第1章 人生が終わった日。
「…唯我、手術を受けろ。彼女もそれを望んでいる。」
薬の効き目が切れたのか目が覚めると部屋の中のスピーカーから聴き慣れた声が聞こえた。様々な薬を投与されて来たせいか先程の麻酔が弱かったのか特段眠気はなく、勿論その言葉の意味は理解出来たが納得する事はできなかった。
こうしている間も彼女の事が気にかかる。寂しくしていないだろうか。悲しんでいないだろうか。もしもそうだったら未だ生きているのだから俺が会いに行けば良いだけの話だ。
身体のこと?将来のこと?そんな不確定要素どうでも良かった。彼女に会いたい。生きている限り全てを賭して彼女を愛して甘やかしたい。俺のことを一生忘れる事が出来ないほどに愛してほしい。
それこそが生きた意味になるのだと唯我は信じていた。
「彼女に会いたい…それだけで良いんだ、俺…彼女を…俺から奪わないで…」
自分の声が向こうに聞こえているのかは分からないが、叫んだせいで掠れた声を灯に向けて絞り出した。灯からの返答はない。
絶え間なく垂れ流される無駄な時間への怒りと焦りから程なく唯我が再び暴れ叫び出すと、やはり先程同様に部屋に踏み込んでくる誰か達に取り押さえられ麻酔で意識を失わせられた。
そこからは、目が覚めて、声を掛けられて暴れて、薬を打たれるという地獄のループが続いた。永遠に抗っていれば灯がいつか見捨てて諦めてくれるかもしれないと淡い期待を寄せたせいで、そんな地獄のようなループは昼夜問わず数日に渡って繰り返された。おかげで唯我の首は注射痕で見るも無惨な状態になったが、唯我はそんな事どうでも良かった。
「俺はお前を絶対に見捨てない。…彼女のために未来を生きる決意をしてくれ、頼む。」
数日たったある日、意識を取り戻すと滅菌服らしい服を全身着込んだ灯がベッドの横に置かれていた椅子に腰掛けていた。スピーカー越しでない声で話しかけて来た灯の久しぶりの声は機械を通していないせいか僅かに震えているように聞こえる。
正直なことを言えば、やはり納得は出来なかった。それでも、このままこうやって同じことを繰り返していても無駄な時間が垂れ流されていくだけなのだという事は理解出来た。
「…もう、分かった。手術する。…しないと、ずっとこのままなんでしょ。」
諦めたように言葉を紡いだ。彼女に会えずに死んでいくのならその場所は病室だろうとゴミ捨て場だろうと自分にとっては同じ事だ。今出来ることは生き残れる僅かな希望に賭ける事だけ。
「…あぁ、そうだ。」
非情な程に淡々と返ってきた言葉に涙が溢れた。一生を掛けた彼女を取り上げて手術しないと会わせないなんて脅すような友人なんて聞いた事がない。もし灯が死んでもいいほどの相手に会えた事をただ喜んでくれたなら無謀な自分の夢は叶ったかもしれないのに。
現実と理想の間が深い事に心から絶望した。自分の友達が自分を理解してくれなかった事を心から疎ましく思った。気付けば、赤ん坊のように大きな声を上げて泣いていた。
彼女に会いたい。もう一度声が聞きたい。また一緒に時間を過ごして、愛してると言われたい。手術が失敗したら、もう会えないのに。全て消えてなくなってしまうのに。出来損ないでごめん。不良品でごめん。俺が、愛してしまってごめん。
不安と後悔と懺悔が入り混じり気がおかしくなりそうだ。自分の五月蝿い声が聞こえて酷く滑稽なはずなのに涙が止まらなかった。そうして唯我は隣に灯がいるのも構わずに泣き続けた。
「涙って泣いても枯れないんだって。…俺は何で、落ち着いたんだろう…。」
どのくらい泣いたか、泣き疲れて少し落ち着いた頃にふと彼女が昔口にしていた言葉を思い出した。彼女は辛い時ずっと泣いていられるのにどうして自分は泣けないんだろう。と考えてから、やっぱり自分が出来損ないで不良品だからか。と1人自己完結して自嘲する。どんな時でも考えずにはいられなかった。この身体が、もしも最初から「普通」であったならと。
ふと見ると、こちらの自嘲に気付いたらしい灯が言葉を選ぶように視線を泳がせているのが視界に入った。唯我は鼻を啜りながら精一杯、いつもの微笑みを浮かべる。
「もう逃げないから、これ外して、紙とペン貸して。手紙書きたい。」
