春告鳥は鳴かず飛ばず

 最初は、蛇のような女だと思ったのだ。
 新たに『暁の血盟』に協力してくれるという冒険者が、当時拠点としていた砂の家までやってきたというから、サンクレッドは仲間たちと共にかの者の来訪を待ち構えていた。その時の彼女は多くを知らず、導かれるままにやってきて、慣れない場所と初めて見る顔ぶれを警戒していた。────彼女がその時のエオルゼアには珍しいアウラ族であったのも要因のひとつだが、何よりエーテルを含んでじっとりと光る瞳が、睨めつけるようにこちらを見るものだから、静かなる捕食者が訪れた心地で落ち着かなかったのを覚えている。
 ただ、交流を始めてみれば、彼女は非常に人好きのする性質だった。他人に対して常に興味と愛着があって、頼まれれば何でも引き受けてしまう実直な迂闊さと、ほとんどを叶えてしまえる類い稀な力を有していた。だからこそ、蛮神を屠るものとして頭角を表し、帝国の兵器と闇よりの遣いを退けてサンクレッドを救い、────ミンフィリアから希望を託されて、その後も多くと戦いながら多くを助けた。

 そうしていよいよ救世の英雄となった彼女は、当然広く顔が知られるようになる。華やかなる勇士、麗しき英雄なんて称されるようになったのもこの頃からだ。人々が出来事を語り合ううち、噂はよりヒロイックで刺激的になる。最果ての地へと魔導船を操り、終末の災厄を退けたつわものが女であるとなれば、下世話に見目を讃えられるのもまあ頷けたし、実際彼女は綺麗なひとだ。少なくともサンクレッドの目には、彼女の伸びた背筋だとか、こちらを貫くような眼差しだとかが、鮮やかでまばゆく映るようになった。
 最初は、蛇のような女だと思ったのだ。それがいつの間にか、誰にも代えがたい美しい女性という認識になって、サンクレッドの心を炙った。その予感がありながら明確に自覚をしたのは、確か最後の戦いに向かう前のこと。彼女が────ほとんどをひとりで何とかしてしまう我らが英雄が、「頼りにしている」と、穏やかに笑うものだから。どうしてもこの女を守らねばならないと、思ったのだった。

 気持ちに気付いたからと言って彼女との関係に大きく進展があるわけではなく、またサンクレッドは積極的にそれを望むわけではなかった。
 というのも、彼には一番大事な妹がいて、一番大事な娘がいる。ミンフィリアが見たがった世界の在り方のために、リーンが生きてゆく未来のために、自身の命を使っていくものだと思っているし、そのためにこの先いくらでも戦場を駆けるだろう。彼女たちに捧げる生き方と、愛しい女傑を天秤にかけたところで、傾きはしない。
 いつだって誰かのために戦い続けてきた英雄には、彼女を一番に想って寄り添うような人物が相応しいはずだ。だから彼女を何より優先すべきものに出来ない自身は、彼女の幸せを陰ながら願う役目が良いのだと、サンクレッドは確かにそう思っていた。
 しかし、そう思うことと、実際に心を割り切って接することが出来るかと言われると、また別問題なのである。

 ここ最近のサンクレッドは、あまりに機嫌がよろしくなかった。我らが英雄に近付こうとする、不埒な輩が多すぎる。
 今や彼女は世界中から注目され愛される人物で、ゆえに憧れや好意は浴びるほどに受ける。反面で政治的に商売的に利用するために関係を持ちたい者も跡を絶たず、それだけならまだしも、美貌の女傑と一夜の恋なんて望む日和見もいて、陰謀だの下心だの、ともかく下卑た小狡い奴らも集った。サンクレッドを始めとする暁の仲間たちは、そんな話を聞くたびにそれはもう憤慨するのだが、当の本人はといえば気にする素振りもなく飄々としたものだった。
 彼女が別段脅威を感じていないのであればそれに越したことはないが、ある意味では奴らと同じ、彼女に言えない想いがあるサンクレッドからすれば、たまったものではないのである。これまでに浅くない付き合いがある仲間たちや諸国の主要人物、彼女自身が懇意にしている者とそういった仲になるのであれば、まだ理解はできる。ぽっと出のお前たちは何だ、彼女の何が分かるんだと憤っては、サンクレッド自身さえ彼女のすべてを知っているわけではないだろうと自省し、いやそれでも彼らよりは資格があるはずだと気を取り直しては、何と卑しく張り合っているつもりかと頭を抱えた。────理解はできる、なんて言うのも、半分は嘘だ。だって納得はいかないだろうから。
 かの英雄へ並々ならぬ想いを寄せながら、自分の都合で足踏みをしているのだから、こうして葛藤することさえ間違いだろう。なのに、サンクレッドはどうしてもその心を手離せないでいた。



「二人とも、こっちに来てたの」

 オールド・シャーレアンを訪れていた英雄と鉢合わせたのは、知の都の地底世界『ラヴィリンソス』で、淀んだ気分を発散させるかのごとくあれこれ駆けずり回った後のことであった。半ば付き合わせるようになってしまったウリエンジェと共に、ラストスタンドで昼食でもと、地上に上がってきたのである。
 平和な北洋の昼下がりとは無縁なほど荒々しく悩み抜いていたため、今彼女を見れば気まずい思いをするかもしれないと、サンクレッドは身構えた。が、彼女の笑った顔を目の当たりにするのは、驚くほど穏やかな心地であった。

「おや……これは。我らが光の戦士にして、無二の友人ではありませんか」

 先に応じたのはウリエンジェだ。恭しく頭を下げてみせると、月の光にも似た淡い金色の瞳を和ませる。

「貴女も、シャーレアンにいらっしゃっていたのですね」
「シュトラから頼まれた書類をね、議会まで届けに」
「……相変わらず使いっ走られるのが好きだな。我らが魔女も人使いが荒い」

