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赤いリップ

 仕事を終え、住宅街の中を歩いていると、奇妙な男の子の姿を見かけた。私よりも少し低いくらいの背丈で、真っ白な布に身を包んでいる。夕焼けに照らされた路地の中で、電信柱に寄りかかって佇むその人影は、まるで幽霊のようだった。
 男の子は、私の足音に気づくと、こちらに視線を向けた。綺麗な顔をにやりと歪めると、からかうような口調で言う。
「こんばんは、初音」
「……ルチアーノくん」
 私は、その男の子の名前を呼んだ。私の前に現れる、神出鬼没な男の子。彼は浮世離れしていて、不思議な力を持っていて、そして、私の好きな人だった。
 彼が私の前に現れる時は、必ず何か用事がある。それは、誰にでもできるような大したことのないものだったけど、彼はなぜか私を選んで声をかけるのだ。今日も何かを告げられるのではないかと、少しだけ身構えてしまう。
「安心しなよ。今日は頼み事をするつもりはないからさ。今日は、ね」
 私の心を読んだのか、含むような声で彼は告げる。にやにやと笑みを浮かべ、楽しそうに笑った。怪しくも、美しい笑顔だった。
「明日、暇なんだろ? ちょっと付き合ってくれないか?」
 これは、デートのお誘いと言うやつなのだろうか? 違うと分かっていても、そんなことを考えてしまう。心臓がドキドキとなって、うまく言葉が出なかった。
「いいよ」
 私がうなずくと、彼は嬉しそうに笑った。にやにやな笑みはそのままに、要件を言いつける。
「じゃあ、明日の十時に噴水広場まで来てくれ。遅れたらお仕置きだからな」
「分かった」
「あと、ブランドの服があるなら、用意しておいた方がいいぜ。Tシャツだと浮くからな」
 意味深な言葉に、私は疑問符を浮かべる。どうして、ブランドの服が必要になるのだろう?
「それって、どういうこと?」
「明日になれば分かるさ。じゃあな」
 一方的に告げると、彼は通りの奥へと消えていった。いつものように、強引な態度だった。

 好きな人と、デートの約束をした。実際は、デートなんかじゃないのだろうけど、私にとっては同じことだった。休みの日に、二人きりで出掛けるのだ。そう思うと、少しも落ち着かない。
 何をするにも上の空だった。冷凍食品で夕食を済ませ、素早く身体を洗い、明日の支度に取りかかる。クローゼットからブランドもののワンピースを取り出し、状態を確認した。
 この服には、どの鞄が合うだろうか。靴は? アクセサリーは? そんなことを考えてしまって、なかなか支度は進まない。それくらい、彼との外出は楽しみだったのだ。
 明日は、一体どこに連れていかれるのだろう? ブランドものの服が必要になる場所なのだ。普段の私には縁の無い空間なのは確かだ。彼は、ブランドの服一式を迷わずに買えるくらいのお金持ちなのだから。
 考えれば考えるほど、緊張してしまう。楽しみと不安で、胸が苦しくなった。
 私がこんなにも楽しみにしてるなんて知ったら、彼は呆れるだろう。彼は、私のことなんてなんとも思っていないのだ。私が一方的に、彼を好きでいるだけなのだ。
 明日の朝は早い。いたずら好きな彼のことだから、遅刻したらどうなるか分からない。早起きに備えて、早めに眠ることにした。

 噴水広場にたどり着いた時、時計は九時四十五分を指していた。集合時間から十五分も前だった。遅刻が心配で、早く来すぎてしまったのだ。
 噴水広場は、たくさんの人で溢れていた。どうやら、定番の待ち合わせスポットらしい。噴水の回りを取り囲む人や、少し離れた場所に佇んでいる人。端末に視線を向けている人、キョロキョロと回りを見渡している人。髪型を整え、勝負服に身を包んだ男女や、ラフなTシャツ姿の若者など、いろいろな人々の姿がある。
 私は、少し離れた場所で噴水を見ていた。私は郊外に住んでるし、ネオドミノシティは繁華街かオフィス街にしか来たことがない。噴水広場の噴水を見るのは初めてだった。
「やあ、初音。ずいぶん早いじゃないか」
