春告鳥は鳴かず飛ばず
苦鳴の代わりに吐き出したのは、光に汚された純白だった。皮膚の内側から切り崩され、焼かれ、ひしゃげられ、掻き混ぜられるような激痛が、鳩尾から広がっていく。
いたい。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛、い。
どう叫んでも、のたうち回っても、ちっとも痛覚は逃げてくれない。身体の奥の、溶けてはいけないところが液状となって、かろうじて残った管をせり上がってきているみたいだ。
眼前に輝かしい死が見える。死ぬ。今度こそ死んでしまう。しかもそれは単純に命を失うということではない。彼女という英雄が死に、存在を足らしめる意識が死に、本能を繋ぎ止めている理性が死に、この世界を喰らい尽くす停滞と静寂の化け物が生まれるということだ。
抗いがたい苦痛に逆らうことをやめて、いっそ身を任せてしまえばすぐにでも。
(────否!)
否。否。否だ。そんな結末は断固拒否する。
彼女は────光の戦士たる女傑は、顎が軋むほど奥歯を噛み締めて、これ以上の叫喚を封殺した。どうやったって溢れ出る呻きを押し込める代わりに、ガクガクと跳ねる手で土を掻きむしり、砂利が指を裂く感覚で以て己を奮起させる。
終わるわけには、いかないのだ!
英雄と呼ばれる女はやっと言葉らしい声を搾り出し、ぐらぐら煮える心拍と戦い続けた。
ひとより小さな歩幅を連ねて、その度に景色の処々へ目を奪われてしまうような遅々たる進み、それらを重ねていつの間にか遠くへとやってきた旅路だった。
陽光が水面に乱反射する波間、鮮やかな海を渡って、黄金の砂漠に汗を垂らし、青く木々の匂いが立ち込める森へ。凍える雪原では暖炉の火に笑みを温めた。岩ばかりの山岳では地層の縞模様をなぞって歩いた。絢爛たる異国の地、その向こうの水豊かな山林では、風に鼻先を潜らせた。
そうしてやってきた霧深き湖、傍らに聳えるクリスタルタワーを見上げたことが、つい最近のことのように思える。
忙しくて騒がしくて、ほんの少しだけ煩わしくて、その何倍も愛しくて、優しくて嬉しくて誇らしい、大切な思い出たちだ。それがいつの間にか、自分ではない他の誰かの宝物となっていたのを知ったのは、つい最近だった。
時に唇で謳われて、時に絵で描かれて、時に文字で綴られる。眠る前に聞かせてもらう物語として、目覚めた時に飽きず読み返す伝記として、様々な形をしたこの命の証が、脈々と世界中を流れていた。
その血潮のような巡りが、今、此処に彼女を存在させている。時空を超え、世界線さえ越えて。誰かが願った未来を語るために────誰かが心から望んでくれた、旅の話の続きを得るために。
だから、生きなければならないのだ。彼女は夜をもたらしてきた腕で地を叩いた。起き上がらなければならない。立ち上がらなければならない。戦わなければならない。こんなにも想われているのだから、きっと、きっと生きなければならない。
(生きたい、)
苦痛で凝り固まった思考のひびから、それは、ころりとこぼれ落ちた。
託されたものを背負っていくことに、疲弊してしまう時もある。けれど今は、こんなにも漲る。のしかかる重みが胸を焦がすから、生きていたいと強く願う。この呼吸を、鼓動を、体温を届けたい。明日を届けてあげたい。この両の目が見つめる世界に。
光の戦士だなんて大層な肩書きがついた、怪物の珍道中だ。それを、英雄譚と愛してくれた、あなたたちに。
────ざらりと砂を掻く音が、角元まで戻ってきたことに気付いた。指先が湿っている。確かに、その感覚がある。未だ鈍痛が腹の奥で蠢いてはいるが、先程よりはずっと自分の身体だと認識できるようになっていた。どうやら、大きな波は過ぎ去ったらしい。光の戦士たるアウラ族の女は、ばったりと地に倒れ込んで木の字になった。
潮の香りが、する。ぜいぜいと激しく息を吐いて、ああちゃんと肺がまだ在ると安堵した。どこか歪んでしまったのだと思えるほどの痛みだったから。内臓のどれかひとつでも漏れ出ていたら、人の形を保ってはいられなかったのだろう。
(……テスリーン)
かつて“旅立ちゆく”人々の世話をしていた少女のことがふと思い出された。こんなもの、優しいあの子が受けて良い痛みではなかったはずなのに。白濁に溶け、繭となり、異形の天使に作り替えられる絶望など。
(あの子が作ってくれたシチュー、美味しかったなあ)
英雄と呼ばれる女傑が目を閉じて、舌の上にあの時いただいた食事の味を浮かべた時、悲鳴みたいな呼び声がぶつかってきた。
「お願いっ……、返事をしてください……!」
ほとんど泣いているように聞こえたから、彼女は少しだけ無理をして瞼をこじ開ける。同時にぽたりと額を濡らしていったのは、光の戦士を覗き込むリーンが流した涙だった。
この子が暴れ狂う光を宥めてくれたのか、と。気付くまでそう時間はかからなかった。類いまれなる屈強な根性で、またしても危機を脱してしまったなあなんて、呑気に思っていた自身を恥じる。五体満足と呼べるかは怪しいものの、今、人間の体裁を保っていられたのは、光の巫女たるリーンのお陰なのに。
泣かないで。そう言葉にしようとしたのだが、唇から零れたのは弱々しい吐息ばかりだった。一緒に霧散してしまったみたいな気力を、吸い込んで、飲み込む。
「り、……ん」
ありがとう。
やっとの思いで吐き出した、ざらざらに掠れた声は、無事にリーンへと届いたらしい。彼女はうんうんと小さな頭を振って頷くと、この腹の上に額を押し当ててきた。
「ああ、意識があるのね、大丈夫!?」
その横から視界へと顔を出してきたのは、摘みたての真っ白な綿毛────そうと見間違えるほどにふんわりと輝く髪を持つ、アリゼーだった。双子の兄とそっくりな容姿を持つ彼女は、彼とたったひとつ異なる色の、赤らんだ唇をわななかせながら、そばに膝をついているようだ。
良かった、とささやかな声が聞こえる。
「……まさかこんなところで、とか思っちゃったじゃない」
「したたかに投げ出されてしまったのが、光の暴走の引き金になってしまったのかな……」
アリゼーの横に、瓜二つの少年が並んだ。アルフィノだ。動揺に僅か揺らいではいたものの、こちらの眼差しに気付けば、理知的な青い瞳を優しく細めてくれた。
「ひとまずは落ち着いてくれてよかった。君の強い心と、リーンに賛辞を」
英雄たる女は瞬きで以て頷きとすると、じくじくと痛む体を横たえるまま天を────否、頭上に広がる水面を見つめた。
そこは荒れ狂う海域の底だった。古き妖精ビスマルクの背と“息”を借り、馬鹿野郎たちがいるだろうその薄暗がりへとやってきた。最悪の罪喰いへと変貌しつつある彼女が発している光は、夜空を焼き払うことはできても海底までは渇かせぬようで、水の気配を湛えたそこはひんやりと暗い。不思議に発光する藻や海草が、先の見えぬ道をほんのりと、まるでこれからの旅路を暗喩するように、照らしているくらいだ。
聞こえるのは、米神を打つ血潮の律動、懐かしく遠い波の調べ、それからあぶくの弾ける、冷たくて寂しい音のみである。
乞われるがままに大罪食いを屠ってきた。結果、奴らが保有していた強力な光のエーテルを、蓄積し続けてこの様だ。彼女は蓄えすぎた力によって、文字通りの化け物に成ろうとしていた。
後戻りの道はなく、助かるすべも見出だせない。その中で、ともかく分からず屋の二人────水晶公ことグ・ラハ・ティアと、エメトセルクの頬を張りたい一心で、霞む意識の中でも歩を進めてきた。のだが、意地を張る力すら使い果たしているらしい。気合いのつもりで吐いた息は、むなしく唇の先に溶けていってしまう。
「……立ち上がれそうですか」
ウリエンジェの骨ばんだ手が、柔らかな声と共に差し出された。指が長くてたおやかな印象を受けるが、広い手のひらは確かに男性のものである。
英雄たる女はその問いを受けて、二度、三度、肺の膨張と収縮を繰り返した。そうして大きく息を吸い込むと、今出せる精一杯の力で腕を差し上げる。ウリエンジェはその行動の意味を正しく読み取って、彼女の手のひらの下にそっと指を滑り入れた。皮膚が薄くて、ひんやりと冷たく感じる体温だ。
英雄の腹の上で長く鼻を啜っていたリーンが、やっと身を起こして側に控えてくれるのが、視界の端で捉えることができた。アリゼーの手が、リーンの肩に添えられるところも、見ていた。
「まずは体を起こすところからよ」
首の後ろに女性の細い手が添えられるのが感覚で分かった。ヤ・シュトラだ。暁の魔女は優秀な癒し手でもあって、だから患者の扱いも慣れたものである。ごく僅かな力で、身を起こす補助をしてくれた。
介護されながら長座の姿勢になって、しかし周囲を見渡すこと、ここまで一緒に歩んできた仲間の顔を眺めることもできずに、光の戦士はぐったり俯く。視線を上げることができないのだ。早く、早く、早く進まねばならないのにと気が急くばかりで、支えられるだけの体は重さに逆らいきれずにいる。
「もう少し、休んでからでも良いんじゃないかい?」
「そう、そうです、私たちが周りを見てきますから……」
「悠長にしてて一番苦しいのはこの人でしょ」
アルフィノ、リーン、アリゼーの声が聞こえる。彼ら彼女らがそれぞれに案じてくれているのが分かるから、英雄たる女は、笑うような息を少しだけ漏らした。
「状態は進行するばかりでしょうしね」
ヤ・シュトラの冷静な声。ひやりとした印象に反した温かい手が、背中を撫で続けてくれるのが感じられる。
「それに、……貴女は、行くのでしょう」
そうしてウリエンジェが、強張ったこの指を恭しく握ってくれていた。
