春告鳥は鳴かず飛ばず

 オールド・シャーレアンには雪が降る。北洋に位置する知の都は、海が運んでくる冷涼な湿気でくるまれているものだから、重たく敷き詰められた曇天も、そこから落ちてくる真綿のような白も、暮らすものには馴染みあるものだった。
 此処で育ち、学び、賢人となったサンクレッドとウリエンジェにとってもそうだ。冬の澄んだ気配が突然鼻先をつねってくるような、そんな痛覚を耐え難く思うときもあるが、同時に愛しく代え難いものでもあった。平和なければ、世界なければ、命なければ、懐かしい寒さに頬を緩ますこともないのだから。
 つまるところ、うっすら積もり始めた雪に対して、勿論恐怖や脅威を感じることはなかったのだ。流石にウリエンジェが凍えかかりはしたものの、それは極めて些事であって、槍か星が降らない限りは最近のとおりに、月の船員レポリットたちと魔導船を背に未来の算段を立てていたことだろう。
 そして事態はありふれた雪の日に起こった。天変地異に匹敵する────あるいはより逼迫した事件が、クルルからのリンクシェル通信よりもたらされたのである。

 曰く、我らが英雄が倒れた、と。



「おそらく、なのだけど……冬眠なんじゃないかと思うのよ」
「冬眠」

 至極真面目な顔で告げるクルルの言葉から、特に重要と思われる単語を抜粋して、サンクレッドがおうむ返しした。声音に表れたのは、驚きか呆れか理解の至らなさか、あるいはそれら全てだったかもしれない。
 緊急に集まったのは、クルル、グ・ラハ、ウリエンジェ、サンクレッド。シャーレアンまたはその近辺で活動していた者たちである。バルデシオン分館の一室、まだ記憶に新しいナップルーム、ベッドには真っ白な顔で目を閉じた彼女が横たえられていて、英雄と呼ばれるにはいつ見ても小さすぎる身体の上にこれでもかと毛布が重ねられていた。

「ナップルームが恋しいってやって来たからねぇ、休んでいきなよ~って通したんだよね」

 これは経緯を問われたオジカ・ツンジカの言である。

「あの人が来てると聞いたから、顔を見ようと思ったんだ……」

 これはグ・ラハ。

「すっごい悲鳴が上がったから、何だろうと思ったら。ラハくんが助けてくれって、あのひとを抱えて飛び込んできたの」

 そしてクルルが、困ったように手を頬に添えた。
 第一発見者であるグ・ラハによると、彼女は、一人で使うには広すぎるテーブルに腕枕で突っ伏していたらしい。きちんとベッドで休んだら良いのにと揺すり起こそうとして、肩に触れて、あまりに冷えた肌に愕然としたらしい。呼吸や心拍は認められるものの、穏やかというには深く、遅すぎた。かといって、よく観察すれば死に瀕しているというわけではなさそうで、ただただ穴ぐらで冬を越す獣のように、鼓動まで眠らせているのみのようだった。

「非常に、稀な事例ではありますが……」

 焚かれたストーブの近くで長身を丸めながら、囁くように口を開いたのはウリエンジェである。

「アウラ族には、冬眠と呼ぶにあたる現象が、個体によって表れる……と文献で読んだことがあります。彼女は特に小柄な方ですし、体温の保持が難しい……」

 ゆっくりと米神を指で叩きながら、視線を眠る彼女に向ける。顔を守るようにそびえる角は、英雄がアウラ族であることの証だ。エオルゼアには進出してきたばかりで未だ珍しい人種ではあるものの、暁の面々にとってはもう馴染みの光沢である。

「外は雪も降っています。おそらく、何らかの理由で……気温低下に耐えられなくなり……冬眠状態になることで消耗を免れたのかもしれません」
「まったく、クルザスでもガレマルドでも駆けずり回ってた奴がどうして……」

 今度こそ呆れた溜め息をこぼして、それからサンクレッドは微かに眉根を寄せた。

「いや。……今だから、か」

 終末の災厄、滅びの運命を退け、死闘に打ち勝って帰ってきた。彼女といえばいつも戦いの中にあって、身体を休める機会はあっても心はいつも遠くにあって、嵐を、炎を、光も闇も、破るように走っていて。
 そうしてその先に、やっと自分の時を取り戻したのが今だ。気が緩んだのでは────と言ったら本人に頭から文句を浴びせられるだろうが、そう思われても仕方のないことだと反論くらいは出来る。一時機能に支障が出るほどの疲れも溜まっているはずだった。

