春告鳥は鳴かず飛ばず

 その日の朝は、悲鳴から幕が開いた。否────悲鳴というにはあまりに微かで、引きつり潰れた喉の震えで、ただその怯えたような声がしっかりサンクレッドの耳に届いてしまったからおおごとになった。発生源はリーンだったのだから、尚更である。

「リーン!? どうした!」

 彼女の寝泊まりする部屋の前でそれを聞き付けたサンクレッドは、ノックするという暗黙の了解さえ意識できず、当然ドアを開けた。さして広さはない空間の中だ、愛娘の姿をすぐ見つけるのは易い。しかし流石の彼も、寝間着とシーツを血で濡らし、可哀想なほど狼狽したリーンが視界に入るとは思っていなかっただろう。

「さ、……サンクレッド……」

 ほとんど涙声で絞り出された囁きに、サンクレッドは血の気を失って青ざめた。恐ろしい速さで駆け寄ると、娘の細い肩を手のひらで包み、一定の体温があることに唇を震わす。失血によるショックはないらしい。ただ彼女自身、何が起こったのか分からず混乱しているようで、木漏れ日みたいな緑色の瞳からじわじわ雨が降りそうになる気配が、さらにサンクレッドを追い詰めた。リーンの前に膝をつくと、軽く揺すって注意をこちらに向けようとしながら語りかける。

「敵襲か? どこか怪我を?」
「ち、違、わたし、私」
「痛むのか? ああ、酷いな、リーン、何が」

「出てけェーーーーーッ!!!!」

 怒号と共にサンクレッドを横から蹴り倒したのは、まさに起き出してそのまま走ってきましたなんて様相の、我らが英雄だった。アウラ族の中でも特に小柄な彼女が、そこそこ体格の良い守り手であるサンクレッドを退けるにはかなり力が要るのだが、彼の意識がリーンに集中していたこと、女傑の並々ならぬ気合いが噛み合って功を奏した。
 ともかくリーンからサンクレッドをひっぺがすと、英雄たる女は自身が羽織っていた肩掛けで娘をくるんで、まるで敵対者から卵を守る母竜みたいに立ちはだかった。喉の奥で獣じみた警戒音すら上げている。サンクレッドが理不尽に抗議する前に、唸りで濁った声が鋭く言い重ねた。

「ヤ・シュトラとアリゼー呼んできて」
「なん、」
「お湯と綿布の用意も頼んで。そのあとは野郎共とお茶でも飲んでなさい」
「こんな状況で……!」

 身を起こしたサンクレッドが英雄に詰め寄ろうとして、はっと息をのんだ。小さな背に隠されてしまった、もっと小さい娘。服とシーツに付着した血。頑なにそれらから遠ざけようとする、目の前の女。それぞれを改めて順番に見つめ、やっと事態の本質を理解したサンクレッドは、青い顔のまま行き場のない手を彷徨わせ、それから力なく項垂れた。

「……わかった。その……すまん。頼む……」
「よろしい。出来るだけ早くお願いね」

 声の調子を和らげると、英雄はサンクレッドの腕を軽く押し出した。そのままよろよろと部屋を出ていった彼を見届けていれば、リーンにつんと袖を引かれる。見ればすっかり不安な顔をして、だと言うのに甘えきることも出来ずにいるのがいじらしく、こちらから抱き締めることでやっと体を寄せてくれた。ぐす、と鼻の鳴る音が聞こえる。

「……私、死んじゃうんですか……?」

 何も分からないリーンなりに考えたのだろう。思い当たるような怪我はないのに不自然な出血をしているならば、当然病の可能性に行き着く。ただの風邪ではこうはならない。深刻な症状があって、それは死に至るのではないかと────特に、この子は生まれ育ちや特性が他と異なるから、普通でないことが起きるのではと不安にもなる。何せ、ミンフィリアの魂を抱いて産まれた子であり、目映い暗雲の時代に対抗しうる力を持つ光の巫女なのだ。

「……死なないよ。大丈夫……」

 しかしこれは、受け入れがたいかもしれないが、ヒトの女であれば誰もが経験し、長く悩まされるものだった。英雄たる女は、いよいよ怖がって泣き出した少女を抱きかかえ、その頭の先に角を軽く擦り当てた。

「あんたは、おとなになったのよ、リーン」

 この言い方はあまり好きではないのだが、今はそうとしか言い様がない。自分の語彙のなさに、これではサンクレッドを笑えないなと心からの溜め息をつきながら、人の動きがないうちにリーンを自室に運び始めた。



