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太公望は平穏を求める

「そんなこともわかるのか⋯⋯」

「こうして触れ合うと時々見えてくるんですよ。今日はかなり調子がいいです」

 なんてことのないように話す少女の顔がほころぶ。

「仙人もびっくりな力だな。この世界の化け物はみんな同じことできるのか?」

「だから化け物じゃないですって! まあ確かに、私みたいな耳や尻尾を持つ人なんてほかに見たことありませんけど」

 目を見開いて怒鳴ったかと思うと、今度は両耳を手で押さえながら、しおらしく呟いた。
 ほかにいないならやはりこの娘は魑魅魍魎の類ではないのか。それとも神か。神ならば今更だが態度を改めるべきなのだろうか。

 そんなことを考えていると、少女の細い指が俺の頬を突いた。頬の肉が圧縮され、視界の隅に現れる。
 ここ十年ほどは、押しつぶされるような肉もなかった気がする。

「ていうか、化け物とか魑魅魍魎とかいう割には望さん逃げたりしませんよね? もしかして私に惚れちゃいました?」

「⋯⋯はあ」

 子供が大人に悪戯するときのような笑みを浮かべながら、少女に何度も頬を突かれる。

「ただそなたに興味があるから逃げないだけだ。いざとなれば殺せそうだし」

「なんて物騒な⋯⋯強がらなくていいんですよ」

 半分くらい本気なのだが、彼女には通じなかったらしい。
 とめどなく流れる川を眺めていると、水面に俺と彼女の姿が映った。
 若返った自分と、奇妙な少女の取り合わせに、何とも言えない違和感を覚える。
 何度も何度も俺の頬に指先を押し当てる少女は、柔らかくなった土に指をはめて型を取って遊ぶ子供のようだ。

 小さなひ孫が家の壁に穴をあけ、孫の嫁に怒られていた場面が想起される。
 そういえば、俺が死んであの家や斉はどうなるのだろう。

 いや、そんなこと気にしても仕方がない。俺はもうあの場所にいない人間なのだから。西伯候が俺やご子息に後を託したように、俺も託すほかない。

「どうしたんですか? 何か考えてました? もしかして私のことですか?」

 水面に映る少女が俺の前に顔を出すと、遅れて視界を遮った。

「ああ⋯⋯猫って美味いのかなって」

「ひいっ!? っきゃあ」

「あ⋯⋯」

 少女は慌てて俺から顔を離すと、勢い余って川に落ちた。
 落ちたところから水しぶきが上がり、それらの一粒一粒に陽光が差し込んできらめきを放ち、俺の顔にまで飛んだ。
 ここの川はかなり深く、少女は顔を真っ赤にしながら鼻から上だけを水面から出している。

「大丈夫か」

 彼女が落ちたのは一応俺のせいなので、手を差し伸べる。

「まさか殺すといわれても何ともないのに食べるといわれてそこまで驚くとは思いもしなかった。ほら、つかまれ」

 赤面し、星のような輝きを放つ双眸を潤ませながら、少女は俺の手をつかんだ。
 引き上げた少女は、俺の隣でよつん這いになりながら、全身から水滴を滴らせた。
 これでもし体を振って水を切ったりしたら、完全に獣なのだが、待っても残念ながらその生態は確認できなかった。

「ひどい目にあいましたよもう」

 溜息を吐きながら、その場に座る。
 まだ水滴が毛先からこぼれていて、どうも見ていると恥ずかしく思えてくる。
 考えてみたら、濡れている女なんて家族と昔共に暮らした種族の女でしか見たことがなかった。慣れていないのだから仕方ない。
 首筋から滴る雫が、胸を通って服の中へ消えていく。それだけ見れば、朝露のように優雅に思えなくもない。

「それはすまなかった。でもさっきまで泳いでたんだから気にすることじゃないだろ」

「自分から川に入るのと落ちるのじゃ違いますよ」

「たしかに⋯⋯」

 その言い分はもっともだと頷いていると、少女は俺のそばに置いてあった釣り竿に手を伸ばした。
 釣り竿を両手で抱えるように持つと、指で糸の根元を挟み、先端に向かって指を滑らせていった。

「ところでこれ、さっきから思ってたんですけど、この先端の骨みたいなのは何なのですか」

「え? 針だけど。骨みたいじゃなくて骨だけど」

 いったい何を気にしているのかと彼女を眺めていると、首をかしげながら骨を撫で始めた。

「変わった針を使うんですね。返しもついてませんし」

「返し⋯⋯? 返しってなんだ」

「え、知らないんですか?」

「知らない」





 俺が首を横に振ると、少女は針を持って俺に見せながら、手振り付きで教えてくれた。

「えっとですね、こう針の先端にもうひとつ小さな針をつくるのですよ。そうしたらそこが刺さって針を咥えた魚が逃げられなくなるのです」

「ほお、便利だなあ。たしかに、いままで釣り上げたと思って竿を引き上げたら逃げられることはよくあったし、それがあれば釣果が増えそうだ。でも、骨に新しく小さな針をつけるのは骨が折れそうだ。骨だけに」

