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メイク

 その男の子は、いつも突然現れる。時空のトンネルを潜り抜けるようにして、玄関も開けずに部屋の中に入ってくるのだ。最初は驚いていた私も、何度も訪問されるうちに慣れてしまった。時空の歪みを肌で感じつつも、振り向かずに前に視線を固定する。
「何してるんだよ」
 真上から声が降ってきて、私はようやく視線を上げた。今の私は、ベッドの上に横になって、テレビに視線を向けている。帰ってきてすぐにシャワーを浴びて、服は部屋着に着替えていたのだ。ご飯も歯みがきも全て済ませて、後は眠るだけだった。
「疲れたから、横になってたの」
 私が答えると、彼は呆れたように鼻を鳴らした。大きな瞳で私を捉えると、ソファの背もたれに肘を付く。
「だらしないなぁ。君も僕の協力者になるなら、もっと丁寧な暮らしをしろよ」
 勝手な言い分だった。勝手に私の部屋を使っているだけなのに、無理難題や小言ばかり押し付けてくるのだから。
「協力者って、勝手に拠点にしてるだけでしょ。私は何もしてないよ」
 私が口を尖らせると、彼は甲高い声で笑う。視界の端に嬉しそうな横顔が映って、心臓がどくんと音を立てる。私は、彼を喜ばせることなんて言っただろうか。
「隠密に行動するには、拠点が必要なんだよ。その点で、君の家は役に立ってるんだぜ。庶民の家だから監視の目も届かないし、君は絶対に口を割らないからな」
「だって、喋ったら殺されちゃうんでしょ。そんなこと言われたら、誰にも喋れないよ」
「変なやつだな。初めて会ったときはあんなに死にたがってたのにさ」
 ケラケラと笑う声を聞いて、また心臓が音を立てる。相変わらず、意地悪なことを言う男の子だ。私がどんな気持ちでいるのかなんて、当の昔に知っているはずなのに。
 私が彼の訪問を許しているのは、彼に対して特別な感情があるからだ。あの日、目の前に現れた天使の姿は、私から死への執着を消し去ってくれた。私にとって彼は死への恐怖であると同時に、死からこの身を救ってくれた恩人なのだ。そうでもなかったら、ここまで好き勝手させたりしない。
「そうだ。今日は、君にお土産を持ってきたんだぜ。受け取りな」
 不意にそう言うと、彼は懐から何かを取り出した。手のひらに乗るくらいの大きさの箱が、ころころと私の上に落ちてくる。上手く受け取れなくて、それは顔の上にぶつかった。
 ゆっくりと身体を起こすと、転がった箱を拾い上げる。白をベースにしていて、蓋の部分には筆記体のアルファベットが書かれていた。
「なに……?」
 疑問符を浮かべながら、静かに箱の蓋を開ける。私は英語が苦手だから、筆記体の文字が読めないのだ。ブランドものであることは分かるが、何が入っているのかは見当もつかなかった。
 中に入っていたものを見て、私は言葉を失った。それは、目の前の少年からは想像もできないアイテムだったのだ。真っ白な箱の中の、柔らかいクッションの真ん中には、見るからに高そうな化粧品が置かれていたのである。形からして、ファンデーションか何かだろう。
「え……?」
 小さな声で呟いてから、私は目の前の少年を見つめる。彼はにやりと口角を上げると、楽しそうな声で笑った。
「気に入ったかい? これは、僕から君へのプレゼントだよ。確か、デパートに入ってるブランドの化粧品だ」
「それは、見れば分かるけど……。どうしたの?」
 彼が私の元に持ってくるのは、彼にとって要らないものばかりである。どのような繋がりがあるのかは知らないが、彼はよく人間からものをもらうのだという。こうして行き場がなくなったものを、私のところに持ってくるのだ。
 彼は、私の質問には答えなかった。いたずらっぽい笑みを浮かべたまま、思いのままに言葉を続ける。
「君は、いつも安い化粧品ばかり使ってるだろ。そんなんだと、僕の協力者としてはみすぼらしいからね。高級品を送ってやろうと思ったのさ」
 余計なお世話だったが、私には返す言葉がなかった。彼の言うことは一理ある。社会人になって数年の時が経つが、私は高級ブランドのコスメというものをひとつも持っていないのだ。普段のメイクだって、千円前後のアイテムで適当にこなしていた。
 とは言え、大人しく受け取るわけにはいかない。これはデパートの高級コスメで、一個で何千円もする恐ろしいアイテムなのだ。私が持っていていいものではない。
「だからって、これは受け取れないよ。私がデパートのコスメを持ってても、上手く使いこなせないから」
 箱に入ったまま押し返すと、彼は大人しく箱を受け取った。妙に聞き分けのいい態度を不審に思っていると、とんでもないことを言い出す。
「いらないのか。じゃあ、これはごみにするしかないな」
「えっ?」
 これには、私も動きを止めてしまった。ぽかんと口を開けたまま、目の前の男の子を見つめる。彼は、からかうような意地悪な瞳で私を見ていた。
「だって、そうだろ。君がいらないって言うなら、誰も使う人がいないじゃないか。そうなったら、捨てるしか選択肢はないさ」
 そんなことを言われたら、いらないなんて言えない。何度も言うが、彼が持っているのは高級ブランドのコスメなのだ。そんな気軽に捨てていいものではない。もう、選択肢などなかった。
「捨てるくらいなら、私がもらうよ。……上手く使えるか分からないけど」
 後半になるにつれて、声が小さくなってしまう。なんせ、私はプチプラコスメしか使ったことがなければ、化粧のなんたるかも知らない素人なのだ。使いこなせるとは思えない。
「ひひっ。その化粧品が似合うくらいの女にならないと、僕の協力者としては認めてやらないぜ。精々努力するんだな」
 からかうような笑みを浮かべながら、目の前の男の子は言う。なんだか、手玉に取られているみたいで、少しだけ悔しくなった。
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