「サンクレッドが今にも倒れそうな顔をしていたのは、そういうこと」

 納得半分、呆れ半分にのたまったのはアリゼーだった。腕いっぱいに綿布を抱えて来てくれたあとは、そのまま英雄の部屋に居座って、気遣わしげにリーンの様子を見てくれている。
 リーンはといえば、英雄によって丁寧に身を清められ着替えさせられたあと、クッションいっぱいの椅子の上で丸くなっていた。命に別状がないことを知っても、自分の身体から結構な量の血が出たというのは精神的なショックが大きい。すんすん鼻を鳴らしながら、両手でカモミールティーの入ったマグを抱えている。

「ご……ごめん、なさい」
「謝ることじゃないわよ。知らないうちにこんなことになったら、誰だってびっくりするわ」

 リーンの背を撫でてやりながら、アリゼーは首を振った。かつてユールモアに幽閉されていた頃には幼かった彼女である。来るべく女の身体の仕組みについて学びはしなかったし、その機会が来る前にサンクレッドによって連れ出されていたから、当然この時までまったくの無知だったのである。それで起き抜け早々に、覚えのない流血をしていれば、死を予感して動揺しようものだ。

「男親だけだとね。どうしても……教えられることじゃないから、なかなかね」
「でも、今で良かったと思うわ。私たちがいなくなった後だったらなんて、考えたくもなくてよ」

 そう言いながら部屋に入ってきたのは、ティーポットを持ったヤ・シュトラだ。シーツと寝間着の洗濯を買って出てくれて、それらは滞りなく済んだらしい。アリゼーのカップにカモミールティーを注いで、もちろん自分も一息入れるつもりで腰かける。

「ありがとう、シュトラ」
「ごめんなさい……」
「構わないわ。慣れているしね……ミトラの時を思い出すわ」

 妹のときも甲斐甲斐しく世話をしてやったのだろう、懐かしげに綻ぶ口許を、ティーカップを傾けることで隠す。そんなヤ・シュトラに、着替える間も惜しんで大量の綿布と格闘していた英雄は頷いた。手元で操る裁縫道具は、いわゆるサニタリー用品をすさまじい速度で量産している。下着に仕込めるサイズにカットした綿布を、何層にも重ねて縫い合わせてあるのだ。その数20枚にもなろうかというところで顔を上げる。
 本来なら、女親や親族の女性が、必要なものなど用立てて然るべきだ。しかし、リーンにはどちらもない。ここに集う女たちは他人と呼ぶには親しくなりすぎて、言われなくとも出しゃばるから、まるで血の通った女家族のようで、遠慮や忖度と程遠い。その点ではヤ・シュトラの言う通り、自分達が面倒を見てやれる今に当たって良かったのだろう。
 英雄たる女は一度大きく伸びをすると、平行して作っていた専用ポーチに、出来上がったものをすっかり仕舞った。それからヤ・シュトラが淹れてくれたカモミールティーをひとくち飲んで、温かさにほっと息を漏らす。

「リーン、お腹は? 痛い?」
「……、……少し、だけ」
「始まったばかりの頃って、安定しないから痛みやすいのよね」

 身に覚えがあるらしい、ヤ・シュトラはティーカップを下ろすと、微かに眉尻を下げた。

「年齢とともに落ち着くから、心配はないと思うのだけど」
「あとで痛み止めをもらおうか」
「なるべく甘いものをね?」
「そだね」

 医療館からもらう薬は、ほとんどが苦い。それはもう、とんでもなく苦い。地獄の釜で煮たってこうも苦くはならないだろう。効果は約束されているとはいえ、弱っているところに飲みたいかと言われると疑問を持たざるをえない。それを今のリーンに飲ませるのは、と、ヤ・シュトラと英雄は曖昧に笑い合う。

「不公平よね、女って」

 カップを両手で持ったまま、忌々しげに唇を尖らせたのはアリゼーだ。ひとくちカモミールティーを含んで、口の中を温める。

「血は出るばかりだし、人によっては痛みもあるんでしょう。生活も変わるし、長旅なんかできないじゃない」
「月に一回くるからね」
「期間中はあまり動き回らない方が良いのは、そうね。どうしても汚れてしまうし、血の臭いで魔物を誘引することもあるから」
「あてもない旅となると、ちょっとね。不衛生でもあるから、なるべく身体が洗えるところでおとなしくした方が良いよ」