「このまま休ませてあげるのは構わないのだけど……温かくなるまで、なんていったら流石に……でしょう?」
「何より、彼女が気の毒でしょう。シャーレアンの春もまた、目覚めに相応しく芳しいものですが……眠って待つには、長い時間です」
「それに、人が冬眠をするにあたっての資料が少ないのも懸念点だな。今すぐどうにかなるわけじゃないにしろ、いわゆる低体温状態のまま放っておいて良いのか……」

 癒し手も担う3人が見解を述べる一方で、サンクレッドはといえば、再度彼女の寝姿を盗み見た。これだけ仲間が集まっていて、彼女の声がひとつも聞こえないのはどうも違和感がある。いつでも話題の中心には彼女がいたし、本人もよく喋る。それはそれは快活に。
 深刻よりもまだ柔らかな表情をそれぞれしているが、こうした顔を突き合わせていると、彼女が沈黙していた時を思い出して、いやに思考が足もとに沈む。押し寄せる光に磨り潰されそうだった魂。その身体を奪われたときのこと。結局ひとりで戦わせたあと。滲んだ血液さえ冷えきって、触れた指を伝ってこちらの臓器にまで至る、氷柱のような死の予感。肋の奥で悪寒がつかえて、唾を呑むことさえ出来ずにいた、あの時間を。

「サンクレッド」

 掬い上げる手のひらのような、低音が意識を呼び戻した。顎を張るように顔を上げれば、ウリエンジェの金色の眼差しがこちらを向いていて、どうやら余計な気を回させたなと苦笑した。彼はどうも聡すぎる。

「いや、すまん。考え事をな」

 何でもないように軽く手を上げると、爪を隠して両腕を組んだ。

「それで。そいつを何とか起こすか、最低限体温を上げてやればいいわけだ。何か方法が?」
「そうね。最適かは分からないけど……」

 クルルの妙な歯切れの悪さを視線で以て追及する。少しの間続けるための言葉を選んでいた様子から、どうも妙なことになりそうだと、気付くことはできなかった。

「湯たんぽ代わりになってほしいの。できればサンクレッドさん、あなたに」

 声を上げる前に、一斉にこちらを向いた愛すべき仲間たちの視線に射抜かれた。口と足を縫い止められたような心地で、指を動かすにさえ躊躇われて、それでもやっと絞り出した言葉は。

「……俺か……?」

 ────常々我らが英雄から、史上最悪の鈍ちんだの、口の上手さを地脈に置いてきただの、意気地のありなしで小鹿と勝負するなだの、とんでもなく罵られては不服な思いをしたものだが────今ばかりは、まったく言い返す余地がない気がする。

「いや。いやいや。まずいだろう、それは」

 それでも一度口火を切ってしまいさえすれば、あとは勝手に反論が転がり出た。動揺に視界を一度手で塞き、大きく息を吐く。何だか情けなく見えるようだが、今更、飾り立てる必要のある仲ではない。ひとりもだ。

「……順当に考えると、同性のクルルが適任だと思うんだが」
「そうしてあげたいのだけど、私は彼女よりどうしても小さいでしょう? 逆に体温が放散して、ふたりとも冷えてしまうの」
「……何も人肌じゃなくても……ファイアシャードや湯を使うのは……」
「極低体温状態だから、火傷になるかもしれないわ」
「…………ウリエンジェ」
「お恥ずかしながら、私はこの通り……寝具としては心もとない体躯……。筋肉量のあるサンクレッドの方が適しているでしょう」
「それならグ・ラハ…………、いや、良い、何でもない。そんな顔をしないでくれ」
「アリゼーやヤ・シュトラを呼び戻すことも考えたのだけど……あちらはあちらで忙しくしているようだし。どう説明して来てもらおうか考えると……」

 いよいよ苦笑気味に首を傾げてくれたクルルに、サンクレッドは再度大きな息を吐いて天井を仰いだ。勿論彼女らは、それにアルフィノやエスティニアンだって、英雄の危機と聞けば内容などお構いなしに遮二無二駆けつけてくれるのだろう。────此処に現状考え得る最適解がいるというのに、だ。ここで自分が引き受けてしまえば、(もしかしたらアリゼーには何故呼ばないのかと怒られるかもしれないが、)わざわざ英雄の添い寝をしに来いと遠い道のりに招くこともない。人間湯たんぽが届く前に、眠り続ける彼女が異常をきたしても、よろしくない。
 あー、とか、うーん、とか。締まらない呻き声を数度上げたあと、まるで刑を言い渡された大罪人のように、粛々と、渋々と、サンクレッドは頷いた。

