それはまるで太陽のようで。
少しずつ奈美との接点を持ち続けていくうちに、奈美は唯我を怖がらなくなった。
目に見えて唯我は嬉しそうに奈美に会いに行き、それに比例するように灯は奈美に会いに行かなくなった。
下手な邪魔をするより静かに身を引く方が楽な反面どうしようもなく会いたくなる気持ちを抑えるのは苦しいが、灯はこれが最善だと信じていた。
そうしてしばらく経った頃、不意に日中の社長室のドアが開いた音がして入ってきた足音を留衣のものだと思い振り返ると、そこに立っていたのは留衣ではなく唯我だった。いつもの明るい雰囲気とは異なる沈んだような空気は何処か異質で、何かやらかしてしまったのかと思うほどだ。
「…どうした。今日は奈美に会いに…」
行かないのか、と問いかけようとして間も無く背中に唯我の身体が当たる感触と予想外の鋭い痛みが走り、灯は耐え切れずその場に座り込んだ。
鋭い痛みと同時にズキズキと鈍い痛みが広がっていき、灯は反射的に痛みのある腹部を手のひらで押さえる。スーツとワイシャツには紅いシミが拡がり、手のひらにもじわりと液体が滲む。視線を下げるとワイシャツに広がったシミの端は酸化して早くも黒ずんでいるのが見えた。背中は見えないが、おそらく何かが刺さっていることは明白だった。
「…灯が…灯がいけないんだ…俺の…俺の奈美を奪うから…」
刺したであろう本人は虚ろな瞳で困惑したように言葉を溢し、灯の直ぐ近くに座り込んでガタガタと震えながら誰と話すでもない言葉と共に涙を溢している。
何故、お前がそんなに怯えているんだ。奈美はお前の事が、お前の事だけが好きなのに。
そう伝えようとして口を開くものの、痛みで上手く声が出ない。腹部の痛みに意識が持っていかれそうになりながらもどうにか唯我の元まで身体を引きずるように移動しようとすると、唯我は報復を恐れているのか腰を下ろしたままずりずりと後退った。
「…だい、じょうぶ…。なみ、は…おまえのこと、を…。」
近付けない代わりに必死に言葉を紡ぐ。最後まで言葉にする前に咽せ慌てて空いた片手のひらで口元を覆う。手の甲で軽く口元の血を拭い、手のひらにべったりとついた血を隠すように握り込んで話せない代わりに優しく微笑むと、困惑していた唯我はみるみる正気を取り戻した。
「…あ…あ、灯……俺…、ごめん…!」
謝罪の言葉を紡ぐと共に慌てて自らのポケットを漁り取り出した救急車を呼び始めた唯我の姿に妙に安心したせいか絶え間ない痛みのせいか徐々に意識が遠のいていき、灯はそのまま意識を手放した。
次に目覚めると、やはり病院だった。
前回と異なるところがあるとすれば、それは腹部に鈍い痛みがある事だろう。
唯我が病院を離れたと思えば自分が度々入院する事になるとはつくづく病院と縁があるな、等と身体を起こし1人毒吐くように自嘲すると、それを聞いていたように病室の扉が開いた。
前回の事を踏まえれば入って来たのは留衣か煉だ。きっとまた直ぐ泣き喚…、
途中まで進んでいた思考が視界に入った相手の姿を見てぴたりと停止する。ぐしゃぐしゃに泣き腫らした顔のまま部屋に入って来たのは奈美だった。
「みっ…よ、よかっ…」
涙で言葉にならない言葉を溢しながら幽霊でも見るような訝しげな瞳でこちらを見つめる奈美がゆっくりと近付いて灯の肩周りに抱き付いた。
予想外の連続に都合の良い夢でも見ているような気になる。幸福感で涙が溢れそうになるのをぐっと堪えて気が済むまでそのまま泣かせてやると、程なく少し落ち着いた奈美がそのままの状態で口を開いた。
「…死んじゃったかと思った。怖かった。…生きてて、良かった…」
絞り出した安堵の声に音もなく涙が溢れ頬を伝う。まるで恋人を心配するような其れに自惚れてしまいそうな自分の心を制し、どうにかいつも通りの落ち着いた声を絞り出した。
「……俺は大丈夫だから、もう唯我の所に戻りなさい。」
こちらの言葉に反応して奈美の身体が離れる。同情は落ち着いたようだなと思ったのも束の間、奈美はきょとんとした表情で首を傾げ不思議そうに灯の顔を覗き込んだ。
「…何で、…唯我…?」
何でとは。奈美の返答の意味が理解できず困惑して眉が顰められる。
君は唯我が好きで。唯我は君が好きで。愛し合うなら隣にいるのが当たり前で。こんな所で他の男の生存を喜んでいる場合じゃなくて。早く2人で幸せにーーー
「……俺はね、振られたんだよ。灯。」
しっかりと閉じられていなかった扉から聞き慣れた声と共に部屋に入って来たのは唯我だった。こちらの思考を読んだかのような言葉に更なる困惑が広がっていく。
振られた?どうして?唯我の事が好きじゃない?なら俺がした事は無意味だった?