「⋯⋯ふふ」

 少し遅れて、まるで俺を気遣うように少女が口元を抑えて笑う。そんな情けはよけい惨めになるだけだ。

「だからみんな骨なんて使わないんですよ。主流は鉄の針です。鉄なら加工しやすいので」

「へえ、鉄ね。そんな貴重なものを使うのか」

「そんなに鉄って貴重ですかね⋯⋯?」

「貴重だろ? 鉄なんてほとんど見たことないが」

「へえ。望さんの世界ではそうだったんですね」

 釣り竿を俺の足元に戻しながら、少女はまた俺と目を合わせた。

「さて、望さんはこれからどうするんですか?」

 突然、少女は立ち上がって土を払った。

「どうするといわれても、どこかでまた朽ちるのを待つくらいしか考えてないのだが」

「なんですかその終末思想⋯⋯厭世感情駄々洩れじゃないですか」

「だって。もう十分生きたし」

 そう。俺は十分すぎるほど生きた。西伯候や帝辛よりも、子供たちよりも長く。
 もともと、この世に未練も何もなかった。またどこかに生まれたからと言って、やりたいことは釣りくらいしか浮かんでこない。
 釣りをして、いつの間にか今度こそ死に切れるなら、それ以上に臨むものはないのだ。

「じゃあ、こっちでも神様って敬われるくらいすごいことをしましょうよ」

 目を輝かせながら、少女は身をかがませて俺の顔を除いた。
 まるで志向のすべて除かれるような、そんなおぞましくもある眼力を感じる。

「こっちでもって、元の世で別にそんな大したことしてないぞ。ただちょっと恨んで国を滅ぼしただけだ」

「いや⋯⋯それがすごいことなんじゃないですか⋯⋯皆さんが望さんを敬い讃えたから神様になってるんですよ」

「そういうこと⋯⋯なんだろうか」

 神扱いされているといわれても、自分では全く想像できない。
 それに俺は、別に後世で讃えられたくて戦ったわけでも、世直しをしたかったわけでもない。

 ただ、俺から家族を奪い、仲間を奪った殷に復讐がしたかっただけで、帝辛の悪逆非道の行為が許せなかったわけでも、息子の肉を食べさせられた西伯候に同情したわけでもない。

 殷が滅びてからもそれなりの時を生き、斉という東の国に任じられたが、俺の生きる意味は、殷を滅ぼした時点で失われていたのだ。
 そしてそれは今も同じで、ひとつ望みがあるなら、朽ちるまで静かに暮らしたい。

 畑を耕すでも、昔みたいに家畜を飼うでもなんでもいい。
 日銭を稼いで寝るだけの、静かな暮らしがしたい。
 もう嫁も友人もいらない。生きる意味なんて求めることもなく、ただ迎えの日が来るまでこの世にとどまるだけの暮らしを。

「そうですよ。ほら、私と行きましょう。望さん」

 さっきとは反対に少女が俺に向かって手を伸ばす。
 そもそもなんで俺がこの子と一緒になるみたいな話になっているのだろうということは置いておくとして、俺はその差忍ばされた手を⋯⋯掴みはしなかった。

「望さん⋯⋯?」

 一人で立ち上がり、釣竿を拾い上げる。
 彼女は、力なくその手を下した。

「悪いが、君のお誘いに関してはお断りだ。俺はもう静かに暮らす。じゃあな」

 考え込むように、逆立てたまつげを揺らしながら、口を固く閉じる少女を横目に、俺は川から離れるように歩き出した⋯⋯はずだったが、俺の足は腕をつかんだ少女によって止められてしまった。
 振り返ると、少女は目を閉じて小首をかしげながら、ぎゅっと俺の腕を握る手に力を込めた。

「わかりました⋯⋯静かに暮らしたいなら何も言いません。でも⋯⋯望さんこの世界のこと何も知らないと思うので、しばらく私にお世話をさせてもらえませんか」

「お世話⋯⋯ねえ」

 確かに俺は今のところこの世界に関して何も知らない。
 この世界の人々がどんな穀物や肉を食べるのかも、どんな家に住んで、どんなものを嗜むのかもその一切を知らずにいる。
 今わかっていることは、この世界でも日が昇り、そして沈んでいくということだけだ。

 なぜ彼女がそうまでして俺にかかわりたいのかは見当もつかないが、生きる手助けをしてくれるなら、断る理由も見当たらない。

「わかった。悪いが世話になる」

 俺が言うと、少女は腕を話し、顔を花が咲くように晴れさせた。

「ほんとですかっ」

「ただし、本当に静かに暮らすだけだからな。何も期待するなよ」

「わかりました。肝に銘じておきます」

 少女は右手で手刀をつくり、その内側側面をおでこに沿わせて快活に答えた。

「で、今更だけど、君の名前は」

「はい。私のことはルナとお呼びください」

「っ⋯⋯、わかった」

 顔に満面の花を咲かせたルナを見て、思わず胸が高鳴ったが、それは秘密にしておこうと、顔に力を入れながら、平静を装って頷いた。

「じゃあルナ。とりあえず住むところを一緒に探してくれ」

「はい。お任せください。私と望さんの新居ですね」

「はぁ!?」

 昨日食べた麦が口から飛び出すかと思って胸を叩く。そういえば、死ぬ間際の人間は食事もできなくなることが多いが、俺は直前まで普通に食べていたと、ほんの少し自分の生命力の強さを誇らしく思った。

「へ? 何か間違ってますか?」

「いや、なんで一緒に住むみたいになってんの」

「だってお世話係ですし。当然じゃないですか」

 まるで有無を言わせないという力強い語気が、俺の上にのしかかってくる。
 この女⋯⋯さては妲己よりも強かかもしれない。

 魚も西伯候のような人材も釣れなかったが、代わりに俺はとんでもない猫を釣り上げてしまったらしい。





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