「……分かった……」

 粛々と、渋々と。────そう見えてくれれば良いのだが。
 逃れる言い訳ならまだいくつも思い付くのに、半ばで折れるように首を縦に振ったのは、その役目が自分であればと少なからず願ったからに過ぎない。

「レポリットたちには、私から話をしておきましょう……。貴方も多少疲れは残っているでしょうから、休暇と思って、お過ごしください……」
「私とラハくんも、なるべく分館の中にいるようにするわ。何かあったら呼んでちょうだいね」
「逐一様子を見に来るよ。寝てしまってても大丈夫だからな」

 そうと決まれば話は早かった。さっさと寝支度を済まされ、好意でいっぱいの言葉たちに後頭部を小突かれて、あとはシーツに潜り込むだけの男は釘も刺されずに、眠る女の部屋に取り残された。信用されているのは良いし、さすがに今の彼女を手篭めにしてやろうなんて気は起きないから、疑われても困るだけ、なのだが。接触による生理的な反応や、傾ける心があるゆえの気まずさは別だ。
 愛用のガンブレードはベッドサイドに置き直した。水分をとるための水差しも、何かあれば目眩ましくらいにはなる。
 終末が回避されたあとに残るのは、生きるものの未来と、人間の確執だ。手を取り合うのは世界を揺るがす脅威があったからで、平和となった今英雄を害する可能性があるのは、同じ人間の好奇心、奇異を見る視線、見出だされる利用価値である。穿った見方をしすぎたくはないが、万が一に足をすくわれることもあるのだ、こんな時くらいは守ってやりたかった。
 これが、歴戦を制した彼女にとってどんなにささやかで、飯事のような行為であっても。
 間取りをもう一度頭に入れようとして、サンクレッドはゆっくり部屋を見渡した。扉と窓の位置。机の高さ。脱出経路を算出しながら、頭の中で何度か仮想敵を屠った。
 先程とは打って変わって静まり返った空間は、温度も随分下がった気がして、無防備でいれば凍えもするだろうと腑に落ちた。────一体何を思って、ひとり眠っていたのであろうか。
 などと、そもそも女心に疎い自分が英雄たる彼女の心中を測ってみようなんて愚かしいことである。何度目かも分からない深い溜め息を吐くと、意を決して足を彼女の横に潜らせた。

「邪魔、するぞ」

 何とはなしに声をかけてはみるものの、当然白い横顔からの返事はない。うなじを掻いて、しばらく動きがないのを見守って、左腕を枕にやっと身を横たえる。
 彼女はサンクレッドよりもかなり背が低く、だからいつもは彼女の頭頂部を見ていて、こうして真横から生え揃った睫毛を眺めるのは新しい体験であった。彼女の額にかかる髪に指を伸ばして分けてやれば、自然とその体温に触れて────あまりの冷たさに、まさか、と細い喉へ手がかかった。ひどく遅く伝う脈がかろうじて彼女の生を示していて、詰めた呼吸を安堵とともに、笑う吐息にしてシーツに転がした。
 グ・ラハが悲鳴をあげるわけだ。これでは屍と違える。
 積み上げられた布団を小さな肩まで引き上げかけ直してやる、ふりをして、その身体に腕を回そうとして、結局出来ずに指の背を彼女の頬に沿わせた。