 アリゼーやリーンと比べると、女の人生の先達であるヤ・シュトラと英雄は、顔を見合わせて笑みに首を傾げた。そうなって長いものだから特別不便と感じたことはないが、なるほど、こう言い出してみると制限は多いように思えるかもしれない。

「女は内、男は外、なんて価値観があるのも、もとはそういうとこからだったりして」
「男性なら小汚いままふらついても良いというわけではないのだけどね」

 すましたヤ・シュトラの辛辣さに、アリゼーが笑う。

「……ねえ。こんなことを聞くのはいけないかもしれないんだけど……二人はいつもどうしてるの?」

 珍しく遠慮がちなアリゼーが、カップの取っ手を指で弄りながら、ほとんど吐息で訊ねる。先程から静かに話を聞いていたリーンも、大きな目を瞬かせた。二人、というと、当然英雄とヤ・シュトラだろう。我らが魔女は先を譲るかのように尾を揺らしたので、英雄たる女傑が口を開く。

「中に綿つめちゃう」
「やだ!」
「貴女、本当?」
「ほんとほんと。いや、普通は股のとこ敷くんだけどさ」
「言い方! やめてよ、リーンの前で」
「だって、他にどう言うの。まあでもそれだと、戦ってる間にずれちゃって血がもう。もうだから」
「……これは……早急にこの人の負担を減らすべきね……せめて期間中だけでも」
「私だって綿そのまんま詰めるんじゃないよ? ちゃんとあとから引っこ抜けるように」
「分かった! もう分かったわよ!」

 英雄の、あまりにも開けっぴろげな語りっぷりに、訊ねたはずのアリゼーの方が根を上げた。大袈裟にぶんぶん腕を振って遮ると、肺の空気をいっぺんに出したのではと思えるくらいの息を吐いて、その分だけ少し冷めたカモミールティーを飲んだ。怒ったのか、恥じらったのか、頬の血色が濃くなっている。
 その様子を見守っていたヤ・シュトラが、可笑しそうに小さく肩を揺らした。

「でも、便利そうではあるわね。あとでご教授いただきたいわ」
「もう、ヤ・シュトラまで」
「……とは言え、原初世界に帰ってからかしら。こちらではエーテル体に近い構成だからか、身体の生理的機能は巡ってこないの」
「ああ、じゃあ必要なかったんだ?」
「これはこれで楽ね」
「そう。そうなのね……」

 語尾を濁らせたアリゼーに視線を向けると、彼女は少しの間躊躇って、カップの中の水面を覗きながら口を開く。

「その……私はまだなの。だから気になって……」

 ぼそぼそと、まるで後ろめたいことでも暴露するかのように声を低くした。────エレゼン族の成長過程については詳しくないが、アリゼーは特に小柄なせいで、身体的な発達が思わしくないように英雄は感じていた。
 自身でもそれは自覚するところであるのだろう、アリゼーは長い睫毛を伏せると、落ち着かなさげに指を擦り合わせる。

「リーンはきちゃったし……私は、遅いんじゃないかって思うの。少し、本当に少しだけ……不安になるわ。変だったらどうしよう、って」
「……こればかりは、個人差だものね……でも言わせてもらうなら、統計的には誤差の範囲よ。安心して良いんじゃないかしら」

 下向いてしまったアリゼーの視線を追うように、ヤ・シュトラが少しだけ身を乗り出す。

「そう焦ることでもないもの」
「どうしても気になるなら、あっち帰った時に診てもらおう。ついてくよ」
「……うん……」

 納得はできずにいるようだが、おそらくは長いこと、深刻になりすぎない程度に悩んではいたことを吐き出したのだろう、幾分か軽い調子でアリゼーは頷く。

「そしたらアリゼーのもこれから要るね。縫うから!」
「何なのよその……。作ってくれるなら使うけど……」

 呆れながらもほんのり笑ってくれるアリゼーに、英雄もまた笑顔を返す。可愛く思うのは何もリーンばかりではない。お転婆の跳ねっ返りだが人一倍優しい、アリゼーの成長もこれから見つめられることが嬉しい。
 一連のやり取りを、何だか不思議そうに、それでもじいと聞き入っていたリーンが、カップを両手で持ったまま口を開く。

「……あまり……人には、話さない方が良いですか……?」

 その問いに、女たちは三者三様に目を瞬かせたあと、実に深く考え込んだ。

「……まあ……むやみやたらに話さない方が良い、ことでは、あるかな?」
「そうね」
「やましいことではないのだけれどね」

 彼女たちにしては珍しい歯切れの悪さに、リーンは首を傾げる。確かにこんな態度では、得る知見もないだろう。
 ヤ・シュトラが、それぞれのカップにカモミールティーを注ぎ直してから口火を切る。