不安の波が連鎖するように脳内をマイナスに染め上げて行くのが分かる。病み上がりだからか、唐突に様々な情報を与えられすぎたせいか、普段の自分の思考がまるで機能しない。
灯の顔が青くなっていくのを横目にして思わず吹き出すように笑い声をあげたのは唯我だった。部屋の中の暗い空気をものともしないその笑い声にマイナス思考の真っ只中だった灯も一気に現実に引き戻される。
「…何故笑う。」
「だってこの世の終わりみたいな顔してるから。」
少しムッとした様子の灯を前に今のは喜ぶところだよと付け足して唯我は優しげに微笑んだ。
あの事件の日の朝。
唯我は奈美と喧嘩になったという。それは奈美が灯の話ばかりしている事について唯我が怒ったことが発端の喧嘩で、そしてそこで唯我は振られたのだと話した。
奈美に一旦部屋から出て行くようにお願いし2人きりになった病室の中で唯我は淡々とそれを語った。
「時間が経ちすぎたんだって。直ぐ戻って来てくれたら俺と幸せになれたかもしれないけど今はもう考えられないって言われた。」
悲しげな瞳で唯我が奈美に言われたであろう言葉を呟くように口にする。
それは俺のせいだ。もっと俺が早く目覚めていれば。もっと早く奈美に唯我の事を話していれば。2人が2人を必要とするように俺がしなければならなかったのに。現実を受け止めるのが怖くて、また辛くなるのが怖くて、俺が距離を取ったから。
自己嫌悪と罪悪感に胸が痛む。出来る事はもっとたくさんあったはずだ。怠けたばかりにこんな結果になってしまった事を灯は心の底から悔やんだ。
「そう言われて頭が真っ白になったんだ。あぁ、俺との未来はもう奈美の中にないんだって。そしたら灯の事が心底憎らしくなってさ。気付いたら灯の事を刺した後だった。」
恨みを向けられるべきは俺だ。刺されても何の文句もない。ただ、悔やむべきは死んでも償い切れないほどの罪を背負ってしまったこと。唯我から奈美を取り上げてしまった事だ。
無意識のうちにぎりっと唇を噛み締める。鉄の味が口の中に広がり、それがまた一層灯に罪悪感を自覚させた。
「……灯、本当にごめんね。それから、そんな顔しないで。」
腹部を刺された時よりも痛そうに灯の顔が歪んでいるのを見て、唯我が苦く微笑む。
「俺、ちょっと灯に頼り過ぎてたかなって思ったんだよ。だからこれからは1人で少し頑張ってみるからさ。もちろん直ぐには奈美の事も諦められないけど…また、いつか話が出来るようになったら会いに来ても良いかな。」
その時はまた朝まで電話の相手してよ、と唯我が笑う。涙が溢れ醜く歪んだ下手くそな笑顔は唯我らしくもなかった。
本当に終わったんだよという意味を込められたような歪な笑顔に胸が張り裂けるような痛みを覚える。堪えていた涙が溢れ出して止められなかった。
もしかしたら、勝手に唯我を憧れに追いやったせいで、唯我の成長の機会を俺がずっと邪魔していたのかもしれない。良かれと思ってやった事は唯我のためになっていなかったのかもしれない。唯我だって俺と同じただの弱い人間だったのかもしれない。
だとしたら俺たちが間違えさえしなければ、きちんと向き合えていたのなら、本当はずっとあの日のままの友達でいられたんだろうかと灯は思った。
脳裏には幼い日に肩を並べ組んだ懐かしい写真がじんわりと浮かんでいた。
目に見えて唯我は嬉しそうに奈美に会いに行き、それに比例するように灯は奈美に会いに行かなくなった。
下手な邪魔をするより静かに身を引く方が楽な反面どうしようもなく会いたくなる気持ちを抑えるのは苦しいが、灯はこれが最善だと信じていた。
そうしてしばらく経った頃、不意に日中の社長室のドアが開いた音がして入ってきた足音を留衣のものだと思い振り返ると、そこに立っていたのは留衣ではなく唯我だった。いつもの明るい雰囲気とは異なる沈んだような空気は何処か異質で、何かやらかしてしまったのかと思うほどだ。
