ぶどうジャム
ぶどうのジャムがこんなに珍しいものだなんて、少し前までの私は少しも知らなかった。ジャムの定番はほとんどがイチゴやママレードやブルーベリーで、紫色の中身を見つけたと思っても、ブルーベリーのラベルが貼られているものばかりだったのだ。近所のスーパーのジャム売場は全て空振りで、ブルーベリーの紫しか見つけられなかった。少し離れたショッピングモールの、外国の食品やブランドものを売るような専門店を調べて、ようやく見つけることができたのだ。
ずしりと重い瓶を鞄に入れると、私はもと来た道を辿った。初めて来る場所だから、マップを確認してから出口を探す。入った時と同じ場所から出ていかないと、駅までの道が分からないのだ。端末とにらめっこしながら歩き回り、なんとか辿り着くことができた。
私がこんなことをする日が来るなんて、半年前は考えもしなかった。あの頃の私は、緩やかに死を待つだけの生きた死体だったのだ。仕事に出かけて、家に帰って、何も無い時は漠然と時間を消費する。そんなゾンビのようだった私が、自分の意志で何かを成し遂げようとしている。
家に帰ると、真っ先にキッチンへ向かった。買い物袋の口を開けて、中のものを取り出していく。薄力粉、バター、ペーキングパウダー、チョコチップ、紅茶のパウダーにドライフルーツ、海外製のクロテッドクリームは、溶けないように冷蔵庫にしまった。
食器棚からボウルを取り出すと、粉系の材料を入れて混ぜていく。ある程度混ざったら、次に入れるのはバターだ。塊を解しながら混ぜ、全体に馴染ませる。最後に牛乳を入れながら混ぜたら、生地をこねてから寝かせる。待っている間に、使った食器の片付けをした。
お菓子を作ろうと思ったのは、単なる思いつきだった。職場の女の子がたまに作っていたから、私にもできるんじゃないかと思ったのだ。スコーンなら材料も集めやすいし、手順もそこまで複雑ではない。何よりも、ジャムによく合うのだ。作ってみるにはいい機会だと思った。
時間になったのを確認してから、寝かしていた生地を取り出す。型抜きをして整形すると、予熱してあったオーブンに入れた。指定された時間に合わせると、焼き上がるのを待つ。
時間が経つにつれて、ほんのりといい匂いが漂ってきた。小麦粉とバターの香ばしい匂いだ。オーブンが音を立てると、焼きたてを手に取った。
見た目は、けっこういい感じだ。こんがりと焼け目がついていて、中はふわふわとしていた。半分に割ると、綺麗な生地が見えている。しかし、ひとつだけ気になることがあった。
私の作ったスコーンは、あまり綺麗に膨らんでいないのだ。レシピ通りに作っているのに、写真の半分くらいの高さしかない。これでは綺麗なスコーンとは言ってもらえないだろう。
手に取ったスコーンに、ジャムを塗って口に放り込む。レシピ通りに作ったから、味はちゃんとしていた。焼きたてだから生地はふわふわしているし、ついつい次に手が伸びてしまう。気がついたら、半分を食べてしまっていた。
レシピを見ながら、膨らまない時のアドバイスを確認する。彼はいつ現れるか分からないから、早めに練習をしなくてはならない。しばらくはスコーンが主食になりそうだった。
残りにラップをかけながら、私は胸を高鳴らせる。膨らんだスコーンを作れたら、彼は食べてくれるだろうか。こんなに何かに熱中したのは数年ぶりだ。この前まで死にたかったことが嘘のように、楽しくて仕方なかった。
彼が現れたのは、それから二週間後のことだった。神出鬼没な男の子だが、今回は間隔が長かった。おかげで、スコーンはかなり上達している。毎日作っていたから、冷凍庫は余りでパンパンだ。
「久しぶりだね。もう来ないのかと思った」
軽口を叩くと、彼はにやりと笑った。チラリと視線を向けると、軽い口調で答える。
「任務が忙しかったんだよ。そんなに怨み言ばっか言うなら、来るのをやめてもいいんだぜ」
「……いじわる」
私たちの距離も、かなり縮まった気がする。光源氏の訪れを待つ女君は、こんな気持ちなのだろうか。私は現代人だけど、大昔の姫君に思いを馳せてしまう。
少し雑談をしてから、口から出ていた言葉を止める。今日は、そんなことをしている場合ではないのだ。積み重ねた練習の成果を、彼に見てもらいたかった。
「ルチアーノくんに、食べてもらいたいものがあるの」
私が言うと、彼は興味深そうに振り返った。ソファから身を乗り出すと、甲高い声で返す。
