Another ending
目を覚ますと、薄暗い部屋で寝かされていた。身を起こして周りを見ると、簡素な机とクローゼットが視界に入る。窓際にはソファが置かれ、別の方向にはテレビ台といくつもの扉に繋がる廊下があった。どうやら、ホテルの一室であるらしい。
どうやってここに来たのか、私には何一つ思い出せなかった。いつものように仕事を終えて家に帰ったことは覚えている。その後に何があったのだろうか。
枕元にあった時計を見ると、九時五十分を差していた。記憶が途切れてから、だいたい三時間くらいだ。服はバスローブのようなものに着替えさせられているし、髪からは嗅ぎ慣れた、しかし私のものではないトリートメントの香りがする。何者かが私をここへ運んできたのだ。
「目が覚めたかい?」
どこからか、少年の声が響いた。甘いのに、どこか棘のある、笑みを含んだ声だ。
視線を向けると、無人だったはずの室内に人影が立っていた。血のように赤い長い髪に、ペリドットのような緑の瞳。背には、不思議な形をした鋼鉄の羽が布を纏って浮いている。既に見慣れてしまった奇妙なシルエットは、少女のように可憐な少年天使の姿だった。
しかし、彼の様子は普段とどこか違っていた。声や表情に、妙な違和感があるのだ。
「ルチアーノくん」
私は戸惑いながら彼の名を呼んだ。彼はベッドの側に近づくと、笑顔を浮かべて言った。
「初音は、僕のことを愛してくれるって言ったよね」
私は何も言えなかった。彼の瞳には、光が一切無かったのだ。
その瞳はまるで、精神を病んでいるかのようだった。
「初音はこの部屋から出られないよ。この部屋は外側から鍵をかけてあるし、人の力では絶対に壊せない。ここからは絶対に逃げられない」
歪んだ笑みを浮かべながら、彼は語る。笑い声にも、いつものようないたずらっぽさはない。狂気に満ちた、壊れた笑い方だった。
私は、恐怖で声が出なくなっていた。子供の姿をしていても、彼は人を超えた存在だ。その気になれば、人くらい簡単に殺せるのだ。
彼はベッドの上に飛び乗ると、私の体を跨ぐようにして腰を下ろした。体温と、わずかな重みが体に伝わる。
「人間って儚いんだよ。自分ではいつまでも生きているつもりだけど、些細なことですぐに死んじゃうんだ。ねぇ、初音はずっと僕の側に居てくれるよね。僕を、ひとりにしないって約束してくれるよね。この部屋で、ずっと……」
そう一気に捲し立てると、唐突に言葉を切って寂しそうな表情を浮かべた。
「それとも、君も僕をひとりにするのかい……」
錯乱している。直感的にそう思った。目の前にいる少年は、私の知っている天使の姿ではなくなっている。それでも、彼の感じている恐怖と不安は痛いほど伝わってきた。
彼は、失うことを恐れているんだ。そう思うと、恐怖は消えていた。
「約束するよ。絶対に、ルチアーノくんをひとりにはしない。私が、ずっと側にいる」
私が答えると、彼は再び笑顔を浮かべた。
「本当に、約束してくれる?」
「約束するよ」
「裏切ったら絶対に許さないからな」
光の無い瞳で恐ろしいことを告げて、彼は笑う。狂ったようなその声は、壊れた子供そのものだった。
どうして、このような状況になったのだろう。つい先日まで、彼は子供らしい性格をしていた。私の知らないところで、何かが起きているのだろうか。
考えていると、彼に強い力で押し倒された。体がシーツの上に押し付けられる。綺麗な顔が近づき、赤い髪がさらさらと揺れた。
「初音に傷を残してあげる。誓いを破ったら一生後悔するような、絶対に忘れられなくなるような傷を」
囁きながら、彼は布団を剥ぎ取ると、私の着ているローブに手をかけた。
「破ったりしないよ。傷なんてつけなくても、私は一生ルチアーノくんから離れられない」
──あなたは、私の生きる理由だから
その言葉を、唇の中に閉じ込める。
彼の細い指先が、露になった肌の上を走る。こんな状況でも好きな人に触れられると反応するのだ。私は体の力を抜いて、彼の指先に身を委ねた。