「…どうした。今日は奈美に会いに…」
行かないのか、と問いかけようとして間も無く背中に唯我の身体が当たる感触と予想外の鋭い痛みが走り、灯は耐え切れずその場に座り込んだ。
鋭い痛みと同時にズキズキと鈍い痛みが広がっていき、灯は反射的に痛みのある腹部を手のひらで押さえる。スーツとワイシャツには紅いシミが拡がり、手のひらにもじわりと液体が滲む。視線を下げるとワイシャツに広がったシミの端は酸化して早くも黒ずんでいるのが見えた。背中は見えないが、おそらく何かが刺さっていることは明白だった。
「…灯が…灯がいけないんだ…俺の…俺の奈美を奪うから…」
刺したであろう本人は虚ろな瞳で困惑したように言葉を溢し、灯の直ぐ近くに座り込んでガタガタと震えながら誰と話すでもない言葉と共に涙を溢している。
何故、お前がそんなに怯えているんだ。奈美はお前の事が、お前の事だけが好きなのに。
そう伝えようとして口を開くものの、痛みで上手く声が出ない。腹部の痛みに意識が持っていかれそうになりながらもどうにか唯我の元まで身体を引きずるように移動しようとすると、唯我は報復を恐れているのか腰を下ろしたままずりずりと後退った。
「…だい、じょうぶ…。なみ、は…おまえのこと、を…。」
近付けない代わりに必死に言葉を紡ぐ。最後まで言葉にする前に咽せ慌てて空いた片手のひらで口元を覆う。手の甲で軽く口元の血を拭い、手のひらにべったりとついた血を隠すように握り込んで話せない代わりに優しく微笑むと、困惑していた唯我はみるみる正気を取り戻した。
「…あ…あ、灯……俺…、ごめん…!」
謝罪の言葉を紡ぐと共に慌てて自らのポケットを漁り取り出した救急車を呼び始めた唯我の姿に妙に安心したせいか絶え間ない痛みのせいか徐々に意識が遠のいていき、灯はそのまま意識を手放した。
次に目覚めると、やはり病院だった。
前回と異なるところがあるとすれば、それは腹部に鈍い痛みがある事だろう。
唯我が病院を離れたと思えば自分が度々入院する事になるとはつくづく病院と縁があるな、等と身体を起こし1人毒吐くように自嘲すると、それを聞いていたように病室の扉が開いた。
前回の事を踏まえれば入って来たのは留衣か煉だ。きっとまた直ぐ泣き喚…、
途中まで進んでいた思考が視界に入った相手の姿を見てぴたりと停止する。ぐしゃぐしゃに泣き腫らした顔のまま部屋に入って来たのは奈美だった。
「みっ…よ、よかっ…」
涙で言葉にならない言葉を溢しながら幽霊でも見るような訝しげな瞳でこちらを見つめる奈美がゆっくりと近付いて灯の肩周りに抱き付いた。
予想外の連続に都合の良い夢でも見ているような気になる。幸福感で涙が溢れそうになるのをぐっと堪えて気が済むまでそのまま泣かせてやると、程なく少し落ち着いた奈美がそのままの状態で口を開いた。
「…死んじゃったかと思った。怖かった。…生きてて、良かった…」
絞り出した安堵の声に音もなく涙が溢れ頬を伝う。まるで恋人を心配するような其れに自惚れてしまいそうな自分の心を制し、どうにかいつも通りの落ち着いた声を絞り出した。
「……俺は大丈夫だから、もう唯我の所に戻りなさい。」
こちらの言葉に反応して奈美の身体が離れる。同情は落ち着いたようだなと思ったのも束の間、奈美はきょとんとした表情で首を傾げ不思議そうに灯の顔を覗き込んだ。
「…何で、…唯我…?」
何でとは。奈美の返答の意味が理解できず困惑して眉が顰められる。
君は唯我が好きで。唯我は君が好きで。愛し合うなら隣にいるのが当たり前で。こんな所で他の男の生存を喜んでいる場合じゃなくて。早く2人で幸せにーーー
「……俺はね、振られたんだよ。灯。」
しっかりと閉じられていなかった扉から聞き慣れた声と共に部屋に入って来たのは唯我だった。こちらの思考を読んだかのような言葉に更なる困惑が広がっていく。
振られた?どうして?唯我の事が好きじゃない?なら俺がした事は無意味だった?
