春告鳥は鳴かず飛ばず

「サンクレッド!」
「ん?」
「ハグ!!」
「ん!?」

 眼下にどーんと広げられた英雄の腕に、サンクレッドは目を剥いた。
 周囲には多くひとがいて、しかし誰もが生暖かい感情で以て、彼らを見てみぬ振りをする。
 それらの気配と相反して、吹きつける風はあまりにも冷たい。キャンプ・ブロークングラスと呼称を定められた無人の集落は、イルサバード派遣団が駐留するために多少賑やかになったが、極寒ゆえに痩せた土地のひもじさがそこかしこに根を張っているようで、北風の音が切なかった。
 サンクレッドは、寒さにつんと沁みた瞳を閉じて、唐突なハグ要請に至るまでのいきさつを整理した。

 イルサバード大陸北方に位置する、帝都ガレマルド。かつての栄華と活気を失ったガレマール帝国の中枢は、雪と瓦礫とに潰されて、灰色の静寂に沈んでいる。あまりにも寒々しく、侘しい光景だった。
 第二代皇帝ヴァリス・ゾス・ガルヴァスの崩御を皮切りに、帝国では玉座を争う激しい内乱が勃発────その混乱の最中に、更なる災禍は起きた。神無き国を支配する『神』の登場、それによって魂を焼かれた多くのガレアンたちが、屍のごとき奴隷として徘徊しているのである。彼らは死と埃の舞う廃墟の中で、黙々と新たな城を築き上げた。曇天へと伸びる異形の建築物────それは『バブイルの塔』と呼ばれるようになる。
 一連の異変は、アシエン・ファダニエルと、ゼノス・ヴェトル・ガルヴァスが組んだことから起こっていると見て違いないというのが、エオルゼア同盟軍による共通見解であった。彼ら『テロフォロイ』による、星に向けての宣戦布告は、未だ記憶に新しい。
 ファダニエルは、生きとし生けるものすべてを巻き込んだ自滅を目論んで。ゼノスは、我らが英雄との再戦ばかりを望んで。すべての命を軽んじ、弄びながら、着々と破滅へ手を伸ばしている。
 それを黙って見ているだけの人間は、ここにいない。
 続く困難によって、困窮するガレマール人が必ずいる。同じ星に生きるものとして、彼らの助けとなるべきだと声をあげる者たちがいた。エオルゼア中から集った有志は、イルサバード派遣団として、敵地だった場所へ、昨日までの敵だった誰かの救援にやってきたのだ。
 志を同じくした『暁の血盟』一同もまた、ガレマルドへと進んだ。未来へと向けられた凶刃を打ち砕くべく、勇士と共に、北の果ての凍土を踏みしめたのである。

 そして、敵対勢力の居城である『バブイルの塔』への突入作戦開始前。各々が、装備や作戦の確認をしている時間である。
 光の戦士にして暁の英雄である女傑が、仲間たちを抱きしめて回っているのは、サンクレッドの視界からも捕捉できていた。戦力としてもムードメーカーとしても、常に中心にいる彼女のこと。共に向かう者たちとコミュニケーションをはかることで、緊張を解してやっているのだろうと、愉快に考えていた。アルフィノやアリゼーにはもちろん、リセとヤ・シュトラ、それからグ・ラハやウリエンジェにも平等にハグをして、あのエスティニアンまでもが応じているのに驚いて、我らが英雄の人たらしぶりに舌を巻いていたのだ。
 流れでサンクレッドのもとに来ることも予想できていたのだが、まさか、本当にやってくるとは。今更、心的にすら彼女に頼らねばならないほどのプレッシャーはないし、サンクレッドは男で、彼女は女だ。(否、他の野郎連中を男でないと言うつもりもないのだが。)人目が十分にある場所で、気安い触れ合いなどしない方が良い、はずだ。

