氷笑卿
name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
コンコンッ、と扉が叩かれて、玄関の方から誰か呼ぶ音がした。吸血鬼になって便利なのは耳がとても良くなったことだと思う。急いで廊下を駆けて玄関を開くと、そこには上品な佇まいの紳士が立っていた。
「やあ、君がノースディンの新しいお弟子くんかな? 私は彼の友人でね……今会えるかな?」
「すみません、今師匠 は外出中でして……」
「おや、そうだったのか。少し話したいことがあったんだが……」
彼はどうしようかというように体を傾け、外を振り返った。今日は良い夜とは言えない空だ。厚く鈍色の雲が星々を隠していて、ざあざあと降り注ぐ雨が地面に水溜まりをいくつも作っている。足元が悪い中でわざわざ訪ねて来てくれたのは明らかだ。それなのに、何もなしに帰しては師匠 の評判に傷がつくかもしれない。
「あ、あの、良かったら少し中でお茶でもいかがでしょう? その間に帰ってくるかもしれませんし、わざわざ足を運んでくださったことですし」
「気を使わせてしまってすまないね。それじゃあお言葉に甘えて」
「は、はい……!」
にこ、と穏やかに微笑まれてついドキッとする。師匠 も容姿に気を使っていてかっこいいけれど、そんな人はご友人すら同等に素敵らしい。こんな吸血鬼の方々ばかりの中で師匠 は生きてきたんだ……改めて客観的な指針が見えると誇らしくもなる。
「客室を借りても?」
「あっ、はい! こちらです」
いけない、ぼんやりしていた。チェック柄のコートを預かって来客用のワードローブにしまう。客室に案内はしたけれど、もう何度か来ているらしいご友人は慣れた様子でソファに掛けた。私が借りてきた猫のように座っているのとは違う、余裕のある落ち着いた動作はつい見惚れてしまうほどだ。あまり人を見るものではないけれど、美しい金髪に赤い瞳は小説の挿絵に出てきてもおかしくない。
「あの、紅茶と珈琲と血液がございますが」
「ふふっ、〇ちゃんと言ったかな? 君の血はとても美味しそうだね」
と思ったらこんなことを冗談めかしていうものだからびっくりしてしまった。
「わっわたしのじゃないです!」
「アハハッそれは残念だ。珈琲を頼むよ」
……完全に一枚も二枚も……どころか、百枚ぐらい上手だ。容姿端麗で冗談も言えるなんて、師匠せんせいのご友人はスペックが高すぎてすごいなあ……。
給湯室へテクテク歩きながらまだ見ぬ畏怖い吸血鬼たちの世界に想いを馳せてみる。きっと皆めっちゃ畏怖くって、具体的には……分かんないけど、人間と馴れ合ったりしないんだろう。私は普通にスナバとか行っちゃうけど吸血鬼専用の隠れ家系バーで休憩したりとか……あ、師匠 に連絡しておこう。
珈琲を淹れて電話をかけてみる。……けれど、繋がらなかった。お取り込み中かな。まあ師匠 は割とスマホを確認してくれるからメッセージを入れておこう。師匠 のご友人が来てます……と。
「失礼します」
珈琲と茶菓子を持っていくとご友人の方は手持ち無沙汰そうに窓の外を眺めていた。ここには何もないし、本や新聞を持ってきた方が良いかもしれない。趣味が合えば私のゲームコレクションとかも。
「あの、師匠 まだちょっとかかりそうで……お暇でしたら何か持ってきましょうか」
「お構いなく……いや、構ってもらおうかな」
「へ?」
テーブルに珈琲を置いたところ、その手が取られた。驚いてぽかんとしていると、ご友人の方は急に立ち上がってしっかりと目を合わせてくる。やっぱり、綺麗な目だ。柘榴のような透明な清々しさというか……。