本当に逃げる気はもう無かった。逃げた所できっと灯は執拗に追いかけて来るだろうし、彼女に会ったら自分は間違いなく手術したくなくなってしまうだろう。
それを知ってか知らずか此方へ返答もせずに直ぐに席を立った灯は出入り口付近で立ち止まり、別の誰かに話しかけた。その誰かはしばらく不審そうにこちらを見つめていたが、程なくして数日ぶりに自分の身体をベッドへと縛り付けていた拘束は解かれ、代わりに要望通りの便箋とペンが手渡された。さっきまで張り付いていた灯はそれと入れ替わるように姿を消し、部屋の中は機械音が響くだけのつまらない病室へと姿を変える。幼い頃からずっと見ていた慣れた景色だ。違うのはここが窓のない閉鎖的な空間である事だけ。
1人で病室のベッドに備え付けられた見慣れた簡易テーブルで早速手紙をしたため始める。勿論、相手は彼女1人だ。
手紙の中では言えなかった事を全て話してしまおうと決めた。この手紙が届いた時は彼女を迎えに行けない時で、きっと俺の人生が終わってしまった日になるはずだから。
その日には、叶えたかった夢を見る心はきっともう無い。でも、叶わなかった絶望に打ちひしがれる記憶も、もうそこには無いのだろう。
身体も、心も、記憶も、何も。
だから手紙には彼女への精一杯の愛と感謝と、そして本当は弱くて狡い自分への告白と懺悔を全て書き記した。
途中で何回か字が滲んだのは窓のない部屋に降った急な夕立のせいだと思い込んで見ないふりをした。書き直しはしなかった。
…だって、それは彼女に最後に届く自分の本心の一欠片だと思えてならなかったから。
手紙を書き終え折って封筒に入れた所で戻って来たらしい灯に封筒を差し出した。
「これ、もしもの時は渡してね。」
一瞬此方を見つめて複雑そうな表情を浮かべたように見えた灯も封筒を受け取ると大きく頷いてくれる。他に頼める相手もいないが、灯がちゃんと約束を守る男だと信じていたからこそ託せたところもあるだろう。心残りは無いわけじゃないが、やるべき事はやった。あとは運に身を任せるだけだ。
その翌日、俺は手術を受けた。
…そして、その日。
俺の人生は終わっていなかったはずなのに、彼女の中で俺の人生は、終わった。
薬の効き目が切れたのか目が覚めると部屋の中のスピーカーから聴き慣れた声が聞こえた。様々な薬を投与されて来たせいか先程の麻酔が弱かったのか特段眠気はなく、勿論その言葉の意味は理解出来たが納得する事はできなかった。
こうしている間も彼女の事が気にかかる。寂しくしていないだろうか。悲しんでいないだろうか。もしもそうだったら未だ生きているのだから俺が会いに行けば良いだけの話だ。
身体のこと?将来のこと?そんな不確定要素どうでも良かった。彼女に会いたい。生きている限り全てを賭して彼女を愛して甘やかしたい。俺のことを一生忘れる事が出来ないほどに愛してほしい。
それこそが生きた意味になるのだと唯我は信じていた。
「彼女に会いたい…それだけで良いんだ、俺…彼女を…俺から奪わないで…」
自分の声が向こうに聞こえているのかは分からないが、叫んだせいで掠れた声を灯に向けて絞り出した。灯からの返答はない。
絶え間なく垂れ流される無駄な時間への怒りと焦りから程なく唯我が再び暴れ叫び出すと、やはり先程同様に部屋に踏み込んでくる誰か達に取り押さえられ麻酔で意識を失わせられた。
そこからは、目が覚めて、声を掛けられて暴れて、薬を打たれるという地獄のループが続いた。永遠に抗っていれば灯がいつか見捨てて諦めてくれるかもしれないと淡い期待を寄せたせいで、そんな地獄のようなループは昼夜問わず数日に渡って繰り返された。おかげで唯我の首は注射痕で見るも無惨な状態になったが、唯我はそんな事どうでも良かった。
「俺はお前を絶対に見捨てない。…彼女のために未来を生きる決意をしてくれ、頼む。」
数日たったある日、意識を取り戻すと滅菌服らしい服を全身着込んだ灯がベッドの横に置かれていた椅子に腰掛けていた。スピーカー越しでない声で話しかけて来た灯の久しぶりの声は機械を通していないせいか僅かに震えているように聞こえる。
正直なことを言えば、やはり納得は出来なかった。それでも、このままこうやって同じことを繰り返していても無駄な時間が垂れ流されていくだけなのだという事は理解出来た。