「女性の身体、特に……月経のメカニズムね。実はごく最近解明されたばかりなのよ」
「だから今までは、それに対する偏見めいた解釈が横行してたんだよね。女は体の中で毒血を作るから、溜まったぶんを出してるとかで、その間は隔離されたり」
「本当のことは未だに学問の分野だから、都市部から離れた村なんかでは偏見が残っていて、文化的信仰的に忌避されていると聞くわ。私たちの価値観自体にも刻まれていて、話題に出すこと自体タブー視されていることが多いの」
「知っていても、私たちの性に関わることだもの、結局話題に出しにくいのよね」
「つまり、月経自体悪いことではないけど、穢れであるとか、やましいことを連想する人が多いから、他人とはあまり話さない方が良いよって感じかな」

 それぞれが、リーンが理解しているだろうかと様子を見ながら語る。幸い、人並み以上に聡い彼女は、言わんとすることを飲み込んだようだ。それからふと、英雄を見つめた。

「おとなになった、というのは……?」

 リーンの視線と問いを受けて、英雄たる女は小さく肩をすくめる。

「ひんがし……原初世界の一部地域の話ね、月経を迎える、つまり子供を産む準備が出来ると、女は大人なんだ。お祝いとかするんだよ」
「あら、詳しいのね。貴女がアウラ・レンだからかしら」
「ひんがしのアウラかは分からないけどね! 理解できる価値観ではあるよ。子供を産むだけが大人の女の価値じゃないだろ前時代的だな馬鹿野郎とも思う」
「……何か嫌なことでもあったの?」

 アリゼーの問いには曖昧に頭を揺すって、英雄はリーンに笑いかける。

「まあ、そうやって喜ぶとこもあるってこと」

 その答えに、リーンはゆっくり大きな瞳を瞬いた。それから、カモミールティーの淡い色合いの水面を見つめ、そうして自分の腹を見る。

「……私も。いつか……誰かに託せるように、その準備が出来たってことなんですね」

 もう一度英雄を見る瞳は、ちゃんと安心して笑っていた。

「…………生きてこれたんですね。私」

 木漏れ日みたいな瞳があまりに柔らかく光るから、英雄たる女はしばし言葉を失って、その緑に見惚れていた。言葉を発するつもりで開いた唇が、泣き出しそうに震えたのを自覚して、一度閉じる。

「うん……うん。そうだね」

 思わず両腕を伸ばして、小さな体を抱き締める。こんなにも、まだこんなにも幼い子は、いつか託された希望の光を繋いでいくことを考えている。自分の先にある未来を見つめている。それがあまりに誇らしいことで────同時に、あまりにも寂しいことに思えた。

「すごいことだ、その通り。……そんな考え方は、しなかったなぁ」

 リーンの頭に角を軽く擦ると、英雄は深く深く息を吐いて。

「しようか、お祝い」
「えっ」
「良いわね。ささやかなものになるでしょうけど」
「私、準備を進めるわ!」

 鶴の一声。リーンが戸惑っているうちに、乗り気のヤ・シュトラとアリゼーがあっというまに算段を進めてしまった。場所はこの英雄に宛がわれた部屋で、身内のみを呼びつけて行う。祝いの宴席というには質素であるかもしれないが、温かくて、腹に優しい、リーンが好むものを食べることになった。

「貴女たちは休んでいなさいな。朝から色々なことがあって疲れたでしょう?」
「そうよ、まだ時間はあるんだし。ついでに痛み止めももらってくるわ」

 頼れる女たちは、心なしか楽しそうな様子で颯爽と部屋を出ていった。────今日を良い日に出来たならば、この先も上手く自身の体と付き合っていけるかもしれない、と少なからず思うのだろう。
 置いていかれた空のカップを重ねると、英雄たる女はリーンの手を引く。