 彼女とは親密な仲ではない。少なくとも、サンクレッドはそう思っていた。二人きりで話し込んだことも少なければ、滅多にない機会の内容だって、自分の不甲斐なさに謝罪しているだとか、意地をかけて言い合っているだとか、叱り飛ばされたこともあればサンクレッドが小言を言うこともあり、だから決して色気のある関係ではない。決まった約束をすることもなく、他のすべてを打ち捨てるような熱烈な恋情も、ない。
 それでも、彼女は特別だった。うつくしく背筋の伸びたひと。大切な人の魂と未来を、共に見つめて抱きしめて戦ってくれた女だ。こうして隣で寝そべる権利を、その身体に熱灯す仕事を、そうして今度こそこのひとを守ってやれる立場を、本当は誰にも譲りたくなかった、と。浅ましくも考えてしまうくらいには肩入れをした。────このひとを、世界で一番の女の子にはしてやれないくせに。
 今はエーテル界の淡い光となって眠る、我が妹が一番大事だ。それと同じに、あの子の意思を継ぐ我が娘が一番大事だ。欲深くも一番に愛する女の子が二人もいて、それはきっと生涯覆らない。自分の心の在処。存在意義。あの子が夢見たエオルゼアの未来のために、そしてあの子が羽みたいな軽やかさで駆ける未来のために、自分はこれからも生きていくのだ。
 だから目の前の好いた女を手放しに愛することができなくて、……どうせ彼女は許してくれるのだろうがそれも心苦しくて、何せ彼女は救世の英雄にして誰もの特別で、大きすぎる花束みたいな幸せが用意されていてしかるべきひとなのだ。何をどうしたって、自分の手には余る。

(それなのに、)

 ゆるく冷たい頬を撫でれば、爪と鱗が重なって、硬い音を立てた。面と向かって伝える気もない、応えられるはずもない、見守る役目に徹しておけば良いものを、また心を割り切れないでいる。こんなものは恋ではない。執着というのだ。
 苦く笑って、自然に瞼が落ちた。窓の外の風を聞き分ける。白くけぶったガラスの向こうからはまだ湿った気配がして、ああ雪は止まないのかと微睡みの中で思った。聞こえる足音はまばら。おそらくララフェルのもの。オジカか、クルルだろう。



 部屋ひとつ分の静寂がやたらと広く、冷たい。



 ────右頬ばかりが温かい気がして、その熱を感じることで、彼女は意識の浮上を自覚した。
 深く眠っていると、魂が体という枠から滲み出して床中に転がっているような心地がする。それがもう一度せせこましく収まりにきて、形になって、重力をもってのしかかってきた。ともかく気だるい。それから寒い。ダイアマイトの糸で塞がれたのではと思うほどに頑なな瞼を無理やり抉じ開けて、彼女は、英雄と呼ばれる女は、ナップルームの天井を睨んだ。
 眠る前後の記憶が怪しく、自分で布団に入った覚えはない。思わしくない体調は二日酔いの類いではなさそうで、では何があったのだろうと考えていれば、また頬の熱に気付いた。首を傾ける程度ならたいした負担ではないからそちらを向けば、よく知る男が無防備に目を閉じている。

(睫毛が長い……)

 サンクレッドの頭はいつも自分より随分高い位置にあって、だからこうしてすぐ目の前で顔を見ることはなく、貴重な体験に思わず呑気な感想が浮かんだ。身内の欲目を差し引いても、まあ綺麗な顔をしていると思う。女のような美貌というわけではなく、鼻筋のしっかり通った精悍さだ。
 町中で見かけるヒューランは、種類というか、幅というか、ともかく分布が広ければ顔立ちも様々で、その違いを面白く思っていた。彼は────サンクレッドは、その中でもいっとう整っているように見える。
 小突いてやるべきかと思ったが、やたらと重ねられている布団に抗う力が出ずに、なので精一杯のしかめ面を作って口を開く。

「その狸寝入りはいつ終わるの」

 か細く、かさついた声音に自分がまず驚いて、小さな咳をした。深く呼吸を続けるサンクレッドが、そのまま誤魔化すのではないかと思えるほどには沈黙が続いて。

「お前が起きるまでは寝てたよ。……本当に」

 明朗な男声が、低く囁いた。それから惜しみなく開かれた瞳はいつも通りの色で、確かヘーゼルというのだったか、今ばかりは室内灯に柔らかく輝いている。

「おはよう。……角、それで痛まないか」
「おはよう。あんただって耳を下にして眠る時あるでしょ」
「ああ、そんな感じか……」

 頬を温めていた彼の指先が、微かに角の先を撫でて、引っ込められた。少しだけ惜しい。熱に餓えている。

「私、どうなってる?」
「原因は分からないが、低体温症状と心拍数低下が続いてた。まあ、冬眠だそうだ」
「冬眠ン?」

 人を熊か栗鼠のように言ってくれると憤りそうになるが、わざわざ分かりやすい嘘をつく人間でないことは分かっているし、そうするメリットもないから、本当のことなのだろう。凍える心地は、実際に凍えていたのか。自分の身体のことすら知らないことがあるのだから、世界のことなんてまだ少しも知れていないのだろう。場違いな感嘆を、鎮静するための吐息に混ぜた。

