障子目蔵が前世を思い出した話
冷たい川風が、頬の傷にひりついた。
河川敷の土手にしゃがみ込むと、湿った草の匂いが鼻を刺す。行く当てもなく、歩き続けて、気づけばここに辿り着いていた。
両親がヴィラン犯罪に巻き込まれてで死んだのは、16歳の冬だった。
親戚もおらず、仁は“働き口があるなら”と、
住み込みの仕事場に放り込まれた。
寝床と三度の食事があるだけの場所。
そこでひたすら働き、叱られ、黙って従った。
——それしか生きる方法がなかったからだ。
だが数ヶ月前。
重要な取引先の相手と、仁は小さな事故を起こしてしまった。
ほんの接触事故。
けれど、住み込みの雇い主は、
「せっかく拾ってやったのにお前のせいで全て台無しだ」と仁を即日解雇した。
謝罪も、弁解も、誰も聞いてくれなかった。
仕事場から追い出されたその日、
仁は手持ちの小さな荷物を抱えて、街を彷徨った。
戻れる場所など最初からない。
頼れる相手も、迎えに来てくれる大人もいない。
「……俺ばっかりなんでこんな思いをしなくちゃならないんだ」
川の音にかき消される程度の声で呟く。
誰も答えない。
答えてくれる人間なんて、仁の人生には存在しなかった。
だから仁は思った。
——ここで消えたって、誰にも気づかれない。
その瞬間。
河川敷の静寂が、ふっと揺れたような気がした。
「ねえ、そこのお兄さんなにしてるの?」
幼い声が響いたとき、仁はびくりと肩を震わせた。
振り返れば、まだ背丈も仁の腰ほどしかない白髪の子どもが立っていた。
目はまっすぐ。無垢で、濁りのない光をしていた。
「……あ? ああ……ちょっと、お兄さん運が悪いみたいでなぁ……」
声が震える。
ずっと震えていた。
誰も聞いちゃくれない世界で、ずっとひび割れていた。
子どもは一歩近づいた。
逃げもしないし、怖がりもしない。
むしろ、仁の“震え”をじっと見つめていた。
「運……? 悪いって、どうして?」
その言葉が、やけに優しく聞こえた。だからかな、こんなガキに全てをゲロっちまったのは
「……なあ、なんで、俺だけ……俺だけっ……!」
堰を切ったように、仁の喉から声が溢れた。
止められなかった。幼いガキにこんなこと話すべきじゃないなんて、そんなのわかってる。
でも、誰も俺の話を聴いてくれない。
いくら叫んでも誰も振り返らない。
助けてなんてくれなかった。
「ヒーローは何も助けてくれないっ! 父さんも母さんも……ヒーローは助けてくれなかった! なんでっ……なんで……誰も俺の話を聴いてくれないし、誰も助けてくれないんだ!? あぁ……運が悪かったのか……ただそれだけだ……」
膝が崩れそうなほど体が重かった。
そのとき――
小さな影が、そっと近づいてきた。
障子目蔵は、自分の小さな身体から伸ばした“腕”を器用に動かし、静かに仁の前へと近づいてきた。
握りしめるでも、掴むでもなく俺を小さな身体で抱きしめてきた。
ただここにいるよ。
大丈夫だよ。と言っているかのような温もりがつたわってくる。
「……痛いね」
その言葉は、驚くほど静かだった。
仁は顔を上げた。
「誰も話を聴いてくれなくて助けてくれないのは苦しいよ…」
幼いくせに――いや、幼いからこそ。
余計な偽善も、見栄もなく。
仁の感情を真っ直ぐ受け止める目をしていた。
「ぼくでよければ……話、聞くよ」
その瞬間、仁の胸がぐらりと揺れた。
誰も聞いてくれなかった叫びを、
“ただ聞こうとしてくれる”子どもが前にいる。
「……なんでだよ……なんで……お前みてえなガキが……」