皆がいるなあ、と。ぼんやり呼吸を繰り返しながら、光の戦士たる女は、ふとこの幸福に気付いた。肩から染み入る日向のような、ささやかで、確かな熱だった。
仲間である彼ら彼女らを、守ってきたという自負がある。光に侵食される前より、“英雄”なんてものは戦場に現れる怪物だった。その力で以て誰より武功を上げ、道を拓き、自陣に勝利をもたらすことで守ってきた。
誰よりも強いものとしてすべて踏み均しながらやってきたのに、今は卵のように慈しまれている。そのことが何とも言えずこそばゆくて、照れ臭くて、嬉しいと思った。どうしたってもうひとりなんかになれなくて、ここに集う誰もが自分に優しくて、そのことが、指先を握る力に変わる。
そうしてふと、近付いてくる足音を聞き付けた。ざらりと海底の砂を擦るブーツの爪先が、視界の端に映る。
誰より早くその人物に寄ったのは、リーンだった。
「サンクレッド」
「軽く周りを見てきた。地形は厄介だが、低級の魔物がうろついてるくらいだな」
明朗な男声でそう告げると、サンクレッドは光の戦士である女のそばに膝をついた。真っ白なコートの裾が砂の上に広がる。
「行けるか」
問うと言うよりは、彼女が頷くとふんでの意思確認だった。彼はもう、分かっている。項垂れる光の戦士が、生への執着に眼をぎらつかせているのを知っている。
英雄たる女傑は、首を縦に振るかわりに、この手をとってくれているウリエンジェの指を、力の限り握った。応えるみたいに重なった涼しい皮膚、それが誘導する先は、燃えているみたいに熱い手のひらだ。
この手を知っている。武器をきつく握るせいで、厚く硬化して、かさついた手のひらだ。指が太くて関節がはっきりとしている、使い込まれた武具みたいな、たくましい手。
サンクレッドの手だ。
光の戦士は、促されるままに身を任せた。
「アルフィノとアリゼーは前方の偵察と警戒を。俺の見る限りでは問題なさそうだったが、油断するなよ」
「了解」
「ああ、任せてくれ」
角のすぐ近くで、低く優しい声が響いている。何やら固い壁に寄りかかったと思ったのだが、それがサンクレッドの肩であることに気付いた。彼の腕が背中を支えるように回っている。
「ヤ・シュトラは後方を視ていてくれ。無理に範囲を広げなくて良いからな」
「ええ」
「ウリエンジェ、ヤ・シュトラの補助を」
「承りました」
膝の下にも、自分のものではない手を通されて、いよいよ抱え込まれる体勢になったのが分かる。接近と接触に対する嫌悪や忌避は微塵もなくて、(だからほんの少しだけ驚いて、)むしろ埃っぽいコートの向こう側から甘い香りがする気がして、健康な肉体が持つエーテルに惹かれているのかもしれないとほんのり考えた。何せ、この身はもうほとんど罪喰いと化しているのだ。光に偏ったバランスを取り戻そうとして、正常なエーテルを食らう。動物を食らう。人を食らう。生を食らう。
この距離から自分が噛みついたら、さすがのサンクレッドも避けきれずに死ぬだろうなぁ、と。光の戦士である女は、何だか可笑しくなってしまって、ほんの少しだけ体を震わせた。それがサンクレッドからは、この身を抱え上げようとする彼への拒絶に見えたらしい。小さな生き物を宥めるみたいに、ぽん、ぽんと肩を撫でられる。
「嫌だろうが、この中じゃ俺が適任だ。諦めてくれよ」
そうして、彼女の返事を待たず、サンクレッドは立ち上がった。アウラの女の小さな身体など、彼の両腕にはいささか軽すぎたようで、勢いを余らせた足が半歩、ざらりと下がる。彼女が浮遊感につい身を強張らせれば、肩に男の指が僅かに食い込んだ。
「……リーンは、側に控えていてくれ。また光の暴走が起こるとも分からないからな」
「……はい」
「あ、それじゃダメよ、サンクレッド。尻尾もちゃんと持ってあげて」
「彼女は尾が丈夫なぶん、重量があるみたいなんだ。それでは負担になってしまうよ」
「ん、ああ……」
賑やかなやり取りのあと、だらりと下がっていた白鱗の尾を、誰かがサンクレッドの腕に押し込んでくれたらしい。すっかり丸く収まった光の戦士は、ああ、進んでくれるのだなと、そう思っていた。
連れていってくれるのだなあ、と、そう思った。とろりと落とした瞼の裏に、真っ白なコートを翻す背中を幻視する。盾役として先行くサンクレッドは、思えばいつも、目当ての場所まで連れていってくれた。
「あら、眠たそうね」
感じる微かな揺れは、この体を抱き上げる腕の逞しさからくる安心感のためか、ちっとも怖いものではなくて、むしろ心地良いものだった。思わず、身を任せて微睡んでしまうくらいには────そのせいで、走馬灯なのだか夢なのだか分からない、ここまで駆け抜けてきた記憶を取り留めなく想起する。
海底に至る前、どうしようもなく光を見上げていた。アルバートに「思うまま進めよ」と言われた時に、ふと、サンクレッドから、「真っ直ぐ進めよ」と言われたときのことを思い出したのだ。あれは確か、エオルゼア同盟にイシュガルドが加入した記念の、四国合同演習が終わったあとだ。彼は変わってゆく皇都を見つめながら、嬉しそうに、それから寂しそうに、笑ってそう言ったのだった。
水晶公は、「いつだって真っ直ぐ進んできた」と言ってくれたけれども、自分の思うままがそう見えていたのなら、この人がかけてくれた言葉にも応えられていたということだろうか。だから、代わりに歩んでくれるのだろうか。
「少し寝ていても大丈夫ですよ、サンクレッドが運んでくれますから」
「周囲の警戒は、私どもにお任せを……」
「良い仲間だな」
ふと、アルバートの声が混じる。ぴったりついて歩いているらしい彼は、少し饒舌になっているようで、それもまた、こそばゆく感じた。
「俺は温度なんか感じないんだが……お前は寒くないか。ずいぶん深いところらしいからな。もう少し厚着してくれば良かったんじゃないか」
(大丈夫、)
光の戦士である彼女は、心の内で頷いた。
大丈夫。寒くない。
怖くない。
ふとサンクレッドが肩を揺らすから、その振動が直に伝わってくる。前髪に彼の呼気が触れた気がして────確かな事が分からなかったのは、襲いくる睡魔に負けて、目が開かなかったからだ。
ざらり。ざらり。砂の上を歩むリズムが角に触れる。
この音を何故か知っている。いつもはもっと早足のくせに、こちらのことを慮って、歩く速度を落としている。その優しさに気付いて、ひどく腹が立ったのも覚えている。睫毛の先が炙られるみたいな灼熱の中、白銀の髪が強く光を跳ね返していて、その眩しい後ろ姿を睨みながら歩いていた。
ふう、と鼻を抜けていくのが寝息であることを自覚しながら、光の戦士であるアウラの女は、深く意識を記憶に沈めていった。
あれは、確か。
アム・アレーン。
オパールを溶いてぶちまけたみたいな空と、銅砂を敷き詰めたような大地。偉大なる赤き砂漠を、サンクレッドとふたりで歩いていた。リーンがまだその名を持たず、『ミンフィリア』と呼ばれていた頃のことだ。
命がその形を保ったまま生存できる最後の領域、ノルヴラント。その最南端は、かつてナバスアレンと呼ばれる荘厳な都だった、らしい。襲いくる光の氾濫が、何者かによって押し止められた場所であり────つまり、原初世界から旅立ったミンフィリアがたどりつき、力を使い果たし、ひとかけらの希望となって彷徨いだした場所でもあった。
そこへ至れば、“本物のミンフィリア”に会うことが叶う。『ミンフィリア』と呼ばれる女の子はその“本物”とまみえ、身体の主導権を明け渡すつもりでいた。完全なる光の巫女の力で以て、この地のどこかに潜む大罪喰いを探知するために。
このとき英雄である自分が何を考えていたかなんて、陳腐な感傷には触れないでおく。
とにかくもう一度彼女に会うために、ほつれた道をひとつずつ繋ぎ合わせていた。あの場所へと通ずる線路を通るため、トロッコを動かそうとして、トロッコを動かすために石人形タロースを動かそうとして、タロースを動かすためには新しい心核が必要で。
その心核に足る魔力豊かな石など、見つかる可能性は無に等しい。それでも進まねばならないから、出来ることをすべてやろう、と。そうして、サンクレッドと共に鉱山へと向かっている最中だった。
かつての色男が見せていた愛想は何処へやら、素っ気ない後ろ姿が、いつもよりずっと緩やかな歩調で進むのを感じながら────この短い旅の前に、固く閉ざされていた彼の唇から転げた言葉を、反芻していた。
「どうして、」
苛立ちに似た鋭さで、英雄と名高い女傑は声を飛ばした。呼びかけというにはあまりに刺々しく、不機嫌なひとりごとの調子である。そんなものでも肩甲骨あたりに刺さったようで、サンクレッドはざらざらと砂を踏みしめていた足を止めた。振り向いたヘーゼル・アイが、汗もかかない涼やかさでこちらを見るものだから癪に障る。
「この期に及んで、どうして何も言ってやらないの」
一貫して、彼女の怒りはそこにあった。サンクレッドという男は、『ミンフィリア』と呼ばれる少女に対して、真実も胸中も語らない。彼は三年間、淡々と、幼い女の子に生き方を教えた。武器の扱いを仕込み、好き嫌いさせずに食わせ、世界を渡りながら、世界を歩くことができるように育ててきた。
あの子が彼の優しさに救われて、救われたからこそ傷付いていることを知りながら。
サンクレッドの唇が、僅か笑みの形に震えた。
「俺が言えることは何もない」
「あんたねえ!」
再び前を向こうとするサンクレッドの腕を捕まえて、英雄たる女は声を荒げた。彼が言うべきことなんてたくさんあるはずなのだ。
だって先ほど、彼は。
「それならどうして、あんたがあの子の未来を語るんだよ!」