「俺は、」

 俺は大丈夫さ、とサンクレッドは言いかけた。苦く笑って首を振り、英雄たる女傑を見下ろして────彼女の唇が奇妙に引き結ばれていることに気付いた。いつも青白い頬はいっそう血の気を失っていて、アウラ族である彼女の白鱗の尾が、這い回る虫でも叩き落とすみたいに落ち着かないのも不可解である。
 常ならば戦を前にして、誰より凶悪に、傲慢に、絢爛に笑んでいるはずの女傑だ。その彼女が、怯えているようにさえ見えるから、サンクレッドは険しく眉根を寄せた。
 『暁の血盟』の仲間たちが彼女に応えていたのは、このせいだ。そう理解した。普段他人を鼓舞して回っている光の戦士が、今は心細くて縋るから。
 言葉を飲み込んだまま黙ってしまったサンクレッドを見つめて、暁の英雄は、広げていた腕を渋々下げて俯いた。

「いやなら、いいよ」

 怒っているような、拗ねたような口振りである。それが不満や不服からきているのではなく、不安から発せられていることを悟ったサンクレッドは、嗚呼、と小さく息を吐いた。
 息を吐いて、それから、彼自身が纏っている防寒コートの留め具を外しにかかった。かちり、かちり、と金属質な音を聞き付けた英雄は、まあるくした瞳をサンクレッドに向けて、ひとつ瞬きする。

「な……なにしてるの」
「ほら、来い」

 彼女の問いに、手招きすることで答えた。コートの前をすっかり寛げたサンクレッドは、此処に────広げた防寒具の内側、いつもの軽装備を重ねた胸に飛び込んでこいといざなう。
 この際、恥とか外聞とか、男だ女だとか、サンクレッドが気にしている場合ではなかった。今、この小さな怪物の心を、守ってやらずにどうするというのか。彼女は光の戦士であり、サンクレッドの命の恩人であり、ミンフィリアのともだちで、リーンの母親役で、暁の灯火である。命を賭けたって惜しくない相手なのだ。だからこれは、当たり前の献身だった。
 そうやって突然サンクレッドから差し出された体温に、英雄とまで呼ばれた女傑は、臆病な生き物みたいに肩と尻尾を跳ねさせた。おろおろと辺りを窺って、もう一度サンクレッドを見て、すっかり狼狽した様子だ。

「あ、あの、でも、私、」
「早く来てくれ。さすがに俺も寒い」

 自分でハグを要求してきたくせに、相手が余計なことをした途端に怖じ気づくらしい。サンクレッドはその仕草に笑みを溢しながら、再度コートをはためかせた。寒いと言ったのは本心であるし、当然だ。多少強がれはしても、ガレマルドの酷寒は血肉に刺さる。それにいつまでも前を開けていたら、彼女を包むための温度すら逃げ出して、よろしくない。
 サンクレッドは、柔らかな声で彼女の名を呼んで、両腕を広げた。

「……おいで」

 彼女の、いつまでも暴れていた尻尾が、ぴたりと止まった。大きな瞳をさらに開くから、顔の半分が目になったみたいだと錯覚をする。そうやって光の戦士は、じいとサンクレッドを見つめていた。
 僅かに首を傾けた彼女は、強張った尾を小さく揺らす。困惑してはいるものの警戒はしていない、そんな仕草であると、不思議と理解できた。ちょうどよい巣穴を見つけたみたいな、まあるい眼差しが分かるから、サンクレッドは根気強く、英雄という小さな蛇が潜り込んでくるのを待った。
 光の戦士たる女は、また少しだけ首の角度を深くして、それからよたよたと熱源に近付いた。探るような指がサンクレッドの腹に触れて、手のひらで胸に触れ、おずおずと角先を寄せる。
 そうしてやっとサンクレッドの身体に沿った彼女を、彼はコートと体温の間に閉じ込めた。肩を抱くようにして、やんわりと引き寄せ、寒風から守るように仕舞い込む。英雄なんて逞しい肩書きで呼ばれていようと、アウラ族の女である彼女は種族柄、小さく細い。小柄がすぎて、そう上背が高くないはずのサンクレッドでさえ、すっぽりとくるんでしまえるほどだった。
 ふ、と細く息を吐き出した女傑は、サンクレッドの腕の中、強固で温かいシェルターから鼻先を上向ける。