「おじさんの話に少し付き合ってもらえないかね。彼とは長い付き合いだけれどね、君から聞く彼はどんなものだろうと気になって」
「そ、そういうことでしたら全然……! えと、師匠 は…… 師匠 は……き、昨日パンケーキ焼いてくれました。なんかインスタ用? だとかで」
「ッフフ、役得だね。ほら〇ちゃん、座ろう。ここにおいで」
「は、はい……っ」
一言一言が心地の良い穏やかな声質で囁かれる。師匠 のご友人相手なのに、あまりにもかっこいいからドキドキする……優しくて気が利いてかっこよくて、ロマンス映画の世界の人みたい。今は歳を重ねているけれど、若い頃ならそれこそ王子様みたいな風貌をしていたことだろう。もちろん今の紳士然とした格好もよくお似合いで、めろめろになっちゃいそうだけど……。
「先生とは仲良くしているようだね。君からノースディンの香りが少しする」
「へっ!? そ、そうなんですか?」
見惚れていると急に目が覚めるようなことを言われて、はっと肩が跳ねた。棺桶で寝るのがこわくて一緒に寝てるのもしかしたらバレたかもしれない。こんなに格が高い吸血鬼の方にバレるの改めて恥ずかしすぎる……。目を合わせられなくてきょろきょろさせていると、そんな私を宥めるように彼は私を自分に寄せて口元に笑みを浮かべた。
「フフ、少し、ね。君自身の香りは……」
また、手を取られる。彼は私の手のひらを開いてその中心に口づけると、本当に王子様のように微笑んだ。
「……甘いヴァニラに花の蜜を混ぜたみたいだ。ノースディンには勿体ないようなお姫様だね」
お姫、様……繰り返す。お姫様。私だって師匠 になんだかんだ構って構ってして騒いでいるけれど、お姫様というものへの憧れがなかったわけじゃない。むしろ小さい頃はそういうものに憧れて夢見ていた側だ。まさか、こんな扱いをしてくれる世界があるなんて。
師匠 は……師匠 は慣れすぎてもうあまりしてくれない。だけどあの時は例外だったな。私がダンピールから吸血鬼になるために噛まれたとき。扱いが変わったって拗ねたら今みたいな言葉をかけてくれて……そういえばあの時の師匠 、何か雰囲気がいつもと違った。でも、まだ言語化するのは早いような……そうしたら、今の関係が変わってしまうような。
「どうかしたかい?」
「ぁ、すみません……! ちょっとぼんやりしてました」
手のひらを撫でられて、現実に戻ってきた。雨は未だざあざあと窓を叩いていて、風も少し強くなっている。もしかしたら引き止めてしまったのは悪かったかも……でも、今更天気はどうにもできない。早く師匠 が帰ってくるよう祈るばかりだ。
「構わないよ。見た限り私が来るまで掃除をしていたのかな。疲れただろう、こわ~い先生が来るまで暫くおやすみ」
「……あ……」
こてん、とドミノを倒すように体を預けさせられる。距離がすごく近い。けれど、こんなことされたら心臓が……とはならなかった。もちろんドキドキはするけれど、何故か頭に浮かぶのは師匠 の姿ばかり。いけないことをしてる、気がする。……なんでだろう。
でもこの人は単に好意で優しくしてくれているだけのはずだ。むしろ相手にされていないからこそこんなに距離が近いのかも。うん、そうかも! そもそも師匠 のご友人なら大丈夫なはずだし、掃除で軽く疲れた体にソファが気持ちいいのも確かなことだし……うとうとしてきた……。
「……ノースディンも幸せなやつだね。〇ちゃんみたいな可愛い子と暮らせて」
「いえ、でも……怒られてばっかりで……まだ畏怖とか程遠くて……」
「あはっ、そうだったんだ。たしかに、人間も君みたいな吸血鬼なら大歓迎だろうね。むしろ首を差し出してくるかもしれないよ」