 軽口を叩く声に、違和感はないはずだ。サンクレッドはいつも通り上手に笑顔を作って、英雄たる女が可笑しそうに肩を揺らすのを見つめていた。

「マトーヤおばあさまに似てきたんじゃない、って言ったら、怒られちゃった」
「流石、災厄を退けし英雄……なんと豪胆な」
「そんな口利いて、何処も燃やされてないのは人徳だな」

 鈴を転がすように笑う唇だとか、艶やかに光る鱗だとか、海風に乱れた髪を撫でる指先、まあるい爪だとかをつい眺めて、サンクレッドは緩く首を振る。

「これからラストスタンドで昼飯でもと思っててな。お前もどうだ」
「お呼ばれしていいの?」
「勿論です。是非、貴女の旅の話も聞かせていただきたい」
「私だって、二人の話が聞きたいよ。リヴィングウェイたちは元気?」

「……あの!」

 和やかに歩きだそうとした途端、英雄たる女傑の背に、緊張した幼い声がぶつかった。
 振り返れば、年の頃は十にもなるだろう少年が、大きな瞳をいっぱいに輝かせて直立していた。赤らんだ頬、手には可憐な野草の花とくれば、およそ内容は察することが出来た。
 こんな子供にまで彼女は好かれるのか。呆れるような、誇らしいような。複雑な感情が渦巻くサンクレッドの肩が強張ったのは、彼女が如何にも美しい笑顔で、少年と目線を合わせたからである。

「私に何か?」
「あの、世界をたすけてくれてありがとう。おれ、大きくなって英雄さまより強くなるから、結婚してください!」

 たどたどしい告白に、突き出された花。少年の淡い初恋の果て、勇敢なプロポーズだ。逆立ちをしたって今のサンクレッドには口に出来ない言葉。純粋で、ただ可愛らしい、こちらが面映ゆくなるほどの光景────歯茎が痒くなったような気がして、サンクレッドは奥歯を噛んだ。どうせ、すぐ良い思い出なんてものにして、彼女の側にはいないくせに。

「嬉しいこと言うね。君が大人になる頃には、おばさんになってしまうと思うんだけど……」

 それでも彼女が、嬉しそうに笑って花に手を伸ばすものだから。

「悪いが、坊や」

 サンクレッドの手が、英雄たる女の手を掴んで制した。ぱし、と強く皮膚に触れた音が、銃声みたいに響く。

「彼女には先約があるんだ。どうしてもと言うなら、まず俺より強くなるんだな」
「は、っ?」

 プロポーズの少年より先にすっとんきょうな声を上げたのは彼女だった。光る瞳を大きくしてサンクレッドを見上げる。
 頼むから、そんな目でこちらを見ないで欲しい。サンクレッドは、鋼の心で余裕ぶった微笑みを保ちながら、恋敵の少年を覗き込むことで彼女から目を逸らした。
 邪魔をされた少年はといえば、思わぬ横槍に瞬いたあと、むっと眉根を寄せる。

「お前、英雄さまの仲間だろ。フィアンセってやつなのか?」
「難しい言葉を知ってるな。まあ、そういうことだ」

 彼女が息を呑んだのが分かった。流石のウリエンジェも、咄嗟に言葉が繋げずにいるようで、急展開に視線を巡らす英雄と声なき会話を交わしている。
 背丈、年齢、経験。あまりにも差がある両者の睨み合いは、少年が問うように英雄を見つめることで切り上げられた。無垢な眼差しを正面から受け止めて、彼女はといえば────ほんのりはにかむように笑って、頷いた。

「……そういうことみたい。頑張ってね?」
「…………いいよ、分かった!」

 勇敢な少年は決意と共に頷くと、伸ばした手を取られて動けない英雄の、その髪に花を挿した。それからサンクレッドを鋭く指さして、高らかに宣言する。

「見てろ、お前なんかすぐ倒せるようになるからな!」

 足音も軽やかに駆け去っていく少年の背中を見送って、英雄は未だ右手を強く握るサンクレッドの指を見た。彼女の手をすっぽり覆えるほど、彼の手のひらは大きくて分厚く、それからとても熱かった。放される気配はなく、こちらから振りほどく気もおきなくて、ろくに動けずしばし沈黙する。

「……精々、励むんだな」

 ぽつりとサンクレッドが呟く。もはや遠い少年の後ろ姿に向けられたものだろう。激励するというよりは、皮肉を吐き捨てるような強い調子で、あんまりに彼らしくない感情の噴出に驚いた英雄は、うっかり彼の横顔を見上げようとした。

「見るな」

 サンクレッドの固く強張った声が響くと同時に、英雄の睫毛の先に彼の手のひらが触れて、どうやら視界を塞がれたのだと悟る。

「頼む、」

 柔らかな暗がりの向こうから、文字通りの、懇願するような男の声が降ってくるものだから、英雄たる女は言葉を詰まらせた。

「少し、……そのまま」

 自身でも語調に気付いたか、丁寧に、置くように言葉尻を宥めていったサンクレッドは、彼女の顔を覆う指先でその米神を撫でる。
 優しい仕草と裏腹に、いささか乱暴に髪へ飾られた花を除けられたらしい。角のそばで、くしゃりと花びらがひしゃげる音がした。

「……せっかくもらったのに。良い男になるよ、あの子」
「…………俺よりもか?」

 軽口を放った英雄だったが、サンクレッドの唸るような声の重厚さにまたしても押し黙った。彼の理不尽な暴虐に対して、先に起こったのは怒りではなく、困惑だった。────いつも隠そうとするのは、隠しきれずに溢して、尚も誤魔化そうとするのは、サンクレッドの方だったはずなのに。
 彼女が再度口を開こうとした時、彼の深く長く淀んだ溜め息が、尾を引きながら頭上を通って行った。