「全部、思い出したんだ」
隣で布団に潜り込んでいた彼が、小さく口を開いた。
「僕は、人間だったんだ。ずっとひとりぼっちで、置いていかれるばかりだった」
そう語る声は澄みきっていて、普段の彼とは別人のようだった。
「ルチアーノくん……」
私が口を開くと、彼は言葉を遮った。
「アポリアって呼んで。……僕の、人間だった頃の名前」
「……アポリアくん」
呼び掛けると、彼は声を上げて泣き出した。初めて見る姿に戸惑いながらも抱き締めると、抵抗せずに受け入れてくれた。
彼は、既に私の知っているルチアーノくんではなくなっていた。その姿は、ただの傷ついた子供だった。
「アポリアくん、あなたが何者であったとしても、私はずっと側にいるからね」
その声が届いているかは分からなかった。腕の中からは、くぐもった泣き声が聞こえてくる。その声を包み込むように、しっかりと彼を抱き締めた。
衣擦れの音で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。音のした方に視線を向けると、彼は布地を身に纏っていた。
「初音も、シャワー浴びなよ」
彼が言う。その声は、普段通りに戻っていた。
ゆっくりと体を起こすと、バスローブを引きずって浴室へ向かう。温かいシャワーを浴びて、用意されていた服に着替えると、少し心が落ち着いた。
部屋に戻ると、彼は羽を白い布で覆ったまま壁際の椅子に腰をかけていた。窓の外を眺めている。
「……アポリアくん」
迷いながら呼び掛けると、彼はこちらを見ずに答えた。
「ルチアーノでいい」
「ルチアーノくん」
私が呼び直すと、彼はこちらを振り返った。ペリドットの瞳が、真っ直ぐに私を射貫く。
「ここでのことは誰にも言うなよ」
その言葉は真剣そのものだった。私は黙って頷いた。
「もうすぐ、WRGPの決勝が始まる。僕たちが勝ったら、ネオドミノシティは消滅するんだ」
彼は語る。いつも通りの、笑うような口調だった。
「この部屋は影響を受けないよ。全てが終わったら鍵が開くから、安全な場所に逃げるといい」
私は何も言えなかった。彼が私をこの部屋に運んできたのは、私を守るためだったのだ。
「ルチアーノくんはどうなるの?」
「僕の役目は終わる。後は、元の姿に還るだけだよ」
どこか楽しそうに少年天使は言う。彼に帰る場所があるとしたら、それはこの世界ではないどこかだろう。
そうなったら、もう二度と会うことはない。
そんな日が来ることは分かっていた。でも、どうして私だけが生き残るのだろう。この街が、彼との思い出が、全て無くなるのに。
「…………嫌だよ」
気づいたら、言葉が声に出ていた。
「嫌だよ。ルチアーノくんのいない世界で生き続けるくらいなら、ルチアーノくんの手で殺してほしい」
彼は笑いだした。いつものような、人をからかう笑い声だった。
「あんなに怖がってたのに自分から死を選ぶなんて、人間って本当に変だよな」
そう言って楽しそうに笑う。
「私だって、ひとりぼっちは嫌だよ……」
私が呟くと、彼は笑い声を収めた。からかうような顔で私を見る。
「いいよ。全てが終った後に、僕があんたを殺してあげる」
「本当に……?」
「嘘は言わないよ。直前になって後悔してもやめないからな」
外見相応の子供のように彼は笑う。
「ありがとう」
私は言った。表情が緩んでいるのが、自分でもはっきりと分かった。
一年前、私は死にたかった。死へ向かう日々の中で、彼に出会い一目惚れしたのだ。
私は彼に会うためだけに生きていたのだ。彼が居なくなった世界なんて、私には何の価値もない。
好きな人の糧になれるなら、それはとても幸せなことだと思った。
「約束しよう。私はルチアーノくんをひとりにはしないから、ルチアーノくんも私をひとりにしないって。ルチアーノくんが元の世界に帰るときは、私を殺してくれるって」
私は彼の前に小指を差し出した。彼の小指が、私の指に絡められる。
「約束するよ。破ったら、どうなるか分かるよな」