「なんだ? 貢ぎ物か? 君も飽きないな」
「今日渡すものは、市販品じゃないんだよ。今から作るから、待ってて」
言葉を告げてから、私はキッチンの方に向かう。練習はしたけれど、緊張が溢れて仕方なかった。好きな人に手作りの食べ物を渡すのは、こんなにも緊張するのだ。なんだかバレンタインみたいに感じて、さらに緊張してしまった。
冷蔵庫から材料を取り出すと、ボウルの中で混ぜ合わせる。練習した通りに生地を作ると、冷蔵庫に入れて寝かせる。
「あとは、生地を寝かせてから焼くだけだよ」
ソファに向かって声をかけながら、洗い物を片付けていく。ボウルやヘラを洗い終わると、冷蔵庫から盛りつけ用のフルーツを取り出した。フルーツと言っても、生のカットフルーツではなく、パウチのフルーツミックスだ。ぶどうは常備しているから、パウチのものと一緒に添えることにする。
「けっこう本格的にやってるんだな。急に家庭的アピールをするなんて、どういう風の吹き回しだよ」
私の手元を覗き込むと、彼はにやにやと笑いながら言った。相変わらず皮肉混じりの発言だけど、悪意が無いことは語調から伝わってくる。
「別に、そういうつもりじゃないよ。前から作ってみたかったから」
「まあ、理由なんてどうでもいいけどね。君が何を企んでいようが、僕には関係ないんだから」
「企むって、そんな……」
話をしているうちに、生地の発酵時間が過ぎていた。オーブンを予熱して、整形した生地を並べていく。タイマーをセットすると、焼き上がるのを待った。
小麦粉とバターの香ばしい香りが、部屋の中に漂い始める。これには彼も興味を持ったみたいで、興味を深げに鼻を引くつかせていた。しばらくすると、オーブンが軽快な音を立てる。焼きたてほやほやのスコーンを、冷めないうちにお皿に乗せた。
「できたよ」
机の上に乗せると、彼は机の前まで歩み寄ってきた。綺麗に膨らんだスコーンを見て、感心したように息を吐く。すぐにいつもの表情に戻ると、淡々とした声で言った。
「ふーん。けっこうやるじゃないか」
「練習したからね。味にも自信があるよ」
答えながらも、冷蔵庫からジャムとクリームを取り出す。本当のメインは、しまいこんでいたぶどうのジャムなのだ。瓶の蓋を開け、スプーンで掬ってお皿に乗せる。艶やかな紫色は、鮮やかにスコーンを彩った。
「これは、ぶどう味のジャムなんだよ。珍しいでしょ」
一方的に喋りながら、もうひとつのお皿にもジャムを乗せる。勝手な判断だったけど、文句は言われなかった。真っ直ぐにスコーンに手を伸ばし、手で割ってから口に入れる。
「まあ、素人が作ったにしてはマシな方かもな。少なくとも、食えないようなものじゃないぜ」
口の中のものを飲み込んでから、彼は言葉を発する。仕草は乱暴なのに、こういうところは上品なのだ。彼の高貴な仕草を見せつけられる度に、私は心臓がどくどくしてしまう。
「練習したんだから、それくらいはできてないと困るかな」
答えながら、私もスコーンに手を伸ばした。一口サイズに割ると、ジャムを塗ってから口に入れる。スコーンの控えめな甘さと、ジャムのとろけるような甘さは、いつだって愛称抜群だ。ジャムを塗ったりクリームを塗ったりしながら、あっという間に平らげてしまった。
厳しいことを言いながらも、彼もスコーンを完食してくれていた。添えてあったフルーツも、取りこぼしなく食べてくれている。普段の態度が態度なだけに、純粋に嬉しかった。
「出されたものを残すのは、失礼に値するだろう。僕は礼節を重んじるからね。きちんと食べてやったのさ」
彼はそんなことを言うけれど、本当に食べられないものは平気で残すことを、私はこれまでの経験で知っている。つまり、私の作ったスコーンは、彼のお眼鏡に敵うものだったと言うことだ。ひとつ壁を越えたことが、なんだか嬉しかった。
プレゼントのつもりで買ってはいたものの、彼はぶどうのジャムを持ち帰らなかった。ぶどうそのものは好きだけど、加工品はそこまで好きではないのだろう。特に、ジャムは糖度が高いものだから、あまり気に入らなかったようだ。
「このジャムは僕一人で食べるには甘すぎるからね。君も好きに食べるといいよ」
最後に言い残した言葉が、私の脳裏に蘇る。ジャムの瓶は、冷蔵庫の一番目立つところに置いてあった。これからは、冷蔵庫の扉を開く度に、ジャムの瓶が目に入るのだ。好きな人を間近に感じられることが、何よりも嬉しかった。