「……ずっとそうしててくれたの」
「気にするな。そう長い時間じゃないさ」

 聞けば、これまでの経緯に加えて、思ったよりも自分が早く起きたことを話してくれた。おかげで休暇も儚く終わりそうだ、なんて軽口も。
 この男も大概、他人のために無茶を通すくせに、何でもない顔をするのが得意だ。どうせ横で人間湯たんぽと化している間、小難しいことばかりを考えて、勝手に疲弊しただろうに。思わず噴き出した笑い声ごと、肩が小刻みに震えた。

「……寒い」
「身体が働いてきたな。熱を上げようとしてるんだろう」

 言いながら自然と伸びてきたサンクレッドの手が、途中でぎくりと止まった。引こうと思ったか拳を作って、それでももう一度開いて、布団の上から遠慮がちに細い肩を撫でる。

「……腕を。回しても?」

 榛色の瞳がこちらを窺った。不安を滲ませるのは、許されたいからか。あるいは、拒まれたいからか。彼の表情からはいまいち読み取ることは出来ずに、また察してやる必要もなかった。

「うん。そっち向く」
「ん」

 助けを借りて寝返りを打てば、鍛えられた胸板から発される熱が顔を撫でた。角の先が刺さらないよう慎重にしていれば、お構いなしに抱き込められて額が触れる。ずれた布団をかけ直したサンクレッドの手が、小さな背中へ遠慮がちに回されて、そのせいで腕の重さがずしりとのしかかってきた。じわりと食い込む体温が溶け出して混ざり、知らずに強張っていた身体の力を抜けば、呼応するように彼の溜め息が頭上を通っていく。

 ────自分が、そうであれば良いのにと願っているから含みを感じるのだと、思っていたことがごく最近になって真実であることに気が付いた。
 サンクレッドは何も言いやしないが、それは口ばかりの話で、例えば注がれる眼差しであるとか、曖昧に触れる手のひらだとか、覆い隠すような背中がいちいち執着を持っていて、温く心の皮膚を焼いてくる。こちらの火傷も知っていて、爛れた箇所を痛ましげに撫でてくれて、それだけ。それだけでも構わないのだが、彼はそうではないらしい。さっさと諦めて睦言のひとつでもくれてやれば良いものを。意固地なほど律儀で、そのくせ臆病を拗らせて小狡くて、身勝手という言葉の使いどころをいつも間違えているから嫌いだ。それは、優しい、で良いだろう。良いはずなのだ。

「……温かい」

 ほとんど呼気で囁く。彼の持てるすべてで護られてきたし、今もそうだ。
 エーテルだけになって尚しぶとく戦ってくれた。盾となるほどの願いの一端を担ってくれた。手先ほど器用ではない心で、愚直に先行く背で、生きることで道となってくれた。彼を特別に思う理由はそれで十分だ。
 未だ迷うサンクレッドの手が、ようやく白いうなじをくるんで落ち着く。

「お前はまだ冷たいな」

 そう言ったきり、しばらく黙った。微睡む静寂が窓に結露して、一筋、落ちていく。

「何かあったのか。その、……こんなになるまで、考え込むことが」

 皮膚の厚くなった親指が、彼女の首の後ろをざらりと撫でた。もう少しちゃんと触れてくれても良いのにと思いながら、改めてサンクレッドを見る。言葉の調子こそ気遣わしげだが、間近から刺さる視線はこちらをくりぬくようだ。
 こんなになるまで。冷えて凍えて冬眠に至るまで、自分の世話をしなかった理由か。