 突然、後ろから声をかけられて、飛び上がるほどびっくりする。振り向くと、見慣れた少年の姿があった。
「…………びっくりした」
 私が言うと、彼は穏やかに笑った。いつものような笑い方ではないことに、少しだけ違和感を感じる。
 彼は、いつもと違う姿をしていた。白いブラウスに、膝下丈のパンツ。そして、黒いベスト。以前に私が選んだ、ゴシックファッションだった。
「ずいぶん早くついていたみたいだね。気が早いんじゃないかい」
 彼の語調は、いつもとはかなり違っていた。落ち着いていて、しっとりとした声なのだ。服装と相まって、絵本から出てきた中世の貴族のようだ。見たことのない一面に、少し戸惑ってしまう。
 彼は、私の手を引いて顔を近づけると、囁くような声で言った。
「今日は、アカデミアの優等生という設定だからな。適当に合わせてくれ」
 私はうなずくことしかできなかった。至近距離で囁かれては、心臓が持たない。今の彼は、本当に王子様みたいなのだから。
「じゃあ、行こうか」
 そう言うと、彼は歩きだした。私の手を、しっかりと握りしめて。

 彼が向かった先は、高級なホテルだった。治安維持局の近くにある、私でも名前を知っているような、トップス階級向けの大手チェーンだ。大都会の真ん中に、そびえるようにして、その建物は立っていた。
 少年は、その建物の前で立ち止まると、私を振り返って言った。
「ここだよ」
「えっ…………」
 理解ができなかった。目の前にあるのは、寝泊まりするための施設だ。そんなところに私を連れてきて、何をするつもりなのだろう?
 一瞬だけ脳裏をよぎった思考に、頬を赤く染めてしまう。見かねたように、彼はにやりと笑った。
「今、変なことを考えたでしょう?」
 頬を真っ赤に染めて首を振る。彼は、小さく笑い声を上げた。いつもと同じ声だった。
「もちろん、泊まるわけじゃないよ。今日は、ここのレストランで食事をするんだ」
「レストラン……?」
 案内板を見ると、確かにレストランの文字がある。でも、それは宿泊客のためのものじゃないだろうか。
 私が首を傾げていると、彼は先を読んだように答える。
「ホテルのレストランは、宿泊しなくても利用できるんだよ。もしかして、こういう場所は初めて?」
「知らなかった……」
 私は、サテライトの出身ではないけれど、トップス階級とは縁の無い暮らしをしてきた。高級ホテルなんて、足を踏み入れたこともなかったのだ。
「まあ、黙ってついてきなよ」
 そう言って、彼は私を先導するように歩きだす。受付の女性に予約の旨を伝えると、案内された席へと向かった。明らかに子供なのに、女性は疑問を持つこともなく案内してくれる。
 席には、既にナイフとフォークが用意されていた。置かれていたメニュー一覧を示すと、彼は私に声をかける。
「これが、今日のメニューだよ」
 女性が、グラスと水を運んできた。メニューを示して、こう尋ねる。
「メインディッシュは、お肉とお魚どちらにいたしますか?」
「フィッシュでお願いするよ」
「お連れ様は?」
 女性の視線が、こちらへと向かう。慌てながら、私は答えた。
「じゃあ、同じので……」
 不思議は少年は、慣れた様子で女性の説明を聞いている。一方で、私は会話に付いていくのがやっとだった。
 女性が去ったことを確認して、そっと息を付く。初めて、周りの席を見渡した。
 店内は、三分の一ほどが埋まっていた。私たち以外のお客さんは、若い女性のグループが一組と、スーツを着た男性グループが一組だ。男性グループは商談をしているらしく。端末を手に何かを話していた。
「こういうところには、よく来るの?」
 私が尋ねると、彼は優しく微笑んだ。いつものようなにやり笑いをしていないと、その表情は息を呑むほど美しい。
「たまに、ね」
 含むような言葉だった。それは、家族との外食なのだろうか、それとも、何か私の知らない要件なのだろうか。
 次の質問を考えていると、ウェイトレスの女性が前菜を運んできた。私と彼の前に置いて、メニューの説明をする。
