それはまるで太陽のようで。
「…灯様、何故彼女には突き放すような物言いをなさるんですか。」
新入社員と呼ばれていた社員が1人で仕事をこなせられる程度に時間が経ったある日、帰り際の仕事の報告をしに来た奈美が用を済ませ部屋を出ていき、閉まったドアを確認してから終始部屋の中にいた留衣が不意に口を開いた。
予想外の質問に否定の言葉を口にするよりも早く留衣に向けた灯の視線が鋭くなってしまい、留衣は此方の言葉を待たずに怯えたように謝罪の言葉を口にして頭を下げる。
それを視界に入れ、灯は留衣が頭を下げている間に微笑むように口元を軽く緩ませ口調を柔らかくして端的に言葉を口にした。
「…いや、謝らなくていい。でも留衣の気のせいだと思うよ。」
留衣は自分の間違いを指摘され少しばかり安堵と羞恥を入り交ぜた表情で頷き、そそくさと就業前の片付けに戻っていった。
正確には、奈美と距離を取るようにしているだけで突き放しているつもりはない。むしろ懐かれているのか物怖じせず時折この部屋を訪れる奈美に会うことに僅かばかりの楽しみを感じているほどだ。しかし、俺が仲良くしては唯我のと進展に差し障る可能性があるのも事実であり、無意識のうちに言葉が冷たくなっている可能性も否定は出来なかった。だから敢えてもっともらしい雰囲気で言葉を濁したのだ。
正確に否定も肯定もしなければ、大抵の場合は切り抜けられる。…もっとも、それは一定の例外は除いて、だが。
仕事を片付け終え、身支度を終えて会社を出る。ポケットの中で継続的に震えるスマホを無視して会社から程近い自宅まで寄り道もせずに真っ直ぐ帰宅したのは、今もメッセージを送りつけスマホを震わせ続けているであろう唯我からこの後電話で延々と話を聞いてやるためだ。
退院してすぐアプローチするべく奈美に近付いたらしい唯我は毎夜その一部始終を灯に報告してくるようになった。報告と言っても、その内容はどこまで真実か分からないような妄想を含む唯我独特の物言いによるものだったが、2人の進捗を知るためにも2人を引き合わせた灯はその一部始終を聞く必要があると思っており、おかげで自宅での時間はそれに費やされていた。
シャワーを浴び部屋着である黒無地のスウェットパーカーのセットアップへの着替えを済ませてからキッチンに向かう。朝から冷蔵庫で冷やしている日本酒のミニボトルと綺麗な細工の施されたお猪口を両手にリビングに移動し、中央に置かれた3人掛けソファに身を沈めるように腰掛けると、帰ってきて直ぐにリビングのテーブルの上に置いたスマホはもう静かになっていた。
日本酒を注いだお猪口を軽く煽り、ひと口分の酒を飲み下して大きな一息を吐いてからスマホを手に取る。恐ろしいほどの通知表示の1番上をタップしメッセージアプリを開いてみると「やばい」「どうしよう」等といったやたら不安げな未読メッセージが羅列していた。いつもなら既読通知がついた瞬間に電話がかかってきてもおかしくないにも関わらず電話が来る様子もない。
まさか何かやらかしたのか、修復可能なことならいいが…と心配する気持ちを滲ませながらメッセージを丁寧に読み込んで進み、最後に書き込まれた予想外のメッセージに手が止まった。
『彼氏になった』
言葉の意味を理解して全て合点がいった。常に前向きな唯我が不安げなメッセージを寄越した理由はこれだったのか。
欲しかったものに手が届き、夢みたいな現実に思考が追いつかなかっただけの一抹の不安がメッセージで残されていただけの事実に灯は心の底から安堵する。と同時に、鈍い胸の痛みと何かが頬を伝う感触を覚え程なくスマホの画面に一粒の水滴が落ちた。
「……何、で…」
