一葉の写真の未来へ



幸村は冷たい床にいた。
誰かに見つけてもらわないとどうにもならないこの体を、自分の腕でやさしく抱きしめることもできなかった。
やがて磨り硝子に映る人影が看護師ではないとわかると、幸村は恐怖した。近しい人にだけは見らてたまるか、という憎しみに満ちた眼差しをドアに向けた。

「入るな…!」

叫んだ声はほとんど音にならなかった。


「悪い、いきなりで悪かった」

礼儀正しく頭を下げた相手は、視線を上げるとすぐにハッとしてかける言葉を失ったらしい。
当然の反応だ。幸村は不遇な境遇を自嘲した。

「見ての通り。キミには刺激が強かったようだね。ただし、乗りかかった船だと思って使わせてもらうよ。看護師を呼んで。キミはそのまま悪い夢を見たと思って帰ればいい」

それから、彼の手にある花束に目をやった。思わず見惚れてしまうそれは、幸村の好みをよくわかっているのは偶然だろうか。

「残念だけど、生花はダメなんだ。花には菌がいてね、感染症の原因になるんだ。水も腐ると衛生面の問題があるから、免疫の弱ってる今の俺にはよくないと言われたよ」

幸村は、突然現れた見ず知らずの相手にすらすらと自分の置かれた立場を語った。
殺風景なこの部屋に、大好きな花を愛でることも許されない辛さを吐き出した。

「そうか。何も知らずに悪かった」

「そう思うなら早く出て行ってくれ!この状況だ!わかってるだろ…っ!」

信じられないことに、相手はズカズカとやって来て目の前に屈んだ。幸村がぺたりと座り込んでいる床は濡れているというのに。
昨日まで飾っていた花瓶の水をこぼしたのではない。大好きな人が持ってきてくれた花は撤去してしまったのだから。

「いやだ…離れて…」

見たところ、同じ年頃のようだった。
初対面で、しかも粗相をしている自分に絡んでくるこの相手がこわくなった。
みじめで、涙があふれてきた。
それでも相手は一歩も引かない。

「ひとつ教えてやる。"乗りかかった船"ってのはな、一度乗っちまったら、途中で降りることができねぇんだぜ。途中で投げ出すことができねぇ。つまり俺はおまえのことを最後までやり遂げる必要がある」

「わけわかんない…」

「わかってもらうために来たからな」

さりげなく幸村の膝にフェイスタオルをかけて立ち上がった。あえてそれ以上の手助けをしないのが彼の優しさだと伝わってくる。

(真田だったら、あわてふためいて余計な世話を焼くんだろうなぁ…)

大好きな相手のそんな様子が手に取るように想像できて、幸村はやりきれない気持ちになった。
代わりに、目の前の相手なら考えようによっては感情のはけ口になってもらえるのではないか。

彼が病室を出て行ってしまうと、幸村はまたひとりになった。

「氷帝…学園…」

残していったのは、学校のオリジナルタオルらしい。
いっときの華やかさを運んできた彼を無視することはできなかった。

やがてバタバタと看護師がやって来て、

「幸村くん!怪我はない?ごめんね、気づいてあげられなくて。すぐ体をきれいにしましょうね」

ベッドの上に戻されて、テキパキと作業をされる。あとは動かない手足を伸ばして、されるがままだ。

(真田や他のみんなに見られなくてほんとうによかった。こんな現実は知られたくないから)

下の世話をするのに気を紛らわすためか、看護師の口数が多くなった。

「さっき呼びに来てくれた子、お友だち?いつも見かける子たちじゃなかったから。あんまりイケメンだからびっくりしちゃった。真田くんとはまた違うタイプって感じね。幸村くんは人気者なんだ」

幸村は答えなかった。
看護師もそれ以上聞かずに淡々と処置した。
やがて下半身に当てがわれた違和感に、顔色を変えた。

「え…?」

「…歩けるようになるまではこの方がいいから。転んだら大変だから。大丈夫、様子見に来るから」

看護師が退室すると、こみあげてくる不安や恐怖が抑えられなくなった。体は動かなくても、涙はとめどなく流れてきた。

滲む視界を枕頭台に向けると、そこに全国優勝を果たした時の写真が飾ってある。真田と柳と三人で写っている。
その写真立ての前に、まだ瑞々しさの残る二枚の花びらが落ちていた。
"乗りかかった船"は、跡部景吾と名乗っていた。
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