めくるめくテニスをしよう
人目につかない場所で、我武者羅に壁打ちを続ける幸村がいた。物凄い気迫と怨念のようなものを感じる打球が、壁に打撃痕を残していく。
消灯時間は過ぎていて、月の明かりだけが頼りでも、真田にははっきりと幸村の様子が見て取れた。
「あぁ…!」
悲痛な叫びの後、手から離れたラケットが飛んで壁に思い切り当たると、幸村がへたり込んだ。
行き場をなくしたテニスボールが転がって、幸村に寄り添うように静かに止まった。
ゆっくり天を仰いだ幸村につられて、真田も夜空を見上げた。
今まで気が付かなかったが、星がきれいに輝くいい夜だ。
声をかけようか迷った。
声をかけたところで、もう幸村を助けてやる言葉ひとつ持ち合わせていない。
ここまで幸村を引っ張り上げてこれただけでも大したものだと自分を褒めて、投げ出してしまおうか。そんならしからぬ思いがよぎるほど、真田も精神的に疲れていたのだろう。
『これからは自分のために』
幸村もそう言ってくれたではないか。
(これ以上とやかく言っても幸村が苦しむだけなら俺は…)
背中を向けようとしたその時だ。
這うようにして動き出す幸村に目を奪われた。
壁際に飛ばされたラケットを取りに行こうというのか。体を地面に引きずって汚しながら進む友の姿は、かつて無敗を誇って君臨した神の子とはあまりにも程遠い。
目を反らして逃げ出したいほど、幸村が不憫でならなかった。そこに黙って立っているのがやっとで、やがて幸村以外のものは見えなくなっていた。
五感…否、幸村に心を奪われている事実に真田が衝撃を受けたのはこの時だ。
(何と言う事だ…!俺は、まさか今になってこんな…こんな状態になって初めて幸村を…!)
はっきりと自分の気持ちを自覚すると、地を這う幸村の勇姿をしかと見届ける事ができた。
生生しい息づかいがすぐそばで聞こえるようで、鳥肌が立った。
やがてラケットに手が届いた幸村が、力尽きたように動かなくなる。
真田が息を呑んだ束の間、
「やった…俺の…ラケット!」
月明かりに照らし出された幸村は、満面の笑みをたたえたのだ。
それは、初めて2人で勝利した後に見せた幼い幸村の笑顔そのままであった。
テニスで見せる表現がそのまま、幸村という人間そのものではない事は真田が一番よく知っていたのに。
何が卑怯なものか。生き残るために培った幸村のテニスは、例えるなら自然界と同じで過酷で美しい。それはきっと自然の摂理のようなもので、人々は見るに堪えないと思いつつ珍しさから魅入ってしまうのだろう。
真田は吸い込まれるように一歩足を踏み出した。
「やめなさい」
静かな制止の声にはっとして振り返ると、いつの間にか黒部コーチがすぐ近くにいた。
またしてもこの男に邪魔をされて反論しかけると、
「ああいう場面は誰にも見られたくないものです。それも最愛の"友人"である君にならなおさら」
「……」
「彼の不撓不屈の精神は目を見張るものがあります」
「ならば行って励ましてやるのが友の務めではありませんか」
睨み付けたが、黒部コーチも厳しい目を真田に向けた。
「これまで彼…幸村精市を押し上げてくれた事に感謝します。これからは日本、いえ世界が彼を導くでしょう。彼には甘えを捨ててもらいたい」
御役目御免を言い渡されたような気がして、真田の気持ちは激しく動揺した。
きつく目を閉じて、心を落ち着かせる。
そして幸村のため、自分のために直感を信じた。