「……すまん。出過ぎた真似だった」
「ちょっと、」
「頭を冷やしてくる。ウリエンジェ、二人で先に行っててくれ」
「それは……構いません、が……」
「すぐ戻る」

 言葉少なく、サンクレッドはつんと押し出すように英雄を解放した。唐突にひらけた視界の眩しさと、微かにではあるが揺れた頭にくらんで、彼の顔を見れない内に後ろ姿が遠ざかってしまった。白いコートに、銀色の髪。────対比となってよく映えるうなじの赤さだけが、その時確認できた表情だった。
 残された英雄たる女と、ウリエンジェは一度顔を見合わせると、呆然とサンクレッドの姿が建物の角に消えていくのを見送って────

「待て待て待て待て待て待て待て待て!!」

 英雄は激怒した。必ずや、かの馬鹿根性なしのサンクレッドを殴らねばならぬと決意して、駆け出そうとした寸前でウリエンジェにそっと肩を押さえられた。

「止めないでよウリエンジェ! あいつっ……このっ……なんっ……」
「どうか、落ち着いてください……そのように口が回らない状態では、煙に巻かれてしまうでしょう」
「ぐうゥ……!!」

 ウリエンジェの穏やかな声音に、英雄は歯噛みしてサンクレッドの向かった方角を睨んだ。肝心な本音を伝える口は鈍いのに、誤魔化したりいなしたりすることにかけては一丁前な彼のこと。確かに、今捕まえて本音を聞き出そうとしたところで、怒りで退化した言語野ではいかにも分が悪かった。
 誰に届かぬ文句を垂れ流そうとしても、何処から吠えたものか、何処まで喚いたものか、判断できず言葉として上らない。英雄と呼ばれる女は、拗ねた幼子みたいに、ウリエンジェの足元にしゃがみこんだ。

「……何で逃げる、かなあ!」

 分かりやすく行き過ぎた嫉妬をしておいて、まだ何ともない顔をするつもりか。
 彼が後生大事に抱き締めるものを、その一部始終を見てきた彼女だって分かっているつもりだ。だから、言葉よりうんと上手に喋る榛色の眼差しを受けながら微笑んでいられた。
 それを、我慢できなかったほどの熱量を見せ付けておきながら、まだ逃げるのか。サンクレッドの、優しいふりをした臆病さが、本当に、本当に、本当に、きらいだ。
 尻尾を石畳に叩き付ける英雄の目前に、ウリエンジェの手が差し伸べられた。広い手のひらは男性のものだが、長くほっそりした指がたおやかな印象にしている。その手を睨むように見た英雄は、しばらくしてそっと自身の指を重ねた。皮膚が薄く感じるウリエンジェの肌は、少しだけ冷たい。

「サンクレッドは……このところずっと、貴女を案じておりました」

 英雄たる女の手をそうっと引いて立たせると、ウリエンジェは静かに話し出す。彼が織り成すことばは、その一つ一つが花弁のように繊細で柔らかく、それを銀のうてなに乗せるよう丁寧に彩っていくものだから、少しも聞き逃してはいけない気になって、自然と意識が深くそちらに向いた。

「終末の災厄……絶望を退けし偉業は、当然讃えられる事。しかし、それが貴女に悪い虫を誘引している……と」
「…………その手の話に過敏になってたというわけだ」

 淡く目を細めたウリエンジェに、英雄はかの男の背中を思い浮かべながら、呆れた息を漏らした。サンクレッドのことだから、英雄たる女の要らぬ心労を憂えていたことだろう。────そこに極めて個人的な鬱憤が重なった。彼女に向いた、未熟な求婚ひとつすら、許せないほどに。

「勿論、先程のサンクレッドの態度は、褒められたものではありません、が……」

 英雄の手を恭しく取りながら、ウリエンジェは歩き出す。ラストスタンドへ向かうつもりの足は、小柄な女傑の歩幅に合わせて、ゆったりと進んだ。

「多くの女性に焦がれさせながら、サンクレッド自身は、恋をしなかった……。……そのように、見受けます」

 白亜の港町で産まれた肉親なき悪童は、恩師と共に知の都に渡り、飄々とした美青年に育った。家族を知らぬがゆえに、家族という枠組みで起こる愛情に憧れ尊ぶ一方で、願わずとも舞い込む色恋沙汰の位置付けは低い────特に諜報術を学んだ彼にとって、恋なんて格好の手段である心理現象だ。心を割く理由などなかっただろう。
 それが今になって、理屈で落ちるものではないと知ってしまった。

「だから……もて余しているのでしょう。ただの仲間というにも、家族というにも異なる、貴女への想いを」

 英雄は、ずいぶん高い位置にあるウリエンジェの顔を見上げた。彼がサンクレッドの心境を代弁するみたいに饒舌なのは、彼なりに友ふたりを慮っているからだ。
 愛の形も別れの形も違えど、大切な人から託された世界に希望を持つ者同士。そのためか、サンクレッドとウリエンジェは、お互いにしか分かり得ない友情で結ばれているように見えた。
 英雄は、ウリエンジェのあんまりに優しい声につられて目元を和ませた。彼女の頬が緩んだのを見てとって、月色の瞳がほんの僅かに細められる。

「……私が他人の恋路を、理解したように語るのは……些か、滑稽に見えるかもしれませんね」

 ウリエンジェのささやかな声が、そうひとりごちるので、英雄は首を傾げて先を促した。

「何せ、たったひとりしか知りませんから」

 苦く笑う睫毛の先には、彼の愛しい幼馴染みの面影があった。たったひとり。月光のもとに産まれながら、強烈な夏の陽射しみたいだったムーンブリダ。
 英雄は、彼の手に重ねた指で握った。

「……そういうの、数ではないと思うよ。どんなに深く愛したかでしょう」

 なぜ、滑稽なんかに見えるだろう。伝える前に途絶えてしまった恋だった。それでもウリエンジェは、形作りながら、形を変えながら、変わらないものを抱きながら愛を貫いた。それを何故、恋に疎い男の戯言と、袖にすることができるだろう。よほど心を知る、彼の微笑みを。

