出会い
もう、死んでしまおうと思った。
平日の夕方。逢魔時。仕事を終えた私は、廃ビルの非常階段を登っていた。
理由なんてなかった。人生に疲れたとか、未来に希望が見えないとか、そんな抽象的なものでしかない。唐突に全てが嫌になって、廃ビルの階段を登り、鍵の掛かった屋上ドアを前にして引き返す。そんなことを何度か繰り返していた。日の当たる方へと進化していくこの街の中で、私の心はどんよりと曇っていた。
こつこつと音を立てて階段を登る。無人の建物に、私の足音が響き渡る。10階建てのビルを休みながら登り切ると、私は屋上へと続くドアに手をかけた。
鍵は掛かっていなかった。カチャリと音を立ててドアノブが回る。
重いドアを押し開けると、空に広がる夕焼けとずらりと並んだ背の高いビルが視界に入った。
ここが、私の最後の場所になるんだ。そう思いながら足を踏み出して、違和感に気づいた。
無人のはずの屋上に、白い布がはためいている。
それは、どうやら人影のようだった。頭部を白い布で覆い、肩の辺りで浮遊する奇妙な形のマントで全身を隠している。後ろ姿のようなのだが、布で足元まで覆われているため、シルエットは分からない。辛うじて見える足にはローラースケートのようなものを履いていた。
その人は、屋上から町の様子を見下ろしているようだった。
私は足を止めた。このまま屋上に出ていったら、先客に気づかれてしまうかもしれない。せっかく屋上に上がれたのだ。この機会を逃すのはもったいないと思った。
屋上を見渡すと、人影から離れた場所に柵が切れている箇所があるのを見つけた。
足音を立てないように近づくと、隙間から下を見下ろす。数歩先に断崖絶壁と遥か遠くの地面が見えた。足が震え、お腹の辺りがぞわぞわと疼く。慌てて柵を掴むと、少しだけ安心した。
柵に片手をおいて、そのまましばらく地上を見つめていた。ここから飛び降りれば、全てから解放される。しかし、本能的な恐怖がその行動を止めていた。
「あんた、死ぬ気なの?」
不意に、背後で子供の声がした。飛び上がるほど驚いて振り向くと、先客が私の後ろに立っていた。
頭に被った布は目元までを覆っていて、表情は分からない。マントは、浮遊する金属の輪に巻き付けられているようで、正面から見ると少年のような格好をしているのが確認できる。背丈は、私よりも少し低いくらいだろうか。人間離れした雰囲気を纏っているため、はっきりとした性別は分からなかった。
いつ、気づかれたのだろう。私がここに移動したときには、足音が聞こえる距離にはいなかったはずだ。それに、相手が歩いて来たのなら、私にも足音が聞こえたはずである。
私が混乱していると、その人は口元に笑みを浮かべた。
「死にたいなら、手伝ってあげようか?」
笑っているような、奇妙な抑揚の声だった。低い声の少女のようにも、高い声の少年のようにも聞こえる。
「止めないの?」
私は言った。恐怖と混乱によって、妙に冷静になっていた。
「止めないよ。人間一人が死んだところで、僕らには関係ないからね」
きひひ、と、独特な口調でその人は笑う。
奇妙な子供だった。平日の夕方に廃ビルの屋上にいて、奇妙な格好をしていて、妙に大人な物言いをする。この子は、人間ではないのかもしれない。
「死にたいんだろ。手伝ってあげるよ」
その子は、私の手首を掴むと、柵から引き離した。
「っ!?」
子供とは思えない力だった。私の手は簡単に柵から引き剥がされた。
「飛びなよ」
空いている方の手で背中を押される。体がぐらりと揺れ、柵の間に体が落ちる。浮遊感と共に、命の終わりを感じた。
「嫌っ!」
叫んで、自分を突き飛ばした相手の手首を掴んだ。もう片方の手で必死に柵を掴む。
「死にたくない!」
私は必死だった。本能的な恐怖が、私の全身を支配していた。
その人は、狂ったように笑いながら私の様子を見ていた。特徴的な笑い方だった。
「やっぱり、怖いんだ」
からかうように言って、空いている手を差し出す。柵を握っていた手を話すと、必死の思いで手を握りしめる。
次の瞬間には、強い力で屋上へと引き上げられた。コンクリートの上に座り込む。心臓がどくどくと音を立てていた。
「これに懲りたら、もう死のうとは思わないことだね」
きひゃひゃと奇妙に笑いながら、その人は私を見下ろす。風が吹いて、顔を隠していた布がふわりと浮き上がった。
綺麗な人だった。布の下の瞳はペリドットのような淡緑で、透き通るように美しく、冷たい光を湛えている。左目は変わった形の仮面に覆われている。前髪はサイドに分けられ、額が剥き出しになっていて、後ろに流れる長い髪は、燃えるような赤だった。
死の恐怖さえ忘れて見惚れてしまうほどに、その人は美しかった。
どくんどくんと、胸の鼓動が高鳴る。それが恐怖によるものなのか、目の前の人物への感情によるものなのかさえも分からなくなっていた。
「その様子だと、もう自殺なんてできないだろうけど」
呆然とする私を横目に、その人は柵の前に歩み出た。くるりとこちらを振り向く。
「じゃあ、バイバイ」
子供のように笑うと、そのまま軽々と柵を飛び越えて宙に消えた。
「え……?」
慌てて柵の向こうを見るが、人影はどこにも無い。本当に消えてしまったようだった。
平日の夕方。逢魔時。