私は、今を楽しんでいる。半年前に死を求めていたことが嘘のように、日々を楽しんで生きている。過去の私が今の私を見たら、驚いて口が塞がらなくなるだろう。
私が彼と出会ったことには、巡り合わせの奇跡なのだ。そんなことはあり得ないのに、そうだと信じたくなってしまった。
ずしりと重い瓶を鞄に入れると、私はもと来た道を辿った。初めて来る場所だから、マップを確認してから出口を探す。入った時と同じ場所から出ていかないと、駅までの道が分からないのだ。端末とにらめっこしながら歩き回り、なんとか辿り着くことができた。
私がこんなことをする日が来るなんて、半年前は考えもしなかった。あの頃の私は、緩やかに死を待つだけの生きた死体だったのだ。仕事に出かけて、家に帰って、何も無い時は漠然と時間を消費する。そんなゾンビのようだった私が、自分の意志で何かを成し遂げようとしている。
家に帰ると、真っ先にキッチンへ向かった。買い物袋の口を開けて、中のものを取り出していく。薄力粉、バター、ペーキングパウダー、チョコチップ、紅茶のパウダーにドライフルーツ、海外製のクロテッドクリームは、溶けないように冷蔵庫にしまった。
食器棚からボウルを取り出すと、粉系の材料を入れて混ぜていく。ある程度混ざったら、次に入れるのはバターだ。塊を解しながら混ぜ、全体に馴染ませる。最後に牛乳を入れながら混ぜたら、生地をこねてから寝かせる。待っている間に、使った食器の片付けをした。
お菓子を作ろうと思ったのは、単なる思いつきだった。職場の女の子がたまに作っていたから、私にもできるんじゃないかと思ったのだ。スコーンなら材料も集めやすいし、手順もそこまで複雑ではない。何よりも、ジャムによく合うのだ。作ってみるにはいい機会だと思った。
時間になったのを確認してから、寝かしていた生地を取り出す。型抜きをして整形すると、予熱してあったオーブンに入れた。指定された時間に合わせると、焼き上がるのを待つ。
時間が経つにつれて、ほんのりといい匂いが漂ってきた。小麦粉とバターの香ばしい匂いだ。オーブンが音を立てると、焼きたてを手に取った。
見た目は、けっこういい感じだ。こんがりと焼け目がついていて、中はふわふわとしていた。半分に割ると、綺麗な生地が見えている。しかし、ひとつだけ気になることがあった。
私の作ったスコーンは、あまり綺麗に膨らんでいないのだ。レシピ通りに作っているのに、写真の半分くらいの高さしかない。これでは綺麗なスコーンとは言ってもらえないだろう。
手に取ったスコーンに、ジャムを塗って口に放り込む。レシピ通りに作ったから、味はちゃんとしていた。焼きたてだから生地はふわふわしているし、ついつい次に手が伸びてしまう。気がついたら、半分を食べてしまっていた。
レシピを見ながら、膨らまない時のアドバイスを確認する。彼はいつ現れるか分からないから、早めに練習をしなくてはならない。しばらくはスコーンが主食になりそうだった。
残りにラップをかけながら、私は胸を高鳴らせる。膨らんだスコーンを作れたら、彼は食べてくれるだろうか。こんなに何かに熱中したのは数年ぶりだ。この前まで死にたかったことが嘘のように、楽しくて仕方なかった。
彼が現れたのは、それから二週間後のことだった。神出鬼没な男の子だが、今回は間隔が長かった。おかげで、スコーンはかなり上達している。毎日作っていたから、冷凍庫は余りでパンパンだ。
「久しぶりだね。もう来ないのかと思った」
軽口を叩くと、彼はにやりと笑った。チラリと視線を向けると、軽い口調で答える。
「任務が忙しかったんだよ。そんなに怨み言ばっか言うなら、来るのをやめてもいいんだぜ」
「……いじわる」
私たちの距離も、かなり縮まった気がする。光源氏の訪れを待つ女君は、こんな気持ちなのだろうか。私は現代人だけど、大昔の姫君に思いを馳せてしまう。
少し雑談をしてから、口から出ていた言葉を止める。今日は、そんなことをしている場合ではないのだ。積み重ねた練習の成果を、彼に見てもらいたかった。
「ルチアーノくんに、食べてもらいたいものがあるの」
私が言うと、彼は興味深そうに振り返った。ソファから身を乗り出すと、甲高い声で返す。
「なんだ? 貢ぎ物か? 君も飽きないな」
「今日渡すものは、市販品じゃないんだよ。今から作るから、待ってて」
言葉を告げてから、私はキッチンの方に向かう。練習はしたけれど、緊張が溢れて仕方なかった。好きな人に手作りの食べ物を渡すのは、こんなにも緊張するのだ。なんだかバレンタインみたいに感じて、さらに緊張してしまった。