家族を失った男の前で、サンクレッドは、“あの子”が遺した意思を守らなければならないと言った。光に塗りつぶされた空を見上げながら、未来の可能性を語ったのだ。その、未来、とは。
思い違いでなければそれは、これから自らの身体を捧げにいくはずの、少女のための希望だ。
「こればっかりはエメトセルクに全面同意するよ、あんたたちもっと早くに、」
「まさかお前とアシエンの意見が一致するとはな」
────彼の茶化した笑みごと、左頬を張り飛ばした。
咄嗟のことで対応できなかったのか、それともわざと受けたのかは分からない。高い殴打音とともに倒れ込んだサンクレッドの胸ぐらを掴んで、英雄たる女は、彼の切れている口もとめがけてもう一撃追加する。
「手前の上手なお喋りを、今聞きたいわけじゃねえんだよ!!」
憤怒の咆哮が、赤い砂の上、影のように濃く響き渡った。煮え滾る息を吐いた女傑は、尻もちをついたままふらふらと頭を揺らすサンクレッドに詰め寄って、乱暴に顔を上げさせる。
怒り狂う彼女を真正面から見据えた彼は、じっと口を閉ざしたまま、凪いだ瞳をしていた。あんまりにその榛色が静かなものだから、光の戦士たる女は、もっと酷くなじるつもりで吸い込んだ息を、止めた。
この地に入ってからというもの、否、もしかしたらずっと前からあった予感だ。彼女は、それを確信に変えた。
英雄は、すとんとその場に崩れ落ちた。項垂れるままに深く息を吐き、固く瞼を閉じる。
「どうしてよ」
サンクレッドは、すべて分かっていた。
ミンフィリアはもうひとではない。自らの意思でハイデリンに取り込まれ、星の代弁者となったそのときに、彼女はこの世のものではなくなった。魂だけの存在となった彼女は、再び同じ人にはなれない。
そんなミンフィリアに対して、サンクレッドが慟哭のように叫んだ言葉は、なけなしの本心だったろう。彼は、ミンフィリアを救いたかった。たったひとりで異世界に赴き戦った彼女を、どうにかして助けてやりたかった。
しかし、いや、だからこそ、分かっていたのだ。全部ぜんぶ分かっていた。彼女の望みは『もう一度』の中にはないことを。ただ、未来へ踏み出そうとする次の命に、希望を託すことだけが願いだった。だからサンクレッドは、自身の心を封殺して────否。それも正しくない。だって、彼がそうしたのは、ミンフィリアに頼まれたからだけではない。
サンクレッドが、あの少女のことも愛しているからだ。ミンフィリアを妹と可愛がったのと同じに、あの子を、娘のようだと、懐に入れてしまったから。
あの子が光の戦士に会おうと彼のもとを抜け出してきた時、きつく叱ったことだって、思い通りに行動しないと落胆したわけではない。徒労だったと憤ったからではない。ただあの子が────ミンフィリアと呼ばれる小さな女の子が、またあの牢獄のような部屋に連れ戻されて、要らぬ苦痛を受けるかもしれなかったと、それだけを案じてつい声を荒げただけ。
だから苦しいのだ。だから選ぶことなんかできないのだ。本当ならどちらも救いたいのにそれは叶わなくて、助けたいだなんて彼の思い上がったエゴでしかなくて、サンクレッドは選択権を彼女“たち”に委ねた。
違う。この言い方も適当ではない。彼にはそもそも、選ぶ権利すら許されていない。どれほど嘆き叫んだところで、サンクレッドは外野だった。
ただ、ただサンクレッドに出来ることは。ミンフィリアの意思を継ぐこと。『ミンフィリア』が、生きることを選べるように心を育んでやること。
そうしてふたりが選んだ未来を、受け入れて、護ってやること。それだけが彼の、サンクレッドの愛の行方だった。
サンクレッドはすべて分かっていて、だからきっと、ずっと前から覚悟していた。いつか訪れるのは、ミンフィリアとの別離である、と。
「愛してる、って」
サンクレッドのコートを握る彼女の拳に、ぽたりと雫が落ちた。
「心から可愛いと思うって、どうして、あの子に言ってあげないの」
ひとつ転げてしまえば、決壊したように流れは止まらなかった。涙も震える声も止める術がなくて、すべてサンクレッドに叩きつけるしかなかった。
ミンフィリアと『ミンフィリア』。ふたりの選択に、彼の意思など介入してはならないという言い分は、光の戦士である女にだって理解できる。あの少女は、サンクレッドのために生きるのではない。あの子は、未来を見つめる勇気を、自身の中に見出ださなければならなかった。
それでも女傑は、サンクレッドの無口に怒っていた。悲しんでいたし、歯がゆくて、悔しくて、切なかった。
「一度心についた傷は消えないの、いくらそれが誤解だったって、あの子ずっと、本当は私じゃないんだって思いながら生きるのよ」
『ミンフィリア』として育てられた女の子。身体を透かした向こうにいる、ミンフィリアを想われながら育てられた女の子。それが見えざる愛情のすれ違いであったとしても、決して自身を必要とされているわけではないと思い詰めた記憶は、消えることはないのだ。何故愛されないまま、自分の出す答えに自信が持てるだろう。
しゃくりあげながら吐き出す言葉ばかりでは足りなくて、サンクレッドの胸を拳で打った。
「そんなに、そんなにも、大事にしておきながら!」
あの子の未来を、願うなら。愛していると、それだけは伝えてやらねばならなかった。賽はもう投げられて、あとは進んで行くしかない。せめてこうなる前に、伝えてやって欲しかったのに。
白いコートの下に防具をまとった男の体は、エーテルで防護もしていない女の手には少し硬すぎた。遮二無二打ち付けて赤く腫れていく女傑の手を、サンクレッドは黙りこくったまま、やんわり握って押し留める。
だから彼女は反抗して、額で彼の胸元をどついて、それっきり静止して、どんどん小さく丸くなった。鼻をすする呼気だけが、ふたりの間の空白を埋めている。
「どうしてよぅ」
か細く、掠れた泣き声だった。
サンクレッドに憤りながら、英雄たる女は、自身にも呆れ返っていた。彼女だって、この男を誤解していたのだ。あの子の中にミンフィリアがいるから、後生大事に守る一方で、突き放すような態度をとるのだと。
それは共に過ごすにつれ、違和感になった。サンクレッドの言動ときたら、(まったくアリゼーの言う通りに!)意固地で愛情深い父親そのもので、あの子の成長を願うばかりに、厳しくしつけようとしているようにも見えたから。
あらゆる意味で胸中を悟られまいとするサンクレッドの頑なさのせいで、ずいぶん婉曲したものだ。全部、全部この男が悪い。悪いのだ、が。
どうしてこのひとの苦悩に、気付いてやれなかったのだろう。もはや八つ当たりであることを自認しながら、小柄なアウラの女は、微かな力でサンクレッドの鳩尾に頭突きした。
彼は、いつも優しかった。本音をずっと隠してばかりで、それはやましいことがあるとかそういうわけではなくて、いややましいこともかなりあるのだろうがそれはともかく、願いを叶えてあげたい誰かがいるからこそ、呑み込んだ言葉ばかりで喉を詰まらせている。
多くを語ることをしなかった彼は────己の立場と無力に苛まれ、迫る別れを感じながら、それでもあの子の背が伸びたことを確かに喜んだサンクレッドは、きっとあの子と同じくらい、孤独の時間を過ごしていた。
気付いたところで、してやれたことは多くないだろう。けれど、もっと上手く立ち回ることは出来たはずだ。
いくら悔いたところで、やり直しなんかできるはずもないけれど。英雄たる女傑は、ぼろぼろと涙し続けた。やるせなくて、恥ずかしくて、それからやっぱり腹立たしかった。
「……お前は、いつも」
震わすばかりの細い肩に、穏やかな男声が注がれた。俯いた視界が暗くなるのと同時に、頭に重力を感じる。どうやらサンクレッドが、広げたコートを日除けとして、注がれる強い光から彼女を守っているようだった。
微かに埃と、汗の匂いを感じる。
「あの子の味方をしてくれるよな」
殴り付けてきた相手にすらそつなく格好をつけてくれやがって、しかも背を宥められるのではたまったものではない。
もう一発叩いてやろうかと思いながら、今ばかりは、ぽたぽたと流れるままの涙が、砂の上で散っていくのを見つめるだけだ。
サンクレッドがあまりにも、晴れやかな声をあげるものだから。
「ありがとう」
あんたに感謝されるいわれはないが、と吐くつもりだった声は、呻きのまま絞り出された。
まだ終わってもいないし、始まってもいない。だから、そんな風に笑わないでほしい。何にも許していないし、きっと一生許さない。あの子のためを思いながらも傷付けたことだけは、絶対に許さない。そしてまったく遺憾なことに、サンクレッドという男は、この英雄が少しも許してくれないことに安堵するのだろう。
誰より優しいくせに、どこまでも卑怯な男だ。ひどく罵ってやりたかったし、横っ面を蹴飛ばしてやりたかった。
そうやってこの女が、可愛い娘のために激怒してくれるから、サンクレッドはただ微笑んでいた。
すん、と鼻をすする音が、小さな日陰の中に響く。
「汗、かくのかよ……」
「どういう言いがかりなんだ、それは……」
どちらともなく溢したのは、呆れた笑い声だった。
張り飛ばした頬を治してやりもしなければ、腫れてしまった手を治すこともしなかった。ふたりしてのろのろ立ち上がったあとは、残りの道を、手を繋いで歩いた。泣き腫らした瞼は重く、視界良好と言い難くて、気遣ったサンクレッドが英雄を導いてくれたのである。
道すがら、泡みたいに浮かぶひとことふたことで、サンクレッドと話をした。他愛のない思い出話だ。ミンフィリアと過ごした日々のことを懐かしんで、言葉を選ぶたびに会話は儚く弾けて、それを惜しむでもなく、また気まぐれに口を開いた。
ざらり。ざらり。砂の上を歩むリズムが角に触れる。