「だって、泣いてる人を放っておくのは嫌だから。それにね、あなたの気持ち分かる気がするんだ。僕もね、父さんと母さんが居なくてね、おばあちゃんが引き取ってくれたんだけど、そこはとっても田舎で異型差別が酷い場所だったんだ。だからわかるよ。」
分倍河原仁は思わず息を呑んだ。こんな幼い子がっ…と…
それでも障子の声は穏やかだった。
それはヒーローの決め台詞でも、恩着せがましい正義でもない。
ただの、少年の誠実さだった。
仁は、その誠実さに――
はじめて救われた気がした。
思わず、涙が溢れだして止まってくれない。みっともなく泣いていたらそのガキがその個性の手を伸ばして撫でてくれたんだ…
自然に言葉が出た。
「ありがとな…」
そのガキは頷いて俺が落ち着くまでずっと寄り添ってくれたんだ。
「なああんた名前は?」
仁の声はもう震えていなかった。
「障子目蔵。あなたは?」
夕焼けに染まる河川敷の影が、二人の距離をそっと包む。
朱色の光が川面を揺らし、仁の頬を赤く照らした。
「分倍河原仁」
「仁君!いい名前だね。」
「あぁそうだろう!」
小さな声にも、わずかに自信が混ざる。
夕日の暖かさが、心の奥まで届くようだった。
「これからどうするの…?」
「……あぁこれからどうしようかな…ははっ…」
肩の力が抜けず、笑いは少しぎこちない。
「ん〜そうだ!僕がいる孤児院に相談してみようよ!!」
「その…いいのか…?」
ふと、目蔵は顔を斜め上にあげた。
「ねえ、駄目ですか? 田所さん」
「すみません…話に入るタイミングを見失い…」
その間、仁はただ黙って二人を見つめていた。
胸の奥にまだ残る不安が、言葉にならず胸を押さえつける。
「そうですね。まず仁君、初めまして。目蔵くんが所属している孤児院の院長先生をしています。田所です」
仁はかすかに目を見開いた。院長…?
「こんな軽い言葉をかけるべきなのか分かりませんが、今までよく頑張りましたね」
声は優しく、しかし強さを帯びていた。
分倍河原の心に、少しずつ落ち着きが戻る。
「ところで、うちの孤児院はここ最近できて私立経営なので、受け入れる人数や年齢は比較的自由にできますし、正直人手が足りなくて手が回っていない所もあります」
分倍河原は息を飲む。
「なので仁君さえよろしければ、是非うちで住み込みで働いていませんか? それと、ゆっくりでいいので高校を目指しませんか? あなたは義務教育は終わりましたがまだ、大人の庇護下にあるべき子どもです」
仁は言葉を詰まらせ、でも聞き返すこともできず、ただうなずいた。
「また、うちでは高校、大学まで行ける制度があります。それに、もし高校、大学を卒業しても職員としてなら孤児院にそのまま住んでいいことになってます」
そんな、自由にしてくれる場所があるなんて。胸の奥で、小さな希望が芽生えた。
初めて、自分を守ってくれるこの大人の存在を、ほんの少し信じてもいいかもしれないと思えたんだ。
「あのっ、よろしくお願いします!!」
分倍河原は勢いよく頭を下げた。
夕焼けが河川敷を赤く染め、仁の背中をほんのり温かく照らしている。
胸の奥がぎゅっと熱くなる――長く感じた孤独のせいだろうか。
「ええ、こちらこそよろしくお願いします。今日、行く当てがないならもう今日から住み始めるのでも大丈夫ですよ」
田所は穏やかな声で答える。
「あとは、戸籍に登録してる住所の変更とか、他にも色々書類がありますので、一緒に進めていきましょうね」
仁は小さく頷いた。
言葉に詰まることもなく、胸が少し軽くなるのを感じた。
障子はめいっぱい目を輝かせながら
「よかったね、仁君」と言った。
「あぁ…ほんとにありがとう。」
障子の目が真っ直ぐ仁を見つめ、夕焼けの茜色を反射して光った。分倍河原はその光の中に小さな希望を見つけた気がした。