「…もう、分かった。手術する。…しないと、ずっとこのままなんでしょ。」
諦めたように言葉を紡いだ。彼女に会えずに死んでいくのならその場所は病室だろうとゴミ捨て場だろうと自分にとっては同じ事だ。今出来ることは生き残れる僅かな希望に賭ける事だけ。
「…あぁ、そうだ。」
非情な程に淡々と返ってきた言葉に涙が溢れた。一生を掛けた彼女を取り上げて手術しないと会わせないなんて脅すような友人なんて聞いた事がない。もし灯が死んでもいいほどの相手に会えた事をただ喜んでくれたなら無謀な自分の夢は叶ったかもしれないのに。
現実と理想の間が深い事に心から絶望した。自分の友達が自分を理解してくれなかった事を心から疎ましく思った。気付けば、赤ん坊のように大きな声を上げて泣いていた。
彼女に会いたい。もう一度声が聞きたい。また一緒に時間を過ごして、愛してると言われたい。手術が失敗したら、もう会えないのに。全て消えてなくなってしまうのに。出来損ないでごめん。不良品でごめん。俺が、愛してしまってごめん。
不安と後悔と懺悔が入り混じり気がおかしくなりそうだ。自分の五月蝿い声が聞こえて酷く滑稽なはずなのに涙が止まらなかった。そうして唯我は隣に灯がいるのも構わずに泣き続けた。
「涙って泣いても枯れないんだって。…俺は何で、落ち着いたんだろう…。」
どのくらい泣いたか、泣き疲れて少し落ち着いた頃にふと彼女が昔口にしていた言葉を思い出した。彼女は辛い時ずっと泣いていられるのにどうして自分は泣けないんだろう。と考えてから、やっぱり自分が出来損ないで不良品だからか。と1人自己完結して自嘲する。どんな時でも考えずにはいられなかった。この身体が、もしも最初から「普通」であったならと。
ふと見ると、こちらの自嘲に気付いたらしい灯が言葉を選ぶように視線を泳がせているのが視界に入った。唯我は鼻を啜りながら精一杯、いつもの微笑みを浮かべる。
「もう逃げないから、これ外して、紙とペン貸して。手紙書きたい。」
本当に逃げる気はもう無かった。逃げた所できっと灯は執拗に追いかけて来るだろうし、彼女に会ったら自分は間違いなく手術したくなくなってしまうだろう。
それを知ってか知らずか此方へ返答もせずに直ぐに席を立った灯は出入り口付近で立ち止まり、別の誰かに話しかけた。その誰かはしばらく不審そうにこちらを見つめていたが、程なくして数日ぶりに自分の身体をベッドへと縛り付けていた拘束は解かれ、代わりに要望通りの便箋とペンが手渡された。さっきまで張り付いていた灯はそれと入れ替わるように姿を消し、部屋の中は機械音が響くだけのつまらない病室へと姿を変える。幼い頃からずっと見ていた慣れた景色だ。違うのはここが窓のない閉鎖的な空間である事だけ。
1人で病室のベッドに備え付けられた見慣れた簡易テーブルで早速手紙をしたため始める。勿論、相手は彼女1人だ。
手紙の中では言えなかった事を全て話してしまおうと決めた。この手紙が届いた時は彼女を迎えに行けない時で、きっと俺の人生が終わってしまった日になるはずだから。
その日には、叶えたかった夢を見る心はきっともう無い。でも、叶わなかった絶望に打ちひしがれる記憶も、もうそこには無いのだろう。
身体も、心も、記憶も、何も。
だから手紙には彼女への精一杯の愛と感謝と、そして本当は弱くて狡い自分への告白と懺悔を全て書き記した。
途中で何回か字が滲んだのは窓のない部屋に降った急な夕立のせいだと思い込んで見ないふりをした。書き直しはしなかった。
…だって、それは彼女に最後に届く自分の本心の一欠片だと思えてならなかったから。
手紙を書き終え折って封筒に入れた所で戻って来たらしい灯に封筒を差し出した。
「これ、もしもの時は渡してね。」
一瞬此方を見つめて複雑そうな表情を浮かべたように見えた灯も封筒を受け取ると大きく頷いてくれる。他に頼める相手もいないが、灯がちゃんと約束を守る男だと信じていたからこそ託せたところもあるだろう。心残りは無いわけじゃないが、やるべき事はやった。あとは運に身を任せるだけだ。
その翌日、俺は手術を受けた。
…そして、その日。
俺の人生は終わっていなかったはずなのに、彼女の中で俺の人生は、終わった。