャーレアンからの移動に数日かかるため、今回はバルデシオン分館のナップルームを借りようかとも思ったのだが、慣れない場所で慣れない相手の存在を意識しながらおこなっては疲れるだろうと、サンクレッドに促されてのことだった。
「俺だけが此処を知っていると言うのも、気分が良いしな」
「……もしかして、それも目的?」
とぷん。水に深く沈む音が反響した。
いかにも訝しげな声を出す彼女に、サンクレッドは薄手のシャツに包んだ肩を揺らして笑いながら、開け放たれた窓から差す陽光に目を細める。
「良い相手のことなら何でも知りたいだろ?」
「呆れた男!」
言い捨てるような口調には、鈴のように転がる親愛と信頼が込められていた。輝くような白い鱗の、滑らかな動きが見える。ぺしゃりと温い水飛沫が頬に飛んでくるので、サンクレッドは手で顔を拭いながら、改めてその場所────浴室を見渡した。
彼女の部屋は、簡素で、質素で、飾り気はないが落ち着いた、採光の良いワンルームだった。美しい木目の壁と床、必要最低限の家具と、少ない食器が行儀良く収まっている。
しかしその素朴さから一転して、奥にある浴室は賑やかなものだった。一般的に必要とされるよりもやや広めにスペースを取っていて、開放的な印象だ。大きな出窓から見える蒼穹と緑の景色も、浴室にありがちな閉塞感と湿っぽさを払拭する。備え付けられた棚には、薬品らしきものが入った瓶が、様々に、色とりどりに並べられていて、サンクレッドは何気なくひとつを手にとって揺すってみた。
「これは?」
「ハニーヤードの蜂蜜を使った保湿剤」
「……これは?」
「ロッホ・セル湖で採れた泥のパック」
「…………これもか?」
「それは塩スクラブ。ロッホ・セル湖産」
「多いな、ロッホ・セル湖……」
「肌に良い成分がいっぱい入ってるんだって」
とぷん。水の中を蠢く音に、サンクレッドはそちらへと、榛色の瞳を向ける。
カーバンクルの意匠を施した大理石の小型浴槽、温かな湯の中に、英雄たる女は揺蕩っていた。オールドローズの花弁をたっぷり散らした水面の合間、熱にほぐれた白い肌と、濡れた光を放つ白鱗が見える。彼女が湯船の中を泳ぐたび、薔薇の香りを纏った湯が溢れて、細やかな波になってサンクレッドの爪先に触れるので、スラックスの裾を捲っておかなければならなかった。
お気に入りの水槽に入れられて寛ぐ、観賞用の水棲生物みたいだ。そう思ってもまた怒られてしまいそうで口にはしなかったが、彼女がそういう、人知の及ばない、美しい生き物であるような感覚がサンクレッドにはあって、それは彼女の尾の滑らかな曲線が陽光を反射するたびに強くなる。
衣服も肩書きもすべて脱ぎ捨てて湯の中を滑るアウラの女は、興味のままに浴室中を歩き回るサンクレッドの様子を、エーテルでほんのり光る瞳で観察していた。
「あとでやってあげる。すべすべになるよ」
「俺にやってどうするんだ」
笑う彼女の申し出に、サンクレッドは首を振って遠慮を示すと、バスタブの側に置かれた丸椅子に腰かけた。
ラフな軽装に身を包んだサンクレッドの腰には、護衛の役目を果たすためのコンバットナイフが、二本一対で下げられていた。愛用のガンブレードを持ち込んでも良かったのだが、アパルトメントの一室という限定された空間であれば、より攻撃的で身軽な双剣術の方が有利に事を進められる。よって、相棒の得物はコートと共に、部屋の中で留守番中だ。
彼女と睦みながら過ごすための装いに、懐かしい手触りの武器。サンクレッドにとっても彼女にとっても今の状態は非日常的で、少しばかり高揚して、それ以上の安寧に夢見るような心地だ。サンクレッドは湯の中に手を入れると、彼女の細い肩に湯をかけてやる。
