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【第1章】

翌日の深夜、やはりお腹が空いた私は同じ建物に向かった。
とは言っても先日の帰りに裏口からは入ってくるなと言われたので入ったこともない正面玄関から入ることになった。
店の名前らしい文字が書かれた看板が付けられた扉は裏口に比べて見栄えも良く立派に見えて正直気後れしたが、背に腹は変えられず私はその扉を覚悟と共に開いた。
深夜であるゆえに店内はガランとしているが、可愛らしい白のテーブルクロスが掛けられたテーブルと1人掛けの椅子や2人は座れそうな長椅子等が並んでおり昼時であれば此処に沢山の人が座る事は想像に易い。

「…随分夜更かしだね。」
扉が開いた音を聞き付けてか、いつの間にか彼女が厨房への入り口から現れた。よく見ると、その手には既に料理の乗った大皿がスタンバイされている。
飛び付かんとする私を嗜めるようにして近くのテーブルの前の椅子に腰掛けさせた彼女は料理の皿をテーブルに置いてから自分も私の前に腰掛けた。
幾分か距離は近くなったが彼女のスタンスは変わらない。何をするでもなく、ただ食事をする私を見守るだけだった。


そんな風に毎日が過ごせるようになると、日中に動いても腹が減って困る事はなくなった。ただ、食事という楽しみが出来たせいで1日はひどく長く感じられるようになっていた。
そのせいで私は暇つぶし程度に街の騒めきに耳を凝らすようになり、前よりも多くの単語を覚えるに至っていた。

ある夜の食事後、気紛れに「ごちそうさま」と言葉にすると、彼女は酷く驚いた顔をしてから何処か照れたように笑んで私の頭を撫でてくれた。
街で見かけたことのあるやり取りが私のものになった事が嬉しくて、私はこれをきっかけに更に多くの言葉を覚えるようになった。
そのおかげで、数ヶ月もした頃には彼女と片言ながらに言葉が交わせるようになっていた。

「ねぇ、アンタ。そういえば名前はあるのかい?」
ある日の食事中、不意に彼女はそんな事を聞いた。私は知らないとも分からないとも答えられるようになっていたが、気付くと言葉にせずただ横に首を振っていた。
こんな地獄に置き去りにした親のことも、彼女の優しさに甘えきって生きている自分のことも、特段知りたいとは思えなかったのかもしれない。
すると彼女は「じゃあ呼びづらいから名前を付けさせておくれよ」と微笑み、少し悩むように唸ってから何か思いついた顔で私に名を与えた。
それは、彼女が子供の頃に好きだった“海の魔女“という童話の主人公である人魚の女性の名前だという。
そうして私は、この日から彼女に付けられた新たな名前で呼ばれ始めた。


そしてこの日、
人生で初めて誰かに名前を呼ばれることで、
私はようやく人間になれたような気がした。

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