思わず灯の口から震えたような声が漏れる。幼い頃から泣く事を禁止されていたせいで泣き方すら忘れていると思っていた程度には泣いていなかったも関わらず、灯はまさに今泣いていた。
鈍い胸の痛みは時間と共に胸を締め付けるような痛みに変化し、それに呼応するように自分の意思と裏腹に次から次へと涙が溢れ、零れ落ちる水滴を見る度に戸惑いだけが膨らんでいく。その最中にも脳裏によぎるのは何故か唯我ではなく奈美のことだ。
脳内の彼女はいつも微笑んでいた。敢えて彼女との距離を取った事もあり彼女は灯には弱みを見せなかった。それが資料の中の弱い彼女と強く対比され、最初は別人かを疑うほどだった。しかし灯の思考を持てば、それが恋人同士ゆえの特権だと理解するまでにそう時間はかからなかった。
自分は、彼女が泣く時には側にいないだろう。彼女がこれから先どんなに辛い事に肩を震わせても、それはきっと俺の前ではない。
幸せいっぱいに微笑むのも、弱さを曝け出し我儘に振る舞うのも、それらは全てーーー。
そこまで考えて、灯はようやく涙が溢れている理由に気付いた。
俺は。
いつの間にか、執着していたのだ。
資料の中で何度も彼女の人生をなぞる度に、自分がこの場にいたらと思った。
職場で彼女を見聞きする度に、彼女の事が気にかかった。
唯我から聞く話越しに脳内の彼女が動く度に、それを羨ましく思っていた。
少しずつ自分の中の彼女の存在が面積を増していくのを無自覚に受け入れていた。
そして育ってしまったのだ、自分の中の彼女への執着が。
ーーー彼女への、一生報われないであろう恋心が。
「…くそ、…」
吐き捨てるように声を漏らす。
気付きたくなかった。気付きたくなんかなかった。一生気付かずにいられたなら良かった。気付かなければ、唯我との幸せをただ願ってやれたのに。
『…御灯、』
涙で滲む視界を遠ざけるように目を伏せれば彼女の声が聞こえた。声と共に届いた言葉は名付けられるはずだった自分の名前だ。その話をすると何故か彼女はその名で灯を呼ぶようになった。しかし、灯はそれがどういう意図でそうなったのかを問いはしなかった。
今思えば、彼女に特別だと示唆されるのが怖かったのだろう。正確には、彼女の言葉ひとつで彼女の特別が自分だと自惚れてしまうのが怖かったのかもしれない。
一度瞳を開くと溜まっていた涙が溢れきり、僅かに滲んだ視界は先程より見やすくなっていた。飲み掛けのお猪口に日本酒をたっぷり注ぎたしてからお猪口をぐっと煽り一気に中身を飲み干す。
「…墓まで、持っていけばいいよな…?」
涙に濡れた声で独り言のように言葉を溢した。勿論、誰もそれに応えはしない。そんな事はわかっている。
幸いにも此処には誰もおらず、この世に自分の気持ちを知るものは自分しか居ない。
友の恋を応援しながらこの気持ちを育ててしまったという裏切りを、諦められないほどの激しい恋心を持ち続けるという罪を、友の隣で、彼女の隣で、2人の幸せを守りながら永遠に絶望し続け、痛みに耐えるという罰で贖おう。文字通り、一生を懸けて。
唯我におめでとうとだけメッセージを送信しスマホを閉じる。
「……2人の、幸せに。」
再びお猪口に日本酒を注ぎ、誰もいない部屋の中で1人乾杯するように軽く掲げた。
涙は相変わらず止めどなく溢れてくるがもう気にしない。胸の痛みも酷くなっていくがそんな事も、もはやどうでも良い。
どうか、幸せになって欲しい。その思いだけを乗せて、痛みも苦しみも全て一緒に飲み込むように酒を煽る。今日から自分は罪人だ。一生消えない、一生許されない罪を抱えて生きていく。
何処となく誇らしい気がするのはきっと気のせいだろう。何処となく寒さが落ち着いたのも気のせいだろう。
だから、