「湯加減はいかがですか、お嬢様」
「ちょうど良いわ。ありがとう」
くすくすと響く笑い声に、とぷん、と水音が重なった。
この浴室が、彼女のプライベート中のプライベートを彩るために造られたものであるのは、一目瞭然だった。聞けば、兆候を感じたのちに入浴することで古皮をふやかし、同時に新皮を潤わせながら脱皮するのが今時の流行りらしい。当然湯に浸かっている時間も長くなるため、目で、鼻で、指先で楽しめるものを多く取り入れており、快く過ごせるよう工夫を凝らしているとのことである。
「もともとお風呂用品って好きだしね。いろんなものを気兼ねなく試すなら、自分の家しかないし」
小さな浴槽でも、小柄な彼女にとっては広々としたものだ。尻尾の先まで身体を伸ばすと、とぷん、と音を立てて湯を掻き分け、サンクレッドに鼻先を向ける。
「意外だな。そういうものに興味があるのは……」
サンクレッドの指が、彼女の濡れた髪を額からよけていった。角に触れ、艶やかな鱗のひとつひとつをなぞり、緻密な細工めいた表皮が脈動していることに感嘆の息を漏らす。
「……いや。普段が女らしくない、と言っているんじゃないんだが」
噛み付かれる前に言い訳をしながら、彼女の赤みを帯びた唇を親指で撫でた。
「何て言うんだろうな。……いつも、戦わせてばかりだったから」
光の戦士であり、救世の英雄である彼女には、とにかく今まで埃っぽく血腥い戦いを強いてばかりで、だから色っぽい話はおろか、お洒落なんてものにも気が向いていないように見えていたのだ。このささやかな宝物庫を見たあとでこれまでを思い返せば、彼女はいつも綺麗で清潔で、それが努力の賜物であったことが察せられた。
慎重に言葉を選ぶサンクレッドの心中を悟ったか、アウラの女はニンマリと笑みを溢すと、湯で柔らかく解れた指先で彼の頬に触れた。
「全部私がしたくてやったの」
「……ああ、そうだろうな。お前ほどのお人好しなんか見たことがない」
サンクレッドは伸びてきた彼女の手を握ると、労るようにゆっくり撫でた。小さくて、細くて、爪が丸い。こんなに頼りなく思える手指なのに、望まれれば何だって己の意志に変えて戦う彼女は、サンクレッドよりもずっとずっと多くを守ってきた強き英雄だ。そしてそんな彼女の肌が、目の前で無防備に晒され、従順に差し出されているのは、ひどくサンクレッドの庇護欲を刺激した。他の誰も触れることのない、知るよしもない、彼女の秘された柔らかさを守ってやれる権利が自分にあることに、陶酔にも似た優越感さえ沸き上がる。
「大きい手」
彼女がそう言って心地よさげに瞼を落とすから、サンクレッドも笑った。彼女の手の甲を飾る硬質な鱗は意外にも滑らかなもので、唇を寄せても傷付くことはなく、そうしてひとつひとつを愛撫していれば、いつの間にかその指先が奇妙にふやけていることに気付いた。なるほど古皮が剥がれてきたか、と察して弄っていれば、くすぐったがった彼女が尾を大きく動かしてザブンと湯水を被せてくる。温さと共に打ち上がったオールドローズの花弁が、サンクレッドの踵に触れていった。
「そんなに遊ばないでよ!」
「っは。つい、な」
景気よく濡れた顔を拭いがてら彼女の手を放せば、湯船の中に引っ込まれてしまった。名残惜しさを覚えながら、サンクレッドは額に貼り付いた髪を掻き上げ、彼女の様子を見守る。
とぷん。とぷん。花に彩られた水面下で、アウラの女の身体が蠢く音が断続的に響いた。肌の様子を確認して、爪の先をうなじに差し入れて引っ掻く。
「……いけそうか?」