私は、人ではない何者かに恋をした。
平日の夕方。逢魔時。仕事を終えた私は、廃ビルの非常階段を登っていた。
理由なんてなかった。人生に疲れたとか、未来に希望が見えないとか、そんな抽象的なものでしかない。唐突に全てが嫌になって、廃ビルの階段を登り、鍵の掛かった屋上ドアを前にして引き返す。そんなことを何度か繰り返していた。日の当たる方へと進化していくこの街の中で、私の心はどんよりと曇っていた。
こつこつと音を立てて階段を登る。無人の建物に、私の足音が響き渡る。10階建てのビルを休みながら登り切ると、私は屋上へと続くドアに手をかけた。
鍵は掛かっていなかった。カチャリと音を立ててドアノブが回る。
重いドアを押し開けると、空に広がる夕焼けとずらりと並んだ背の高いビルが視界に入った。
ここが、私の最後の場所になるんだ。そう思いながら足を踏み出して、違和感に気づいた。
無人のはずの屋上に、白い布がはためいている。
それは、どうやら人影のようだった。頭部を白い布で覆い、肩の辺りで浮遊する奇妙な形のマントで全身を隠している。後ろ姿のようなのだが、布で足元まで覆われているため、シルエットは分からない。辛うじて見える足にはローラースケートのようなものを履いていた。
その人は、屋上から町の様子を見下ろしているようだった。
私は足を止めた。このまま屋上に出ていったら、先客に気づかれてしまうかもしれない。せっかく屋上に上がれたのだ。この機会を逃すのはもったいないと思った。
屋上を見渡すと、人影から離れた場所に柵が切れている箇所があるのを見つけた。
足音を立てないように近づくと、隙間から下を見下ろす。数歩先に断崖絶壁と遥か遠くの地面が見えた。足が震え、お腹の辺りがぞわぞわと疼く。慌てて柵を掴むと、少しだけ安心した。
柵に片手をおいて、そのまましばらく地上を見つめていた。ここから飛び降りれば、全てから解放される。しかし、本能的な恐怖がその行動を止めていた。
「あんた、死ぬ気なの?」
不意に、背後で子供の声がした。飛び上がるほど驚いて振り向くと、先客が私の後ろに立っていた。
頭に被った布は目元までを覆っていて、表情は分からない。マントは、浮遊する金属の輪に巻き付けられているようで、正面から見ると少年のような格好をしているのが確認できる。背丈は、私よりも少し低いくらいだろうか。人間離れした雰囲気を纏っているため、はっきりとした性別は分からなかった。
いつ、気づかれたのだろう。私がここに移動したときには、足音が聞こえる距離にはいなかったはずだ。それに、相手が歩いて来たのなら、私にも足音が聞こえたはずである。
私が混乱していると、その人は口元に笑みを浮かべた。
「死にたいなら、手伝ってあげようか?」
笑っているような、奇妙な抑揚の声だった。低い声の少女のようにも、高い声の少年のようにも聞こえる。
「止めないの?」
私は言った。恐怖と混乱によって、妙に冷静になっていた。
「止めないよ。人間一人が死んだところで、僕らには関係ないからね」
きひひ、と、独特な口調でその人は笑う。
奇妙な子供だった。平日の夕方に廃ビルの屋上にいて、奇妙な格好をしていて、妙に大人な物言いをする。この子は、人間ではないのかもしれない。
「死にたいんだろ。手伝ってあげるよ」
その子は、私の手首を掴むと、柵から引き離した。
「っ!?」
子供とは思えない力だった。私の手は簡単に柵から引き剥がされた。
「飛びなよ」
空いている方の手で背中を押される。体がぐらりと揺れ、柵の間に体が落ちる。浮遊感と共に、命の終わりを感じた。
「嫌っ!」
叫んで、自分を突き飛ばした相手の手首を掴んだ。もう片方の手で必死に柵を掴む。
「死にたくない!」
私は必死だった。本能的な恐怖が、私の全身を支配していた。
その人は、狂ったように笑いながら私の様子を見ていた。特徴的な笑い方だった。
「やっぱり、怖いんだ」
からかうように言って、空いている手を差し出す。柵を握っていた手を話すと、必死の思いで手を握りしめる。
次の瞬間には、強い力で屋上へと引き上げられた。コンクリートの上に座り込む。心臓がどくどくと音を立てていた。
「これに懲りたら、もう死のうとは思わないことだね」
きひゃひゃと奇妙に笑いながら、その人は私を見下ろす。風が吹いて、顔を隠していた布がふわりと浮き上がった。
綺麗な人だった。布の下の瞳はペリドットのような淡緑で、透き通るように美しく、冷たい光を湛えている。左目は変わった形の仮面に覆われている。前髪はサイドに分けられ、額が剥き出しになっていて、後ろに流れる長い髪は、燃えるような赤だった。
死の恐怖さえ忘れて見惚れてしまうほどに、その人は美しかった。
どくんどくんと、胸の鼓動が高鳴る。それが恐怖によるものなのか、目の前の人物への感情によるものなのかさえも分からなくなっていた。
「その様子だと、もう自殺なんてできないだろうけど」
呆然とする私を横目に、その人は柵の前に歩み出た。くるりとこちらを振り向く。
「じゃあ、バイバイ」
子供のように笑うと、そのまま軽々と柵を飛び越えて宙に消えた。
「え……?」
慌てて柵の向こうを見るが、人影はどこにも無い。本当に消えてしまったようだった。
平日の夕方。逢魔時。
私は、人ではない何者かに恋をした。