「あの……角、痛くない?」
「ああ、防具もあるしな。お前はこれで痛まないか」
「平気……」

 そう言いながら彼女は、こつん、こつん、と角で探っている。どうやら良い置き場を探しているようだ。二人をすっかり覆う防寒コートからは、真っ白な尻尾だけが飛び出ていて、ゆっくりと、しかし大きい振り幅で、左右に揺れた。
 忙しなく動き回る人々の眼差しが、ふと重なった二人の姿に留まっていくことに、サンクレッドは気付いていた。微笑ましそうな口許も、呆れて笑う眦も、しかし何も言わずすれ違っていく。さて、傍目からは一体どう見えることやら。元色男が、立場もわきまえず口説いているように誤解されるなら、それでも良いかと思っていた。
 サンクレッドは苦笑すると、より深く光の戦士を抱き締めて、外界から彼女を隔離する。からかうみたいな視線なんてひとつも感じないが、それでも、彼女が余計なことを考えずに済むよう、今は何にも見せないのが良いはずだ。
 突然強くなった圧に、アウラ族の女は、きゅう、とか細い声をあげた。驚いた爬虫類が出す音みたいだ。彼女はそうっと睫毛の先をサンクレッドの顔まで向けると、見上げる姿勢のまま、こつん、と角を落ち着けた。
 大きな瞳だ。サンクレッドは、こちらを見つめる彼女を覗き込んだ。エーテルを含んでじっとりと光る双眸が、コートの影にいるせいで、ひときわ輝いているように見える。間近で見つめあって初めて、サンクレッドは彼女の虹彩の造りが、鰐や蜥蜴のそれと似通っていることに気付いた。眼球に金銀の箔を重ね、飴で閉じ込めたみたいだ。複雑で甘やかな色合いは作り物のようでいて、しかし確かに生気で潤んでいる。
 きれいな目だ。自然と彼の胸中に起こったのは、緻密な宝石細工に対する称賛と同じの、感嘆であった。
 そうやって少しの間、サンクレッドは彼女と視線を重ねていた。じいと静かにしていた光の戦士は、ひとつ瞬きをすると、ムズムズと尾を揺らす。

「み、みんなにも、してもらってるの。ハグ」

 言い訳めいた彼女の小声に、サンクレッドは笑った。彼女の背を包むコートの上から、とんとんと軽く撫でてあやしてやる。

「知ってるさ。見てたよ」
「……見てたの」
「ああ」

 互いの呼気が、鼻先で交じりそうだ。

「見てたよ」

 サンクレッドは、そう囁いた。彼女の目尻に、ほんのりと血色が戻るのを見守りながら。微笑みに細められる瞳の形と、伝う心音の穏やかさとに安らいでいた。彼女の尾が、別の生き物みたいな動きで、ぬるりとコートに潜るので、サンクレッドはそれも迎え入れてやる。
 唇を笑みの形にした女傑は、サンクレッドの眼前で、ふんわり瞼を下ろした。ふうと大きく息を吐くから、肺がしおしおと収縮して、そのために平たく密着したように感じる。いよいよ寛ぎ始めた英雄の様子に、サンクレッドはくつくつと肩を揺らしていた。そうやってこの女が、彼を人間ストーブとして扱い出すのを、面白がれるほどには余裕があった。
 サンクレッドは、落ち着いている彼女の額に顎を乗せて、そうやって喉の体温さえも差し出して、彼女と同じように長く息を吐き出した。