「お腹、痛い?」
「……今は、大丈夫です」
「良かった。此処で寝ていったら」

 大きな緑色の目が英雄を見た。ゆるりと首を振るのは、拒絶ではなくて、遠慮とか躊躇とかの様子である。真意が聞きたくて顔を覗き込むと、不安げな小さい声が転がり出た。

「……ま、また汚しちゃう、かも」

 ────自分の身体のことには前向きになれても、朝のことは未だ気にしているのだろう。手のひらに乗せたリーンの指を握ると、深い声でゆっくりと言い聞かせる。

「汚れたら、取り替えて洗えば良いんだよ」
「……でも……」
「部屋を行ったり来たりするのも大変じゃない? 此処にいてくれたら、私も見ていやすいから、嬉しいな」

 何度か、リーンの睫毛が上下した。ひとりで大丈夫だとすぐに言えないのは、なんだかほんのりと恐ろしいからだ。それは初めて訪れた非常のせいであるし、不定期にじわりと痛む腹のせいでもある。身体に不調があれば当然不安になる。どんなに頭で理解をしたとして、痛覚からくる不快感や寂寥感をすっかり拭いさることは出来ない。
 そして賢い娘は、それを察した英雄がそばにいようとしてくれていること、自分の頷きやすい形で促してくれているのを悟っていた。笑う瞳に浮かぶのが、自分を案じ、想う、愛情と呼べる気持ちであることも。
 それでもすぐに頷くことが────英雄から向けられる心に喜んで飛び付くようなことが、何だか恥ずかしいことのように思えて、結局はじっくり時間をかけて受け入れたふうになってしまった。

「…………じゃあ……此処に、います」
「うん、ありがとう」

 リーンの胸中を知ってか知らずか、あるいは知っても知らないふりをしたかもしれない、英雄は娘の手をゆっくり引いて、いつもは自分が使っているベッドへいざなった。寝かせて肩まで布団をかけてやると、その横に腰掛け、上からリーンの腹に手を当てる。厚い布ごしでも体温が食い込んで和らぐのか、リーンがほうと柔らかく息を吐いた。

「もう少し、お休み。眠れるまで話でもしていようか」
「話……?」
「寝物語には疎いんだけどね。聞きたい話はある?」

 不思議そうにこちらを見るリーンの瞳が、それでも問われて話題を探した。

「あの……子どもって、どうやって作るんですか」

 英雄と名高い女傑とあろうものが、咄嗟に答えられず下唇を噛んだ。そこからか。それはそうだ。自分の身体に関することも知らなかったのだから、いわゆる“雄しべと雌しべ”の話なんてもっと遠い。おのれランジート、せめて本など飽きるほど読ませてくれていたら、まだ基礎が出来ていただろうに。
 話し始めると、それはもう、壮大な情報量になってしまうだろうので、英雄は慎重に続ける言葉を探った。

「それ、はー……。……分かりやすく、喋る準備をしたいから、後ででも良いか、な?」
「分かりました」

 布団に埋もれてこっくり頷くリーンに、英雄は胸を撫で下ろした。この子の物分かりが良すぎるのを憂うことが多いのだが、今ばかりは素直な娘で良かったと思う。

「あの……じゃあ……、綿を中に入れるって……中というのは?」
「……それもまた……あとで……」
「ふふ」

 しどろもどろの英雄を面白がって笑う、無邪気な声が聞こえた。誤魔化されたとか、邪険にされているとか、そんなこと微塵も思っていないリーンの笑顔だ。可愛い光の意思の愛娘。
 英雄はつられて笑いながら、リーンの横に転がった。近い位置で、微笑む眼差しが睫毛に触れる。

「じゃあ、執事王の話をしてあげよう」
「……執事なのに、王なんですか?」
「そう。これは昔むかしの、砂の王国のお話で────……」



 ────リーンの瞼が微睡みに落ちて、やがて規則正しい寝息で胸が上下し始めた。英雄が、すっかり寝に入った娘の前髪を撫で分けていると、ふと部屋の扉をノックする音が聞こえる。
 ヤ・シュトラかアリゼーが戻ってきたのだろう。リーンを刺激しないよう慎重に起き出して扉を開ければ、予想したより幾分大きい体躯が目の前にあって、驚いて視線を上向けた。

「サンクレッド?」
「その……痛み止めを持ってきた。アリゼーが、このくらい行ってやれと気を利かせてくれてな」

 片手に小さな紙袋を持った男は、榛色の瞳をすっかりしょげさせて、英雄たる女を見下ろした。リーンと同じくらい、あるいはそれ以上にショックを受けたのだろう。落ち着かなさげにサンクレッドの視線が部屋の中を巡る。

「リーンは?」
「よく寝てるよ。……顔見てってあげて」

 流石にこのまま回れ右をさせるほど非情にはなれない。英雄が一歩身を引くことで促すと、まず躊躇ったサンクレッドだったが、娘の顔見たさには抗えず、肩を丸めて入ってきた。
 そのままベッドの方に向かうと、赤い頬のまま眠るリーンの顔に、分かりやすい安堵の息を漏らす。彼女の顔をそのまますっぽり覆えてしまいそうな大きな手が、遠慮がちに髪を撫でた。
 すっかり冷えて濾されて渋くなったカモミールティーの余りを、英雄はふたつのカップに注ぐと、ひとつをサンクレッドに差し出した。痛み止めの入った袋と交換して、やっと表情を和らげたサンクレッドはカップに口をつける。

