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第2章 不良品なのは、

ある日の朝、窓から入って来た朝の日差しに起こされて目を覚ますと妙に頭がスッキリしていた。
あの異質な夢のせいか、遥か昔に見たもののように思える自室のベッドの上で1人上半身を起こす。そこでふと今まで一切無くなっていたはずの身体の感覚があることに気付いた。触覚、嗅覚、聴覚。あの夢では感じ取れなかった全てがそこにあった。
「……あー…。」
半信半疑で小さく声を出してみる。マイクのテストでもするようなその不格好な発声ですら、久しぶりに聞くしっかりした音のせいか自分の声のせいか嬉しくなってしまいそうな自分がいた。
不意に何かを思い出し、慌ててクローゼットを漁る。見慣れない服が何着かあった気がしたが手術の後遺症で忘れているかもしれないし、そんなのはどうでも良かった。早く会いに行かなければならない。待ちに待った彼女に会えるのだ。今度こそ、「普通」になった自分で。
適当なデザインシャツとズボンをクローゼットから取り出して着込み軽くジャケットを羽織って走り出す。今日が何曜日かは覚えていないが彼女は灯の会社に毎朝出社するはずだ。
走って直ぐに窒息しそうなほど胸が苦しくなる事のない身体に胸が躍るのを止められない。勿論少しすれば息は切れるのだろうが、そういうことではなかった。確実にこれは今までの身体とは違うのだと実感できる喜び。今まさに自分は「普通」になったのだと。

自宅から程近い灯の会社に辿り着き足を止め、行き交う人の中を目を皿のようにしてただ1人の姿だけを探す。有象無象の人間の中に一際輝くように見える女性の後ろ姿を入り口辺りに見つけて涙が溢れそうなほどの幸福感を覚えた。見間違うはずも無かった。その人に何度強く会いたいと望んだか、その人に会えるという希望だけで何度立ち上がったか分からない。
後ろから抱き締めたら見せるであろう凄くびっくりする顔や声も、目を伏せるだけで簡単に鮮明に脳裏に思い浮かぶ。そして彼女は泣きながら微笑んで、きっとこう言うのだ。『ずっと待ってた。帰って来てくれてありがとう。でも今度は置いていくんじゃなくて、ずっと一緒に居てね。』と。

気付けば彼女に向かって一目散に駆け出していた。人並みを縫うように走り、直ぐ後ろに迫ってから彼女の腕を軽く掴んでその身体を引き寄せる。遥か遠い昔に抱き締めた事のある、その身体を抱き締めて幸福感を噛み締めるように目を伏せた。
「…奈美…、会いたかった…。」
心からの気持ちを込めて呟くように囁いた言葉。それなのに何故だろう。彼女からは戸惑いの声しか返ってこない。
もしかして顔が見えなかったかな、と慌てて相手の顔を覗き込もうとすると同時に2人の身体の間に骨ばった何かがが差し込まれたのを感じ、それが差し込まれた方に視線を向けると、そこに忌々しそうに此方を睨む灯の姿があった。
手術から生還した友人を前に喜ぶべきであろうタイミングで睨み付けられる事への違和感と不快感。それに恋人同士の再会を喜ぶ場面を邪魔された事実に腑が煮え繰り返るような憤りが込み上げて来て、人生で何度かしかした事のない威圧的な視線で灯を睨み返した。
「…灯、何してるの?…早く離して。」
目の当たりにしたことのない憤りを見たせいか、普段は高い声しか出さないはずの唯我の低めの声が出た事に驚いたのか、灯は軽く目を見開き数秒停止してから今まさにその相手が誰だかを理解したかのように声を漏らす。
「…唯我…?」
幼い頃から見間違えるはずもないほど隣にいた自分を他の誰と間違えたというのか。2人の身体に挟まっていた灯の手が力無く垂れ下がり、2人を隔てるものがなくなってようやく彼女の方に向き直ると、目の前の彼女は褒めてくれるわけでも喜んでくれるわけでもなく、ただ怯えるように身体を震わせ顔を強張らせていた。何も発しないままの彼女の表情ひとつでそれまで脳内の中を占拠していた「何か」と幸福感は音を立てて崩れ落ち、唯我は彼女を抱き締めていたはずの両腕を力なく下ろして静止する。

何故だろう。愛しい彼女を前にしたのに世界が足元から壊れる音がした気がした。
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