「……笑わない?」
「……笑えるほど面白いことでも? 是非聞かせてくれ」
「は。ほんとやだ、あんた」

 表情が笑みになれば、続く言葉も滑らかだ。サンクレッドの諜報術に乗せられた気がするが、この癪は後に取っておく。

「……少しだけ、寂しくて」

 ゆっくり背を撫でていた大きな手が、微かに跳ねた。こちらを見つめる瞳がありありと「意外だ」なんて物語っていて、先程の分の遺憾も合わせて、脛を軽く蹴飛ばす。

「今まで、皆一緒だったでしょう」
「ああ」
「大きな戦いが終わって、皆がやりたいことを見つけて、それはすごく良いことだから別にいいんだけど」

 拗ねているような物言いになった気がして目線を落とせば、サンクレッドの指が、頬を撫で、首を通って、顎に添えられた。自然に顔が上向いて、再度眼差しを直に浴びる。

「手慣れてる」
「……良いから、続けて」
「ふふ」

 不快に思うどころか、従って吐露できるくらいには心地好く、さすがプロの技だと笑えた。惚れた弱みかもしれない。どちらでも良い。

「私もやりたかったことをしてる。……その中で。嬉しいことや、楽しいことがあったときに、つい皆の姿を探してしまう」

 例えば朝焼けの鮮やかさに、胸を焦がしたこと。鳥が上手に歌うこと。蒲萄の甘さに驚いて、いつも通り分けてやろうとして、彼ら彼女らはそばにいない。足音はひとつだけ。

「ここに来たら会えるとは、思ってなくて」

 ただ、思い出しに来ただけだ。

「皆と歩いてこられて。生きていて良かったって。……寂しいけど、一生の別れではないんだからって、言い聞かせていたら、いつの間にか……」

 未来に向かって歩き出しているはずなのに、振り返る癖がどうも足を鈍らせる。そのたびに、払われた犠牲が、去った誰かが、先行けと輝く光へ押し出してくれた。そうして思い出す。視覚を焦がした景色。貫くような青の星。希望の上に自分は立っていて、今は見えない翼を羽打つ前。
 背中に残るその感覚に、サンクレッドの手が重なる。

「そうか」

 ひとこと、静かな相槌がじんと響いた。聞くだけ聞いておいて、気の利いた慰めの言葉も笑ってくれる甲斐性もないのか、と出かかった文句は抱き潰されてしまう。人の顔色は見るくせに、自分の表情は隠すのだから、やはり狡い男だ。

「角、当たってる。痛くない?」
「構わない」
「じゃあ痛いでしょ。馬鹿」

 わざと角をたててやれば、小さな呻き声が聞こえた。我慢強さもここまでくると、美学というより意地である。サンクレッドの身体は温かくて、少し熱すぎるほどで、だから凍ってもいない眦が溶け出して目が潤む。

「たまには顔を見に行ったら良いんじゃないか」
「見に行ってるの。わりと頻繁に」
「喜んでるんだろ?」
「だからイヤなんだってば」
「気が引けるなら、リンクシェルは」
「やだ、邪魔したくない」
「誰も邪魔だなんて思わない」
「だからイヤなの! 皆、私のこと好きすぎ!」

 実際、暁の面々は、英雄たるこの女を可愛がりすぎる節がある。どんな時にやってきたって、喜んで手を止めてまで歓迎してくれるだろう。気を遣わせているとか合わせてもらっているとかの次元ではないから、余計に申し訳ないような気がするのだ。それは自身の認知による問題だから、甘受できるよう自分で矯正しなければならないのだが。
 表す言葉を知らずに心をもて余すような、そんなこどもじみた言い分に、サンクレッドの肩が揺れた。

「やっぱり笑う」
「違う、今のは……いて。悪かったよ。すまん」

 角で突かれてたまらず降参したサンクレッドは、それでもまだ笑いながら、なだめるように彼女の背を撫で下ろした。触れる箇所はいくぶん人間らしい体温を取り戻して、唇に鮮やかな血色が見える。

「……この雪が、止んで。お前が落ち着いたら、皆に声をかけて集まろう」
「…………、なんて言って?」
「理由なんか何でも良い。宝探しに行こうでも、飯が食いたいでも」

 そんなことで、と語る不満げな彼女の視線を、サンクレッドは一度瞬きすることで防いだ。

「今後くらい甘えてやれ。お前にはその権利があるし……俺たちにとって、価値がある」

 低く語る声が、じわりと角に染み込んでくる。言葉は首や背を擦る手と同じに迷っていて、それでも柔らかな熱を持っていた。
 この熱に、覚えがある。雪解け水。綻んだ蕾の甘い色彩。潤んだ地面の上に香る季節のこと。
 俺たち、と言うのは────彼女を大事だと言ってくれる筆頭に、サンクレッド自身を含めるのは、少なからずの勇気が要っただろうに。

「……お花見が、したい」
「うん?」
「春になるまで待つから。花を見ながらゆっくり話をして。お酒を飲んで、美味しいものを食べたい。……皆と」
「……ああ。良いな……そういうのも」