「本気の恋という意味なら、あいつよりウリエンジェの方が先輩かもね?」

 そうおどけて笑う英雄に、ウリエンジェは唇の端をほのかに綻ばせた。



(……情けない……)

 一方、サンクレッドは途方にくれていた。シャーレアンの最高学府である、魔法大学。その敷地内に広がる、沈思の森と呼ばれる鬱蒼とした緑の場所は、すっかり身を隠すのに適していた。
 サンクレッドは樹の幹に背を預けて海を眺めながら、随分と長く座り込んでいた。スキットルに入った少しばかり強い酒をあおって、深く息を吐きながら項垂れる。
 情けない真似をした。幼い子供の一時の憧れだと、笑い飛ばせなかった。八つ当たりしたも同然だ。恥と自己嫌悪の間で、もはや後戻りも出来ないところまで彼女に心を傾けている事実を思い知る。
 ────どうして焦がれずにいられるだろう?
 彼女は、ミンフィリアの願いを抱いて、戦い抜いてくれた女だ。リーンを守り、歩ませてくれた女だ。サンクレッドの宝物同然の女の子を、とても大切にしてくれた。
 恩義もあれば好意もある。それが慕情に替わりやすいことも知っている。知っていて、それでも抗えず沈んでいくものが恋だとは知らなかったのだ。
 誰よりお人好しで、真っ直ぐで、焼けそうなほどの眼光でこちらを見るあのひと。鮮烈な生き方を間近で見ていて、時折見せる優しい笑みのそばにいて、その心の奥に触れてみたいと、何故思わずにいられるだろう。
 あのひとの肩を抱いて、何からも守ってやれる奴が、自分であればと。

「いつまで待たせるつもり?」

 今一番聞きたくて聞きたくない、可愛い英雄の声が鼓膜を揺らした。忍んでいたはずなので面食らいはしたが、乱れた心が表に出ることはない。
 そう言えば、彼女は人探しも得意だった、なんて何処か呑気に考えながら、サンクレッドは顔を上げた。視線を向けはしないが、彼女の怒気を背後に感じる。

「……ああ、悪い。考え事が捗ってな」

 思ったよりも冷静な声が出てくれて、サンクレッドは肩の力を抜いた。見えるように揺らしたスキットルからは酒気が漂っていて、悪びれない態度を演出する。

「サンクレッド、」
「すまないが、さっきの事に関してなら何も言わないでくれ」

 英雄の声を遮って、サンクレッドは首を振った。可笑しな真似をしたことに対する謝罪以外に吐くべき言葉はなく、また彼女から文句以外に聞きたい言葉はなかった。

「反省してる。……本当に」

 サンクレッドは、視線を海へと向けたまま、短く言葉を紡いだ。枝葉が揺れて擦れ合う音が聞こえる。しばらくの沈黙は、海風が間を取り持ってくれるおかげで少しばかり軽やかに思えて、それがこちらを見上げる彼女の眼差しを彷彿とさせた。表情では呆れたり怒ったりしている事が多いものの、その瞳ばかりは、いつも穏やかに凪いでサンクレッドを見る。

「…………後悔は、してる?」

 静かな問いだった。思い起こしていた彼女の淡く光る双眸と同じ、サンクレッドの五感を通って心の中を透かし覗こうとするみたいな、なつっこい気配だった。無遠慮のようでいて、こちらが傷付かぬよう柔らかな手のひらを広げて待っているような。
 彼女の声が好きだから、サンクレッドは視線を足元に落として押し黙った。

「ねえ、」
「頼むから」

 二度めはより強い声で遮断する。

「……その話は、したくない」

 後悔なんかするはずがない。目も当てられないほど大人げない行為ではあったが、それを悔いてしまったら、彼女のことを想う心の、欠片ばかりの砂金みたいな美しさも否定してしまう気がした。
 何にも言いたくない。言いたくないのだ。言えば始まってしまう。始まってなんかいないから半端が許されていたのに。否、本当は許されていなかったのかもしれない。もしかしたら彼女はとうに我慢がならなくて、いよいよ終わりにしにきているのだとしたら、みっともなく逃げ続けている身だ、従うべきだろうが、まだその覚悟もない。

「……ああ。そう」

 英雄の冷えた声が飛んできたので、サンクレッドは指を強張らせた。落胆して諦めた────わけではないのが厄介だ。彼女とはもうずいぶん付き合いが長く、だから彼女の真なる怒りが炎のごとき噴出ではなく、氷のごとき冷酷であることを知っていた。
 殺されて三枚におろされるかもしれない。そう思った矢先に、明らかな刃物が側の地面に二本刺さったので、これにはサンクレッドも英雄たる女傑の姿を探して振り返った。

 堂々たる立ち姿の彼女は、戦装束を身にまとっていた。闇色の軽量鎧に、二本一対の小刀を握っている。まるで今にも大戦に繰り出そうとでもしているような────
 違う。実際に戦を引き起こそうとしているのだ。サンクレッドがそう気付いたのは、二人の周囲を魔法結界が覆ったからだ。簡易的なものではあるが、内部にいるものの存在を秘匿する神秘。それは一時『砂の家』にも使われた守りで、ウリエンジェが編み出したものだった。つまり『ここでどれだけ暴れようとも、周囲には全く気付かれない』ということになり、またウリエンジェはかの英雄とグルであるということになる。

