Another ending
彼が部屋を出てから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。何もせずに1人で過ごしていると、時間感覚が曖昧になる。
どうしてこうなったのだろう。不意に、そんなことを考える。私は間違えてしまったのだろうか。あの日、屋上で彼に出会ったことも、深い仲になるまで想いを伝え続けたことも。
気がついたら、逃げ出すことができない状況に追い込まれていた。
男の人に監禁されるなんて、空想の中だけのことだと思っていた。そもそも、彼自身が空想の存在のようなものなのだけれど。いつも楽しそうに笑って私をからかっていた彼がこんなことをするなんて、想像もできなかった。
好きな人が狂ってしまった。そんな状況でも、私は彼に必要とされていることが嬉しかった。部屋に閉じ込めるほど私を失うことを恐れているという事実がただただ嬉しかった。私は狂っているのだろう。狂ってしまった彼と釣り合うくらいには。
これは、きっと間違っているのだろう。どこかで、離れなければ行けなかった。でも、こうなると分かっていたとして、私は逃げ出すことができたのだろうか。
ベッドの隅に腰をかけて、同じことをぐるぐると考える。答えなんて出ない。
まとまらない思考をこねくり回していると、部屋の入口で空間が歪む気配がした。ぱっくりと時空が開き、光の粒子を纏った白い布地が姿を現す。布は粒子となって宙に消え、中の人影だけが地面に着地した。
「来てくれたんだね」
声をかけると、少年はにやりと笑った。
「最後だからね」
私の隣に腰を下ろす。赤い髪がさらさらと揺れ、トリートメントの華やかな香りが広がった。私が、彼の髪を洗う時に使っていたものだった。
「いつもの、やってよ」
そう言ってブラシを投げ渡す。受け取ると、艶やかな赤毛に手を伸ばした。
彼の髪が好きだった。血のような赤色も、柔らかくて滑らかな髪質も、緩やかにウェーブするところも。美しい髪を自分の手で綺麗に整えることが何よりも好きだった。
髪を覆うカバーを外すと、髪の束を手にとってブラシを通す。いつも無造作に扱われているはずなのに、少しも引っ掛かることがない。
「アポリアも、こうやって髪を梳かしてもらってたんだ。……綺麗だって、よく褒められてた」
私が何も言えずにいると、彼が俯いたまま口を開いた。
「あんたが関係を持った相手は、生き物じゃないんだよ。目的のために行動する、死者の記憶を元にした人間の模造品。僕たちは道具でしかないんだ」
きひゃひゃと、狂ったような声で笑う。
私は何も言えなかった。私は、彼のことを何も知らない。人ではないということ。時代を渡って歴史を正しく導く者だということ。恐らくは、滅び行く世界の中で死んだ少年を元に作られた存在であること。私が知っているのはそれくらいだ。
死者の人格を再現したアンドロイドを作って、その事実を知らないまま形成したアイデンティティは、果たして元の人間と同じなのか。そんな哲学的な問題を提示しているわけではないだろう。私はアポリアという存在を知らない。彼がどのくらいオリジナルに似ているのかも、私には分からないのだった。
彼はずっと、自分を人を導く人間より上位の存在として認識していた。それが、死者の模造品という形に変化したのだ。その事実がどれほどの衝撃だったかは、私には想像もできない。
それでも、ひとつだけ確信できることがあった。
「私にとっては、あなたが何者かなんて関係ない」
私は言った。自分でも分かるくらいに、声が震えていた。
「私は、あなたが何者かを知らない。どこから来て、なんのためにこの世界を滅ぼすのかも、何も知らない。それでも、私はあなたという存在が好きだったの」
想いを伝えようと、必死に言葉を紡ぐ。どこまで届いているのかは分からなかった。
「私にとって、ルチアーノくんはルチアーノくんでしかないんだよ。他の誰でもない、あなたなの」
私の答えを聞いて、彼はきひひと笑った。そこに病んだような響きはなくなっていた。
「君って、本当に物好きだよな」
私はブラシを置くと、後ろから彼を抱き締めた。抵抗はされなかった。そのまま腰に手を回し、背中に耳を押し当てる。
心音は無い。聞こえるのは、機械の動く低い音だけだ。人工の命が生きる音。
アンドロイドに魂はあるのか。そう尋ねられたら、私はあると答えるだろう。目の前にいる男の子はこんなにも『生きて』いるのだから。
彼は、アンドロイドとして自分の使命を全うしようとしている。それなら、私は彼と心中したい。私にとっては、彼の存在が世界の全てだから。
どのくらい、そうしていただろうか。長い時間が経った気がするし、一瞬のことだったようにも感じる。
「気は済んだかい?」
彼に促されて、私はしぶしぶ手を離した。別れの時が近づいていることがひしひしと感じられた。
彼は慣れた手つきで髪を纏めると、立ち上がって私の方を振り返った。光の粒子が、羽を覆う白い布を形成する。
「ここからでもテレビは映るから、見るといいよ。ネオドミノシティが滅ぶ様子を」
「うん。見てるね」
彼は、ここに帰って来るのだろうか。私はデュエリストには詳しくないが、対戦相手の噂については聞いたことがある。
「約束、忘れるなよ」
囁くと、彼は私に顔を近づけた。綺麗な顔が近づいて、唇と唇が触れ合う。
「え……?」
呆然とする私を見て、彼は心底楽しそうに笑った。
「じゃあ、バイバイ」
布を揺らして、彼は時空の穴の中へと消えた。