冷蔵庫から材料を取り出すと、ボウルの中で混ぜ合わせる。練習した通りに生地を作ると、冷蔵庫に入れて寝かせる。
「あとは、生地を寝かせてから焼くだけだよ」
ソファに向かって声をかけながら、洗い物を片付けていく。ボウルやヘラを洗い終わると、冷蔵庫から盛りつけ用のフルーツを取り出した。フルーツと言っても、生のカットフルーツではなく、パウチのフルーツミックスだ。ぶどうは常備しているから、パウチのものと一緒に添えることにする。
「けっこう本格的にやってるんだな。急に家庭的アピールをするなんて、どういう風の吹き回しだよ」
私の手元を覗き込むと、彼はにやにやと笑いながら言った。相変わらず皮肉混じりの発言だけど、悪意が無いことは語調から伝わってくる。
「別に、そういうつもりじゃないよ。前から作ってみたかったから」
「まあ、理由なんてどうでもいいけどね。君が何を企んでいようが、僕には関係ないんだから」
「企むって、そんな……」
話をしているうちに、生地の発酵時間が過ぎていた。オーブンを予熱して、整形した生地を並べていく。タイマーをセットすると、焼き上がるのを待った。
小麦粉とバターの香ばしい香りが、部屋の中に漂い始める。これには彼も興味を持ったみたいで、興味を深げに鼻を引くつかせていた。しばらくすると、オーブンが軽快な音を立てる。焼きたてほやほやのスコーンを、冷めないうちにお皿に乗せた。
「できたよ」
机の上に乗せると、彼は机の前まで歩み寄ってきた。綺麗に膨らんだスコーンを見て、感心したように息を吐く。すぐにいつもの表情に戻ると、淡々とした声で言った。
「ふーん。けっこうやるじゃないか」
「練習したからね。味にも自信があるよ」
答えながらも、冷蔵庫からジャムとクリームを取り出す。本当のメインは、しまいこんでいたぶどうのジャムなのだ。瓶の蓋を開け、スプーンで掬ってお皿に乗せる。艶やかな紫色は、鮮やかにスコーンを彩った。
「これは、ぶどう味のジャムなんだよ。珍しいでしょ」
一方的に喋りながら、もうひとつのお皿にもジャムを乗せる。勝手な判断だったけど、文句は言われなかった。真っ直ぐにスコーンに手を伸ばし、手で割ってから口に入れる。
「まあ、素人が作ったにしてはマシな方かもな。少なくとも、食えないようなものじゃないぜ」
口の中のものを飲み込んでから、彼は言葉を発する。仕草は乱暴なのに、こういうところは上品なのだ。彼の高貴な仕草を見せつけられる度に、私は心臓がどくどくしてしまう。
「練習したんだから、それくらいはできてないと困るかな」
答えながら、私もスコーンに手を伸ばした。一口サイズに割ると、ジャムを塗ってから口に入れる。スコーンの控えめな甘さと、ジャムのとろけるような甘さは、いつだって愛称抜群だ。ジャムを塗ったりクリームを塗ったりしながら、あっという間に平らげてしまった。
厳しいことを言いながらも、彼もスコーンを完食してくれていた。添えてあったフルーツも、取りこぼしなく食べてくれている。普段の態度が態度なだけに、純粋に嬉しかった。
「出されたものを残すのは、失礼に値するだろう。僕は礼節を重んじるからね。きちんと食べてやったのさ」
彼はそんなことを言うけれど、本当に食べられないものは平気で残すことを、私はこれまでの経験で知っている。つまり、私の作ったスコーンは、彼のお眼鏡に敵うものだったと言うことだ。ひとつ壁を越えたことが、なんだか嬉しかった。
プレゼントのつもりで買ってはいたものの、彼はぶどうのジャムを持ち帰らなかった。ぶどうそのものは好きだけど、加工品はそこまで好きではないのだろう。特に、ジャムは糖度が高いものだから、あまり気に入らなかったようだ。
「このジャムは僕一人で食べるには甘すぎるからね。君も好きに食べるといいよ」
最後に言い残した言葉が、私の脳裏に蘇る。ジャムの瓶は、冷蔵庫の一番目立つところに置いてあった。これからは、冷蔵庫の扉を開く度に、ジャムの瓶が目に入るのだ。好きな人を間近に感じられることが、何よりも嬉しかった。
私は、今を楽しんでいる。半年前に死を求めていたことが嘘のように、日々を楽しんで生きている。過去の私が今の私を見たら、驚いて口が塞がらなくなるだろう。
私が彼と出会ったことには、巡り合わせの奇跡なのだ。そんなことはあり得ないのに、そうだと信じたくなってしまった。