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第3章 悪魔は耳元で囁いて。

誘われるようにふらふらと歩いているうちに知らない場所に辿り着いていた。
住居や街灯が少なくなった、都会には似つかわしくもないその場所に「それ」はぽつんと立っていた。その建物は赤というよりはエンジ色を基調とした柱で作られ神社などにも似た純和風の家屋の外観をしているにも関わらず、建物の内外が甘ったるい暖色の照明に照らされているせいで浮世離れしており、この世の物とは思えないところがあった。
「…なんだ、これ。」
店だとすれば看板が見当たらず立地も悪いが一軒家にしては照明と個性が強すぎる不思議な建物を前にして唯我の素直な感想が漏れる。脚はいつの間にか立ち止まっており、視線は月よりも存在感のあるその建物に固定されていた。
ふと、建物の影からギラギラした赤のスパンコールがびっしりとあしらわれた和装じみたドレスを身に纏うーーーわりに身長が低いのか黒の厚底ブーツを履いた中性的な顔立ちのーーー女性が現れた。その女性は唯我を視界に入れて驚いたように一瞬だけ目を見開くも、一呼吸おくと酷く興味深そうに微笑んだ。
「あら、何処から迷い込んできたのかしら。」
女性が紡いだ言葉は独り言なのか唯我に向けられたものだったのかも判別出来ない口調をしていた。着の身着のまま出てきたせいで伸びっぱなしの髭とぼさぼさの髪にお洒落とは程遠い上下セットのスウェットパーカージャージ、それにスニーカーを履いただけのラフな格好の唯我を物珍しそうに上から下まで眺めながら女性らしいクスクスという笑い方でその人が笑う。ゆっくりと少しずつ距離を詰めてくるその人は唯我の直ぐ前までやってきて立ち止まると、唯我の胸あたりに自らの人差し指の先を軽く押し付けるようにしながら歓迎と侮蔑を含むような不思議な言葉を紡いだ。
「…いらっしゃい、死にたがりの野良犬くん。」
おいで、と本当に犬でも呼ぶような素っ気ない一言と共にその人が振り返り歩き出す。何かの引力に引きずられるかのように唯我はその人の後ろをついて歩き建物に入った。
純和風な外観とは若干趣の違う、和モダンといった雰囲気の室内。また、酒がびっしりと並べられたカウンター席やいくつも置かれたソファはお洒落なバーやスナックなどの店を思わせた。
「座んなさい。」
店内に入るなり脇目も振らず1番奥に置かれたソファに向かって歩き、程なくそこに腰掛けたその人に向かいに置かれたソファに座るようにと顎で促され、唯我は言われた通りにそこに腰掛ける。他に一切の物音がしないところを見ると、この店はこの女性1人で経営しているのだろうか。そこそこの時間だというのに客も店員もいない小綺麗な店内は、何処となく唯我の不安を煽った。
「…アンタ、名前は?」
「え?日輪唯我です。」
不意に問いかけられた言葉と小さい見た目とは裏腹な貫禄に押されて反射的に自分の名前を教えてしまい、口にしてからハッとしたように唯我は自らの口元を片手のひらで覆った。その様子から見ず知らずの人間にあっさりと本名を教えてしまった事を理解したその人は、耐えきれず吹き出すようにして愉快そうに笑い始める。
「あっはははは、初対面の人間に馬鹿正直に本名を答えるもんじゃ無いだろうに!」
ぐうの音も出せずに眉を寄せ代わりに苦く笑んでいた唯我に、一区切り着くまで笑い終えたらしいその人は、長いドレスの袖から少しだけ見える綺麗な細い指で何処からか取り出した紙切れを一枚差し出した。
差し出された小さめの紙には様々な色が入り混じる形容しがたいマーブル色の文字が2文字だけ書かれていた。流れるような字体で「朱鳥」とだけ書かれた其れを読み、そこでようやく此れが名刺だと理解して、唯我は文字を覚えたばかりの子供のようにそれを声に出す。
「…朱鳥、さん…?」
「…改めまして、朱鳥です。」
唯我が確認するように名刺に書かれていた名前を呼ぶと、朱鳥はそれに応えるようにゆっくりと立ち上がり、足を軽く交差させてから膝を曲げるようにして深々とお辞儀してみせた。普通に頭を下げないのは胸元や首元に付けられた豪奢なアクセサリーのせいなのか、はたまた作法か何かなのかは唯我にはさっぱり分からなかったが、着物のようなドレスの袖が長いせいか、その姿は名前に恥じない美しく朱い鳥の化身のように思えた。かと思えば、お辞儀を終えた朱鳥は冗談でもいうかのように「なんてね」と言葉を添え、先程までの恭しい動きをあっさりと無かったことにしてソファに身を沈め直してくる。コロコロと変化する朱鳥の表情は似ても似つかない彼女のことを彷彿とさせた。