穏やかな会話が続く。いつも師匠 にお説教を喰らっているばかりだから、こんな風に優しいことを言ってくれるとお世辞でも嬉しくなった。……そう、お世辞、だけど。
「……あの、師匠 のご友人って、皆さんあなたみたいなん、ですか?」
「私みたい?」
「優しくて、おもしろくて……師匠 もかっこいいし、本当に私なんか弟子にとって良かったのかなって……思うときがあって」
そう言った一瞬、ほんの一瞬獣のような笑みが見えた気がした。……? いや……もう一度見ると彼はやはり慈雨のような優しい眼差しで微笑んでいる。そうだよね、気の所為だ。この紳士がそんな風に笑うはずがない。
「君は吸血鬼になったばかりだと聞いたけれど」
「そう、です」
「焦っているんだね。……安心したまえ。私だって、君の先生だって若い頃は散々やらかしたさ」
「師匠 が?」
「そうだとも。だからもっと気をゆるめて……〇ちゃんの〝話〟を聞かせてくれ」
あれ、彼の持つステッキが煌々とした光を蓄え始めている。ただのステッキじゃない? なんかこわいような……なんとなく、触れてはいけない光のような。
「私の、話……?」
「そのクソ黄色から離れろ!」
「へっ、せんせ、んむっ」
奇妙な静けさを破ったのは師匠 の声だった。見ると師匠 がぼたぼたと雨水を垂らしながら窓から飛び込んで来ている。大変だ、拭いてあげないと。立ち上がろうとしたその時、私を強い力が捕まえた。上等な白いシャツを通したこの腕は間違いなく師匠 のご友人のものだ。
「やあノースディン、随分と素敵な格好だね。ゆっくり来れば良かったのに」
「黙れ、弟子から離れろ。口を開くな、息をするな」
……ご友人、なんだよね?
師匠 は私を捕まえている彼を睨みつけている。分からなくて私も見上げると、彼は腕の中の私に笑いかけながら口を開いた。その顔は憧れの完璧な紳士――というよりは、一瞬見えたあの危険な笑みに近い。
「まあまあ落ち着いて。私は今機嫌が良いのさ。〇ちゃんにたっぷりお世話してもらったからね。美味しかったよ」
「あ、ありがとうございます?」
「ハハハハッ! ああ、ご馳走様。君の先生はたしかによく怒るみたいだね」
ああ、話す度に師匠 の青筋が増えてってる。これって絶対やばい。でもこの人、この屋敷に何度かきたことがあるのは確かだったし、師匠 のこともよく知っているようだったし……わ、わかんない……!
「せ、師匠 ……」
「……息を」
「師匠 ?」
「息を、するなと、言っている」
師匠 は猪のように飛び込んでくると、無理矢理友人じゃなかったらしい方と私を引き離した。あまりの勢いに尻もちをついてしまう。いたた……とクッションを抱えて、よろよろと起き上がる、と。視界に入ったのは紳士の彼をボコボコに殴っている師匠 と、殴られているのに楽しそうな紳士の方という理解が及ばない光景だった。はえ……? しかもあんなに綺麗な人の顔面ばかり重点的に殴ってる。形の良い鼻から赤い色が見えて、それでもその人は愉悦に眉を歪ませていた。
どうなるんだろう……と見守ること数分、やはり師匠 は冷静では居られていないみたいだ。紳士の方は床を蹴ってソファをずらすと、師匠 が姿勢を崩した隙にすり抜けた。
「それじゃあ、珈琲ありがとう! また来るよ!」
「また来るな!」
「ああノースディン、子山羊ちゃんには優しくね。狼に食べられてしまうかもしれないよ」
ちゃんとワードローブからコートを回収していく音が聞こえる。師匠 は色々と体力気力を使い切ってしまったようで、ずぶ濡れのままゆっくり歩いてくる。なんというか……嵐が過ぎ去った感じだ。
「……師匠 、お風呂入れてきま」
「いい」
「わっ!」