「どうせ酔うには酒が足りてないでしょう。構えろ、サンクレッド」

 英雄は、手に持つ鋼ほどの鋭利な眼光でサンクレッドを睨んだ。絶対強者、頂点捕食者の佇まい。顎で投げた刃物を指して、握れと言外に告げた。

「あんたが勝ったら全部忘れてあげる。私が勝ったら大人しく言うことききなさい」
「……お前な……何でも暴力で解決しようとするのやめろよ……」

 流石はエオルゼアの英雄、蛮勇ここに極まれり。あまりの過激ぶりにサンクレッドも呆れるが、ゆっくりと立ち上がると、愛用のガンブレードを地に突き刺す代わりに、貸し与えられた武器を握った。大振りのコンバットナイフが二本。使用感を確かめるように弄んで、サンクレッドは瞼を落とす。
 双剣を扱う技術は、彼の戦闘スタイルの根本だ。身体に一番馴染んでいるし、彼女にも勝り得る経験も自信もある。普段癒し手を担う女傑が、こいつでサンクレッドと勝負しようという真意のすべてを汲むことはできないが、これ以上にない喧嘩の売り方であることは理解できたし、応じてやっても良いと燻るくらいには彼も酔えていた。自身の態度が引き金とはいえ、舐めたミラーマッチで下せると思われているのであれば、屈辱以外の何物でもない。

「……良いぞ。その喧嘩買ってやる」

 開いた榛色の眼に、ぎらりと炎が灯る。

「後悔するなよ、英雄サマ?」

 サンクレッドの低く唸るような声に、彼女は少し笑んだ。どれだけ文句を吠えても怒りを鎮めるに足ることはなかったし、彼の頑固な姿勢を崩す秘策も浮かばない。それならば、いっそ殴って殴って切り崩せば良い────互いに刃を打ち付け合って勝利するのであれば、そのときふたりは言葉を超えると彼女は信じていた。そう、彼女こそが救世の英雄。肉体言語の権化。エオルゼア最強の蛮族である。
 ずいとサンクレッドの背筋が伸びた。おおよそミッドランダーの平均身長程度である彼は、アウラ族である女傑に比べるとだいぶ大柄に見える。手にしていたスキットルの中身を一息に飲み干すと、濡れた唇を舐め、高くそいつを放り投げた。
 双剣を構えたのは二人同時。姿勢を低くして、合図さえあればいつでも喉元を狙えるように。

 ────宙を舞っていたスキットルが、地面にぶつかってけたたましい音を立てた。

 先に相手の懐に食らいついたのは彼女だった。眼光を尾のように残し一足二足の神速で接近すると、サンクレッドの首を狙って小刀を振り抜いた。
 奇しくもその躊躇なき殺意が、英雄は少しも目の前の男を舐めていないことをサンクレッドに悟らせる。純然たる刃は狂気に似た攻撃性で、だからこそ彼にとってはささやかなジャブに等しい。
 英雄がまさに素っ首掻き斬ろうとした小刀を、手甲で打ち払ってコンバットナイフを突き出す。高い風切り音が彼女の頬の横を裂き、次いで返した手首によって向きを変えた切っ先が彼女の肩を狙った。金属音。食い合った刃金が火花を立てて、僅かな拮抗を生んだ。

(……何て力なの!)

 表情を歪ませたのは英雄だ。サンクレッドの一撃一撃が重たい。咄嗟に受け止めたはいいものの、このままでは押し負ける。身体を捻って力を逃がすと、彼の腹を蹴り出して離脱。すぐさま二撃三撃と繰り出すが、彼女の蹴撃をものともしない彼の瞳は、榛色に燃えながらすべてを見切っている。断続的にぶつかる刃同士が、轟音と気流を発した。

 体力、腕力、単純なフィジカルでいえばサンクレッドの方が上だ。加えて、彼は諜報のプロである。敵の懐に潜り込み、姿を隠しながら、あるいは溶け込みながら、機密や情勢を探るエキスパートだ。その際武器とするのは、目を欺く術や楽しいお喋りばかりではない。影から捕らえ、詰問、尋問、拷問にかけることもある。死なない程度にいたぶり、心身を追い詰めて、屈服させる────人体の急所を知り尽くすからこそ生殺与奪を握り、冷徹な観察眼と判断力で心理戦を制する────ゆえにサンクレッドは、対人戦においても、当然プロフェッショナルである。
 英雄たる女傑の戦闘パターンなどすでに知れたもの。微細な筋肉の躍動から、次の太刀筋は読み取れる。視線の向き。踏み込んだ足の位置。跳ねた指先。すべてが彼女を迎え撃つためのヒントになった。
 彼女が全力で向かってくるのならば、サンクレッドとて手加減はしない。五十も百も斬り合ったところで、形状を違える刃が再び交錯した。握り込む指が、ぎちりと苦しそうな音を立てる。サンクレッドからの圧に負けて、英雄の足が半歩後方に滑った。

「っ、く」
「もらったッ!!」

 サンクレッドの猛り声がとどろいた。ぎらつく瞳とナイフを翻して、柄で彼女の右手を打ち上げる。衝撃と共に握っていた小刀が回転しながら宙に浮き、サンクレッドによって弾き飛ばされてしまった。
 双剣使いにとって、刃の数は戦闘力に直結する。圧倒的不利に追い込まれたのに加えて、英雄は右手に激痛と痺れを感じていた。おそらく指が折られている。薬指と小指。これでは小刀を持っていかれなかったとしても、まともに握ってはいられなかっただろう。

 ────だが。

 英雄たる女傑は、痛みも無視する胆力と、その多彩な技において利があった。あらゆる武具の扱いと戦術を修めた彼女は、変幻自在の柔軟性で相手を翻弄する。────ドマの忍びたちより教えを受けた『忍術』など、その最たるものであった。
 サンクレッドが尚も爛々と輝く英雄の瞳に気付いたのは、強烈な焔の気配が、赤く彼女の喉に宿っていたからである。

 地より燃え出で天まで昇れ。
 地の印。天の印。火遁の術。

 咆哮のごとき爆炎の息吹が打ち出された。白き鱗に火影がちらつく様は、まるで歴戦のドラゴンのごとき暴虐の姿。目を見張ったサンクレッドは、舌を打つと大きく跳びすさる。その着地点へと目掛けて、火柱を裂いた手裏剣が飛ぶので、それもバックステップでかわした。
 熱気に歪む向こう側の彼女の姿は見えない。背後で草を踏む音。炎は虚仮威しか。サンクレッドが振り向き様にコンバットナイフを横凪ぎに払えば、彼女の胴が両断された────手応えがない。