この音を覚えている。いつもはもっと早足のくせに、こちらのことを慮って、歩く速度を落としている。その優しさがひどく鼻の奥に沁みたことも。睫毛の先が炙られるみたいな灼熱の中、白銀の髪が強く光を跳ね返していて、その眩しい姿と隣り合って歩いた。
その優しいリズムを、覚えていた。
夢うつつの聴覚に触れる砂上の足音が、いつの間にか石畳を蹴る音にすり変わっていることに気付いて、光の戦士たる女は瞼を無理やり抉じ開ける。その刹那、眼球に白光がぐっさり刺さったので、「ウウン!」なんて呻いて思いっきり嫌がってしまった。
眩しい。目もとを隠そうとしたのだが、ひどく腕が重くて動かせない。腕どころか身体中が鉛みたいで、指一本すら震わすこともできなくて、それが余計に彼女を混乱させた。ここは何処だ。一瞬だけ開かれた視界に、どうして蒼天が映るのだろう。
かろうじて首を振ると、角の先が壁にあたって────違う。覚えのある香りを感じる。埃と、汗の匂い。これは人の体だ。ある確信をもって、その名を呼ぶ。
「さ、んくれっど」
「ああ、起きたか?」
前髪のすぐ近くで、穏やかな男声が笑った。網膜にまた強烈な刺激を食らうのが厭で、おそるおそると目を開ける。やっぱり眩しい。狼のたてがみみたいな白銀の髪に、陽光がつやつやと反射していた。
微かな揺れの感覚から、たくましい男の両腕に抱き上げられている状況を悟った。ずっとこうして歩いてくれていたのだろうか。
「あの、……ありがと……」
「お安いご用さ」
笑みの形に細められたヘーゼル・アイが、あまりに優しくこの女を見下ろすものだから、何事か問おうとした思考は細い吐息となって抜けていく。
「気分はどうだい?」
「もう、本当、おどかさないでよね」
降り注ぐ光を遮るように、綿毛みたいな髪の双子が、ひょこりと視界に入ってきた。そっくりの顔立ちが対照的な表情をしている。アルフィノは慈しむような笑顔でこちらを見ているし、アリゼーは何だか拗ねているみたいだ。
皆して、どこか気楽な調子である。漂っている大団円の気配が不可解で、英雄たる女はやっと掠れた声で訊ねた。
「水晶公、は?」
ぱちりと、眼前の二対の青い瞳が瞬いた。顔を見合わせたアルフィノとアリゼーは、同時に合点がいったらしい。ああ、と頷くと、軽やかに肩を揺らした。
「そうだね。確かあのときも、サンクレッドが君を運んでいた」
「ほら、呼ばれてるわよ!」
アリゼーが、誰かに手招きしている。そうして、かの赤毛が見えたとき、英雄たる女は思わず笑い声をあげた。自分が長い長い夢を見ていたことに気付いたからだ。
ここは原初世界、北洋に位置する知の都、オールド・シャーレアンである。第一世界を旅したことは、既に過去だ。
そして今、前人未踏の大偉業────星を蝕む終末の打破を、天の果てにて成し遂げた。彼女は文字通り、救世の英雄として舞い戻ったのだ。その旅路を思い出した。
かつてクリスタルみたいに怜悧な眼差しで、過去にも未来にも反逆した『水晶公』はもういない。彼は今、瞳に宿したその赤を、命の血潮で輝かせている。
「ラハ」
「ああ、……此処に」
親愛なるグ・ラハ・ティアへと手を伸ばそうとしたのだが、ここで女傑は、自分がふかふかの毛布にすっかりくるまれていることに気が付いた。道理で体が動かないわけだ。感じている酷い脱力感は、そのせいだけではなさそうだが。
「少し、動かすぞ」
きょろりと視線を巡らせた英雄の心境を察したか、サンクレッドは短く告げると、より上体が起きる姿勢に抱き直してくれた。
「頭、ここで良いか」
「うん」
促されるまま、女傑は角の置き場を探ってから、サンクレッドの肩にもたれる。顔がずいぶん近くなったが、それよりも、そばにいる仲間たちを一望できるようになったことの方が重要だった。皆がいることを、視覚で実感できた。
そばに控えていたグ・ラハが、英雄を気遣わしげに覗き込む。
「あんた、タタルに『ただいま』って言った瞬間気を失ってさ」
「大騒ぎになりかけたが、こいつがさっさとお前を運び出してな」
どしん、と、サンクレッドごしに衝撃が感じられた。蒼の竜騎士が小突くのだ、そこそこの威力はある。それを食らっても歩調を乱さないサンクレッドは、じろりとエスティニアンを見やると、小さく肩を竦めた。
「絵に描いたようなエーテル欠乏症状ね。どうして意識を保っていられるのかも不思議なくらいよ」
呆れたようなヤ・シュトラの声だ。横からそっと伸びてきた魔女の指が、毛布の裾を女傑の首まわりまで引き上げて、それから前髪を直していった。
紅を引いた唇が、ほんのり笑みの形になる。
「クルルとタタルが、先に行って病室の手配をしているわ」
「あとのことは、我々にお任せください」
ウリエンジェの月色の眼差しに、睫毛の影が柔らかく乗せられた。たおやかな手指を胸にあて、東風の旋律で言葉を編む占星術師は、消耗しきった英雄をあやすように、ゆっくりと謳う。
「貴女は、光を打ち払い、絶望をも砕きました。……すべてに、勝利したのです」
光の戦士たる女は、ゆっくりと瞬きをした。それから、じっくり時間をかけて、微笑んだ。
この結末は、自分ひとりだけで掴みとったものでない。エスティニアンが、先に進むための風を巻き起こすから。ヤ・シュトラが、飽くなき探求心で先を目指すから。ウリエンジェが、そっと背を支えてくれるから。グ・ラハが行こうと手を差し伸べるから。アルフィノが、アリゼーが、この女の幸せを望んでくれるから。
それから。────それから。サンクレッドが、歩くための大地をくれるから。肺を膨らます大気をくれるから。生きとし生けるものへと向けられる拒絶から、丸ごと護ってくれるから。
だから、やり遂げた。青い鳥の希望の歌を聞き届けたときも、“友達と遊んできた”ときも、きっと帰ろうと想った。この頼もしい仲間たちが、待ってくれていたから。
「なあ、あんた、腹減ってないか?」
「我らが魔女の言う通り、エーテル不足が深刻です……補給できるようであれば、早い方がよろしいかと」
「お父様に連絡して、料理長でも呼ぼうか」
「シャーレアンの料理でパーティじゃあ、ね……」
「肉体にまでエーテル欠乏が食い込んでるのよ。まずは増強薬の投与から」
「とんだ凱旋になったな」
サンクレッドが低い声で笑った。すぐ近くで響いたせいで、角がくすぐったい気がして、女傑は人見知りの少女みたいに首を竦める。
その恥じらうような仕草を、彼が見逃すはずがなかった。ぱちりと榛色の瞳を瞬かせて、ああ、と苦く笑う。
「勝手に手を出して悪かった。俺が一番近かったもんで、つい、な」
言い訳のように、抱いたままの腕の説明をする。サンクレッドの行動については、文句も不満もない。接触を嫌がっているわけではなくて、むしろこの腕の中に、すっかり居心地の良さを感じている。
どう伝えれば良いものかと、彼女が思案していると、横からエスティニアンが鼻先を寄せてきた。
「何だ、こっちに来るか?」
気さくな調子で伸びてきたエスティニアンの腕を見て、それからサンクレッドを見た。相変わらず物分かりが良さそうに笑んではいるが、────勘違いでなければ、指が一瞬、強張ったような。
だから、というわけではない。のだが。
光の戦士たるアウラの女は、ぷいと顔を横に向けると、サンクレッドの肩に角を擦り付けた。
「サンクレッドが良い」
順調に進んでいた歩が、びたりと止まった。
「エスティニアンたら、乱暴なんだもの。やだ」
「贅沢なやつだ」
エスティニアンは、笑みを噛み殺しているようだった。せっかくヤ・シュトラが整えてくれた前髪をぐしゃぐしゃ撫でて、それから、手のひらごしに額を重ねてくる。
「よかったな」
穏やかで、優しい声だった。デリカシーを雲海に投げ捨ててきたような男なのに、こんなところばっかり鋭いのが可笑しくて、英雄たる女はエスティニアンにニンマリと笑ってみせた。
どしん、と竜騎士に肩を小突かれたサンクレッドが、よたよたと二歩前進して、そして、またゆっくりと歩き出す。この女をしっかり抱えたまま。
「それじゃ、あとも任されよう」
「うん」
くしゃりと笑ったサンクレッドに、光の戦士は頷いた。先行く仲間たちを追いかけるのに、少し歩幅が広くなって、それでもまったく危なげない。
ただ、ただ、彼女は安心していた。毛布に顎を潜らせて、英雄と呼ばれる女は、とろりと瞼を下ろす。
サンクレッドの手が、いつも温かいことを覚えていた。怪物じみて屈強なこの女を、いつも護ろうとしてくれていることも。行こうとする道の先を、いつも切り拓いてくれることも。いつのまにかずっと、その真っ白な背中を見ていた。
ああ、一体いつから、この強くて弱虫で愚かなほど優しいひとに、惹かれていたのだろう。
(サンクレッドが、良いなあ)
陽射しが睫毛の先に感じられて気持ちいい。うとうとと微睡む呼吸の先に、寝ててもいいぞ、と微笑が触れた気がして、彼女は幸福のうちにのんびりと寛ぎ始めた。
いたい。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛、い。
どう叫んでも、のたうち回っても、ちっとも痛覚は逃げてくれない。身体の奥の、溶けてはいけないところが液状となって、かろうじて残った管をせり上がってきているみたいだ。
眼前に輝かしい死が見える。死ぬ。今度こそ死んでしまう。しかもそれは単純に命を失うということではない。彼女という英雄が死に、存在を足らしめる意識が死に、本能を繋ぎ止めている理性が死に、この世界を喰らい尽くす停滞と静寂の化け物が生まれるということだ。
抗いがたい苦痛に逆らうことをやめて、いっそ身を任せてしまえばすぐにでも。
(────否!)