きひひ、と彼は笑う。その笑顔を、心の底から愛おしいと思った。
どうやってここに来たのか、私には何一つ思い出せなかった。いつものように仕事を終えて家に帰ったことは覚えている。その後に何があったのだろうか。
枕元にあった時計を見ると、九時五十分を差していた。記憶が途切れてから、だいたい三時間くらいだ。服はバスローブのようなものに着替えさせられているし、髪からは嗅ぎ慣れた、しかし私のものではないトリートメントの香りがする。何者かが私をここへ運んできたのだ。
「目が覚めたかい?」
どこからか、少年の声が響いた。甘いのに、どこか棘のある、笑みを含んだ声だ。
視線を向けると、無人だったはずの室内に人影が立っていた。血のように赤い長い髪に、ペリドットのような緑の瞳。背には、不思議な形をした鋼鉄の羽が布を纏って浮いている。既に見慣れてしまった奇妙なシルエットは、少女のように可憐な少年天使の姿だった。
しかし、彼の様子は普段とどこか違っていた。声や表情に、妙な違和感があるのだ。
「ルチアーノくん」
私は戸惑いながら彼の名を呼んだ。彼はベッドの側に近づくと、笑顔を浮かべて言った。
「初音は、僕のことを愛してくれるって言ったよね」
私は何も言えなかった。彼の瞳には、光が一切無かったのだ。
その瞳はまるで、精神を病んでいるかのようだった。
「初音はこの部屋から出られないよ。この部屋は外側から鍵をかけてあるし、人の力では絶対に壊せない。ここからは絶対に逃げられない」
歪んだ笑みを浮かべながら、彼は語る。笑い声にも、いつものようないたずらっぽさはない。狂気に満ちた、壊れた笑い方だった。
私は、恐怖で声が出なくなっていた。子供の姿をしていても、彼は人を超えた存在だ。その気になれば、人くらい簡単に殺せるのだ。
彼はベッドの上に飛び乗ると、私の体を跨ぐようにして腰を下ろした。体温と、わずかな重みが体に伝わる。
「人間って儚いんだよ。自分ではいつまでも生きているつもりだけど、些細なことですぐに死んじゃうんだ。ねぇ、初音はずっと僕の側に居てくれるよね。僕を、ひとりにしないって約束してくれるよね。この部屋で、ずっと……」
そう一気に捲し立てると、唐突に言葉を切って寂しそうな表情を浮かべた。
「それとも、君も僕をひとりにするのかい……」
錯乱している。直感的にそう思った。目の前にいる少年は、私の知っている天使の姿ではなくなっている。それでも、彼の感じている恐怖と不安は痛いほど伝わってきた。
彼は、失うことを恐れているんだ。そう思うと、恐怖は消えていた。
「約束するよ。絶対に、ルチアーノくんをひとりにはしない。私が、ずっと側にいる」
私が答えると、彼は再び笑顔を浮かべた。
「本当に、約束してくれる?」
「約束するよ」
「裏切ったら絶対に許さないからな」
光の無い瞳で恐ろしいことを告げて、彼は笑う。狂ったようなその声は、壊れた子供そのものだった。
どうして、このような状況になったのだろう。つい先日まで、彼は子供らしい性格をしていた。私の知らないところで、何かが起きているのだろうか。
考えていると、彼に強い力で押し倒された。体がシーツの上に押し付けられる。綺麗な顔が近づき、赤い髪がさらさらと揺れた。
「初音に傷を残してあげる。誓いを破ったら一生後悔するような、絶対に忘れられなくなるような傷を」
囁きながら、彼は布団を剥ぎ取ると、私の着ているローブに手をかけた。
「破ったりしないよ。傷なんてつけなくても、私は一生ルチアーノくんから離れられない」
──あなたは、私の生きる理由だから
その言葉を、唇の中に閉じ込める。
彼の細い指先が、露になった肌の上を走る。こんな状況でも好きな人に触れられると反応するのだ。私は体の力を抜いて、彼の指先に身を委ねた。
「全部、思い出したんだ」
隣で布団に潜り込んでいた彼が、小さく口を開いた。
「僕は、人間だったんだ。ずっとひとりぼっちで、置いていかれるばかりだった」