「……分身か!」

 悔しさ半分、感心半分にサンクレッドは声を漏らした。陽炎のように消えていった彼女の影を視認して、では本体は何処だと気配を探る。
 肩に、殺意という名の冷たい毒素が染み込む。確信があったわけではない、しかしサンクレッドはもう一度業炎へと視線を戻して身構える。まさにその瞬間、燃え盛る火を割って、雷を纏う鳥獣が彼を襲った。その猛禽は女の形をしている。けたたましい雄叫びをあげて、女は────英雄たる女傑は、サンクレッドに渾身の体当たりをぶちこんだ。

「ぐ、ッウ……!!」

 いかにサンクレッドが頑丈であろうとも、高密度のエーテルを纏った女傑の技を喰らえば、たまったものではない。苦鳴をあげながらも踏みとどまるが、すでに彼女は二発目の準備を終えている。
 そうであるなら。
 サンクレッドは、自身の纏う白いコートに手をかけた。

 紫電の鳥獣が、光速で彼の懐へと突っ込む。獲物を捕らえた女は、携えた小刀を彼のコートへと通して────刃の切っ先が虚空を貫いたことに気付く。白い強化繊維の向こうは無。これは脱ぎ捨てた殻、身代わりだ。距離をとって気配を探ろうにも、息遣いどころか、生き物の痕跡さえ見出だせない。サンクレッドが持つ技能のうち、最高難度を誇る完璧な偽装。完全な不可視。

(────パーフェクトインビジブル!)

 英雄は歯噛みした。かのユールモアの大将軍ランジートすら、二回を目の当たりにしてやっと見抜いた大技だ。見てもいない今の彼女に看破できるはずがない。使用するサンクレッドにも、少なくない負担を強いるものだ。おそらくは次で終わらせようとしてくる。
 そこに、勝算があるはずだ。
 英雄たる女は、呼吸を鎮めると瞼を下ろした。彼のナイフの切っ先が振り下ろされる寸前、そのときばかりはいかに隠しても殺意が滲む。捉えられるとしたらそのタイミングしかない。
 彼女は待った。待って、待って、待って────閃光のごとき揺らぎ、浮上したサンクレッドの気配を感じた。
 鋭いヘーゼル・アイと視線が重なる。冷たい鋼色が英雄へと向かう。防ぐのでは間に合わない。防がなくていい。捕らえるのだ。

 捕らえろ。

 英雄たる女は、コンバットナイフの刃を右腕へと迎え入れた。皮膚を貫き、肉を裂き、骨まで届いてやっと侵入が止まる。くぐもった女の悲鳴に、サンクレッドが息を飲む。

「なに、」

 戸惑った彼の硬直を、この女傑が見逃すはずはなかった。

「つかまえたッ!!」

 稲光とともに、一気に身体を間合いに押し込む。まるで睦み合ってでもいるかのように、英雄はサンクレッドへと飛び込んで、衝撃を発しながらその体を地に倒した。
 背中をしたたかに打ち付けて、サンクレッドは呼吸を乱す。

「かっ、は!」

 まだだ。まだ終わっていない。押さえ込まれたからといって、彼女のように小柄な女を引き剥がして、体勢を逆転させるのは容易い。サンクレッドは未だ握り込んだナイフを振るおうとして────逆光に目が眩んだ。
 まばゆい中で、彼女の髪が羽みたいに翻るから。流星のごとき眼光でこちらを貫くものだから。

(……嗚呼、)

 サンクレッドは、感嘆の息を漏らした。



 ────きれいだ。



 サンクレッドの首横の地面に、小刀が突き込まれた。激しい呼吸音が混ざる。彼を見下ろす英雄の瞳は、これまでにない激しい怒りで燃えていた。

「何故手を止めた」

 煮えた声が吐き出される。爛々と輝く彼女の瞳を見上げて、うっすら微笑んだサンクレッドは、握り込んだナイフを放り出して脱力する。

「……見惚れたんだ」

 称賛する声音だった。決して、彼女だからと手を抜いたわけではないし、どちらにしろ彼女の執念に勝てる気がしない。
 この美しいいきものに刃を突き出す非情も、この一瞬に取り落としてしまっていた。

「…………参ったよ。……さすが、俺たちの英雄だ」

 そんな風にサンクレッドが笑う様子を、英雄はじいと見下ろしていた。高揚した鳥獣のごとき獰猛な瞳が、瞬きするごとにまあるくなって、いつも通りの穏やかな眼差しに変わる。

「馬鹿なひと。あんたじゃなきゃ殺してた」

 英雄たる女傑は、柔らかく目を細めた。鬨の声の代わりに低く喉の奥で唸ると、漲らせた体を弛緩させ、ぐったりとサンクレッドの体の上に倒れ込む。

「……エーテルが使えないなんて、嘘でしょう! こんなに手こずらせてくれるなんて……」
「……意地ってやつだよ。それでも、お前には敵わなかったが」

 不意にかかった優しい重みに、つい彼女の体を抱き締めそうになって、サンクレッドは留まった。上げかけた手が、彼女の腕に深々と刺さったままのナイフの柄に触ってしまって、痛そうな呻きが聞こえたからだ。
 彼女を腹の上に乗せたまま、サンクレッドはゆっくり身を起こす。

「ああ……、……とりあえず抜くぞ」
「……優しく抜いて」
「どうやったって痛いだろ」

 彼女の口に指を突っ込んで噛ませると、サンクレッドはナイフの柄を掴んで一息に抜き放った。彼女の悲鳴の代わりに、歯が肉に食い込んで、じわりと痛みを伝える。英雄が感じている痛みはこんなものではないはずだから、お互い同意の上の試合であったとはいえ、罪悪感が起こった。