河川敷の土手にしゃがみ込むと、湿った草の匂いが鼻を刺す。行く当てもなく、歩き続けて、気づけばここに辿り着いていた。
両親がヴィラン犯罪に巻き込まれてで死んだのは、16歳の冬だった。
親戚もおらず、仁は“働き口があるなら”と、
住み込みの仕事場に放り込まれた。
寝床と三度の食事があるだけの場所。
そこでひたすら働き、叱られ、黙って従った。
——それしか生きる方法がなかったからだ。
だが数ヶ月前。
重要な取引先の相手と、仁は小さな事故を起こしてしまった。
ほんの接触事故。
けれど、住み込みの雇い主は、
「せっかく拾ってやったのにお前のせいで全て台無しだ」と仁を即日解雇した。
謝罪も、弁解も、誰も聞いてくれなかった。
仕事場から追い出されたその日、
仁は手持ちの小さな荷物を抱えて、街を彷徨った。
戻れる場所など最初からない。
頼れる相手も、迎えに来てくれる大人もいない。
「……俺ばっかりなんでこんな思いをしなくちゃならないんだ」
川の音にかき消される程度の声で呟く。
誰も答えない。
答えてくれる人間なんて、仁の人生には存在しなかった。
だから仁は思った。
——ここで消えたって、誰にも気づかれない。
その瞬間。
河川敷の静寂が、ふっと揺れたような気がした。
「ねえ、そこのお兄さんなにしてるの?」
幼い声が響いたとき、仁はびくりと肩を震わせた。
振り返れば、まだ背丈も仁の腰ほどしかない白髪の子どもが立っていた。
目はまっすぐ。無垢で、濁りのない光をしていた。
「……あ? ああ……ちょっと、お兄さん運が悪いみたいでなぁ……」
声が震える。
ずっと震えていた。
誰も聞いちゃくれない世界で、ずっとひび割れていた。
子どもは一歩近づいた。
逃げもしないし、怖がりもしない。
むしろ、仁の“震え”をじっと見つめていた。
「運……? 悪いって、どうして?」
その言葉が、やけに優しく聞こえた。だからかな、こんなガキに全てをゲロっちまったのは
「……なあ、なんで、俺だけ……俺だけっ……!」
堰を切ったように、仁の喉から声が溢れた。
止められなかった。幼いガキにこんなこと話すべきじゃないなんて、そんなのわかってる。
でも、誰も俺の話を聴いてくれない。
いくら叫んでも誰も振り返らない。
助けてなんてくれなかった。
「ヒーローは何も助けてくれないっ! 父さんも母さんも……ヒーローは助けてくれなかった! なんでっ……なんで……誰も俺の話を聴いてくれないし、誰も助けてくれないんだ!? あぁ……運が悪かったのか……ただそれだけだ……」
膝が崩れそうなほど体が重かった。
そのとき――
小さな影が、そっと近づいてきた。
障子目蔵は、自分の小さな身体から伸ばした“腕”を器用に動かし、静かに仁の前へと近づいてきた。
握りしめるでも、掴むでもなく俺を小さな身体で抱きしめてきた。
ただここにいるよ。
大丈夫だよ。と言っているかのような温もりがつたわってくる。
「……痛いね」
その言葉は、驚くほど静かだった。
仁は顔を上げた。
「誰も話を聴いてくれなくて助けてくれないのは苦しいよ…」
幼いくせに――いや、幼いからこそ。
余計な偽善も、見栄もなく。
仁の感情を真っ直ぐ受け止める目をしていた。
「ぼくでよければ……話、聞くよ」
その瞬間、仁の胸がぐらりと揺れた。
誰も聞いてくれなかった叫びを、
“ただ聞こうとしてくれる”子どもが前にいる。
「……なんでだよ……なんで……お前みてえなガキが……」
「だって、泣いてる人を放っておくのは嫌だから。それにね、あなたの気持ち分かる気がするんだ。僕もね、父さんと母さんが居なくてね、おばあちゃんが引き取ってくれたんだけど、そこはとっても田舎で異型差別が酷い場所だったんだ。だからわかるよ。」
