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第2章 不良品なのは、

仕事があるからと灯の秘書のような女に連れられてその場から離れていく彼女の背中を見送る。申し訳なさそうにちらちらとだけ視線を送ってくる彼女の姿はまるで人見知りの少女のように見えた。知らない人間のような彼女の姿に自分が今まで信じて来たものがなんだったのかを疑いそうになってしまうのを振り払うように唯我は1人首を左右に軽く振る。
そうしてようやく彼女の姿が見えなくなった頃、何故か戸惑ったままの灯に「説明するから」と連れられ場所を移す事になった。
説明というのが何についてのものかはわからないが、早く終わらせて彼女に会いたい。
唯我は抵抗する様子もなく灯について行った。

それからは連れられた部屋の中で事情聴取でもされる犯罪者のように灯から一方的に話を聞かれた。今までどうしていたんだとか、意識があるのはいつからだとか、どうしてここにいたのかとか、そんな話を延々とさせられる。あまりにも長かったせいか気付けば部屋の中には灯の弟や灯の秘書までもが揃っていた。どういう状況なのかは分からなくなる一方だ。聴きたい事があったのはどちらかといえばこっちの方だったはずなのに。話せば話すほど、怯えるような表情や震える身体をした見た事のない彼女の姿のことを思い出してしまう。
あれは何だったんだろう。彼女は何故あんな怖がっていたんだろう。俺が灯に怒ってたのを自分にだと勘違いしたのかな。
灯と話している間も唯我の視線は入り口のドアに釘付けになっていた。病室で病院の中庭を見つめていた時のことを思い出す。早く会いたい。しかし、やはり仕事が落ち着く時間になっても、彼女はいつまで経っても現れなかった。

「ねぇ灯、奈美はどうして会いに来てくれないのかな。俺、手術終わったんだよ…?」
戸惑いと嫌な予感が止まらずに苛立ちを重ねた言葉で灯に問いかける。きっといつも通りに作ったはずの笑顔は何処となく引き攣っていたに違いない。
唯我の言葉に複雑そうな表情をした灯は何も答えずに視線を外し眉を顰めた。何か知っていることを確信した唯我が灯の胸ぐらを掴み上げる前に、灯の後ろに控えるように立っていた灯の弟でもある赤茶髪をしたパンクロックな服装の青年ーーー星野煉ーーーが灯を押しのけるように唯我の前に躍り出る。
「あのなぁ、お前が手術した日から数年が経ってんだよ。お前以外はみんなもうそれだけの時間を前に歩いてる。」
ぶっきらぼうに吐き捨てられた言葉の意味を飲み込めずに困惑する。困惑し過ぎて声らしい声も絞り出せない唯我に構うこともなく煉は容赦なく言葉を続けた。
「お前がいつまで経ってもちゃんと起きてこないから兄貴は数年前に既に『アレ』を奈美に渡したんだ。…とりあえず最初から俺が全部説明してやるからよく聞け。」
アレ、と言われて思い付くものは1つだけ。言葉も発せないほどの混乱の中で、そこからは淡々と紡がれていく煉の言葉に真実を1枚ずつ丁寧に突き付けられていった。

今は手術の日から数年が経っていること。
彼女は手術の日から比較的早くに俺の手紙を受け取り、既に読んでいること。
それはつまり今の彼女は俺と死別しているつもりで、俺の彼女ではないということ。
俺の身体に、俺ではない俺が存在していたこと。その間に彼女とは疎遠になったこと。
そして昔のままの俺が戻って来た事を、時間を経た彼女本人が今、怖がっていること。

訳がわからなかった思考回路にじわじわと理解が染み渡っていくのを感じる。混乱や困惑で歪んでいたモノが真実によって歪みを奪われ点と点が繋がる感覚が確かにあった。
モニターに映し出されていたあの「誰か」の日常の意味も、彼女が腕の中で怯えた理由も、灯が俺を睨んだ理由も、今ここに彼女が来ないのも、全てをやっと理解した。そして、それと同時に思い知った。
彼女は、もう俺なんか待っていなかったのだ。彼女は、もう俺の彼女じゃなかったのだ。惨めたらしくその事実にしがみついて必死に帰って来てしまったのに、俺がやって来た事は全部無駄だった。
「じゃあ俺、別れてるんだ…生きてるのに…」
言葉にすると実感が溢れて胸が苦しくなった。夢だと言って欲しい。ただの悪夢だと言われたい。そんな気持ちからか語尾は力無く消え入った。
「…恨み言なら聞く。」
唯我の言葉を聞いて灯が端的に肯定する言葉を漏らす。何故か全ての責任は自分にあると言いたげな面持ちをしていた。
恨み言。そんなもの、言っても無駄なだけだ。言っても何一つ現状は変わらない事に努力するだけの無駄な力はもう身体に残っていない気がした。
少し間を空けて煉が再び口を開いた頃にはその声はもう唯我には届いていなかった。視線はぼんやりと少し下の虚空を舞い、力無くその場に膝を付く。するとその勢いに釣られてか腰までが落ちて来て、正座するような状態になった。何を思ったか灯が秘書を連れてその場を出ていくのをその足元だけの世界の視界の端に僅かに捉えて理解する。そんなの、もうどうでもいいけれど。
足が止まらないように歩き続けたあの辛い世界のことを褒めてくれる人はもういない。
手術の不安と会えない苦しさを分かち合い手を握ってくれる温かさも、今までの全てを帳消しにしてくれるような幸福も、思い描いた未来も、もう何一つなくなってしまった。

ずっと、幼い頃から「普通じゃない」俺が不良品で出来損ないだったのだと思っていた。でも「普通」になった俺は今度は今の世界にとっての異物になってしまった。
それはつまり、不良品だったのは俺の身体にではなくて、本当は「俺自身」だったということだ。

「あは…、」
可笑しい。本当に笑える。とんだ道化だ。
乾いた笑い声が漏れた。笑みを隠すように身体を床に倒して身体を丸める。部屋の中のはずなのに雨が降っているのか高そうな絨毯が濡れたのが見えた。雨の勢いは増すばかりだ。笑い声は直ぐにかき消された。気付くと、笑い声だったはずのものは、いつしか嗚咽に変わっていた。

俺の人生は終っていたはずだったのだ。
それを知らなかったのは俺だけだった。
知らないから努力なんかしてしまった。
努力なんかしたから彼女を怖がらせるような存在になってしまった。
不良品で、出来損ないで、異物な俺が、幸せになるなんて許されるはずがなかったのに。不良品な自分が物語の「主人公」な訳がなかったのに。
「…死ねば、良かった…」
嗚咽の合間に自分以外聞き取れない程度の音量で言葉が漏れる。それが建前なのか、本心なのか、良心なのか、懺悔なのか、自責なのか、当て付けなのかはもう唯我にも分からなかった。
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