不安の波が連鎖するように脳内をマイナスに染め上げて行くのが分かる。病み上がりだからか、唐突に様々な情報を与えられすぎたせいか、普段の自分の思考がまるで機能しない。
灯の顔が青くなっていくのを横目にして思わず吹き出すように笑い声をあげたのは唯我だった。部屋の中の暗い空気をものともしないその笑い声にマイナス思考の真っ只中だった灯も一気に現実に引き戻される。
「…何故笑う。」
「だってこの世の終わりみたいな顔してるから。」
少しムッとした様子の灯を前に今のは喜ぶところだよと付け足して唯我は優しげに微笑んだ。
あの事件の日の朝。
唯我は奈美と喧嘩になったという。それは奈美が灯の話ばかりしている事について唯我が怒ったことが発端の喧嘩で、そしてそこで唯我は振られたのだと話した。
奈美に一旦部屋から出て行くようにお願いし2人きりになった病室の中で唯我は淡々とそれを語った。
「時間が経ちすぎたんだって。直ぐ戻って来てくれたら俺と幸せになれたかもしれないけど今はもう考えられないって言われた。」
悲しげな瞳で唯我が奈美に言われたであろう言葉を呟くように口にする。
それは俺のせいだ。もっと俺が早く目覚めていれば。もっと早く奈美に唯我の事を話していれば。2人が2人を必要とするように俺がしなければならなかったのに。現実を受け止めるのが怖くて、また辛くなるのが怖くて、俺が距離を取ったから。
自己嫌悪と罪悪感に胸が痛む。出来る事はもっとたくさんあったはずだ。怠けたばかりにこんな結果になってしまった事を灯は心の底から悔やんだ。
「そう言われて頭が真っ白になったんだ。あぁ、俺との未来はもう奈美の中にないんだって。そしたら灯の事が心底憎らしくなってさ。気付いたら灯の事を刺した後だった。」
恨みを向けられるべきは俺だ。刺されても何の文句もない。ただ、悔やむべきは死んでも償い切れないほどの罪を背負ってしまったこと。唯我から奈美を取り上げてしまった事だ。
無意識のうちにぎりっと唇を噛み締める。鉄の味が口の中に広がり、それがまた一層灯に罪悪感を自覚させた。
「……灯、本当にごめんね。それから、そんな顔しないで。」
腹部を刺された時よりも痛そうに灯の顔が歪んでいるのを見て、唯我が苦く微笑む。
「俺、ちょっと灯に頼り過ぎてたかなって思ったんだよ。だからこれからは1人で少し頑張ってみるからさ。もちろん直ぐには奈美の事も諦められないけど…また、いつか話が出来るようになったら会いに来ても良いかな。」
その時はまた朝まで電話の相手してよ、と唯我が笑う。涙が溢れ醜く歪んだ下手くそな笑顔は唯我らしくもなかった。
本当に終わったんだよという意味を込められたような歪な笑顔に胸が張り裂けるような痛みを覚える。堪えていた涙が溢れ出して止められなかった。
もしかしたら、勝手に唯我を憧れに追いやったせいで、唯我の成長の機会を俺がずっと邪魔していたのかもしれない。良かれと思ってやった事は唯我のためになっていなかったのかもしれない。唯我だって俺と同じただの弱い人間だったのかもしれない。
だとしたら俺たちが間違えさえしなければ、きちんと向き合えていたのなら、本当はずっとあの日のままの友達でいられたんだろうかと灯は思った。
脳裏には幼い日に肩を並べ組んだ懐かしい写真がじんわりと浮かんでいた。