 キャンプ・ブロークングラスは、幾度か襲撃を受けている。直前に起きた事件も、形としてはそうだ。
 『バブイルの塔』から発せられたエーテル放射が、保護していたガレマール人の精神を汚染。“帝国に歯向かう愚者を屠る操り人形”となってしまったがために、拠点のあちこちで戦闘が繰り広げられたのである。
 その混乱の最中で、英雄たる彼女は失踪した。
 ぞっとする話だ。サンクレッドは、悟られない程度に、彼女を抱く腕を強張らせた。いつだって他人のために走り回っている彼女のこと、今回も見過ごせない事態に遭遇して駆け出していったのだろう────そう仲間たちと喋りながらも、自分の知らない間に何処かへ行かれてしまうと、どうも狂乱の祝賀会を思い返して気分が悪い。騒ぎに紛れて消えて、以来二度と、想う形で再会できなかったミンフィリアを思い出す。
 結局、我らが英雄は戻ったものの、“身体と魂を離された状態”での帰着だった。
 舌に胃液の味を仄かに感じて、サンクレッドは唾を飲む。
 その時彼女の身体は、別の魂が支配していた。あの、ゼノス・ヴェトル・ガルヴァスが、我が物顔で、彼女の身体に宿っていたのだ。
 あの男が何を企んでそうしたのかは分からない。どうでも良いとさえ、サンクレッドは思っていた。それよりも、彼女が別の容れ物に押し込まれて、本来よりずっと虚弱な肉体で、銃創も火傷もそのままに、氷の大地を這って帰ってきたという事実の方が重要だった。
 光の戦士である女傑の打たれ強さには心から畏れ入る。サンクレッドは、ぴったり寄り添う彼女の背を、呼吸を促すように撫で続けた。
 神話に語られる獣のごとき、強く、恐ろしく、美しい女だ。そんなふうに不屈の精神を持つ彼女ですら、今回はいささか堪えたらしい。理不尽な無力ゆえに、救えたはずの屍を踏んで越えたのだ。焼けた鎧に張り付いた皮膚を、剥がしながら進んだのだ。磨耗するのは当然である。
 何よりも、己の身体の内に、別の男の魂が隅々まで満ちていたのだ。尊厳を侵された心地さえするだろう。ゆっくりと湯浴みでもさせてやりたいが、生憎、急がなければならない状況だ。そんな中において、仲間たちの体温を感じることが、彼女にとっての清めの儀式であった。
 この腕の中で彼女は、安堵して瞳を閉じ、ゆっくりと息をしている。そのことが、サンクレッドを無性に誇らしい気持ちにさせた。

(ざまあみろ、)

 サンクレッドは心の内で、ゼノスめがけて毒づいた。

(お前のやり方では、こいつを嫌悪させることしか出来ないぞ)

 直接対峙したことが少ないため、サンクレッドはゼノスについて、開示されている情報以上のことを知るわけではない。ただ、彼女への執着と、あんまりに稚拙な誘い方には、第三者であれ辟易していた。
 追い立てて追い詰めることで激昂させたいのであれば、それでも良いだろう。彼女の周囲にあるもの、ことごとくを奪ってみせるといい。その先にあるものは、ゼノスそのものに対する関心ではない。憎しみなんていうものは、人物ではなく事象にまつわる感情であり、だから安易に引き出せる。幼い男児が好きな女の子をいじめて気を引こうとすることと同じに拙いと、サンクレッドはこっそりと腹を立てているのだった。
 もちろん、簡単に彼女のもとから奪われてやる気もない。隙でもあればさっさと暗殺してやるのだが、憎たらしいことに、あれはサンクレッドの手に負えない怪物の類いだ。我らが英雄と、同じに。
 絶対強者という点において、光の戦士である彼女とゼノスは同格で、同等で、同族だ。だからこそ、友だなんだと呼びながら、彼女との逢瀬を望むのだろう。
 彼女の手が力だけを握っていたのなら、あるいは幸福に対峙したかもしれない。しかし、この小さく細い指は、ティースプーンの重さと、花弁の厚さと、子どもの体温を知っている。それが彼女とゼノスを別つ、たったひとつの差異だった。
 厄介な男に付け狙われているものだなあと、サンクレッドは嘆息して英雄たる女を覗き込んだ。何でしょう、なんて言いたげな表情の彼女が、呑気に瞼を上げるものだから、サンクレッドは微笑んで首を振った。なるべく優しい顔つきに見えてくれればと、願っていた。



 思えばゼノスという男は、彼女の心を乱してばかりである。この女傑が敗北らしい敗北を喫したのも、確か奴と初めて遭遇した時だ。アラミゴが未だ帝国支配下にあった頃、革命を成し遂げるために彼女は行って、そして膝をついた。
 当時サンクレッドは、ウリエンジェとともに蛮神対策に当たっていて、別行動をしていた。だからその知らせを聞いたのは、彼女が数人の仲間を連れて、ゼノスを撹乱するため東方に向かった後の事だった。

「彼女は、強いな」

 ふと含んだ笑みとともにそう溢したのは、現地で指揮をとっていた不滅隊局長ラウバーンだ。
 アラミゴ解放軍のもとに残っていたクルルが拐われ、その行方を追うためにサンクレッドが動いた時のことである。帝国領内へと潜入する必要があったため、それまでの情報を共有しようと会合していたのだ。
 一刻を争う時に、何故、そんな話になったのかは覚えていない。ただ、光の戦士であり英雄である彼女は、どこに行っても希望の象徴だった。奇跡と、勝利の証明だった。だからこそ、空気が張り詰め、淀んだ時にこそ、彼女の名前は語られる。それは今のエオルゼアにおいて自然なことだった。
 サンクレッドは、姪の話でもするみたいなラウバーンの穏やかさに、目を丸くした。それから、おどけて肩を竦める。

