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【第1章】


今までどうやって生きて生きたのかは私にも分からない。誰かが育ててくれていたのかも、誰かに捨てられたのかも、何一つ分からなかった。
ただ、物心ついた時には私はこの路地裏にいた。

路地裏には服と呼ぶには残念過ぎる布を纏った人間が私を含めて複数人生活していた。とはいえ、彼らは個々の生き物であり、協力するという関係には決してなり得なかった。
金銭を稼ぐ手段のない彼らは一般家庭の残飯を漁る事でどうにかギリギリ食い繋ぐことが出来ており、残飯を求めるもの同士の争いは日夜絶えない。
当然の如く私も彼らに倣って残飯を漁ってみる事はしたものの、争いを避けるような時間に向かえば、もうそれらしいものは残っている訳もなかった。
だから、この路地裏で私はほぼ毎日腹を空かせていた。

そんなある日のことだ。
街には換気扇から美味そうな食事の香りを振り撒く建物が幾つか存在する。
腹が減るからとなるべく近付かないようにしていたが、とうとう空腹が限界値を超えた私は路地裏に捨てられた一部錆びたナイフを両手で握り込み、人の出歩かない時間を見計らい1番近くの良い匂いの建物に向かって鶏ガラ程度の肉の無い体で走った。

辿り着いた建物の入り口を開けるためにそっとドアノブに手を伸ばすと、不用心にも鍵はかかっていなかった。
そっと開け中を確認し、その場に誰もいない事を確認してから中に入ると、今まさに誰かが料理をしている最中なのか私と同じくらいの大きさの火をつけられたままの大鍋が1つ、良い匂いをさせながらグツグツと音を立てていた。

誰もいない厨房、
煮えた鍋いっぱいの料理。
思わず“これはきっと噂に聞く神様の思し召しだ”と私は思った。
神などという存在を信じた事はなかったが、路地裏から人々が神に祈るのを見た事はある。その時、立派な服を着た人が神様は全ての人に平等に愛を与えるものだと話しているのを聞いたことがあったのだ。
「…そこで何をしてるんだい?」
大鍋に手を伸ばそうとしたところで、不意に咎めるような口調の女性の声が聞こえた。慌てて振り返ると、恰幅の良さそうな女性が此方をじっと見つめていた。

思わず後退りしかけたところで、私の手にはナイフが握られていた事を思い出した。
そうだ、私は今日ここへ強盗をしに来たのだ。例えそれがどんなに重い罪であろうとも、どんなに辛い罰を与えられるとしても、膝を抱えて空腹と戦う毎日よりはきっとずっとマシだと思えた。

「ご…ごはん…!ごはん…!」
覚悟はしていたが、あまりに久しぶりに声を出したせいで上手く発声出来ず、少し声が震えた。そもそも、路地裏では日常会話らしい言葉は殆どないために最低限の言葉しか分からない。そのせいか胸の中が騒ついてナイフを握る手が汗ばむ。
彼女はそんな私を横目に見ると大鍋の中に煮えている何かではなく大きな箱のような物から幾つかの料理が入った皿を取り出し厨房のテーブルに並べ始めた。
そのどれもが見たこともない料理で、思わず唾液が溢れそうになるのを必死で抑えながら私は彼女に向かってナイフを向け続ける。
カトラリーと皿を一通り並べ終えた彼女は厨房に置いてあった簡易的な椅子を私の方に差し出して私から距離をとるように移動し、厨房の端辺りにある別の椅子に腰掛けた。
「…殺されたくないから好きなだけお食べ。」
怖がる風でもなくそう言って椅子に腰掛けたまま動かない彼女の姿を確認した私は片手にナイフを持ったまま、食事を始めた。
そのどれもが路地裏では食べたことのない美味しいもので、勢いよく食べ進めるうちに皿はあっという間に空になった。
時折彼女を警戒して視線を上げたが、彼女はただこちらを眺めるだけで最後まで何もしてはこなかった。

一通り食べ終え、人生で初めて空腹感が紛れ脳内が満腹感で僅かに微睡むと、不意に彼女が話しかけて来た。

「アンタ、親は?」
「………」
「その服、1人で路地裏にいんのかい?」
「………」
「路地裏でご飯を食べるのは難しいんじゃないのかい?」
「………」
「分かった、此処でごはんしな。」
「…?」

多少は何を聞かれているのか分からずにしばらく黙り込んでいるのを見ると最後に分かる単語が僅かに聞き取れた。
「ここ」は場所のこと、「ごはん」は食べる物だということは路地裏に住んでいても知っている。街から毎日のように聞こえてくる会話は否応なく耳に残るからだ。
でも「この場所、ごはん。」とは何だろう。
意味が分からず困惑する私をよそに彼女はにっと明るい笑顔で笑いながら外国人に使いそうな辿々しいジェスチャーで必死に言葉を伝達してくれた。
少し時間をかけて伝わったのは、どうやらお腹が空いたら此処に来なさい。という意味のようだということと、ナイフはもう使ったらダメだという牽制のような意味の2つだった。
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