「うん」
サンクレッドに頷くと、彼女は少しだけ首を捻って、改めてこちらを見ている男を眺めた。榛色の瞳から注がれる視線が、ありありと関心と好奇心を伝えてくるから、呆れるやら安堵するやらで笑ってしまう。
「本当に見たいのね」
「……そう言っただろ?」
「こういうの、気味が悪いと思う人だっているんだろうのにさ」
何かを言い連ねようとしたサンクレッドを制して、女は自らのうなじに爪を立てた。ぷち、と皮の裂ける音がする。
「あんたっていつも、綺麗なものみたいに私を見てる」
そう囁くと、破いた古皮に指をかけた。
首が露出する。次いで、たおやかな頬の曲線、自慢げに伸びた角、つんと上向いた鼻先が、水滴を弾いて煌めきながら現れる。包装紙みたいに簡単に剥がれていくその向こう側、新しい皮膚の真っ白な輝きが、サンクレッドの視界を焼いた。真珠みたいな柔らかい光沢の鱗は、風に触れたその瞬間から硬化を始めて、白金色の鎧となって翼のように肌の上へと浮き上がっていく。
例えば、雄大なる雲海の朝焼けを見渡した時に、同じ衝撃を受けるだろう。繊細な装飾にルビーを埋め込んだ、古代の宝剣を前にした時と同じ。星降る夜に鯨の声を聞く時と同じに。視界が急に開けるような、音が消えるような、清々しさが鼻を通るような。サンクレッドの目前で起こる神秘は、彼にとってまさしくそういった類いの感動で、彼女は曇りなく“新生”の象徴であり、“変化”の体現であった。
胸元まで一息に古皮を脱いでしまうと、彼女はサンクレッドの顔を見るなり、はにかんで首をすくめる。
「……そんなに楽しい?」
「そりゃあ……そう、だろ」
サンクレッドはうわごとみたいに呟きながら、誘われるように彼女の頬へと指を伸ばした。硬く変質が始まっているものの、剥き出しになったばかりの鱗はいつもより随分柔らかくて、圧倒されそうな美しさとは裏腹の、あどけなささえ感じた。不躾な指に彼女が唇を寄せるから、サンクレッドはたまらず破顔する。
「こんなに綺麗なんだぞ」
彼女の睫毛の先に水滴の珠が浮かぶのを、もっと側で見ていたくて、サンクレッドは愛しい姿に額を寄せた。
情欲を煽られる、と言うよりは、己の信じたものが疑いようもなく貴いことを思い知って嬉しがるような、少年みたいに無邪気な顔をするものだから、アウラの女は引き寄せられるままに鼻先を重ねて目を閉じる。彼のそんな視線を間近で浴びてしまうのは、戸惑うほどに気恥ずかしかった。
「……変な人……」
「変なもんか。綺麗だ、すごく」
サンクレッドの唇が、彼女の瞼に触れた。濡れた睫毛を拭っていくと、微笑む気配が角を撫でていく。
「こんなに綺麗なんだぞと、知ってる奴ら全員に見せびらかしてやりたいところだが、絶対に誰にも見せたくない……」
まるで秘密の宝物をしまいこむ子どもみたいな台詞だ。思わず笑ってしまった彼女は、うっかり彼のヘーゼル・アイが輝くのを覗き込んでしまった。
綺麗だと言うのなら、サンクレッドもそうだ。女や彫刻や宝石のような繊細さではなくて、男として、命として、刃としての精巧さと精悍さだ。涼しげに整った目鼻立ちはいかにも色男で、しかししっかりした顎や振りかざすような眼光からは力強さも感じられる。
美しくて、逞しくて、鮮やかな男だ。光の戦士として多くを見てきた彼女からしても、サンクレッドは特にハンサムで、おまけに命を預けたって良いつわもので、そんな男が愛おしげに眼差してくれることが、彼女の心をくすぐって浮き立たせる。
そうしてしばらく見つめ合っていれば、サンクレッドの、灰銀の睫毛に縁取られた榛色の瞳が、眩しそうに細められた。