「そりゃあ、うちで一番の戦力ですからね」
「うむ。吾輩をも下す技量は見事なものだ」

 サンクレッドに頷いたラウバーンは、愛剣ティソーナの柄を隻腕で撫でた。『アラミゴの猛牛』と雄々しい異名を持つその男は、傷だらけの強面を、不似合いなほどに和ませてサンクレッドを見つめたのだ。

「だが、何より、心が強い」

 剣闘士として名を馳せ、前人未到の千勝を達成した男が、しみじみと彼女をそう語る。ラウバーンと長く付き合いのあるサンクレッドにすら、その表情は意外なもので、口を閉ざすことで先を促した。
 曰く、彼女がゼノスに敗北した時、真っ先に彼女の側に寄ったのはラウバーンであったらしい。救援に滑り込んだ彼が見たのは、アラミゴ解放軍の拠点であるラールガーズリーチの惨状、それから手酷くやられた光の戦士、悠々と去ってゆくゼノスの姿だった。
 その場で治療を受けた彼女に、ラウバーンが声をかけた際、大声で泣き出されたとか。

「清々しいほどの勢いでな。あの時ばかりは、貴様のように口が回ればと願ったぞ」
「よしてくださいよ。このナリじゃ、愛の吟遊詩人は返上だ」

 人懐こい気配で茶化すラウバーンに、サンクレッドは大袈裟に両手を上げた。伸びっぱなしの髪と髭、洒落っけなぞ地脈に溶かしてきてしまった、武骨な男の様相だ。泣いた女も黙らせる色男の真似は、もはや出来ないだろう。ラウバーンは、そんなサンクレッドに、やんわり目を細めた。

「情けないことに、何一つ慰める言葉をかけてやれなくてな。しかし、彼女はひとりで立ち上がった」

 顔の彫りが深いものだから、彼の瞳は常に額と鼻筋が作り出す影の中にある。しかしよく覗き込めば、ブルーグレーの凪いだ色彩を見つけることができた。日向で透かさねば分からないほどささやかな、玉の輝きによく似ていた。

「そしてゼノスが去っていった方角を睨み付けて、こう言ったのだ────」

『あのやろう! こんどあったら、ずたずたにさいてころしてやる!』

 ────もちろん、生真面目なラウバーンが、そっくりそのまま彼女の声真似をしたわけではない。しかしサンクレッドの脳裏には、まるで見てきたかのように鮮やかに、目もとを真っ赤に腫らした女傑の吠え猛る様子が浮かび上がるので、うっかり大笑いしてしまった。

「あいつらしい!」
「既に次を、それも勝つことを考えているのだと、膝を打ったものだ」

 見習わねばならんな、と、ラウバーンは縞模様が連なる岩山を遠く眺めていた。ギラバニアの荒々しい大地だ。景色はからりと乾いているのに、風ばかりが、ベロジナ川から上る水分を含んで湿っている。嗅覚に青さが運ばれてくるのを、サンクレッドは感じていた。
 それがラウバーンの知る故郷の姿であるかは分からない。淡い色の瞳が見つめていたのは、過去だったのか、あるいは未来であったのか。
 彼女の心を強いと称えたのは、ラウバーンが掲げるモットーの通りの、切り替えの速さに対してだっただろうか。それとも、なりふり構わず涙を流せることを強さと見たのか。サンクレッドは、訊かないままにした。