ガラス張りの本棚に背を打つ。目の前には師匠 が居て、私を閉じ込めるように腕を本棚に立てていた。その間もぽた、と雨水が落ちていくし、師匠 はめっちゃ怒ってるし……ど、どうしよう…… 師匠 との関係をお客さんに訪ねもせずに上げちゃったから……わたし、わたし……。
「すまなかった」
幻聴かと思った。でもたしかにそう言った。
「……へ?師匠 、別に悪くない……」
「いや。……〇、お前みたいな危機感がないちょっと大きくなった柴犬みたいなのにアイツのことを隠しておいたのは私の落ち度だ。警戒するよう伝えておくべきだった。悪かったな」
「……?? い、いえ……?」
心配……貶され……心配……?? とにかく師匠 は私を責めはしなかった。絶対大目玉だと思っていたのでどうしていいか分からない。
「それと」
「は、はいっ」
「〝お世話になった〟とは……どういう意味だ? クソ黄色に何をさせられた?」
「な、なにも。珈琲を出しただけで」
「だけで・・・、あの近さか? 何か聞き出されただろう」
そう聞いてくる師匠 は先程よりも顔が険しい。本当に大したことはされていないけれど、思い当たるとしたら吸血鬼としての焦りがバレたことくらいだろうか。あの時、あの人は危ない顔をしていたから。
でも若い頃は師匠 でも失敗をしていたと、そう話した彼のあの助言に救われたのも確かだった。今こうして私のことを心配……? してくれている師匠 も、そんな時代を重ねていると思うと親近感がぐっと湧いてくる。それにあの一言のメッセージだけで急いで戻って来てくれたこと自体、私がこの人の傍に居ていいのかという問いの答えに見える。
「私は大丈夫です。……師匠 、雨の中ありがとうございます」
やっぱりこの人のことが大好きだ。嬉しくなってきてつい抱きつくと、濡れた体はひんやりしていて気持ちよかった。師匠 はというとまさかこんな風に返されるとは思っていなかったのだろう、面食らって数秒黙っていた。それからいつものため息を吐いて、私の頭をくしゃっと撫でる。
「……答えになっていないが。とにかくもう二度とあの黄色にくっつくな……会話もするな。目を合わせるな同じ酸素を吸うな。分かったな?」
「でも、一応優しくしてく」
「何か言ったか?」
「いえ」
これ以上師匠 を怒らせたら部屋中が凍りついてしまいそう。けれどもうずっと前からの知り合いらしいから、いくら気をつけてもあの人とはまた会って話すことになる気がする。師匠 の腐れ縁というやつかな……言わない方が良さそうだけど。
「っ……クソ……アイツの匂いがする。先にシャワーを浴びてこい」
「えっでも師匠 が濡れてるのに」
「私が、我慢ならないからだ。早く行け」
「はっ、はい!」
師匠 は何か獣を体の中に抑え込んでいるように、唸り声のように言いつけると私を廊下に出した。その後様子がおかしい師匠 が心配で少しそのまま立っていたけれど、ソファを蹴るような音が聞こえてきたので急いで浴室に駆け込んだのだった。
「やあ、君がノースディンの新しいお弟子くんかな? 私は彼の友人でね……今会えるかな?」
「すみません、今
「おや、そうだったのか。少し話したいことがあったんだが……」
彼はどうしようかというように体を傾け、外を振り返った。今日は良い夜とは言えない空だ。厚く鈍色の雲が星々を隠していて、ざあざあと降り注ぐ雨が地面に水溜まりをいくつも作っている。足元が悪い中でわざわざ訪ねて来てくれたのは明らかだ。それなのに、何もなしに帰しては
「あ、あの、良かったら少し中でお茶でもいかがでしょう? その間に帰ってくるかもしれませんし、わざわざ足を運んでくださったことですし」
「気を使わせてしまってすまないね。それじゃあお言葉に甘えて」