 女性が去ると、彼は落ち着いた様子でフォークを手に取った。戸惑う私を見て、諭すように言う。
「カトラリーは、外側から使うんだよ」
「それくらいは、分かるよ」
 答えながらも、覚束ない手付きになっていることを隠せなかった。正解が分からずに、戸惑いながら食事を進める。
 彼は、そんな私を向かい側で見守っていた。時々、困っている私を見かねては、食事の作法を教えてくれる。その顔にほんのりと笑みが見えるのは、面白がっているからなのだろう。いつもの笑い声がないと、こっちも戸惑ってしまう。
 コースメニューは、ゆっくりと進んでいった。どれもこれも食べ方が分からないものばかりで、毎回驚いてしまう。少し離れた場所からは、商談をする人々の話し声が聞こえていた。
「どうだい? 初めてのホテルランチは」
 一通り食事を終えると、からかうように私を見ながら、少年は尋ねた。
「おいしかったけど、難しかった……」
 私には、そう答えることしかできなかった。庶民の私には、このような場所は不慣れだ。
「君には、もう少し場所に慣れてもらわないとね。いちいち驚いてたら、任務にならないだろ」
「任務……?」
 尋ねても、答えは返ってこなかった。席を立って、会計に向かう。
 私は慌てて後を追った。彼には、待つという考えがないのだ。置いていかれたらひとりぼっちになってしまう。
 外に出ると、彼は再び私の手を取った。心臓がどくんと音を立てる。
「君のおかげで、目的が果たせたよ」
 私の方に視線を向けると、落ち着いた声で言う。浮かべられている微笑みも、労うような態度も、いつもとあまりにも違いすぎて、落ち着かなかった。
「私は、何もしてないよ」
 そう言うと、彼はにこりと笑った。
「君は、十分に僕に貢献してくれたよ。君の態度は自然だからね」
 そう言うと、詮索を拒むように歩き出す。手を引かれて、私も付いていくことになった。
 隣を歩く少年は、とても美しくて、人間離れしている。少年のような姿をしていても、物腰や言葉から、子供ではないことが伝わってくるのだ。その不思議な姿が、私にはとても輝いて見えた。
 彼の語る目的とは、いったい何なのだろう? 私に話すつもりはないようだし、きっと、知る機会など来ないのだろう。それでも、彼と一緒にいられるのなら、理由なんてなんでもいいと思った。
 噴水広場まで戻ると、彼は小さな包みを取り出した。私に差し出すと、にこりと笑いながら言う。
「これは、プレゼントだよ。開けてみて」
 包みをほどくと、中には化粧品の箱が入っていた。表記を見たところ、口紅のようだ。私でも知っているような、有名ブランドのものである。色は、目を引くほどの赤色だ。
「君は、いつもピンクかオレンジしか付けてないだろう? たまには、違う色もいいんじゃないかと思ってさ」
 優しく微笑みながら、彼は言う。私は、少し戸惑っていた。
「でも、私には赤色なんて似合わないよ」
「これから、似合うようになればいいんだよ。赤色が似合う、強い女にさ」
 そう言って、彼はからかうような笑顔を見せた。そこに、いつもの彼の姿が見えた気がして、息を呑む。やっぱり、私はいつもの彼が好きなのだと思った。
 これは、彼からのメッセージなのだ。赤色が似合う女になれと、彼は伝えているのだろう。
「分かった。努力はしてみる」
 彼は、私に何を求めているのだろう。何も分からなかった。いつも唐突で、私は振り回されてばかりなのだ。
「じゃあ、また今度ね。バイバイ」
 一方的に告げると、彼はどこかへと去っていく。どこに帰るのかさえ、私は知らないのだ。あまりにも、知らないことだらけだった。
 私は、手の中のリップを見つめた。血のように赤い色をした、有名ブランドのリップ。その赤は彼の髪のようで、とても神々しかった。
 私は、好きな人からプレゼントをもらったのだ。そのことに気づいて、顔が赤くなる。いつか、この色が似合うようになるまで、大切に取っておこうと思った。
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