 会いたい、と。我が儘に願っていいのかと期待すれば、こじつける理由は素直に浮かんだ。英雄と呼ばれる女傑は、春を待ち遠しく想う無邪気な娘の表情で、はにかんで頷く。サンクレッドはその淡い笑みの形を、ただ、見つめていた。

「お弁当作ろうかな」
「楽しみだが……男連中は食うぞ、特に若いやつ」
「食べてもらわないと困る。アルフィノなんかこれから伸びるんだから」
「……なら、食材調達と荷物持ちくらいは付き合おう。ウリエンジェにはプディングでも作らせてやれ」
「デザートも完備? 贅沢……」

 くすくすと、シーツの中で笑い声が転がった。こうして吐息が混じる距離で語り合っていれば、一足先の陽光が射し込むようで、それがいっそう過ぎぬ時間をもどかしく思わせた。

「ラハのサンドイッチが食べたい」
「それは……今すぐでも食べられるんじゃないか? いるぞ、あっちに」
「じゃあ、あとで……」

 あるいは、こうして夢見ている時間の方が幸せかもしれない。足先を触れ合わせて、伝う体温にほんの少し眠くなりながら、欲張った未来を想像している今の方が。

「せっかくだから皆の好きなものを入れたいんだけど。ヤ・シュトラとか、なかなかそういうこと言わなくて……」
「アッシュトゥーナじゃないか。ミコッテだし」
「適当なこと言わないでよ。……アリゼーの嫌いなものなら知ってるのに」
「ピクルス?」
「そう!」

 それでも、────それでも。
 空が濃さを増し、近付いてくることを知っている。雲の形が変わる。いっせいに命が目覚めて、鳴り響く鼓動の音が、浮き立つ小鹿の足音と踊る。その季節は実際に巡ってくる。きっと思っていたより穏やかで、平凡とも言えて、予感していた事件もなければ予想していたほどの高鳴りもない。それでも、想像していたよりずっと愛おしい季節はやってきて、そのたびに思い出したように歓びを謳うのだ。
 ひとつずつの明日を重ねて辿り着く。そうして春をも越えた先に、夏があって、秋があって、もうひとたび冬になって、きっとその全ての時に大事なひとたちがいるだろう。

「サンクレッドは……」
「ん?」

 何気なく聞いてみようとして口を開けば────きっとサンクレッド本人すら自覚できていないだろう、あんまりに優しい榛色の瞳がこちらを見るものだから、次の句を繋げるまでに少しだけ、怯んだ。

「……食べ物。何が好き?」
「……酒が進めば何でも」
「エスティニアンみたいなこと言って」

 とぼけた返答に脛を蹴ってやれば、形ばかり痛がった彼の顔が、少しだけ困る。

「……考えたことが、なかった、な」

 その言葉の真意は、想像するに難い。好物なんて必要なかったか、あるいは時によって変えてきたか、意識する暇もなく駆け抜けてきたのか。おどけてやるべきか真面目に取り合うべきか悩んでしまって、かけるべき言葉を見失っていれば、視線同士が絡んだ。
 眉根を寄せて曖昧に笑うサンクレッドは、迷っているようだった。雄弁な瞳だ。自分のために手を伸ばすことをいつまでも躊躇って、だからと言って諦めきれもしない、不器用な眼差しがやっと鼻先に触れる。

「……もし、良かったら。選んでくれないか。お前が」

 差し出された言葉は、結局ひどく他人任せなもので、本当に決まらない男だと笑ってしまった。
 もしかしたら彼と同じ顔をしたかもしれない。愛おしくて仕方がないなんて目を、したかもしれない。

「……まずは。私の好きなものからで、良い?」
「……、……ああ」

 彼女の返答を聞いたサンクレッドは、ほんの微かに目を見張って、それから噛み締めるように頷いた。
 何かが変わる約束をしたわけではなく、確かめあったわけでもない。仲間たちと集まる算段を立てて、ついでのように彼女は好物を教えてくれて、それを自分の好きなものにして良いと言う、それだけの話だ。だからいつだって彼女の肩から手を離せる、そう思い込もうとしている馬鹿な男は、兄であり、父であれる。
 今は。

「それが良い」

 溢すように囁くサンクレッドの声に、英雄はといえば、眠たげに笑うのみだった。



 窓の外には未だ雪がちらついていて、差し迫る季節の気配を隠していた。東風と共に芽吹きの緑が町を覆う頃には、花を眺めるその時には、これを恋と呼べるようになるだろうか。ひとときの微睡みの熱をよすがにして。
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