「ほっといたお茶で悪いけど」
「良いさ。……茶でもしばいてろと言われたが……情けないことに、喉を通らなくてな」

 深く息をつきながら、サンクレッドは力なく笑った。

「やっと潤ったよ」
「……蹴っ飛ばしてごめんね?」
「ああ、いや、……構いはしたが。……あのままじゃ、みっともなく狼狽えてただけだろうしな」

 そう言いながら、リーンを見守るサンクレッドの目は、遠く隔たれた向こう側へ、愛しく注がれるような色をしていて────その眼差しに、覚えがある。ミンフィリアを見つめるとき、たまにそんな顔をしていた。

「…………あんなに、出るものなんだな。その。血が……」
「……人によるけどね。最初だから、まあ」
「…………すごいな……女って……」
「そんなのでどうしてたの、ミンフィリアの時とか」

 訊ねてしまってから、迂闊だったかもしれない、と英雄は口許を手で隠した。事実として決着がついたといえ、サンクレッド自身がミンフィリアに向けた思いにけりがついたと思えなかったからだ。愛しいものはいつまでも愛しくて、だからいつまでも、思い出を掘り返すには痛みも伴う。
 英雄がそう考えたのを、サンクレッドも察したのだろう。大袈裟に肩を竦めると、懐かしげに目を細めた。

「ミンフィリアにはフ・ラミンさんがいたからな。俺はそういうことに関しちゃ、いつも蚊帳の外だった」
「…………、そう」

 相槌を打って、すぐに二の句を継がなかったのを、英雄は後悔した。サンクレッドの表情や声音から、苦痛のみではない、ちゃんと触れるに優しい思い出として手に取れるのだと分かった。だがそれを指摘するには野暮な気がして、黙り込んでしまうと他の話題も見当たらず、カモミールティーを啜る音だけが響く静寂が少しだけ重たい。
 それを先に破ったのは、サンクレッドの方だった。

「……世話をかけたな。俺じゃ、どうやっても、何もしてやれないことだから」

 そう素直に言われてしまうと気恥ずかしいような心地がして、英雄はふんと鼻を鳴らす。

「あんたの世話をしたわけじゃないけど?」
「手厳しいな。感謝してるんだ、本当に」
「……私だって、リーンが可愛いの。してあげられることがあるなら、するでしょ」

 渋いカモミールティーを呷って、英雄は苦い顔をした。自分だって、ミンフィリアの魂を抱いて歩んできた娘が、自ら先を切り開こうと果敢に走ってきたあの子が、可愛くてたまらないのだ。
 だから、その足が軽やかに進んでいくことを嬉しく思いながら、同時に抱き込めて大切にしまっておきたくなる。リーンはまだ、あんなに幼いのに。力を持ち、宿命を背負って、過酷な旅路をやってきた。本来あの年頃の女の子なら、もっと気楽で優しい世界で、自分の存在の真偽など問う必要なく、守られて生きているはずだったのに。
 しかしリーンは、祝福を受けて生まれてきた。二度めは自身の意志で。だから、何も出来ぬ赤子のように哀れんで甘やかしたいだなんて、自己満足でしかないのだ。英雄たる女があの子にしてやれることと言えば、サンクレッドと同じように持てる知識と技術を渡してやることだった。────リーンが、素敵な女性として生きていけるように。

「……ちょっと」
「ん」

 なおもリーンを見守っていたサンクレッドを、テーブル横まで呼びつける。そうしたは良いが、切り出し方に困った英雄は、首を捻ったりろくろを回したりして。只事ではない様子に、サンクレッドはカップを置くと、静かに話を待った。

「……相談しとこうと思って」
「相談?」
「そう、あのー、父親はあんただし。教育方針って大事でしょ」

 煮え切らない英雄に、サンクレッドは片眉を上げて先を促す。

「どう教えようかと。……性教育」
「せっ、」

 パァン。

 大声を出しかけたサンクレッドの肩を、英雄がひっぱたいた。黙らせるためにやったというのに、それも思うより高い音が出て、リーンが起き出しやしないかと二人して息を詰める。どうやらぐっすりと夢の中に旅立っている様子を見てとると、同時に大きな息を吐いた。