 英雄たる光の戦士は、あれで、よく泣く女である。それはもう、よく泣くのだ。大胆不敵の振る舞いをするくせに、悲しくて泣いて、悔しくて泣いて、それから、愛しくて泣く。
 サンクレッドが知る限り、彼女が初めて人前で涙を見せたのは、盟友たる騎士を失った時だ。一度は三都市から追われた彼女を、厚く遇した男らしい。恩もあれば情もある。そんな男は、彼女を守って死んだ。彼女は無理矢理の笑顔で善き騎士を見送って、そして彼が瞼を閉じてから、弾けるように泣き出したという。身体中の水が抜けてしまうのではと思うほどに泣いて、泣いて、泣いて、泣き疲れてもまだ止まなくて、瞼が開けられないほどに腫れてから、誰の手も借りずに彼女は立ち上がった。その角の先をまっすぐ前に向けながら。
 イシュガルド貴族院議長となったアイメリク卿と同席した際、彼がそんな話をぽろりと溢したので、随分と驚かされたのである。サンクレッドは驚いて、彼女の悲しみの深さを悼み、それから、その心の在り方を誇らしく思った。出会った当初はツンと表情を強張らせていたあの女が、友のために泣くようになったのかと、感慨にふけりもした。

「彼女は、素直な人だな」

 アイメリク卿がそう微笑むから、サンクレッドはゆっくり頷いた。光の戦士という怪物の情緒が人間のそれに近付いていくのを歓迎する、その一方で、そんなふうに悲哀を会得せずとも良かったのにと確かに考えていた。
 ひどい身勝手の自覚が、あった。



(こいつが、泣き出しやしないだろうか)

 サンクレッドはふと思った。貶められ、穢されたような心地に傷付いて、おののいて、頬を濡らすのではないかと警戒していた。身体を冷やすその雫が溢れたら、一体どうやって温めてやれば良いのだろうと、ずっとずっと考えて、彼女の大きな瞳を覗く。
 きれいな目だ。怯むでもなく、厭がるでもなく、彼の眼差しに応えて瞬きしている。さらさらと輝く彼女の双眸は、健康に潤んでこそいるが、過剰な水分は見受けられなくて、サンクレッドは深く安堵した。
 その脱力が、顔に出たのか。彼を同じように見ていたアウラ族の女傑は、突然くすくすと肩を揺らした。そして彼女はサンクレッドに────サンクレッドにだけ見えるように、にっこりと、笑ってみせたのだった。

「なあに」

 彼女のまあるい声に、サンクレッドは喉を詰まらせた。少しも棘がなくて、耳朶に優しく触れる音。痛みにざらつくどころか、喜色に澄んで、じわりと鼓膜に染みていく。
 何と伝えるべきだろう。どんな言葉にするべきだろう。お前が泣かなくて良かった、と、たったそれだけの一言を形にすることが憚られて、サンクレッドは結局首を振った。

「何でもないさ」

 温かく色づいた彼女の頬を、サンクレッドは見ていた。彼女がぽかぽかと笑っていることに救われたような気がした。
 彼が言わない選択をしたことを、彼女は良しとしたらしい。光の戦士である女傑は、温厚な生き物みたいに眦を和ませて、また瞼を落とす。そうしてまた訪れる無言の時間を、とんとんと鳴る鼓動を聞いて過ごしていた。

「────サンクレッド!」

 ふたりを包む静寂の膜を切り込むように、明後日の方向から呼びかけられた。溌剌とした青年の声である。サンクレッドが緩慢な動作で顔を上げれば、灰色の景色に映える鮮やかな赤毛が、早足で歩み寄ってくる。
 グ・ラハ・ティアだ。湯気をたてるマグカップを片手に持った彼は、何やら慌てているようだった。

「なあ、あの人が何処に行ったか知らないか、さっきから探うわびっくりした!」

 サンクレッドのコートの中から、ぬるりと顔を出した英雄に、グ・ラハは尻尾を太らせた。遠目からは一人の影に見えたのだろう。これだけ密着していたらそうも映るかと、サンクレッドはひとりで頷いた。

「どうしたの。もう時間?」
「ああ、それもあるんだけどな。あんた、さっきひどく冷えてただろ」

 彼女が収納されたままちょっとも動かないので、グ・ラハはぽんぽんに膨らんだ尻尾を揺らして宥めながら、ふたりの方へと距離を詰める。彼女のそばにマグカップを寄せて、窺うように首を傾げた。