そう語る声は澄みきっていて、普段の彼とは別人のようだった。
「ルチアーノくん……」
私が口を開くと、彼は言葉を遮った。
「アポリアって呼んで。……僕の、人間だった頃の名前」
「……アポリアくん」
呼び掛けると、彼は声を上げて泣き出した。初めて見る姿に戸惑いながらも抱き締めると、抵抗せずに受け入れてくれた。
彼は、既に私の知っているルチアーノくんではなくなっていた。その姿は、ただの傷ついた子供だった。
「アポリアくん、あなたが何者であったとしても、私はずっと側にいるからね」
その声が届いているかは分からなかった。腕の中からは、くぐもった泣き声が聞こえてくる。その声を包み込むように、しっかりと彼を抱き締めた。
衣擦れの音で目を覚ました。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。音のした方に視線を向けると、彼は布地を身に纏っていた。
「初音も、シャワー浴びなよ」
彼が言う。その声は、普段通りに戻っていた。
ゆっくりと体を起こすと、バスローブを引きずって浴室へ向かう。温かいシャワーを浴びて、用意されていた服に着替えると、少し心が落ち着いた。
部屋に戻ると、彼は羽を白い布で覆ったまま壁際の椅子に腰をかけていた。窓の外を眺めている。
「……アポリアくん」
迷いながら呼び掛けると、彼はこちらを見ずに答えた。
「ルチアーノでいい」
「ルチアーノくん」
私が呼び直すと、彼はこちらを振り返った。ペリドットの瞳が、真っ直ぐに私を射貫く。
「ここでのことは誰にも言うなよ」
その言葉は真剣そのものだった。私は黙って頷いた。
「もうすぐ、WRGPの決勝が始まる。僕たちが勝ったら、ネオドミノシティは消滅するんだ」
彼は語る。いつも通りの、笑うような口調だった。
「この部屋は影響を受けないよ。全てが終わったら鍵が開くから、安全な場所に逃げるといい」
私は何も言えなかった。彼が私をこの部屋に運んできたのは、私を守るためだったのだ。
「ルチアーノくんはどうなるの?」
「僕の役目は終わる。後は、元の姿に還るだけだよ」
どこか楽しそうに少年天使は言う。彼に帰る場所があるとしたら、それはこの世界ではないどこかだろう。
そうなったら、もう二度と会うことはない。
そんな日が来ることは分かっていた。でも、どうして私だけが生き残るのだろう。この街が、彼との思い出が、全て無くなるのに。
「…………嫌だよ」
気づいたら、言葉が声に出ていた。
「嫌だよ。ルチアーノくんのいない世界で生き続けるくらいなら、ルチアーノくんの手で殺してほしい」
彼は笑いだした。いつものような、人をからかう笑い声だった。
「あんなに怖がってたのに自分から死を選ぶなんて、人間って本当に変だよな」
そう言って楽しそうに笑う。
「私だって、ひとりぼっちは嫌だよ……」
私が呟くと、彼は笑い声を収めた。からかうような顔で私を見る。
「いいよ。全てが終った後に、僕があんたを殺してあげる」
「本当に……?」
「嘘は言わないよ。直前になって後悔してもやめないからな」
外見相応の子供のように彼は笑う。
「ありがとう」
私は言った。表情が緩んでいるのが、自分でもはっきりと分かった。
一年前、私は死にたかった。死へ向かう日々の中で、彼に出会い一目惚れしたのだ。
私は彼に会うためだけに生きていたのだ。彼が居なくなった世界なんて、私には何の価値もない。
好きな人の糧になれるなら、それはとても幸せなことだと思った。
「約束しよう。私はルチアーノくんをひとりにはしないから、ルチアーノくんも私をひとりにしないって。ルチアーノくんが元の世界に帰るときは、私を殺してくれるって」
私は彼の前に小指を差し出した。彼の小指が、私の指に絡められる。
「約束するよ。破ったら、どうなるか分かるよな」
きひひ、と彼は笑う。その笑顔を、心の底から愛おしいと思った。
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