「……まだ……まだ早いんじゃないか……!?」
「早くない……! 現実として、もうあの子は親になれるんだよ」

 額同士を突き合わせて、リーンにまでは聞こえないよう、吐息の割合が強い声をぶつける。妊娠とか出産とか直接的な言葉を使えば倒れかねないので表現を柔らかくしたが、それでもサンクレッドには刺激が強かった。鯉のように口をぱくぱくさせるも、言葉にならず、顔を覆ってぐったりと俯いてしまう。

「……どの世界でもそうだけど。知らないで、望まないことになる子は多い。リーンがこの先、とびっきり素敵な恋をするにも、知っておいた方が良いと思うんだ」
「……嫁になんか行かせるか……」
「しっかりしてパパ。それはさすがに気が早いから」

 闇の世界の番犬みたいな声をあげるサンクレッドに、笑い事ではないと知りつつ可笑しくなってしまいながら、英雄はすっかり丸まった彼の大きな背を撫でてやる。その手の下で、肺が大きく膨らみ、そして萎む感覚があった。

「……三年前、」
「うん?」
「俺があの子を連れ出した時は……こんな。こんなに、小さくて……」

 サンクレッドは頭を垂れたまま、こんな、とかなり低い位置を手で示す。明らかに小さすぎるのは、混乱から記憶が混濁しているか、当時は本当にそのくらいに思ったのだろう。
 口を挟まずにいれば、微かにサンクレッドの顔が持ち上がる。

「……あの子も、女性になるんだな……」

 英雄に向けられた表情は、いつのまにか大きくなった娘に置いていかれそうな心地を味わう、情けない父親そのものだった。

「…………任せても、良いか?」
「ん、任せてくれるって言うなら、良いよ。幸い私は行き来できるし、今すぐ詰め込まなくたってね。ゆっくりやればいいから」
「……そうだな……」

 サンクレッドときたら、見ている方が辛くなるほど憔悴しているものだから、英雄はそのまま彼の背を撫で続けた。────思えば、彼なりに慈しんだ妹は、成長していく中で世界を愛したから旅立っていった。彼女の選択を尊ぶ傍らで、何にもしてやれなかったと、今に到るまで後悔し続けている。おそらくこれからも。
 だから余計に、自分の知り得ない、知っても手の出しようのない娘の事情に衝撃を受けるのだろう。おとなしく背を撫でられて宥められている様子を見ると、相当だ。

「……お前にばかり、頼ってるな」

 何度めかも分からない溜め息とともに、サンクレッドはやっと背筋を伸ばした。離れようとした細い手を、取って緩く握り込むものだから、不意の接触に英雄は目を丸くする。恭しくこの指を包むのは、皮膚が厚く、熱の高い、男の手だ。

「……出しゃばってるだけだよ。みんながそれぞれ、やってくれていることもあるし」

 同じくらいの力で握り返しながら、英雄はほんのり笑った。本当に、仕方のないひとだ。

「リーンに生き方を教えたのは、他でもないあんたでしょう。そこは自分でも認めてやりなさいよ」

 何にもしてやれない、してやれることが少ないと、妹に対しても娘に対しても嘆くサンクレッドだが、端から見ていてそうとは思わなかった。彼なりの不器用な愛情は、ちゃんと彼女たちに伝わっていて、彼女たちの中で糧になっていたのだ。二人に向ける心の、ほんのひと欠けくらいは、彼自身に向けてやっても良いだろうに。
 サンクレッドの目が、英雄たる女を見つめた。淡く輝くヘーゼル・アイだ。反射する照明に僅か発色を変えながら、微笑の形に細められた。

「お前に励まされるとはな」
「どういう意味なの」
「いつもみたいに、しっかりしろと過激な活を入れられるもんかと」
「さっきまで叩いたら折れそうな顔しといてよく言うよ」

 軽口を叩き合って、舌を突き出せば笑われた。ただ握りあった指先だけがいつもと違う。自分から解くことも出来ず、サンクレッドから離されないことに、何となく安堵していた。
 ふと、ぺたりと小さな足音が響く。