「だから温かいものでもと思ってさ。イシュガルド式のミルクティーもらってきたんだ」
「飲む!」

 コートの中で彼女が手をもたつかせる感覚があったので、サンクレッドは微笑んで腕を退ける。これだけ元気になったのなら、もう大丈夫だろう。するりと離れた彼女との間に、北風がすいと入り込む。
 グ・ラハからマグカップを両手で受け取った彼女は、嬉しそうに優しい香りを覗き込んで、それから、ぎゅっとサンクレッドに背中を押し付けた。押し付けて、尾を揺らして、いつまでも包み直してくれないサンクレッドに「は?」という顔を向けた。
 くしゃりと顔を歪めたサンクレッドは、粛々と、暴虐の化身を腕とコートでくるむ。自身がやり出したことだが、妙な甘やかし方を覚えさせたような。満足そうにマグカップに口をつけた英雄が、あまりに人間ストーブに対して縄張り扱いをしているので、一連のやり取りを眺めていたグ・ラハがからから笑い出した。

「いいな、温かそうで」
「ラハも入る?」
「えっ!? オレはいいよ!」
「遠慮しなくてもいいぞ」
「サンクレッドまで!? 大丈夫だって!」

 あたふたと手を振ったあとで咳払いをするグ・ラハ・ティアは、まったく年頃の男の様子だった。いつかその身を、文字通りに英雄譚へと捧げてみせた、老獪なる水晶公の面影は薄い。そのことを、光の戦士である彼女がとても喜んでいるのを、サンクレッドは知っていた。グ・ラハがくれたミルクティーを啜る彼女は、にんまりとふてぶてしく笑んでいる。弟をからかうような、親密な気安さが滲んでいた。

「飲んだら、そろそろ集合時間だ。行けそうか?」
「うん」

 彼女はこくこくと喉を鳴らすと、カップの中をあっというまに空にした。それからぺろりと口回りを舌で拭い、首を伸ばしてサンクレッドを見上げる。すっかり温まった赤い唇が、にっこりと笑っていた。

「ありがと、サンクレッド」
「お安いご用さ」

 それが、今度こそ、合図だった。サンクレッドがぱっと手を広げれば、彼女は世界に躍り出る。頭から尻尾の先までをぐいと伸ばして、しなやかな体をガレマルドの極寒に晒した。
 竜が翼を広げるがごとき、堂々たる姿である。

「ラハもありがと。これ返してくるね」
「ああ、オレも一緒に行くよ」

 少し先まで駆け出した英雄を呼び止めて、しかしグ・ラハはふとサンクレッドへと視線を移した。片眉を上げたサンクレッドに、グ・ラハは声を落として囁く。

「その、邪魔してしまってたら、悪かった」

 彼の申し訳なさそうな顔に、サンクレッドは思わず笑い声を上げた。確かに、あれは“仲間”の距離感ではなかったかもしれないが、グ・ラハが思うような仲ではまったくないのだ。

「そんなことはないさ」

 サンクレッドはそう断言して、口角を吊り上げた。

「気になるか?」

 からかうつもりの、おどけた言葉だ。どうも、グ・ラハという青年は構い倒してやりたくなる。愛嬌があり、何事にも真面目で一生懸命で、好感の持てる人間だ。そしてサンクレッドの想定通りに、ぎょっと耳の毛を逆立てた彼は、思いっきり首を横に振ってくれた。

「いやっ、違うんだ、そういうことではなくて!」

 それから、グ・ラハは視線をさ迷わせた。彼女の方を見て、不思議そうな顔をした彼女がそれでも待っているのを確認してから、またサンクレッドに向き直った。
 その、宝石のような真紅の眼差しに、ふと彼の過ごした百年を見たような気がして、サンクレッドは瞬く。

「……でも、そうだったら、ちょっと嬉しかったかも、な」

 そうだったら。サンクレッドと、かの女傑が、並々ならぬ仲であったら、ということか。今度はサンクレッドが面食らう側になって、しかしその驚嘆を悟られないよう、口を閉ざしたままにした。

「オレが読んだあのひとの話には、そういうのが、なかったからさ。恋もしないまま……だと、思ってたんだ」

 ページの一枚一枚を大事にめくるような、優しい声だった。交じることのなくなった遠い未来で、彼女は、恋もしないまま、死んだ。しかし今、あり得なかった青い春の兆しを見出だしたようで、それを好ましく思ったのだろう。