分倍河原仁は思わず息を呑んだ。こんな幼い子がっ…と…
それでも障子の声は穏やかだった。
それはヒーローの決め台詞でも、恩着せがましい正義でもない。
ただの、少年の誠実さだった。
仁は、その誠実さに――
はじめて救われた気がした。
思わず、涙が溢れだして止まってくれない。みっともなく泣いていたらそのガキがその個性の手を伸ばして撫でてくれたんだ…
自然に言葉が出た。
「ありがとな…」
そのガキは頷いて俺が落ち着くまでずっと寄り添ってくれたんだ。
「なああんた名前は?」
仁の声はもう震えていなかった。
「障子目蔵。あなたは?」
夕焼けに染まる河川敷の影が、二人の距離をそっと包む。
朱色の光が川面を揺らし、仁の頬を赤く照らした。
「分倍河原仁」
「仁君!いい名前だね。」
「あぁそうだろう!」
小さな声にも、わずかに自信が混ざる。
夕日の暖かさが、心の奥まで届くようだった。
「これからどうするの…?」
「……あぁこれからどうしようかな…ははっ…」
肩の力が抜けず、笑いは少しぎこちない。
「ん〜そうだ!僕がいる孤児院に相談してみようよ!!」
「その…いいのか…?」
ふと、目蔵は顔を斜め上にあげた。
「ねえ、駄目ですか? 田所さん」
「すみません…話に入るタイミングを見失い…」
その間、仁はただ黙って二人を見つめていた。
胸の奥にまだ残る不安が、言葉にならず胸を押さえつける。
「そうですね。まず仁君、初めまして。目蔵くんが所属している孤児院の院長先生をしています。田所です」
仁はかすかに目を見開いた。院長…?
「こんな軽い言葉をかけるべきなのか分かりませんが、今までよく頑張りましたね」
声は優しく、しかし強さを帯びていた。
分倍河原の心に、少しずつ落ち着きが戻る。
「ところで、うちの孤児院はここ最近できて私立経営なので、受け入れる人数や年齢は比較的自由にできますし、正直人手が足りなくて手が回っていない所もあります」
分倍河原は息を飲む。
「なので仁君さえよろしければ、是非うちで住み込みで働いていませんか? それと、ゆっくりでいいので高校を目指しませんか? あなたは義務教育は終わりましたがまだ、大人の庇護下にあるべき子どもです」
仁は言葉を詰まらせ、でも聞き返すこともできず、ただうなずいた。
「また、うちでは高校、大学まで行ける制度があります。それに、もし高校、大学を卒業しても職員としてなら孤児院にそのまま住んでいいことになってます」
そんな、自由にしてくれる場所があるなんて。胸の奥で、小さな希望が芽生えた。
初めて、自分を守ってくれるこの大人の存在を、ほんの少し信じてもいいかもしれないと思えたんだ。
「あのっ、よろしくお願いします!!」
分倍河原は勢いよく頭を下げた。
夕焼けが河川敷を赤く染め、仁の背中をほんのり温かく照らしている。
胸の奥がぎゅっと熱くなる――長く感じた孤独のせいだろうか。
「ええ、こちらこそよろしくお願いします。今日、行く当てがないならもう今日から住み始めるのでも大丈夫ですよ」
田所は穏やかな声で答える。
「あとは、戸籍に登録してる住所の変更とか、他にも色々書類がありますので、一緒に進めていきましょうね」
仁は小さく頷いた。
言葉に詰まることもなく、胸が少し軽くなるのを感じた。
障子はめいっぱい目を輝かせながら
「よかったね、仁君」と言った。
「あぁ…ほんとにありがとう。」
障子の目が真っ直ぐ仁を見つめ、夕焼けの茜色を反射して光った。分倍河原はその光の中に小さな希望を見つけた気がした。