「……悪かった」
「……ううん。私も全力だったし。手加減しないでくれて嬉しかった」

 流れる血を掬って、傷を押さえてやるサンクレッドの手に、英雄たる女の指が重なった。

「強いのね」

 うっとりと吐き出された言葉に、サンクレッドは苦笑しただけで答えられなかった。結局負けてしまった身であるから素直に頷くことは出来ないが、現時点でアーテリス最強格の生き物である彼女と互角にやりあうことが出来るのだ。そう考えると、まだ捨てたものではないなと思えたし、他にまともな対戦可能の相手を探すとエスティニアンくらいだろうので、彼女にとっては大変珍しい種類の人間ということになるのだろう。

「自分で治せるか?」

 かなり深くまで抉った上、指も二本折っている。彼女があまりに平然としているから忘れそうになるが、傷口からは未だ鮮血が溢れていて、ちっとも自己回復する素振りもない。普段は癒し手も担う彼女だから、困っていることはないと思うのだが。

「……治さなきゃダメ?」

 怪訝な顔をしたサンクレッドを前に、この女ときたら、とても幸せそうに笑った。

「他の男からもらった傷はたくさんあるけど、サンクレッドからのはないんだもの」
「……馬鹿言うな」

 とんでもない口説き文句を垂れるものだと呆れながら、サンクレッドは深く息を吐いた。促すように彼女の手を傷の上に導く。

「治さなきゃこの先は聞かないぞ」
「ええ嘘つき」
「……頼むよ」

 宥めるようにサンクレッドの指が彼女の手を撫でるので、英雄は釈然としない顔をしながら、自身のエーテルを循環させた。仄かな光の中で皮膚が繕われ、骨と肉が修復されていく。

「サンクレッド」

 降り注ぐ彼女の声色に、サンクレッドは瞼を震わせた。ああ、時がきた。約束をしたことだから、せめてそれだけは果たそうと、英雄の瞳を覗き込む。淡く光る綺麗な目だ。彼女の唇が、簡潔に言葉を紡いだ。

「好きだよ」

 ────死刑宣告を受けた大罪人のように、厳かに、サンクレッドは瞼を下ろした。

 知っている。知っているのだ。煮え切れない自分の胸中を知りながら、彼女がその心のままに横で笑ってくれていたこと。先程だって、みっともない嫉妬にさえ、困惑の奥で喜んでくれた瞳の光を、この男が見逃すはずがなかった。言われてしまったら、答えるしかないから、避けていたかった。

「……何で、」

 答えるしか、ないのに。

「…………何でこんな男、気に入っちまったんだ……」

 裂かれたような、か細い声だった。ぐらりと上体が揺れて、再度地に倒れ伏す。彼女を一番に出来ないと、男として側にいるのは適当でないと、言わなければならないのにまた先延ばしにした。彼女の理由を否定でもできれば見限ってくれるだろう、そうやって始まってもいない恋を守ろうとした。自分が彼女を遠ざけるなんて耐えられない。それなら彼女から終わりにしてほしい。
 嘘だ。終わりにしてほしくない。いつも通り呆れて笑っていてほしい。例え自分にそんな資格も器もなくたって。嘘だ。彼女の隣にいるだけの強い理由がほしいくせ、相応しくないと位置付けたのは自分だ。名前がついてしまえば始まってしまう。そうしたら、一番大事なものも愛したひとも疎かにしてしまいそうだから。
 こんがらがってとち狂った思考が、全部嘘のように思えた。ただ、彼女が愛おしいという想いだけが、真実として左胸の横に転がっていた。

「あんたが、」

 彼女の指が、サンクレッドの心臓の上に触れる。

「あんたが私の大事なものを、全部守ってくれたからじゃない」

 サンクレッドの目が開かれた。鮮やかなヘーゼル・アイに映るのは、彼女の笑顔だ。

「私のことも、皆のことも守ってくれた。世界の果てに連れていってくれたのは、あんたでしょう」

 彼はいつも、大切な人たちを守ろうと必死だった。大きな背に庇おうとして、大きな手のひらで後を押して、そうして肉体を失ってなお守り続けてくれていた。生還したその先も、今も。
 彼が、一番大事にしている妹の意思と娘の未来を守るために、それを言い訳にこの女を蔑ろにしないように、ずっとサンクレッド自身の不器用のせいにして苦しんでいるのを知っていた。
 その、臆病のふりをした優しさが、何よりも。

「だから好きなの。頼りにしてる。一緒に守ってくれるって信じてる。皆が私を強いと褒めてくれるけれど、」

 英雄たる女は、祈るように頭を垂れた。深く体を折って、サンクレッドの胸に額を重ねる。

「私はサンクレッド以上に意志の強い人を知らない」

 サンクレッドの手が、宙を掻いた。彼女の小さな背に触れようとして、この期に及んで怖じ気づく、情けない手だ。彼女が語るような美しい生き方をしているつもりはない。出来ている気もしない。なのに────なのに、彼女の言葉は、暗がりを照らす明かりみたいに、心を浮かび上がらせるようだった。そう見えていてくれるなら、どんなにか良いだろう。
 ふと、彼女が体を起こしてサンクレッドを見下ろす。迷っていた手が彼女の背中に当たってしまって、しかし引っ込めてしまうのも今更のような気がして、サンクレッドはやっと手のひらで広く触れた。