否。否。否だ。そんな結末は断固拒否する。
彼女は────光の戦士たる女傑は、顎が軋むほど奥歯を噛み締めて、これ以上の叫喚を封殺した。どうやったって溢れ出る呻きを押し込める代わりに、ガクガクと跳ねる手で土を掻きむしり、砂利が指を裂く感覚で以て己を奮起させる。
終わるわけには、いかないのだ!
英雄と呼ばれる女はやっと言葉らしい声を搾り出し、ぐらぐら煮える心拍と戦い続けた。
ひとより小さな歩幅を連ねて、その度に景色の処々へ目を奪われてしまうような遅々たる進み、それらを重ねていつの間にか遠くへとやってきた旅路だった。
陽光が水面に乱反射する波間、鮮やかな海を渡って、黄金の砂漠に汗を垂らし、青く木々の匂いが立ち込める森へ。凍える雪原では暖炉の火に笑みを温めた。岩ばかりの山岳では地層の縞模様をなぞって歩いた。絢爛たる異国の地、その向こうの水豊かな山林では、風に鼻先を潜らせた。
そうしてやってきた霧深き湖、傍らに聳えるクリスタルタワーを見上げたことが、つい最近のことのように思える。
忙しくて騒がしくて、ほんの少しだけ煩わしくて、その何倍も愛しくて、優しくて嬉しくて誇らしい、大切な思い出たちだ。それがいつの間にか、自分ではない他の誰かの宝物となっていたのを知ったのは、つい最近だった。
時に唇で謳われて、時に絵で描かれて、時に文字で綴られる。眠る前に聞かせてもらう物語として、目覚めた時に飽きず読み返す伝記として、様々な形をしたこの命の証が、脈々と世界中を流れていた。
その血潮のような巡りが、今、此処に彼女を存在させている。時空を超え、世界線さえ越えて。誰かが願った未来を語るために────誰かが心から望んでくれた、旅の話の続きを得るために。
だから、生きなければならないのだ。彼女は夜をもたらしてきた腕で地を叩いた。起き上がらなければならない。立ち上がらなければならない。戦わなければならない。こんなにも想われているのだから、きっと、きっと生きなければならない。
(生きたい、)
苦痛で凝り固まった思考のひびから、それは、ころりとこぼれ落ちた。
託されたものを背負っていくことに、疲弊してしまう時もある。けれど今は、こんなにも漲る。のしかかる重みが胸を焦がすから、生きていたいと強く願う。この呼吸を、鼓動を、体温を届けたい。明日を届けてあげたい。この両の目が見つめる世界に。
光の戦士だなんて大層な肩書きがついた、怪物の珍道中だ。それを、英雄譚と愛してくれた、あなたたちに。
────ざらりと砂を掻く音が、角元まで戻ってきたことに気付いた。指先が湿っている。確かに、その感覚がある。未だ鈍痛が腹の奥で蠢いてはいるが、先程よりはずっと自分の身体だと認識できるようになっていた。どうやら、大きな波は過ぎ去ったらしい。光の戦士たるアウラ族の女は、ばったりと地に倒れ込んで木の字になった。
潮の香りが、する。ぜいぜいと激しく息を吐いて、ああちゃんと肺がまだ在ると安堵した。どこか歪んでしまったのだと思えるほどの痛みだったから。内臓のどれかひとつでも漏れ出ていたら、人の形を保ってはいられなかったのだろう。
(……テスリーン)
かつて“旅立ちゆく”人々の世話をしていた少女のことがふと思い出された。こんなもの、優しいあの子が受けて良い痛みではなかったはずなのに。白濁に溶け、繭となり、異形の天使に作り替えられる絶望など。
(あの子が作ってくれたシチュー、美味しかったなあ)
英雄と呼ばれる女傑が目を閉じて、舌の上にあの時いただいた食事の味を浮かべた時、悲鳴みたいな呼び声がぶつかってきた。
「お願いっ……、返事をしてください……!」
ほとんど泣いているように聞こえたから、彼女は少しだけ無理をして瞼をこじ開ける。同時にぽたりと額を濡らしていったのは、光の戦士を覗き込むリーンが流した涙だった。
この子が暴れ狂う光を宥めてくれたのか、と。気付くまでそう時間はかからなかった。類いまれなる屈強な根性で、またしても危機を脱してしまったなあなんて、呑気に思っていた自身を恥じる。五体満足と呼べるかは怪しいものの、今、人間の体裁を保っていられたのは、光の巫女たるリーンのお陰なのに。
泣かないで。そう言葉にしようとしたのだが、唇から零れたのは弱々しい吐息ばかりだった。一緒に霧散してしまったみたいな気力を、吸い込んで、飲み込む。
「り、……ん」
ありがとう。
やっとの思いで吐き出した、ざらざらに掠れた声は、無事にリーンへと届いたらしい。彼女はうんうんと小さな頭を振って頷くと、この腹の上に額を押し当ててきた。
「ああ、意識があるのね、大丈夫!?」
その横から視界へと顔を出してきたのは、摘みたての真っ白な綿毛────そうと見間違えるほどにふんわりと輝く髪を持つ、アリゼーだった。双子の兄とそっくりな容姿を持つ彼女は、彼とたったひとつ異なる色の、赤らんだ唇をわななかせながら、そばに膝をついているようだ。
良かった、とささやかな声が聞こえる。
「……まさかこんなところで、とか思っちゃったじゃない」
「したたかに投げ出されてしまったのが、光の暴走の引き金になってしまったのかな……」
アリゼーの横に、瓜二つの少年が並んだ。アルフィノだ。動揺に僅か揺らいではいたものの、こちらの眼差しに気付けば、理知的な青い瞳を優しく細めてくれた。
「ひとまずは落ち着いてくれてよかった。君の強い心と、リーンに賛辞を」
英雄たる女は瞬きで以て頷きとすると、じくじくと痛む体を横たえるまま天を────否、頭上に広がる水面を見つめた。
そこは荒れ狂う海域の底だった。古き妖精ビスマルクの背と“息”を借り、馬鹿野郎たちがいるだろうその薄暗がりへとやってきた。最悪の罪喰いへと変貌しつつある彼女が発している光は、夜空を焼き払うことはできても海底までは渇かせぬようで、水の気配を湛えたそこはひんやりと暗い。不思議に発光する藻や海草が、先の見えぬ道をほんのりと、まるでこれからの旅路を暗喩するように、照らしているくらいだ。
聞こえるのは、米神を打つ血潮の律動、懐かしく遠い波の調べ、それからあぶくの弾ける、冷たくて寂しい音のみである。
乞われるがままに大罪食いを屠ってきた。結果、奴らが保有していた強力な光のエーテルを、蓄積し続けてこの様だ。彼女は蓄えすぎた力によって、文字通りの化け物に成ろうとしていた。
後戻りの道はなく、助かるすべも見出だせない。その中で、ともかく分からず屋の二人────水晶公ことグ・ラハ・ティアと、エメトセルクの頬を張りたい一心で、霞む意識の中でも歩を進めてきた。のだが、意地を張る力すら使い果たしているらしい。気合いのつもりで吐いた息は、むなしく唇の先に溶けていってしまう。
「……立ち上がれそうですか」
ウリエンジェの骨ばんだ手が、柔らかな声と共に差し出された。指が長くてたおやかな印象を受けるが、広い手のひらは確かに男性のものである。
英雄たる女はその問いを受けて、二度、三度、肺の膨張と収縮を繰り返した。そうして大きく息を吸い込むと、今出せる精一杯の力で腕を差し上げる。ウリエンジェはその行動の意味を正しく読み取って、彼女の手のひらの下にそっと指を滑り入れた。皮膚が薄くて、ひんやりと冷たく感じる体温だ。
英雄の腹の上で長く鼻を啜っていたリーンが、やっと身を起こして側に控えてくれるのが、視界の端で捉えることができた。アリゼーの手が、リーンの肩に添えられるところも、見ていた。
「まずは体を起こすところからよ」
首の後ろに女性の細い手が添えられるのが感覚で分かった。ヤ・シュトラだ。暁の魔女は優秀な癒し手でもあって、だから患者の扱いも慣れたものである。ごく僅かな力で、身を起こす補助をしてくれた。
介護されながら長座の姿勢になって、しかし周囲を見渡すこと、ここまで一緒に歩んできた仲間の顔を眺めることもできずに、光の戦士はぐったり俯く。視線を上げることができないのだ。早く、早く、早く進まねばならないのにと気が急くばかりで、支えられるだけの体は重さに逆らいきれずにいる。
「もう少し、休んでからでも良いんじゃないかい?」
「そう、そうです、私たちが周りを見てきますから……」
「悠長にしてて一番苦しいのはこの人でしょ」
アルフィノ、リーン、アリゼーの声が聞こえる。彼ら彼女らがそれぞれに案じてくれているのが分かるから、英雄たる女は、笑うような息を少しだけ漏らした。
「状態は進行するばかりでしょうしね」
ヤ・シュトラの冷静な声。ひやりとした印象に反した温かい手が、背中を撫で続けてくれるのが感じられる。
「それに、……貴女は、行くのでしょう」
そうしてウリエンジェが、強張ったこの指を恭しく握ってくれていた。
皆がいるなあ、と。ぼんやり呼吸を繰り返しながら、光の戦士たる女は、ふとこの幸福に気付いた。肩から染み入る日向のような、ささやかで、確かな熱だった。
仲間である彼ら彼女らを、守ってきたという自負がある。光に侵食される前より、“英雄”なんてものは戦場に現れる怪物だった。その力で以て誰より武功を上げ、道を拓き、自陣に勝利をもたらすことで守ってきた。
誰よりも強いものとしてすべて踏み均しながらやってきたのに、今は卵のように慈しまれている。そのことが何とも言えずこそばゆくて、照れ臭くて、嬉しいと思った。どうしたってもうひとりなんかになれなくて、ここに集う誰もが自分に優しくて、そのことが、指先を握る力に変わる。
