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第3章 悪魔は耳元で囁いて。

あれから、灯の会社には行っていない。唯我の心を気遣った灯が手を回し長期休暇をくれたせいで仕事の面でも行く必要がなくなったからだ。
しかし休みを与えられたところで唯我には何のやる気も起きなかった。そのために一日中意味も無く、自宅の家の壁を穴が開くほどに眺めて過ごすことになった。
何もしていないと、しまい込んである記憶が呼び起こされるせいで幸福な記憶の中の世界と現実の落差を何度となく実感してしまい、その度に唯我は1人で泣いた。1日に何回、何十回と涙を零し、それを毎日繰り返した。前の自分なら考えられない、無駄に時間を垂れ流すような、そんな日々を。それと同時に、いつか彼女が言っていたようにどれだけ泣いていても人間の涙は枯れないものなんだなと他人事のように感心したりもした。

彼女から事情聴取した時の報告書を読んだ灯や煉が言うには俺から強い好意を向けられなければ話しても問題ないらしいとの事だったが、唯我はそもそもその言葉の信用度を疑っていた。
単に強い好意を向けられるのが怖いだけなのなら彼女はそこそこの確率で人間相手に怯え続けなければならない事になるはずだ。そうじゃないということは、それが自分に限定した事実であるということ。だとすれば、強い好意を向けられなければ問題ないという言葉はあくまで彼女の予測によるものだ。そんな不確定な要素で彼女に恐怖を与えるかもしれないのはごめんだ、と唯我は思った。
だから、偶然を操る神の悪戯で彼女に鉢合わせた時も感情を殺し殆ど発言せずにその場を去る事を徹底した。そして、そんな偶然をもう起こさないようにと外出頻度を減らした。
気付くと、唯我は家から殆ど出なくなっていた。


あの日から1週間ほど経ったその夜は、月が綺麗な夜だった。
電気も付けずカーテンで閉め切っていたはずの部屋の中にもカーテンの隙間から月の光が差し込んできて、そこで唯我は久しぶりにカーテンを開け夜空を見上げた。青白いはずの月は今日は何処か紅く、やたら近くにあるように見える。それは吸い込まれるように美しい月だった。
月の光に誘われるように1週間ぶりに外に出た。そのまま、ふらふらと意味も無く歩いた。目的地はなかった。このまま誘われるように何処かへ行けるならそれでも構わない。そのせいで命が月に吸い込まれるように自らが溶けて消えても文句なんか言わない。だって、もう自分には、人間として大切なものがきっと、何も残っていないのだろうから。
月がよく見えるようにと街灯のない道を選んで歩いた。意味もなく歩き続けた。そうやって歩いていると無限に続く階段を上り下りしていたあの日々のことを思い出したが、今とあの頃では何もかもが違っているように思えた。

だからその日、普段なら絶対に行かないであろう、その場所に辿り着いたのはきっと運命だったんだと思う。


そして。
その日から俺の人生はまた大きく動き始める事になった。
自分では予想もしなかったであろう方向へ、大きく、大きく。
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