城主幸村を救え


見るもの聞くもの、すべてが珍しい。
不二はこの日の目的をうっかり忘れてしまいそうだった。まず、いきなり目を疑う。
エプロンの紐を後ろ手で結ぶのに手間取る幸村が、

「卵焼きと焼きそばを作ろうか」

何事もないような口ぶりで話を進めようとしている。

「いいね」

どうするつもりでいるのか観察してみたくて、最低限の返事をした。

「まずは、卵焼き器とフライパン…」

彼は、片手でエプロンの紐をつかんで、片手でキッチンの下の扉を開けるために腰を屈めた。
そんな幸村がおかしくて、つい、

「紐が“解けて”るよ」

助け船を出してしまう。

「うん?ああ…“ありがとう”」

巧いなあ、と思う。
これではこちらが結んであげる前提だ。

「あったよ」

リボン結びをしてあげると、自由になった両手でフライパンを取り出した幸村が振り返ってにっこり笑った。

(こんな調子で立海メンバーの心をつかんでいるんだね)

そうとわかっても悪い気はしない不二だった。

「卵焼き器は上の棚みたいだね」

腕をのばして、ギリギリ取り出そうとしていると、

「かして、俺が取る」

目の前に伸びたのは、制服のシャツの袖を肘まで捲った幸村の腕で、これが思いのほか逞しかった。

「ふふ、こういうのって、なかなか自然にできないんじゃないかな。ありがとう」

「ふつうだよ。俺の方が背が高いんだから」

「女の子相手ならいいんだけどね」

別に身長差なんて少しも気にしていないのに、試しに言ってみた。

「え?ぁ…余計な事したならごめん。そんなつもりじゃ、全然ないんだ」

「優しいんだね」

テニスの幸村しか見ようとしなかった自分を反省した。いろんな幸村を見ないともったいないと思う。
こっそりワサビ入りの卵焼きを作ってみた。

隣で卵液を巻く幸村の横顔は真剣だが、お世辞にも上手とはいえない出来映えだ。
どんな言葉をかけようか迷っていると、

「不二のはきれいでおいしそうだ」

パクりと口に放り込んでから、涙ぐむ幸村。
どんな風に怒るだろうか。

「ぅん…ワサビ味の卵焼きは初めてだな…醤油とマヨネーズをつけたらもっとおいしくなりそうだ…」

思わず近寄ると、幸村は片手を上げてそれを制して、涙を隠すように背中を向けてしまった。

「ごめん。悪気は…ないんだ」

青学メンバーのようにはいかない幸村のリアクションに戸惑う。怒りもしないし、機嫌を損ねるわけでもない。コップの水を口に含んだ幸村の、喉の動きとか、唇の端から伝う水滴が記憶に残りそうだった。 

焼きそばの具材を切り始めると、心もとない包丁使いが不二をハラハラさせる。

「そろそろ僕が代わろうか?」

ダンッ、ガコッ、ドンッ

(幸村にキズが付いたら僕は青学に帰れないかも知れないな)

真田をはじめ、立海メンバーに責め苦に遭わされそうだ。

「ね、僕が“切りたい”だめかな?」

「そうか…それならお願いするよ」

あっさりと包丁を手放したあたり、最初からその気でいたのだと思う。
だんだん幸村の扱いがわかってきた。
結局、最後まで不二が料理の腕を振るった。


「青学に来ればいいのに」

「俺が?どうだろう…自信ないな」

「いいチームだよ。純粋に実力を培養してるから。毎日楽しいよ」

はっと顔をあげた幸村だったが、すぐに卵焼きに箸をつけた。焦げたのもかまわず口に入れて、難しい顔をして首を横に振った。
卵焼きが不味くてそうしたのかどうか。
焼きそばと、それを頬張る幸村がなんとなく不釣り合いで、だんだん彼のイメージが変わってきた。

「立海のテニスに疲れたらウチ(青学)おいでよ。きっと生まれ変わるよ」

青学の全国優勝を誇りに引き出して、割と本気で誘った。すると、今までどこか灰色だった幸村の目の色が変わった。

(そうだ…その目だよ。僕たちが欲しかったのは)

卵焼きを半分割って、幸村の口元へ運んだ。
ワサビを警戒して嫌な顔をされてしまう。

「大丈夫。甘いから」

にっこり笑って唇につんと押し付ける。
小さく開いた隙間から見えた白い前歯はきれいな形をしていた。

「これは…甘すぎるな」

「ふふ、わがまま」

「もう…わかったよ」

わさび入りと甘いのと、両方の卵焼きを口に含んだ幸村は、「これでいいだろ」と言いたげな感じだ。きっと立海メンバーなら幸村にこうはさせないだろう。

「なんだい?」

にこにこして幸村のする事を観察していたら、不審そうな視線を向けられた。

「いや…立海でよかったなと思っただけだよ」

青学ではきっと幸村を持て余してしまう。
立海メンバーほど面倒見のいい顔触れは揃っていないのだ。

「忘れないで。君の存在は君だけのものじゃないんだから。少なくとも僕は君を見直したよ。でも…青学に勝つのはまだ早い、かな?」

幸村と、窓の外の煩わしい影に向かって厳しい視線を送った。
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