そうしてふと、近付いてくる足音を聞き付けた。ざらりと海底の砂を擦るブーツの爪先が、視界の端に映る。
誰より早くその人物に寄ったのは、リーンだった。
「サンクレッド」
「軽く周りを見てきた。地形は厄介だが、低級の魔物がうろついてるくらいだな」
明朗な男声でそう告げると、サンクレッドは光の戦士である女のそばに膝をついた。真っ白なコートの裾が砂の上に広がる。
「行けるか」
問うと言うよりは、彼女が頷くとふんでの意思確認だった。彼はもう、分かっている。項垂れる光の戦士が、生への執着に眼をぎらつかせているのを知っている。
英雄たる女傑は、首を縦に振るかわりに、この手をとってくれているウリエンジェの指を、力の限り握った。応えるみたいに重なった涼しい皮膚、それが誘導する先は、燃えているみたいに熱い手のひらだ。
この手を知っている。武器をきつく握るせいで、厚く硬化して、かさついた手のひらだ。指が太くて関節がはっきりとしている、使い込まれた武具みたいな、たくましい手。
サンクレッドの手だ。
光の戦士は、促されるままに身を任せた。
「アルフィノとアリゼーは前方の偵察と警戒を。俺の見る限りでは問題なさそうだったが、油断するなよ」
「了解」
「ああ、任せてくれ」
角のすぐ近くで、低く優しい声が響いている。何やら固い壁に寄りかかったと思ったのだが、それがサンクレッドの肩であることに気付いた。彼の腕が背中を支えるように回っている。
「ヤ・シュトラは後方を視ていてくれ。無理に範囲を広げなくて良いからな」
「ええ」
「ウリエンジェ、ヤ・シュトラの補助を」
「承りました」
膝の下にも、自分のものではない手を通されて、いよいよ抱え込まれる体勢になったのが分かる。接近と接触に対する嫌悪や忌避は微塵もなくて、(だからほんの少しだけ驚いて、)むしろ埃っぽいコートの向こう側から甘い香りがする気がして、健康な肉体が持つエーテルに惹かれているのかもしれないとほんのり考えた。何せ、この身はもうほとんど罪喰いと化しているのだ。光に偏ったバランスを取り戻そうとして、正常なエーテルを食らう。動物を食らう。人を食らう。生を食らう。
この距離から自分が噛みついたら、さすがのサンクレッドも避けきれずに死ぬだろうなぁ、と。光の戦士である女は、何だか可笑しくなってしまって、ほんの少しだけ体を震わせた。それがサンクレッドからは、この身を抱え上げようとする彼への拒絶に見えたらしい。小さな生き物を宥めるみたいに、ぽん、ぽんと肩を撫でられる。
「嫌だろうが、この中じゃ俺が適任だ。諦めてくれよ」
そうして、彼女の返事を待たず、サンクレッドは立ち上がった。アウラの女の小さな身体など、彼の両腕にはいささか軽すぎたようで、勢いを余らせた足が半歩、ざらりと下がる。彼女が浮遊感につい身を強張らせれば、肩に男の指が僅かに食い込んだ。
「……リーンは、側に控えていてくれ。また光の暴走が起こるとも分からないからな」
「……はい」
「あ、それじゃダメよ、サンクレッド。尻尾もちゃんと持ってあげて」
「彼女は尾が丈夫なぶん、重量があるみたいなんだ。それでは負担になってしまうよ」
「ん、ああ……」
賑やかなやり取りのあと、だらりと下がっていた白鱗の尾を、誰かがサンクレッドの腕に押し込んでくれたらしい。すっかり丸く収まった光の戦士は、ああ、進んでくれるのだなと、そう思っていた。
連れていってくれるのだなあ、と、そう思った。とろりと落とした瞼の裏に、真っ白なコートを翻す背中を幻視する。盾役として先行くサンクレッドは、思えばいつも、目当ての場所まで連れていってくれた。
「あら、眠たそうね」
感じる微かな揺れは、この体を抱き上げる腕の逞しさからくる安心感のためか、ちっとも怖いものではなくて、むしろ心地良いものだった。思わず、身を任せて微睡んでしまうくらいには────そのせいで、走馬灯なのだか夢なのだか分からない、ここまで駆け抜けてきた記憶を取り留めなく想起する。
海底に至る前、どうしようもなく光を見上げていた。アルバートに「思うまま進めよ」と言われた時に、ふと、サンクレッドから、「真っ直ぐ進めよ」と言われたときのことを思い出したのだ。あれは確か、エオルゼア同盟にイシュガルドが加入した記念の、四国合同演習が終わったあとだ。彼は変わってゆく皇都を見つめながら、嬉しそうに、それから寂しそうに、笑ってそう言ったのだった。
水晶公は、「いつだって真っ直ぐ進んできた」と言ってくれたけれども、自分の思うままがそう見えていたのなら、この人がかけてくれた言葉にも応えられていたということだろうか。だから、代わりに歩んでくれるのだろうか。
「少し寝ていても大丈夫ですよ、サンクレッドが運んでくれますから」
「周囲の警戒は、私どもにお任せを……」
「良い仲間だな」
ふと、アルバートの声が混じる。ぴったりついて歩いているらしい彼は、少し饒舌になっているようで、それもまた、こそばゆく感じた。
「俺は温度なんか感じないんだが……お前は寒くないか。ずいぶん深いところらしいからな。もう少し厚着してくれば良かったんじゃないか」
(大丈夫、)
光の戦士である彼女は、心の内で頷いた。
大丈夫。寒くない。
怖くない。
ふとサンクレッドが肩を揺らすから、その振動が直に伝わってくる。前髪に彼の呼気が触れた気がして────確かな事が分からなかったのは、襲いくる睡魔に負けて、目が開かなかったからだ。
ざらり。ざらり。砂の上を歩むリズムが角に触れる。
この音を何故か知っている。いつもはもっと早足のくせに、こちらのことを慮って、歩く速度を落としている。その優しさに気付いて、ひどく腹が立ったのも覚えている。睫毛の先が炙られるみたいな灼熱の中、白銀の髪が強く光を跳ね返していて、その眩しい後ろ姿を睨みながら歩いていた。
ふう、と鼻を抜けていくのが寝息であることを自覚しながら、光の戦士であるアウラの女は、深く意識を記憶に沈めていった。
あれは、確か。
アム・アレーン。
オパールを溶いてぶちまけたみたいな空と、銅砂を敷き詰めたような大地。偉大なる赤き砂漠を、サンクレッドとふたりで歩いていた。リーンがまだその名を持たず、『ミンフィリア』と呼ばれていた頃のことだ。
命がその形を保ったまま生存できる最後の領域、ノルヴラント。その最南端は、かつてナバスアレンと呼ばれる荘厳な都だった、らしい。襲いくる光の氾濫が、何者かによって押し止められた場所であり────つまり、原初世界から旅立ったミンフィリアがたどりつき、力を使い果たし、ひとかけらの希望となって彷徨いだした場所でもあった。
そこへ至れば、“本物のミンフィリア”に会うことが叶う。『ミンフィリア』と呼ばれる女の子はその“本物”とまみえ、身体の主導権を明け渡すつもりでいた。完全なる光の巫女の力で以て、この地のどこかに潜む大罪喰いを探知するために。
このとき英雄である自分が何を考えていたかなんて、陳腐な感傷には触れないでおく。
とにかくもう一度彼女に会うために、ほつれた道をひとつずつ繋ぎ合わせていた。あの場所へと通ずる線路を通るため、トロッコを動かそうとして、トロッコを動かすために石人形タロースを動かそうとして、タロースを動かすためには新しい心核が必要で。
その心核に足る魔力豊かな石など、見つかる可能性は無に等しい。それでも進まねばならないから、出来ることをすべてやろう、と。そうして、サンクレッドと共に鉱山へと向かっている最中だった。
かつての色男が見せていた愛想は何処へやら、素っ気ない後ろ姿が、いつもよりずっと緩やかな歩調で進むのを感じながら────この短い旅の前に、固く閉ざされていた彼の唇から転げた言葉を、反芻していた。
「どうして、」
苛立ちに似た鋭さで、英雄と名高い女傑は声を飛ばした。呼びかけというにはあまりに刺々しく、不機嫌なひとりごとの調子である。そんなものでも肩甲骨あたりに刺さったようで、サンクレッドはざらざらと砂を踏みしめていた足を止めた。振り向いたヘーゼル・アイが、汗もかかない涼やかさでこちらを見るものだから癪に障る。
「この期に及んで、どうして何も言ってやらないの」
一貫して、彼女の怒りはそこにあった。サンクレッドという男は、『ミンフィリア』と呼ばれる少女に対して、真実も胸中も語らない。彼は三年間、淡々と、幼い女の子に生き方を教えた。武器の扱いを仕込み、好き嫌いさせずに食わせ、世界を渡りながら、世界を歩くことができるように育ててきた。
あの子が彼の優しさに救われて、救われたからこそ傷付いていることを知りながら。
サンクレッドの唇が、僅か笑みの形に震えた。
「俺が言えることは何もない」
「あんたねえ!」
再び前を向こうとするサンクレッドの腕を捕まえて、英雄たる女は声を荒げた。彼が言うべきことなんてたくさんあるはずなのだ。
だって先ほど、彼は。
「それならどうして、あんたがあの子の未来を語るんだよ!」
家族を失った男の前で、サンクレッドは、“あの子”が遺した意思を守らなければならないと言った。光に塗りつぶされた空を見上げながら、未来の可能性を語ったのだ。その、未来、とは。