生きているだけで今までよりもずっと苦しいのも、きっと、気のせいだろう。
新入社員と呼ばれていた社員が1人で仕事をこなせられる程度に時間が経ったある日、帰り際の仕事の報告をしに来た奈美が用を済ませ部屋を出ていき、閉まったドアを確認してから終始部屋の中にいた留衣が不意に口を開いた。
予想外の質問に否定の言葉を口にするよりも早く留衣に向けた灯の視線が鋭くなってしまい、留衣は此方の言葉を待たずに怯えたように謝罪の言葉を口にして頭を下げる。
それを視界に入れ、灯は留衣が頭を下げている間に微笑むように口元を軽く緩ませ口調を柔らかくして端的に言葉を口にした。
「…いや、謝らなくていい。でも留衣の気のせいだと思うよ。」
留衣は自分の間違いを指摘され少しばかり安堵と羞恥を入り交ぜた表情で頷き、そそくさと就業前の片付けに戻っていった。
正確には、奈美と距離を取るようにしているだけで突き放しているつもりはない。むしろ懐かれているのか物怖じせず時折この部屋を訪れる奈美に会うことに僅かばかりの楽しみを感じているほどだ。しかし、俺が仲良くしては唯我のと進展に差し障る可能性があるのも事実であり、無意識のうちに言葉が冷たくなっている可能性も否定は出来なかった。だから敢えてもっともらしい雰囲気で言葉を濁したのだ。
正確に否定も肯定もしなければ、大抵の場合は切り抜けられる。…もっとも、それは一定の例外は除いて、だが。
仕事を片付け終え、身支度を終えて会社を出る。ポケットの中で継続的に震えるスマホを無視して会社から程近い自宅まで寄り道もせずに真っ直ぐ帰宅したのは、今もメッセージを送りつけスマホを震わせ続けているであろう唯我からこの後電話で延々と話を聞いてやるためだ。
退院してすぐアプローチするべく奈美に近付いたらしい唯我は毎夜その一部始終を灯に報告してくるようになった。報告と言っても、その内容はどこまで真実か分からないような妄想を含む唯我独特の物言いによるものだったが、2人の進捗を知るためにも2人を引き合わせた灯はその一部始終を聞く必要があると思っており、おかげで自宅での時間はそれに費やされていた。
シャワーを浴び部屋着である黒無地のスウェットパーカーのセットアップへの着替えを済ませてからキッチンに向かう。朝から冷蔵庫で冷やしている日本酒のミニボトルと綺麗な細工の施されたお猪口を両手にリビングに移動し、中央に置かれた3人掛けソファに身を沈めるように腰掛けると、帰ってきて直ぐにリビングのテーブルの上に置いたスマホはもう静かになっていた。
日本酒を注いだお猪口を軽く煽り、ひと口分の酒を飲み下して大きな一息を吐いてからスマホを手に取る。恐ろしいほどの通知表示の1番上をタップしメッセージアプリを開いてみると「やばい」「どうしよう」等といったやたら不安げな未読メッセージが羅列していた。いつもなら既読通知がついた瞬間に電話がかかってきてもおかしくないにも関わらず電話が来る様子もない。
まさか何かやらかしたのか、修復可能なことならいいが…と心配する気持ちを滲ませながらメッセージを丁寧に読み込んで進み、最後に書き込まれた予想外のメッセージに手が止まった。
『彼氏になった』
言葉の意味を理解して全て合点がいった。常に前向きな唯我が不安げなメッセージを寄越した理由はこれだったのか。
欲しかったものに手が届き、夢みたいな現実に思考が追いつかなかっただけの一抹の不安がメッセージで残されていただけの事実に灯は心の底から安堵する。と同時に、鈍い胸の痛みと何かが頬を伝う感触を覚え程なくスマホの画面に一粒の水滴が落ちた。
「……何、で…」
思わず灯の口から震えたような声が漏れる。幼い頃から泣く事を禁止されていたせいで泣き方すら忘れていると思っていた程度には泣いていなかったも関わらず、灯はまさに今泣いていた。