そうして、不思議な少年は、初めて会った時と同じように、私を翻弄して去っていった。
唇の感触だけが、いつまでも残っていた。
どうしてこうなったのだろう。不意に、そんなことを考える。私は間違えてしまったのだろうか。あの日、屋上で彼に出会ったことも、深い仲になるまで想いを伝え続けたことも。
気がついたら、逃げ出すことができない状況に追い込まれていた。
男の人に監禁されるなんて、空想の中だけのことだと思っていた。そもそも、彼自身が空想の存在のようなものなのだけれど。いつも楽しそうに笑って私をからかっていた彼がこんなことをするなんて、想像もできなかった。
好きな人が狂ってしまった。そんな状況でも、私は彼に必要とされていることが嬉しかった。部屋に閉じ込めるほど私を失うことを恐れているという事実がただただ嬉しかった。私は狂っているのだろう。狂ってしまった彼と釣り合うくらいには。
これは、きっと間違っているのだろう。どこかで、離れなければ行けなかった。でも、こうなると分かっていたとして、私は逃げ出すことができたのだろうか。
ベッドの隅に腰をかけて、同じことをぐるぐると考える。答えなんて出ない。
まとまらない思考をこねくり回していると、部屋の入口で空間が歪む気配がした。ぱっくりと時空が開き、光の粒子を纏った白い布地が姿を現す。布は粒子となって宙に消え、中の人影だけが地面に着地した。
「来てくれたんだね」
声をかけると、少年はにやりと笑った。
「最後だからね」
私の隣に腰を下ろす。赤い髪がさらさらと揺れ、トリートメントの華やかな香りが広がった。私が、彼の髪を洗う時に使っていたものだった。
「いつもの、やってよ」
そう言ってブラシを投げ渡す。受け取ると、艶やかな赤毛に手を伸ばした。
彼の髪が好きだった。血のような赤色も、柔らかくて滑らかな髪質も、緩やかにウェーブするところも。美しい髪を自分の手で綺麗に整えることが何よりも好きだった。
髪を覆うカバーを外すと、髪の束を手にとってブラシを通す。いつも無造作に扱われているはずなのに、少しも引っ掛かることがない。
「アポリアも、こうやって髪を梳かしてもらってたんだ。……綺麗だって、よく褒められてた」
私が何も言えずにいると、彼が俯いたまま口を開いた。
「あんたが関係を持った相手は、生き物じゃないんだよ。目的のために行動する、死者の記憶を元にした人間の模造品。僕たちは道具でしかないんだ」
きひゃひゃと、狂ったような声で笑う。
私は何も言えなかった。私は、彼のことを何も知らない。人ではないということ。時代を渡って歴史を正しく導く者だということ。恐らくは、滅び行く世界の中で死んだ少年を元に作られた存在であること。私が知っているのはそれくらいだ。
死者の人格を再現したアンドロイドを作って、その事実を知らないまま形成したアイデンティティは、果たして元の人間と同じなのか。そんな哲学的な問題を提示しているわけではないだろう。私はアポリアという存在を知らない。彼がどのくらいオリジナルに似ているのかも、私には分からないのだった。
彼はずっと、自分を人を導く人間より上位の存在として認識していた。それが、死者の模造品という形に変化したのだ。その事実がどれほどの衝撃だったかは、私には想像もできない。
それでも、ひとつだけ確信できることがあった。
「私にとっては、あなたが何者かなんて関係ない」
私は言った。自分でも分かるくらいに、声が震えていた。
「私は、あなたが何者かを知らない。どこから来て、なんのためにこの世界を滅ぼすのかも、何も知らない。それでも、私はあなたという存在が好きだったの」
想いを伝えようと、必死に言葉を紡ぐ。どこまで届いているのかは分からなかった。
「私にとって、ルチアーノくんはルチアーノくんでしかないんだよ。他の誰でもない、あなたなの」
私の答えを聞いて、彼はきひひと笑った。そこに病んだような響きはなくなっていた。
「君って、本当に物好きだよな」
私はブラシを置くと、後ろから彼を抱き締めた。抵抗はされなかった。そのまま腰に手を回し、背中に耳を押し当てる。
心音は無い。聞こえるのは、機械の動く低い音だけだ。人工の命が生きる音。
アンドロイドに魂はあるのか。そう尋ねられたら、私はあると答えるだろう。目の前にいる男の子はこんなにも『生きて』いるのだから。
彼は、アンドロイドとして自分の使命を全うしようとしている。それなら、私は彼と心中したい。私にとっては、彼の存在が世界の全てだから。
どのくらい、そうしていただろうか。長い時間が経った気がするし、一瞬のことだったようにも感じる。
「気は済んだかい?」
彼に促されて、私はしぶしぶ手を離した。別れの時が近づいていることがひしひしと感じられた。
彼は慣れた手つきで髪を纏めると、立ち上がって私の方を振り返った。光の粒子が、羽を覆う白い布を形成する。
「ここからでもテレビは映るから、見るといいよ。ネオドミノシティが滅ぶ様子を」
「うん。見てるね」
彼は、ここに帰って来るのだろうか。私はデュエリストには詳しくないが、対戦相手の噂については聞いたことがある。
「約束、忘れるなよ」
囁くと、彼は私に顔を近づけた。綺麗な顔が近づいて、唇と唇が触れ合う。
「え……?」
呆然とする私を見て、彼は心底楽しそうに笑った。
「じゃあ、バイバイ」
布を揺らして、彼は時空の穴の中へと消えた。
そうして、不思議な少年は、初めて会った時と同じように、私を翻弄して去っていった。
唇の感触だけが、いつまでも残っていた。