思い違いでなければそれは、これから自らの身体を捧げにいくはずの、少女のための希望だ。
「こればっかりはエメトセルクに全面同意するよ、あんたたちもっと早くに、」
「まさかお前とアシエンの意見が一致するとはな」
────彼の茶化した笑みごと、左頬を張り飛ばした。
咄嗟のことで対応できなかったのか、それともわざと受けたのかは分からない。高い殴打音とともに倒れ込んだサンクレッドの胸ぐらを掴んで、英雄たる女は、彼の切れている口もとめがけてもう一撃追加する。
「手前の上手なお喋りを、今聞きたいわけじゃねえんだよ!!」
憤怒の咆哮が、赤い砂の上、影のように濃く響き渡った。煮え滾る息を吐いた女傑は、尻もちをついたままふらふらと頭を揺らすサンクレッドに詰め寄って、乱暴に顔を上げさせる。
怒り狂う彼女を真正面から見据えた彼は、じっと口を閉ざしたまま、凪いだ瞳をしていた。あんまりにその榛色が静かなものだから、光の戦士たる女は、もっと酷くなじるつもりで吸い込んだ息を、止めた。
この地に入ってからというもの、否、もしかしたらずっと前からあった予感だ。彼女は、それを確信に変えた。
英雄は、すとんとその場に崩れ落ちた。項垂れるままに深く息を吐き、固く瞼を閉じる。
「どうしてよ」
サンクレッドは、すべて分かっていた。
ミンフィリアはもうひとではない。自らの意思でハイデリンに取り込まれ、星の代弁者となったそのときに、彼女はこの世のものではなくなった。魂だけの存在となった彼女は、再び同じ人にはなれない。
そんなミンフィリアに対して、サンクレッドが慟哭のように叫んだ言葉は、なけなしの本心だったろう。彼は、ミンフィリアを救いたかった。たったひとりで異世界に赴き戦った彼女を、どうにかして助けてやりたかった。
しかし、いや、だからこそ、分かっていたのだ。全部ぜんぶ分かっていた。彼女の望みは『もう一度』の中にはないことを。ただ、未来へ踏み出そうとする次の命に、希望を託すことだけが願いだった。だからサンクレッドは、自身の心を封殺して────否。それも正しくない。だって、彼がそうしたのは、ミンフィリアに頼まれたからだけではない。
サンクレッドが、あの少女のことも愛しているからだ。ミンフィリアを妹と可愛がったのと同じに、あの子を、娘のようだと、懐に入れてしまったから。
あの子が光の戦士に会おうと彼のもとを抜け出してきた時、きつく叱ったことだって、思い通りに行動しないと落胆したわけではない。徒労だったと憤ったからではない。ただあの子が────ミンフィリアと呼ばれる小さな女の子が、またあの牢獄のような部屋に連れ戻されて、要らぬ苦痛を受けるかもしれなかったと、それだけを案じてつい声を荒げただけ。
だから苦しいのだ。だから選ぶことなんかできないのだ。本当ならどちらも救いたいのにそれは叶わなくて、助けたいだなんて彼の思い上がったエゴでしかなくて、サンクレッドは選択権を彼女“たち”に委ねた。
違う。この言い方も適当ではない。彼にはそもそも、選ぶ権利すら許されていない。どれほど嘆き叫んだところで、サンクレッドは外野だった。
ただ、ただサンクレッドに出来ることは。ミンフィリアの意思を継ぐこと。『ミンフィリア』が、生きることを選べるように心を育んでやること。
そうしてふたりが選んだ未来を、受け入れて、護ってやること。それだけが彼の、サンクレッドの愛の行方だった。
サンクレッドはすべて分かっていて、だからきっと、ずっと前から覚悟していた。いつか訪れるのは、ミンフィリアとの別離である、と。
「愛してる、って」
サンクレッドのコートを握る彼女の拳に、ぽたりと雫が落ちた。
「心から可愛いと思うって、どうして、あの子に言ってあげないの」
ひとつ転げてしまえば、決壊したように流れは止まらなかった。涙も震える声も止める術がなくて、すべてサンクレッドに叩きつけるしかなかった。
ミンフィリアと『ミンフィリア』。ふたりの選択に、彼の意思など介入してはならないという言い分は、光の戦士である女にだって理解できる。あの少女は、サンクレッドのために生きるのではない。あの子は、未来を見つめる勇気を、自身の中に見出ださなければならなかった。
それでも女傑は、サンクレッドの無口に怒っていた。悲しんでいたし、歯がゆくて、悔しくて、切なかった。
「一度心についた傷は消えないの、いくらそれが誤解だったって、あの子ずっと、本当は私じゃないんだって思いながら生きるのよ」
『ミンフィリア』として育てられた女の子。身体を透かした向こうにいる、ミンフィリアを想われながら育てられた女の子。それが見えざる愛情のすれ違いであったとしても、決して自身を必要とされているわけではないと思い詰めた記憶は、消えることはないのだ。何故愛されないまま、自分の出す答えに自信が持てるだろう。
しゃくりあげながら吐き出す言葉ばかりでは足りなくて、サンクレッドの胸を拳で打った。
「そんなに、そんなにも、大事にしておきながら!」
あの子の未来を、願うなら。愛していると、それだけは伝えてやらねばならなかった。賽はもう投げられて、あとは進んで行くしかない。せめてこうなる前に、伝えてやって欲しかったのに。
白いコートの下に防具をまとった男の体は、エーテルで防護もしていない女の手には少し硬すぎた。遮二無二打ち付けて赤く腫れていく女傑の手を、サンクレッドは黙りこくったまま、やんわり握って押し留める。
だから彼女は反抗して、額で彼の胸元をどついて、それっきり静止して、どんどん小さく丸くなった。鼻をすする呼気だけが、ふたりの間の空白を埋めている。
「どうしてよぅ」
か細く、掠れた泣き声だった。
サンクレッドに憤りながら、英雄たる女は、自身にも呆れ返っていた。彼女だって、この男を誤解していたのだ。あの子の中にミンフィリアがいるから、後生大事に守る一方で、突き放すような態度をとるのだと。
それは共に過ごすにつれ、違和感になった。サンクレッドの言動ときたら、(まったくアリゼーの言う通りに!)意固地で愛情深い父親そのもので、あの子の成長を願うばかりに、厳しくしつけようとしているようにも見えたから。
あらゆる意味で胸中を悟られまいとするサンクレッドの頑なさのせいで、ずいぶん婉曲したものだ。全部、全部この男が悪い。悪いのだ、が。
どうしてこのひとの苦悩に、気付いてやれなかったのだろう。もはや八つ当たりであることを自認しながら、小柄なアウラの女は、微かな力でサンクレッドの鳩尾に頭突きした。
彼は、いつも優しかった。本音をずっと隠してばかりで、それはやましいことがあるとかそういうわけではなくて、いややましいこともかなりあるのだろうがそれはともかく、願いを叶えてあげたい誰かがいるからこそ、呑み込んだ言葉ばかりで喉を詰まらせている。
多くを語ることをしなかった彼は────己の立場と無力に苛まれ、迫る別れを感じながら、それでもあの子の背が伸びたことを確かに喜んだサンクレッドは、きっとあの子と同じくらい、孤独の時間を過ごしていた。
気付いたところで、してやれたことは多くないだろう。けれど、もっと上手く立ち回ることは出来たはずだ。
いくら悔いたところで、やり直しなんかできるはずもないけれど。英雄たる女傑は、ぼろぼろと涙し続けた。やるせなくて、恥ずかしくて、それからやっぱり腹立たしかった。
「……お前は、いつも」
震わすばかりの細い肩に、穏やかな男声が注がれた。俯いた視界が暗くなるのと同時に、頭に重力を感じる。どうやらサンクレッドが、広げたコートを日除けとして、注がれる強い光から彼女を守っているようだった。
微かに埃と、汗の匂いを感じる。
「あの子の味方をしてくれるよな」
殴り付けてきた相手にすらそつなく格好をつけてくれやがって、しかも背を宥められるのではたまったものではない。
もう一発叩いてやろうかと思いながら、今ばかりは、ぽたぽたと流れるままの涙が、砂の上で散っていくのを見つめるだけだ。
サンクレッドがあまりにも、晴れやかな声をあげるものだから。
「ありがとう」
あんたに感謝されるいわれはないが、と吐くつもりだった声は、呻きのまま絞り出された。
まだ終わってもいないし、始まってもいない。だから、そんな風に笑わないでほしい。何にも許していないし、きっと一生許さない。あの子のためを思いながらも傷付けたことだけは、絶対に許さない。そしてまったく遺憾なことに、サンクレッドという男は、この英雄が少しも許してくれないことに安堵するのだろう。
誰より優しいくせに、どこまでも卑怯な男だ。ひどく罵ってやりたかったし、横っ面を蹴飛ばしてやりたかった。
そうやってこの女が、可愛い娘のために激怒してくれるから、サンクレッドはただ微笑んでいた。
すん、と鼻をすする音が、小さな日陰の中に響く。
「汗、かくのかよ……」
「どういう言いがかりなんだ、それは……」
どちらともなく溢したのは、呆れた笑い声だった。
張り飛ばした頬を治してやりもしなければ、腫れてしまった手を治すこともしなかった。ふたりしてのろのろ立ち上がったあとは、残りの道を、手を繋いで歩いた。泣き腫らした瞼は重く、視界良好と言い難くて、気遣ったサンクレッドが英雄を導いてくれたのである。