非日常に塗れて忘れていられるのは一瞬の事だ。結局、全ての事柄が彼女に導かれ繋がって過去の記憶が呼び起こされてしまう。こんなにも、未練たらしく。
「んな事よりさァ、聞かせてよ。唯我が死にたがってる理由。アタシ、不幸自慢されるの大好きなの。」
不意に彼女のことを思い出しぼんやりとしていた唯我の顔を覗き込むように朱鳥がソファから身を乗り出してくる。人の不幸話をまるで好物かのような言い方で話すように求めてくる朱鳥に現実に引き戻され、やはり唯我は苦く微笑った。現実とはいつ何時も残酷だ。

聞いたところで面白くもないのに、と思いながらも何を言っても聞く耳を持たなさそうな朱鳥の圧力に負けて口を開いた。一度口を開くと自分でも驚くほどに言葉は溢れて来た。その現実を受け止めながら唯我は、本当はこの短く長い旅路を、終わりのない不安を、何とも比較できない寂しさを、誰かに聞いて欲しかったのかもしれないとすら思えた。
途中、何度か唯我の目から涙が溢れ嗚咽で言葉が上手く聞き取れなくなっても朱鳥は一切の口を挟まなかった。落ち着くまで待ってくれる優しさが酷く安心出来る穏やかなものだと唯我は初めて知り、話が進むにつれて唯我は酷く朱鳥に感謝を覚えるようにすらなっていた。
一通り話し終えた頃にはすっかり夜は明け、朝になっていた。朱鳥は途中何度か話を止めて酒やら水やらを取りに行っては煽ったが長く聞きづらいその話を全て聞いてくれた。そしてやはり、この店らしき場所に他のお客は一晩経っても誰1人として来なかった。
「…アンタ、浦島太郎だったのねぇ。」
話し終えてようやく口を噤んだ唯我に、朱鳥は何処か遠くを見つめながら唯我を指しているであろう聞き覚えのある物語の登場人物の名前を言葉にした。
浦島太郎。そう言われてみればそうだ。夢のような世界を抜け出て現実に行くと、もうそこにかつてあった自分の居場所は無かった。自分のそれと物語の彼の境遇は結果だけ見れば確かによく似ていた。
浦島太郎はあの物語の後どうなったのだろう。たった1人であの世界を死ぬまで生きたのだろうか。それとも、新しい場所で新しい誰かと出会い幸せになったのだろうか。いや、本当は。全てに絶望して1人で死んでしまったかもしれない。
「…で、唯我。アンタ、これからどうするの?死ぬの?」
帰るの?くらいさらりとした物言いで朱鳥が尋ねてきた言葉に驚いて唯我が俯くように下げていた顔を上げる。死ぬな、生きろ、と言われ続けて来た唯我にとってそれはあまりにも衝撃的な問いかけだった。
「……分からない。」
少し間を開けて絞り出すように呟いたそれは唯我の本心だった。唯我にはもう何も分からなかった。何のために生きているのかも、何のために生きていたのかも、せっかく繋ぎ止められた命を自分勝手に絶ってしまっていいのかも。もう全てが分からないのだ。
「…じゃあ、さ。唯我。」
唯我の返答に少し考えるように視線を泳がせた朱鳥は、何か思いついたのか可愛らしく口元に人差し指を置いて上目遣いに唯我を見上げてから続きの言葉を紡いだ。
「…アタシが魔法で何でも叶えてあげるって言ったらアンタ、何を望む?」
にや、と朱鳥の口端が大きく歪む。綺麗な微笑みとは違った、人の不幸を心底愉しんでいるようなそんな歪な笑い方だった。
「そんなもの…」
「あるさ。アンタが、それを望むなら。」
下らない嘘だ、とカッとなって否定しようとした唯我の言葉を察したかのように間髪入れず朱鳥の言葉が挟み込まれる。
魔法なんかあるはずない。現実に、魔法なんか存在しない。そんなものがあるなら俺はずっと前に救われていたはずだ。それでも。感情のままに上げた睨むような視線にも怯まない朱鳥の強い視線に、心が揺れそうになってしまう自分が確かにそこにいた。
不安定に揺れる視線でもう一度朱鳥を見つめ直す。その瞳には無理だと確信していたはずの自分が揺らぐような不安定さが入り混じっていたに違いない。
そんな唯我を嘲るように、朱鳥は全てを見透かす悪魔のように消え入りそうな声量で囁いた。
「アンタの願いを叶えるには、アンタは………に、ならなきゃならないね。」
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