「は、はい……!」
にこ、と穏やかに微笑まれてついドキッとする。
「客室を借りても?」
「あっ、はい! こちらです」
いけない、ぼんやりしていた。チェック柄のコートを預かって来客用のワードローブにしまう。客室に案内はしたけれど、もう何度か来ているらしいご友人は慣れた様子でソファに掛けた。私が借りてきた猫のように座っているのとは違う、余裕のある落ち着いた動作はつい見惚れてしまうほどだ。あまり人を見るものではないけれど、美しい金髪に赤い瞳は小説の挿絵に出てきてもおかしくない。
「あの、紅茶と珈琲と血液がございますが」
「ふふっ、〇ちゃんと言ったかな? 君の血はとても美味しそうだね」
と思ったらこんなことを冗談めかしていうものだからびっくりしてしまった。
「わっわたしのじゃないです!」
「アハハッそれは残念だ。珈琲を頼むよ」
……完全に一枚も二枚も……どころか、百枚ぐらい上手だ。容姿端麗で冗談も言えるなんて、師匠せんせいのご友人はスペックが高すぎてすごいなあ……。
給湯室へテクテク歩きながらまだ見ぬ畏怖い吸血鬼たちの世界に想いを馳せてみる。きっと皆めっちゃ畏怖くって、具体的には……分かんないけど、人間と馴れ合ったりしないんだろう。私は普通にスナバとか行っちゃうけど吸血鬼専用の隠れ家系バーで休憩したりとか……あ、
珈琲を淹れて電話をかけてみる。……けれど、繋がらなかった。お取り込み中かな。まあ
「失礼します」
珈琲と茶菓子を持っていくとご友人の方は手持ち無沙汰そうに窓の外を眺めていた。ここには何もないし、本や新聞を持ってきた方が良いかもしれない。趣味が合えば私のゲームコレクションとかも。
「あの、
「お構いなく……いや、構ってもらおうかな」
「へ?」
テーブルに珈琲を置いたところ、その手が取られた。驚いてぽかんとしていると、ご友人の方は急に立ち上がってしっかりと目を合わせてくる。やっぱり、綺麗な目だ。柘榴のような透明な清々しさというか……。
「おじさんの話に少し付き合ってもらえないかね。彼とは長い付き合いだけれどね、君から聞く彼はどんなものだろうと気になって」
「そ、そういうことでしたら全然……! えと、
「ッフフ、役得だね。ほら〇ちゃん、座ろう。ここにおいで」
「は、はい……っ」
一言一言が心地の良い穏やかな声質で囁かれる。
「先生とは仲良くしているようだね。君からノースディンの香りが少しする」
「へっ!? そ、そうなんですか?」
見惚れていると急に目が覚めるようなことを言われて、はっと肩が跳ねた。棺桶で寝るのがこわくて一緒に寝てるのもしかしたらバレたかもしれない。こんなに格が高い吸血鬼の方にバレるの改めて恥ずかしすぎる……。目を合わせられなくてきょろきょろさせていると、そんな私を宥めるように彼は私を自分に寄せて口元に笑みを浮かべた。
「フフ、少し、ね。君自身の香りは……」
また、手を取られる。彼は私の手のひらを開いてその中心に口づけると、本当に王子様のように微笑んだ。
「……甘いヴァニラに花の蜜を混ぜたみたいだ。ノースディンには勿体ないようなお姫様だね」
お姫、様……繰り返す。お姫様。私だって
「どうかしたかい?」
「ぁ、すみません……! ちょっとぼんやりしてました」
手のひらを撫でられて、現実に戻ってきた。雨は未だざあざあと窓を叩いていて、風も少し強くなっている。もしかしたら引き止めてしまったのは悪かったかも……でも、今更天気はどうにもできない。早く
「構わないよ。見た限り私が来るまで掃除をしていたのかな。疲れただろう、こわ~い先生が来るまで暫くおやすみ」
「……あ……」