道すがら、泡みたいに浮かぶひとことふたことで、サンクレッドと話をした。他愛のない思い出話だ。ミンフィリアと過ごした日々のことを懐かしんで、言葉を選ぶたびに会話は儚く弾けて、それを惜しむでもなく、また気まぐれに口を開いた。
ざらり。ざらり。砂の上を歩むリズムが角に触れる。
この音を覚えている。いつもはもっと早足のくせに、こちらのことを慮って、歩く速度を落としている。その優しさがひどく鼻の奥に沁みたことも。睫毛の先が炙られるみたいな灼熱の中、白銀の髪が強く光を跳ね返していて、その眩しい姿と隣り合って歩いた。
その優しいリズムを、覚えていた。
夢うつつの聴覚に触れる砂上の足音が、いつの間にか石畳を蹴る音にすり変わっていることに気付いて、光の戦士たる女は瞼を無理やり抉じ開ける。その刹那、眼球に白光がぐっさり刺さったので、「ウウン!」なんて呻いて思いっきり嫌がってしまった。
眩しい。目もとを隠そうとしたのだが、ひどく腕が重くて動かせない。腕どころか身体中が鉛みたいで、指一本すら震わすこともできなくて、それが余計に彼女を混乱させた。ここは何処だ。一瞬だけ開かれた視界に、どうして蒼天が映るのだろう。
かろうじて首を振ると、角の先が壁にあたって────違う。覚えのある香りを感じる。埃と、汗の匂い。これは人の体だ。ある確信をもって、その名を呼ぶ。
「さ、んくれっど」
「ああ、起きたか?」
前髪のすぐ近くで、穏やかな男声が笑った。網膜にまた強烈な刺激を食らうのが厭で、おそるおそると目を開ける。やっぱり眩しい。狼のたてがみみたいな白銀の髪に、陽光がつやつやと反射していた。
微かな揺れの感覚から、たくましい男の両腕に抱き上げられている状況を悟った。ずっとこうして歩いてくれていたのだろうか。
「あの、……ありがと……」
「お安いご用さ」
笑みの形に細められたヘーゼル・アイが、あまりに優しくこの女を見下ろすものだから、何事か問おうとした思考は細い吐息となって抜けていく。
「気分はどうだい?」
「もう、本当、おどかさないでよね」
降り注ぐ光を遮るように、綿毛みたいな髪の双子が、ひょこりと視界に入ってきた。そっくりの顔立ちが対照的な表情をしている。アルフィノは慈しむような笑顔でこちらを見ているし、アリゼーは何だか拗ねているみたいだ。
皆して、どこか気楽な調子である。漂っている大団円の気配が不可解で、英雄たる女はやっと掠れた声で訊ねた。
「水晶公、は?」
ぱちりと、眼前の二対の青い瞳が瞬いた。顔を見合わせたアルフィノとアリゼーは、同時に合点がいったらしい。ああ、と頷くと、軽やかに肩を揺らした。
「そうだね。確かあのときも、サンクレッドが君を運んでいた」
「ほら、呼ばれてるわよ!」
アリゼーが、誰かに手招きしている。そうして、かの赤毛が見えたとき、英雄たる女は思わず笑い声をあげた。自分が長い長い夢を見ていたことに気付いたからだ。
ここは原初世界、北洋に位置する知の都、オールド・シャーレアンである。第一世界を旅したことは、既に過去だ。
そして今、前人未踏の大偉業────星を蝕む終末の打破を、天の果てにて成し遂げた。彼女は文字通り、救世の英雄として舞い戻ったのだ。その旅路を思い出した。
かつてクリスタルみたいに怜悧な眼差しで、過去にも未来にも反逆した『水晶公』はもういない。彼は今、瞳に宿したその赤を、命の血潮で輝かせている。
「ラハ」
「ああ、……此処に」
親愛なるグ・ラハ・ティアへと手を伸ばそうとしたのだが、ここで女傑は、自分がふかふかの毛布にすっかりくるまれていることに気が付いた。道理で体が動かないわけだ。感じている酷い脱力感は、そのせいだけではなさそうだが。
「少し、動かすぞ」
きょろりと視線を巡らせた英雄の心境を察したか、サンクレッドは短く告げると、より上体が起きる姿勢に抱き直してくれた。
「頭、ここで良いか」
「うん」
促されるまま、女傑は角の置き場を探ってから、サンクレッドの肩にもたれる。顔がずいぶん近くなったが、それよりも、そばにいる仲間たちを一望できるようになったことの方が重要だった。皆がいることを、視覚で実感できた。
そばに控えていたグ・ラハが、英雄を気遣わしげに覗き込む。
「あんた、タタルに『ただいま』って言った瞬間気を失ってさ」
「大騒ぎになりかけたが、こいつがさっさとお前を運び出してな」
どしん、と、サンクレッドごしに衝撃が感じられた。蒼の竜騎士が小突くのだ、そこそこの威力はある。それを食らっても歩調を乱さないサンクレッドは、じろりとエスティニアンを見やると、小さく肩を竦めた。
「絵に描いたようなエーテル欠乏症状ね。どうして意識を保っていられるのかも不思議なくらいよ」
呆れたようなヤ・シュトラの声だ。横からそっと伸びてきた魔女の指が、毛布の裾を女傑の首まわりまで引き上げて、それから前髪を直していった。
紅を引いた唇が、ほんのり笑みの形になる。
「クルルとタタルが、先に行って病室の手配をしているわ」
「あとのことは、我々にお任せください」
ウリエンジェの月色の眼差しに、睫毛の影が柔らかく乗せられた。たおやかな手指を胸にあて、東風の旋律で言葉を編む占星術師は、消耗しきった英雄をあやすように、ゆっくりと謳う。
「貴女は、光を打ち払い、絶望をも砕きました。……すべてに、勝利したのです」
光の戦士たる女は、ゆっくりと瞬きをした。それから、じっくり時間をかけて、微笑んだ。
この結末は、自分ひとりだけで掴みとったものでない。エスティニアンが、先に進むための風を巻き起こすから。ヤ・シュトラが、飽くなき探求心で先を目指すから。ウリエンジェが、そっと背を支えてくれるから。グ・ラハが行こうと手を差し伸べるから。アルフィノが、アリゼーが、この女の幸せを望んでくれるから。
それから。────それから。サンクレッドが、歩くための大地をくれるから。肺を膨らます大気をくれるから。生きとし生けるものへと向けられる拒絶から、丸ごと護ってくれるから。
だから、やり遂げた。青い鳥の希望の歌を聞き届けたときも、“友達と遊んできた”ときも、きっと帰ろうと想った。この頼もしい仲間たちが、待ってくれていたから。
「なあ、あんた、腹減ってないか?」
「我らが魔女の言う通り、エーテル不足が深刻です……補給できるようであれば、早い方がよろしいかと」
「お父様に連絡して、料理長でも呼ぼうか」
「シャーレアンの料理でパーティじゃあ、ね……」
「肉体にまでエーテル欠乏が食い込んでるのよ。まずは増強薬の投与から」
「とんだ凱旋になったな」
サンクレッドが低い声で笑った。すぐ近くで響いたせいで、角がくすぐったい気がして、女傑は人見知りの少女みたいに首を竦める。
その恥じらうような仕草を、彼が見逃すはずがなかった。ぱちりと榛色の瞳を瞬かせて、ああ、と苦く笑う。
「勝手に手を出して悪かった。俺が一番近かったもんで、つい、な」
言い訳のように、抱いたままの腕の説明をする。サンクレッドの行動については、文句も不満もない。接触を嫌がっているわけではなくて、むしろこの腕の中に、すっかり居心地の良さを感じている。
どう伝えれば良いものかと、彼女が思案していると、横からエスティニアンが鼻先を寄せてきた。
「何だ、こっちに来るか?」
気さくな調子で伸びてきたエスティニアンの腕を見て、それからサンクレッドを見た。相変わらず物分かりが良さそうに笑んではいるが、────勘違いでなければ、指が一瞬、強張ったような。
だから、というわけではない。のだが。
光の戦士たるアウラの女は、ぷいと顔を横に向けると、サンクレッドの肩に角を擦り付けた。
「サンクレッドが良い」
順調に進んでいた歩が、びたりと止まった。
「エスティニアンたら、乱暴なんだもの。やだ」
「贅沢なやつだ」
エスティニアンは、笑みを噛み殺しているようだった。せっかくヤ・シュトラが整えてくれた前髪をぐしゃぐしゃ撫でて、それから、手のひらごしに額を重ねてくる。
「よかったな」
穏やかで、優しい声だった。デリカシーを雲海に投げ捨ててきたような男なのに、こんなところばっかり鋭いのが可笑しくて、英雄たる女はエスティニアンにニンマリと笑ってみせた。
どしん、と竜騎士に肩を小突かれたサンクレッドが、よたよたと二歩前進して、そして、またゆっくりと歩き出す。この女をしっかり抱えたまま。
「それじゃ、あとも任されよう」
「うん」
くしゃりと笑ったサンクレッドに、光の戦士は頷いた。先行く仲間たちを追いかけるのに、少し歩幅が広くなって、それでもまったく危なげない。
ただ、ただ、彼女は安心していた。毛布に顎を潜らせて、英雄と呼ばれる女は、とろりと瞼を下ろす。
サンクレッドの手が、いつも温かいことを覚えていた。怪物じみて屈強なこの女を、いつも護ろうとしてくれていることも。行こうとする道の先を、いつも切り拓いてくれることも。いつのまにかずっと、その真っ白な背中を見ていた。
ああ、一体いつから、この強くて弱虫で愚かなほど優しいひとに、惹かれていたのだろう。
(サンクレッドが、良いなあ)
陽射しが睫毛の先に感じられて気持ちいい。うとうとと微睡む呼吸の先に、寝ててもいいぞ、と微笑が触れた気がして、彼女は幸福のうちにのんびりと寛ぎ始めた。