「きっとこの先、俺の前には、お前以上に綺麗なひとなんか現れないんだろうな」
────とんでもない口説き文句をぶつけられるものだ。女は大きく目を見開くと、怯んで首を引っ込めようとして、サンクレッドの手に肩を掴まれ止められてしまった。
「ぬ、っ、濡れる、濡れるから」
「もう濡れてる」
「……大袈裟でしょう、こんなことで……!」
「妥当だろ。自分に詩の才能がないのを、こんなに悔やんだことなんかないぞ」
サンクレッドときたら熱っぽく浮かれた声音で、頬擦りまでしてくるものだから、英雄たる女傑は小娘みたいな悲鳴を噛み潰した。むずむずと微弱な抵抗を試みるもまったく通用しない。
そんなことをしているうちに、サンクレッドの指が鎖骨のあたり、破りかけの古皮に触れたので、彼女はギャアと鳥獣めいた叫び声を上げた。
「何してんの!?」
「剥いても良いか?」
「“剥いても良いか”ァ!?」
慌てて体を捻って拒否を表すも、好いた男に対して拒絶はできようはずもなく、捕まったままじゃれているみたいになる。
「えっ、何で、剥きたいの!?」
「気持ちよさそうじゃないか、景気よく剥けたら」
「人の皮を何だと思ってんだよぉ!」
一生懸命威嚇してみるのだが、綺麗な笑みが近くにあっては動揺して空回るばかりだ。サンクレッドの唇が、彼女を宥めようと角や頬を撫でるので、尚更。込み上げる羞恥と、体温と共に染み込む安堵に思考を揺らされて、もはや彼の思うつぼ、されるがままになりつつある。それでも投げ出しそうになる腕を突っ張って、彼女は勢いよくかぶりを振った。
「だめ、やだ、」
「嫌か」
低く優しい声が舐るように囁くので、彼女はひくりと水滴を跳ねさせて動けなくなった。
サンクレッドは、決して無理強いをしない。触れるときはいつも丁寧で、こちらを窺っていて、探って、だから彼の手はいつだって心地よさを与えてくれるものだった。その感覚を思い出すから、本当は駄目でも嫌でもない。ただ、あんまりに、無垢に高揚した瞳でこちらを見るから、美しくて大事でたまらないなんて声音を吐くから、驚いて竦んだだけ。そして彼ときたら、英雄と呼ばれる女がそんなふうに気を許してくれるのを知っていて、わざと言葉で問うのだ。とんでもない男だ。
とぷん、と音立てて尾の先を巡らせると、女はうんうん唸りながら、それとなく彼の肩を押して離れようとして、抱き寄せられて失敗した。逃げられない。
「…………ま、……待って」
「……それは良いが、あんまり時間をかけても良くないんだろ?」
「うぐゥ……」
至極楽しげな顔でこちらを見るサンクレッドに、女は今度こそ恥じらった呻き声を溢した。
確かに、脱皮という行為に時間がかかりすぎるのはよろしくない。脱ぐはずの古い皮が、乾燥して癒着したり、そのせいで壊死や腐食をおこしたりするからだ。それが原因で起こる皮膚トラブルや、四肢の切断処置に至る重篤な被害も少なくない。
サンクレッドが迫るのはもちろん彼女の健康を案じてのことだろうが────いや、わからない、表情を見るに急かして楽しんでいるのかもしれない────ともかく彼女にとって、今頷くことは、何だか取り返しのつかない事態を招きそうでひどく躊躇われることであった。
視線を逸らして黙り込んだ女の様子を、じいと覗き込んで、サンクレッドはひとつ息をついた。そうしてゆっくりと、彼女を拘束していた腕の力を抜く。
「……、サンクレッド?」
諦めたのだろうか。アウラの女が、不思議そうに彼を見上げるや否や。
「邪魔するぞ」
サンクレッドの足がバスタブ内に侵入してきた。
「ちょっと!!」