「……だから……さ」

 その先の言葉を、あえては口にしないようだった。血色の瞳にそっと睫毛の影を乗せて、それから視線を上げたグ・ラハは、見つめることで彼女を慈しむ。
 彼自身、英雄のロマンスに名乗り出るつもりが毛頭無いことを、サンクレッドは悟った。宝物を眺めるようなその瞳に、心当たりがあった。サンクレッドが、ミンフィリアをいちばん尊い希望と思うように、グ・ラハにとって暁の英雄は、いちばん強い憧れで、いちばん続きを読みたい物語なのだ。とっておきの綺麗な缶の中へ、集めた小石や羽根をしまい込む、幼心に美しいと思い込んだものを抱きしめるような、純粋な想いに等しい。
 サンクレッドは、微笑む息を吐いた。グ・ラハが彼女を心から大切にしていることなんか、ずっと前から知れていたが、こうして直に顔面から浴びてしまうと────何故だか自分のことのように誇らしくて、晴れやかな心地であった。
 グ・ラハは、曖昧にはにかんで、頬を掻いた。

「……なんて、変なこと言ったな」
「良いさ。忘れておくよ」

 サンクレッドは、彼女の残り香ごと、コートの金具を留めた。

「……何かあれば、前衛に回るのは俺たちだ」

 右手で拳を作ったサンクレッドは、背負ったガンブレードの柄をこつんと叩いた。ガンブレイカーであるサンクレッドと、あらゆる技能を体得しているグ・ラハ・ティアは、守り手同士でもある。もちろん、光の戦士たる彼女も盾役を担うことが出来るのだが、『暁の血盟』最大戦力なのだ、得意な戦法で大いに暴れてもらうのが良いだろう。

「その時はよろしくな、グ・ラハ・ティア」

 そしてサンクレッドは、拳を相方に差し向けた。紅玉色の瞳を大きく開いたグ・ラハは、若い雄獅子のごとく挑戦的に笑んだ。同じように拳を掲げ、誓いと誓いをこつんと打ち付ける。

「こちらこそ。頼むぞ、サンクレッド!」
「ああ」

 体格が違うから、手の大きさも一回り違う。しかしグ・ラハの拳は、あらゆる武器を、多くの想いを、強く握り込んできた男の拳であった。
 それじゃあまた後で、と駆け出したグ・ラハは、じっと待っていた光の戦士のもとへ急いでいった。退屈していた彼女の手から空っぽのマグカップを引き受けた彼は、思いっきり英雄という怪物にじゃれつかれて、背中によじ登られる始末だ。賑やかではあるものの、何を話しているかまでは聞き取れない。おそらく文句を言っているとサンクレッドは思った。それでも彼女をしっかりおぶって歩いてやるのだから、グ・ラハもまったく、彼女を甘やかしがちだと笑ってしまうのである。
 マグカップを返しに行くだけの彼女に、同行してやる必要はない。それでもグ・ラハが彼女について回るのは、ひとりにさせないためだと、サンクレッドは見抜いていた。彼なりに、英雄たる女の、酷く動揺した様子に気付いていたのだろう。
 ああしていると、幼い頃から共にいるきょうだいが、転げ回るように遊んでいるみたいだ。サンクレッドは、そうやって彼女が無邪気な顔で笑っていることを、ひっそりと喜んでいた。

 ふたりの背から視線を移し、『バブイルの塔』を睨み上げる。
 彼女は、ゆくのだ。光のような軽やかさで。流星のごとき鮮烈さで。あの禍々しい異形へと至り、未来を脅かすものを打ち砕いて、鬨の声を上げるだろう。彼女はエオルゼアの英雄で、それを誇りと掲げるから。彼女は駆けて、避けられぬ戦いに嬉々と飛び込み、必ず勝つのだ。そういう生き物である。
 だからサンクレッドにできることは、彼女が行く道を、なるべく快適になるよう切り開いてやることだ。彼女の真っ直ぐな歩みの邪魔をさせない。何も奪わせないように、仲間を、未来を、彼女を護り抜いてみせる。それがサンクレッドにできる誓いの表明だった。
 ただ、────ただ。
 サンクレッドは、手元に視線を落とすと、緩く指を開閉した。
 彼女が二度と怯えない方が良い。二度と心を荒らされない方が良い。それでもまた彼女がおののき、凍える時がくるのであれば。何からだって護るから、どうか安らぐ場所に、この腕の中を選んでくれないだろうか、と。浅ましく願う理由を未だ自覚しないまま、サンクレッドは、重ねた熱の感覚を反芻していた。
6/12ページ