こてん、とドミノを倒すように体を預けさせられる。距離がすごく近い。けれど、こんなことされたら心臓が……とはならなかった。もちろんドキドキはするけれど、何故か頭に浮かぶのは
でもこの人は単に好意で優しくしてくれているだけのはずだ。むしろ相手にされていないからこそこんなに距離が近いのかも。うん、そうかも! そもそも
「……ノースディンも幸せなやつだね。〇ちゃんみたいな可愛い子と暮らせて」
「いえ、でも……怒られてばっかりで……まだ畏怖とか程遠くて……」
「あはっ、そうだったんだ。たしかに、人間も君みたいな吸血鬼なら大歓迎だろうね。むしろ首を差し出してくるかもしれないよ」
穏やかな会話が続く。いつも
「……あの、
「私みたい?」
「優しくて、おもしろくて……
そう言った一瞬、ほんの一瞬獣のような笑みが見えた気がした。……? いや……もう一度見ると彼はやはり慈雨のような優しい眼差しで微笑んでいる。そうだよね、気の所為だ。この紳士がそんな風に笑うはずがない。
「君は吸血鬼になったばかりだと聞いたけれど」
「そう、です」
「焦っているんだね。……安心したまえ。私だって、君の先生だって若い頃は散々やらかしたさ」
「
「そうだとも。だからもっと気をゆるめて……〇ちゃんの〝話〟を聞かせてくれ」
あれ、彼の持つステッキが煌々とした光を蓄え始めている。ただのステッキじゃない? なんかこわいような……なんとなく、触れてはいけない光のような。
「私の、話……?」
「そのクソ黄色から離れろ!」
「へっ、せんせ、んむっ」
奇妙な静けさを破ったのは
「やあノースディン、随分と素敵な格好だね。ゆっくり来れば良かったのに」
「黙れ、弟子から離れろ。口を開くな、息をするな」
……ご友人、なんだよね?
「まあまあ落ち着いて。私は今機嫌が良いのさ。〇ちゃんにたっぷりお世話してもらったからね。美味しかったよ」
「あ、ありがとうございます?」
「ハハハハッ! ああ、ご馳走様。君の先生はたしかによく怒るみたいだね」
ああ、話す度に
「せ、
「……息を」
「
「息を、するなと、言っている」
どうなるんだろう……と見守ること数分、やはり
「それじゃあ、珈琲ありがとう! また来るよ!」
「また来るな!」
「ああノースディン、子山羊ちゃんには優しくね。狼に食べられてしまうかもしれないよ」
ちゃんとワードローブからコートを回収していく音が聞こえる。
「……
「いい」
「わっ!」
ガラス張りの本棚に背を打つ。目の前には
「すまなかった」
幻聴かと思った。でもたしかにそう言った。
「……へ?
「いや。……〇、お前みたいな危機感がないちょっと大きくなった柴犬みたいなのにアイツのことを隠しておいたのは私の落ち度だ。警戒するよう伝えておくべきだった。悪かったな」
「……?? い、いえ……?」
心配……貶され……心配……?? とにかく
「それと」
「は、はいっ」
「〝お世話になった〟とは……どういう意味だ? クソ黄色に何をさせられた?」
「な、なにも。珈琲を出しただけで」
「だけで・・・、あの近さか? 何か聞き出されただろう」
そう聞いてくる
でも若い頃は
「私は大丈夫です。……
やっぱりこの人のことが大好きだ。嬉しくなってきてつい抱きつくと、濡れた体はひんやりしていて気持ちよかった。
「……答えになっていないが。とにかくもう二度とあの黄色にくっつくな……会話もするな。目を合わせるな同じ酸素を吸うな。分かったな?」
「でも、一応優しくしてく」
「何か言ったか?」
「いえ」
これ以上
「っ……クソ……アイツの匂いがする。先にシャワーを浴びてこい」
「えっでも
「私が、我慢ならないからだ。早く行け」
「はっ、はい!」