慌てて端まで逃げる彼女を追うように、スラックスをまとったままの彼の両足が、それからナイフを外した腰が、シャツの向こうの肌が透けるほど濡れた胸元が、ふてぶてしく湯船に浸かっていった。オールドローズの花弁がひとひら、流れ出る湯に押されてこぼれ落ちていく。
呆気にとられて咄嗟の言葉すら出ない彼女の腕を軽く引いて、サンクレッドは女を身体の上に乗せると、肩まで沈み込んで大きく呼吸した。花の甘やかな香りが、湯気とともに立つ。
「……いや……いやー……いやいやいやいや……」
急展開にまともな言語が口に上らない。もはや抵抗する気力すら失って、彼女はぐったりとサンクレッドに全身を預けた。
「いや…………何、これは……?」
「この方がやりやすいだろ?」
「剥かせてもらえる前提で話を進めるんじゃないよ!」
いっそ牙を剥いてやろうかと間近で唸ってみせても、それすら可愛いと眼前のヘーゼル・アイが微笑むものだから。
今回の根比べで負けたのは、彼女の方だった。
「…………、……好きにして」
唇を噛む彼女の口許を指で解しながら、サンクレッドはへらりと緩むように笑った。
武器を握るせいで厚く硬くなった彼の指の皮が、ゆっくりと女の肌を撫で下ろす。破れた古皮をつまんで、引き下ろして、剥がすのに意外と力が要ることに気付いて息を吐く。
「こりゃ、重労働だな」
「まあ……慣れたけどね……」
こうなってしまえば腹は決まったもので、サンクレッドの手が身体中を這い回る間、彼女はおとなしく彼の上に寝そべっていた。何が楽しいのかはまでは読み取れないが、彼は熱心に古皮を裂き続ける仕事をこなした。残骸が薔薇の横に浮き上がるのを気にすら留めず、たまに興味深そうに指で弄って、そして剥き出しになっていく新しい表皮の白い輝きを丹念に撫でて、残した古い皮がないか探る。まるで自分のものみたいな態度で、当然みたいに、腹も尻尾も、あられもないところまで触るので、もしかしたら“その気”になっているのではないかとサンクレッドの顔を見るのだが、榛色の瞳は変わらず優しい色合いをしていた。
「…………、したい?」
「んー……」
彼女の問いにサンクレッドは、内腿の古皮を剥いてやりながら、曖昧な声をあげる。
「……いや。触っていたい。今は」
改めて彼女を湯の中で抱き締めると、サンクレッドはひとことひとことを、自分でも確かめるように囁いた。どうしたって男で、好いた女の前だから、いやらしい気持ちの欠片だってある。のだが、それよりも自身の手が彼女を生まれ変わらせているということが、自身でも理解できないくらい嬉しくて、その悦びを咀嚼するのに大分時間がかかっていた。触れているだけで苦しいほど満たされるのだと、彼女の輪郭をなぞるたび、少しずつ愛の概念が書き換わる。
彼女のかさついていた踵が、柔らかくつややかに露出するのを触れて確かめると、サンクレッドは一仕事を終えた満足の息を吐いた。
「どうだ?」
「んー」
彼女自身も肌を撫でて、剥がし残しがないか確かめて、頷く。
「良いみたい。…………ありがと」
「こちらこそ。貴重な体験をさせてもらったな」
結果的に、そう体力を消費せず脱皮を終えられたのはサンクレッドのお陰だ。渋々礼を述べる彼女の額にたっぷりと口付けて、サンクレッドは湯の上に広がる古皮の破片を拾い上げると、陽光に透かして観察した。
「記念にもらっても良いか?」
「ダメに決まってんでしょ!」
女は悲鳴じみた声を上げた。縁起の良いものでも、薬の材料でもない、これからただ不潔になるだけのごみを取っておきたい奴の気が知れない。
「駄目か?」
「だめ、それはだめ、絶対だめ、持ち帰ったら三回殺す」
「物騒だな……おとなしく諦めるとしよう」