「……もうさ。ひとりで考えるの、やめようよ、お互いに。これは、私たちふたりのことでしょ」

 サンクレッドの手を受け入れて、彼女は心地よさげに笑った。細い指が彼の頬を両側から包む。

「何にも納得できない気持ちも、そのままで良いよ。噛み砕いて、飲み込めるように、ふたりで考えよう」

 戦い続けることの困難と辛苦を知るから、その心の在処を、自分も守ってやりたい。すべて大事に抱えたまま生きるが良い。彼の守りたいものは、彼女の宝物でもあるから。

「あんたと一緒に生きたい。だから、私の幸せもあんたの幸せも、ちゃんと話して決めようよ。きっと、今すぐ決められることではないけれど」

 その眼差しが向かう先を、共に見つめて、歩いてゆきたい。

「ゆっくりで良い。諦めて、私と生きる覚悟をして、サンクレッド」

 彼女を見上げるサンクレッドの瞳が、薄く潤う膜を張って光を帯びた。彼女の眼光をそっくり映し込んだような。

「……俺は、」

 応える声が震えた。浮かぶ涙は零れもせずに、ただ榛色の瞳を包んでいた。

「……お前が知っているより、もっとずっと、馬鹿な男だぞ」

 彼女の背に触れていたサンクレッドの手に、ささやかな力が込められた。少しも言うことを聞かせようなんてしない優しい圧力に、彼女は従って彼の胸に角を寄せる。

「……良いのか」

 重なる体温を確かめるように、小さな背に男の腕が回された。花束みたいな軽やかさを、春の匂いをするその人を、やっと抱き締める。

「…………良いんだな……!」

 念を押すような言葉は苦しげに掠れた。まだ何処にも行けやしない、上手く心に折り合いもつけることも出来ない。それでも────すべて抱えたまま、彼女を愛しても良いか、と。
 この先の自分の未来にいてくれるか、と。

「……良いよ。あんたは知らないかもしれないけど、」

 サンクレッドの、濡れてもいない目尻を撫でて、英雄たる女は炎のように笑んだ。真夜中の焚火、灯台の灯り、枕元の蝋燭に似た光源だった。

「私、馬鹿な男の一生程度、支えていけるくらい執念深いの」
「は、……そうだったな」

 高く声を上げて笑った。腕の中で脈打つ命が愛しくて、サンクレッドは強く、強く彼女を抱き込めた。

「お前はいつだって、最高の女だ」

 好ましいと、美しいと、それを肯定してしまえば息が出来た気がした。未だ足元は泥濘にとられて進みは遅く、それでも肩に彼女が留まって光るから、どうとでもしてやると思えた。
 自身の力不足を呪いながらでも、運命なんて脚本をねじ曲げてでも、永く永く時間をかけて、苦しみながら。一度にすべてを守ることのできない、中途半端で不器用な手のひらを繋いで、そうやって生きていく。鳴り止まぬ痛みも、行き場のない怒りも、打ち震える愛着に変えて命の答えとしよう。
 このひとと、共に。



「……その様子ですと、一件落着したようですね」

 しばらくふたりで一つの塊となっていたところに、聞き慣れた深い声が降り注いだ。星空の装束の裾を揺らして歩み寄ってきたウリエンジェは、倒れ込んでいるサンクレッドと英雄の姿に一瞬目を丸くするも、月色の目を柔らかく細めて、側に膝を付く。

「ウリエンジェ」
「ああ。すまん、世話をかけたな」

 ぐったりと体を重ねたまま恥じらいもせず、英雄とサンクレッドは気さくに影の功労者へと手を振った。どうせ隠すことは何一つない。その様子から二人の行き先を察したのだろう、ウリエンジェはゆっくりと頷いてくれた。

「善い結果になったのでしたら幸いです……。しかし、そんな折に、悪い報せを告げねばならないことを、お許し下さい」
「何?」

 サンクレッドが、腹に英雄を乗せたまま軽く起き上がる。エーテルによる強化さえなければ、彼女はただの小柄な女だ。巻き込むくらい容易いことだった。
 俄に眼光を研ぐサンクレッドに、ウリエンジェは声を低くする。

「先程、結界が何者かに破られました。おそらく、騒ぎに気付かれたのでしょう」
「げえ」

 英雄は舌を突き出した。試合に熱中するあまり忘れていたが、ここは知の都シャーレアン、学徒の好奇心と探求心を育む魔法大学が包括する憩いの場、沈思の森だ。もちろん何者かが魔法を使った痕跡でもあればすぐに気取られるし、ウリエンジェの結界だろうとも容易く破られてしまうわけだ。
 ────否。むしろ反応はかなり遅いくらいか。もしかしたら何処かで、強力な魔法の使い手が一部始終を見守っていて、頃合いと手を出してきたのかもしれない。学長モンティシェーニュ氏とか。

「そういうわけですから、ふたりとも」

 もしもあの好好爺が、早く行きなさい、といった意味で結界を破壊したのであれば、此処に長く留まっていては不味い状態ということになる。眉尻を跳ね上げながら追いかけてきそうな人物は他にいくらか思い付くが、ともかく、怒られてしまう。
 緊張を見せた英雄とサンクレッドにひとつ頷くと、ウリエンジェの瞳がぎらりと金に輝いた。

「……ずらかりますよ!」
「サンクレッドォ!! あんたウリエンジェに変な言葉使い教えて!」
「俺じゃない!」

 良い歳をした大人たちは、急いでサンクレッドのコートとガンブレードを回収すると、まるで悪戯のばれた悪童みたいに騒ぎながら、緊急避難場所として定めたバルデシオン分館までの道を駆け抜けていく。その後ろ姿を見送って笑うのは、誰の面影だっただろうか。あるいは、誰の残滓だっただろうか。

 大袈裟に行われた痴話喧嘩は、規模のわりに現状維持を貫くことを確認しあったのみに終わっている。ただひとつ以前と違うのは、サンクレッドが英雄たる女傑の肩に触れて微笑むようになったことだった。この些細で大いなる変化には、敏くない者だって気付いたが、気付いたところで追及する仲間はひとりもなかった。
 だって、何も変わっていないのだ。ふたりの関係を示す言葉なんかひとつも思い当たらなくて、ただ誰かの想いと未来を守るために、命を掛け合うだけのこと。
 かくして、未だに恋には成らず。青き春を告げる鳥も、鳴くどころか、寝床から飛び立ちもせずに眠り続けているのである。
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