鈍い胸の痛みは時間と共に胸を締め付けるような痛みに変化し、それに呼応するように自分の意思と裏腹に次から次へと涙が溢れ、零れ落ちる水滴を見る度に戸惑いだけが膨らんでいく。その最中にも脳裏によぎるのは何故か唯我ではなく奈美のことだ。
脳内の彼女はいつも微笑んでいた。敢えて彼女との距離を取った事もあり彼女は灯には弱みを見せなかった。それが資料の中の弱い彼女と強く対比され、最初は別人かを疑うほどだった。しかし灯の思考を持てば、それが恋人同士ゆえの特権だと理解するまでにそう時間はかからなかった。
自分は、彼女が泣く時には側にいないだろう。彼女がこれから先どんなに辛い事に肩を震わせても、それはきっと俺の前ではない。
幸せいっぱいに微笑むのも、弱さを曝け出し我儘に振る舞うのも、それらは全てーーー。
そこまで考えて、灯はようやく涙が溢れている理由に気付いた。
俺は。
いつの間にか、執着していたのだ。
資料の中で何度も彼女の人生をなぞる度に、自分がこの場にいたらと思った。
職場で彼女を見聞きする度に、彼女の事が気にかかった。
唯我から聞く話越しに脳内の彼女が動く度に、それを羨ましく思っていた。
少しずつ自分の中の彼女の存在が面積を増していくのを無自覚に受け入れていた。
そして育ってしまったのだ、自分の中の彼女への執着が。
ーーー彼女への、一生報われないであろう恋心が。
「…くそ、…」
吐き捨てるように声を漏らす。
気付きたくなかった。気付きたくなんかなかった。一生気付かずにいられたなら良かった。気付かなければ、唯我との幸せをただ願ってやれたのに。
『…御灯、』
涙で滲む視界を遠ざけるように目を伏せれば彼女の声が聞こえた。声と共に届いた言葉は名付けられるはずだった自分の名前だ。その話をすると何故か彼女はその名で灯を呼ぶようになった。しかし、灯はそれがどういう意図でそうなったのかを問いはしなかった。
今思えば、彼女に特別だと示唆されるのが怖かったのだろう。正確には、彼女の言葉ひとつで彼女の特別が自分だと自惚れてしまうのが怖かったのかもしれない。
一度瞳を開くと溜まっていた涙が溢れきり、僅かに滲んだ視界は先程より見やすくなっていた。飲み掛けのお猪口に日本酒をたっぷり注ぎたしてからお猪口をぐっと煽り一気に中身を飲み干す。
「…墓まで、持っていけばいいよな…?」
涙に濡れた声で独り言のように言葉を溢した。勿論、誰もそれに応えはしない。そんな事はわかっている。
幸いにも此処には誰もおらず、この世に自分の気持ちを知るものは自分しか居ない。
友の恋を応援しながらこの気持ちを育ててしまったという裏切りを、諦められないほどの激しい恋心を持ち続けるという罪を、友の隣で、彼女の隣で、2人の幸せを守りながら永遠に絶望し続け、痛みに耐えるという罰で贖おう。文字通り、一生を懸けて。
唯我におめでとうとだけメッセージを送信しスマホを閉じる。
「……2人の、幸せに。」
再びお猪口に日本酒を注ぎ、誰もいない部屋の中で1人乾杯するように軽く掲げた。
涙は相変わらず止めどなく溢れてくるがもう気にしない。胸の痛みも酷くなっていくがそんな事も、もはやどうでも良い。
どうか、幸せになって欲しい。その思いだけを乗せて、痛みも苦しみも全て一緒に飲み込むように酒を煽る。今日から自分は罪人だ。一生消えない、一生許されない罪を抱えて生きていく。
何処となく誇らしい気がするのはきっと気のせいだろう。何処となく寒さが落ち着いたのも気のせいだろう。
だから、
生きているだけで今までよりもずっと苦しいのも、きっと、気のせいだろう。