サンクレッドは肩を竦めると、改めて彼女の頬を撫でた。彼女がアウラ・レンに分類される所以である、白金色の、まだ柔らかな鱗だ。彼女がまとう白こそ、無垢の色で、純真の色で、光と午睡の色だと、思った。
「……綺麗だ」
サンクレッドが、のぼせたように何度も何度も口にするから、彼女はむず痒い心を隠すように視線を落として、彼の喉元を見ていた。汗をかいた首筋に、賢人位を表す刺青が見える。
「…………白は。後ろ暗い奴が纏う色だ、と」
ふと、彼の声が水面に落ちて波紋を作るので、女は思わず顔を上げてサンクレッドの目を見つめた。淡い色彩のヘーゼルアイは、不思議に思うほど凪いで、こちらを見返している。
「だから、白い髪の俺は、生まれながらに悪党向きだと。……言われたことがあるよ」
「…………誰が、そんなこと言うの」
「俺の腕を買ってた悪い奴、さ。……二十年近くも前のことだし、今更、何を思うわけじゃないんだが」
手のひらいっぱいで彼女の頬を包みながら、サンクレッドは笑った。可笑しくて噴き出すようにも見えたし、嘆きを掻き消すかのようにも見えた。怒りをすり替えたようにも見えたし、それから────愛おしさで泣き出しそうにも、見えた。
「……何だって、こんなにも……俺の白と、お前の白は、違うんだろうなあ……」
睫毛を震わせたのは、サンクレッドではなく、彼を愛する彼女だった。思わず伸びた細い腕が、彼の頭をきつく抱き締める。
唐突に打ち明けられた、過去に彼が受けた言葉は、確かに幼い心を刻んだはずなのに、その傷痕を戒めの楔のように語るものだから、彼女は悔しくて歯痒くて仕方なかった。鏡に白銀の髪を映すたび、何を思って生きてきたというのだろう。
同じだ。サンクレッドも、彼女も、同じ色であるはずなのだ。纏う白は穢れなき意思の色で、未来を誓う愛の色で、立ちはだかる絶望を切り裂く白刃の色だ。
「同じよ」
「違うんだ」
「おんなじよ」
「……こんなに綺麗じゃないんだ」
「綺麗だよ」
サンクレッドの髪に指を差し入れて、ゆっくり撫でながら、彼女はそう言い聞かせた。頭の先に角を擦り付けるのはアウラ族の愛情表現で、こんなことで彼がどんなに大事で可愛いか伝わってくれればいいのにと、願う仕草だった。
「好きよ」
彼女の声に、サンクレッドは目を細めて、小さく頷いた。
漂うみたいな沈黙の中、しばらくそうやって抱き合っていた。乗り出した彼女の背に、サンクレッドは湯をかけてやる。
「温くなったな。…………湯、足すか」
「……その前に脱いだら」
どうやらしばらく湯船に居座る気になったらしいサンクレッドの、身に付けたままの衣服をつまんで、彼女は腕の力を緩めて彼を見下ろす。微笑んだサンクレッドの唇が、彼女の角の先に触れて、鼻先を撫でて、それから小さな口を吸おうと近付いた。いつもそれ以上の接近を阻むような彼女の角は、今ばかりはサンクレッドを傷つける鋭利さを持たなくて、丸い吐息がキスを迎え入れた。
とぷん。水音が響く。
「……脱いだら催しそうだ。付き合ってくれるか?」
「最低だよこの流れで……」
明け透けなサンクレッドの言い様に、アウラの女は思わず噴き出してしまいながら、彼の肩に頭をもたれた。
「馬鹿ね」
小さく囁かれた彼女の声が、字面と裏腹に、愛している、と言っているような気がして、サンクレッドはその心地よさに瞼を落とした。
とぷん。水音が聞こえる。
「……次は普通に、一緒に入るか?」
「…………、良いよ。スクラブで擦ってあげる」
「俺にやってどうするんだって……」
くすくすと、さざめくような笑い声が、水滴で濡れた壁に反響して響いた。