「……サンクレッド……?」

 ベッドから起き出してきたリーンが、眠たげに目を擦りながら歩み寄ってきた。流石に離れた指先の熱が尾を引く。

「リーン。具合はどうだ?」
「大丈夫、です」
「ごめんね、起こしちゃった?」
「いえ、そんなこと……目を覚ましたら、声が聞こえたから」

 ゆるゆる首を振ったリーンの指が、サンクレッドの袖を探してつまんだ。そばにいてほしいという意思表示だろう、正しく読み取ったサンクレッドと英雄は、目配せして微笑む。

「せっかくだから、サンクレッドもゆっくりしていったら。私はちょっとシュトラたちの様子を見、」

 見てくるから、と言いかけたところで、リーンの指が存外素早く英雄の手を捕まえた。

「此処にいるって言った」
「言いました。此処にいます」

 リーンの拗ねたような口振りにそう答えてしまってから、英雄は困惑してサンクレッドを見た。が、彼も訝しげに肩を竦めるのみ。滅多な我が儘を言わないこの子が、こんなに分かりやすく甘えることがあっただろうか。まるで、────まるで、父と母にいてほしい、幼子のようではないか。
 頑なに二人の袖と指を握り込んでいたリーンが、溢すように話し出す。

「……ごめんなさい。おとなにならなきゃいけないのに、……夢を見て」

 英雄とサンクレッドは顔を見合わせた。それから、サンクレッドは膝をつくと、袖にあったリーンの指をほどかせ両手で包む。

「悪い夢だったか?」
「違うんです、……幸せな夢だった」

 サンクレッドの手に縋る幼い指が、一緒になって英雄も握る。その、血の通ったぬくもりが、俯いた横顔が見せる微笑みが、どれほど幸福だったかを物語っていて。

「…………だから」

 ────夢の内容も、その言葉の先も、あえて問わなかった。英雄は腕を伸ばすと、リーンの体をふんわり抱き締める。小柄な女でもすっぽり包めてしまえるくらい、華奢な女の子だ。

「いいの。すぐおとなになんか、ならなくて良いんだよ。身体も時間も待ってくれはしないけど」

 髪に角を擦れば、頭を傾けることで返してくれた。

「心だけは、ゆっくりで良いの」
「……おとなになるまで、おとなになったって、お前は可愛い娘なんだ。家族の役目を最期まで果たさせてくれよ」

 深い男声が肩を包むように響いた。リーンが頷く動作を腕の中に感じる。サンクレッドの手がぽんと背中に触れてくれたので、やっとリーンを解放して、顔を見ることが出来た。木漏れ日みたいな瞳と笑顔を交わし合う。

「もう少し休んでおいで。そばにいるから」
「……何処にも行かない?」
「行かない行かない。何なら私も昼寝しちゃう。あのベッド三人いけると思う?」
「お前とリーンは小さいからな……、……俺もか?」
「寝とかないと夜までもたないよ」
「年寄りみたいに言うなよ……傷付くぞ」

 結局リーンを真ん中にして、せせこましく三人で横になる。意外と快適ではあるようで、リーンは自ら布団を深く被って目を細めた。

「おやすみ、リーン」
「……おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」

 言葉を交わし合ったあと、リーンはすぐに寝息を立てた。幸せな夢の続きを見られるだろうか。あるいは、今のこの時間が、この子にとっての幸せになるだろうか。
 薄い腹に手を添える。その下に感じる穏やかな呼吸、その体温に思わず、英雄と呼ばれる女の視界が歪んだ。

「……泣くなよ。どうした」

 サンクレッドの驚いた声が聞こえた。言葉になりきらない想いは、こうして目の奥から溶けて溢れて、シーツに染みを作るのだ。

「可愛い子」

 可愛くて、いとしくて、涙が出る。ずっと手もとで守ってやりたいのにそれは出来ないから、せめて一緒に過ごす時間が、この子の心と未来を守りますようにと、願う。そうしていつか、羽みたいな軽やかさで、光のような速さで駆けた先に、あふれるような幸せがありますようにと。
 不意に、伸びてきたサンクレッドの指が、彼女の涙に触れた。頬を撫で、目尻を拭い、何度も何度も雫をすくう。彼がこの英雄に、まるでただの女に対するみたいに優しく触れるものだから、少しだけ笑ってしまった。

「私にまで色男を発揮してどうするの」
「……生憎、目の前で泣かれてるのを放っておけるほど、腐っちゃいないさ」
「難儀なやつ」
「お互いにな」

 ふやけてしまいそうな指で根気強く拭いてくれるものだから、止まらぬ涙をそのまま任せた。
 今はまだ昼だ。いずれ仲間たちもやってきて、にわかに賑わうのだろう。少なくともその時までは、この歪な形同士が噛み合って、何の変哲もない両親と幼子みたいに、ありふれた家族みたいに見えますようにと、祈っていた。
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