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迷った時にだけ開く扉がある。どうやって、どこから歩いているのかは自分でも憶えていない。気がついたらその扉の前に立っていて、ダイヤルつきの鍵をくる、くる、と黒電話のように廻しているのだ。
扉を開けた先は植物園のような趣だった。適温なのか、好き放題に伸びているモンテスラやポトスの間にカランコエが愛らしい花を咲かせている。中でも何百年生きたかというようなどっしりとした佇まいの大樹に寄り添えば、その影が形を持ってのっそりと起き上がった。
「ハロー、お疲れ。紅茶飲む?」
「飲む……」
「わかった」
青白い肌に赤い瞳。扉を開くということはこの吸血鬼に会うということだった。とっても身長が高いのに、私がぼそっと呟いた言葉もちゃんと拾われる。手を引かれてついていくとドーム型の屋根がついた休憩所のようなものが用意されていた。白いテーブルに白いチェア。紅茶からは香り高い特別の匂いがして、シュガーレースがかかっている。もちろん、おやつのスポンジケーキにも粉糖たっぷり。
「座って」
「お邪魔します。……いただきます」
「うん。ちゃんと食べて」
最近食べてなかったのを見透かしているような言葉に彼を見上げる。けれど変わらない表情のままで、「あーんする?」と聞かれるだけだった。
「大丈夫です、自分でできます……」
「そっか。ならば私は傍にいよう」
「それは……助かります」
スポンジケーキを一口含むと、甘やかすようなアプリコットがじゅわっと口の中を幸福にした。紅茶からも蜂蜜やヴァニラの複雑なフレーバーが漂って私を誘う。食事というよりおやつだけれど、食べることってこんなにも幸せなものだったのか。一口、また一口。食べる私を彼は見ている。
「えらいよ」
「……?」
「迷ってえらい。やめてよかった」
「……」
そう言う彼の、どこか寂しそうな声色に手を止める。するともう一度"あーん"が試みられて、今度は大人しく彼の手から食べた。心做しか嬉しそうな気がする。
ここに来るのは迷った時。生きるのを迷った時だった。電車が来るその光に死への希望を見出した時、床に落ちているベルトとドアノブが結びついて見えた時、ドラッグストアで薬を物色しているような、時。気づけば私はあの扉の前に立っている。
「昼の子よ、自分を痛めつけるのはやめなさい。命は儚いのだから」
そう言われても短い寿命でもともとだ。他の動物に比べたら長い方だとも思っている。けれど吸血鬼の事情なんて知らない、押しつけないで、私はしにたいの……そう叫ぶには彼はあまりにも救いだった。それに死にたいだなんて思ってないのだ、きっと。ただ嫌なことをしたくないだけ。しにたいわけじゃ、なかった。
「……でも……耐えられそうにないです」
しにたいわけじゃなくても、生きていれば朝は来る。義務が追いかけてくる。こぼれた言葉を拾うように彼が言った。
「いいよ。もっと感情的になろう」
「……あなたは好きに生きるのに慣れてるでしょうけど」
「じゃあ、練習」
ぱっ、と手品みたいに植物園が消え去った。ランタンのような花を連ねていたアンドロメダも、ケルベラの影に隠れていたブルーエルフィンもない。代わりに広がるのは一面の青。波がさざめく孤島の中心で、白い鳥籠のような休憩所だけが残されていた。
「なっ……海、だ」
「オーストラリア」
「オーストラリア!? って……夏、ですね」
「そう」
南半球まで来てしまった。どうしていいか分からないでいると、彼は道標のようにすいすいと歩いていく。ちゃんと足跡があるので歩いている……と思う。マント暑くないのかな? 私も少し暑くなってきた。今日は寒かったからタンクトップのようなキャミソールを着ていたことを思い出し、上着も服も脱いで鞄も放り投げる。
「ま、まって」
「おいで」
突然砂浜で座り込んだ彼の元まで、重い砂の上を走りながら追いつく。目線の先には岩の影で涼んでいるヤドカリがちょんちょんと動いていた。
「かわいい」
つい口に出た言葉。彼は頷いて、海を割った。……海を割った?? うそでしょ、モーセじゃあるまいし。絶句している私の前で彼は相変わらずの顔をして、手を伸ばしては「おいで」と海の道へ呼ぶ。もうオーストラリアに来た時点でなんか嫌な予感はしていたのだ。今更だとその手を掴めば視界を埋める青、青、青。チラリと泳ぐビビッドカラーは熱帯魚だろうか。日差しを浴びた波の影が濡れた海底に映って神秘的だった。
「すっ、ごい……」
「好き?」
「すき、すき……すごい、こんなの」
海を散歩するなんて。この人ってもしかして思ってるよりすごい? 魔法使いみたい! と評してみれば彼は嬉しそうに目を細めた。彼の表情がわかる、その嬉しさがお腹のそこでサイダーみたいに弾ける。くるくると濡れた砂の上で回ってみれば、頭の中が全部波に溶けていくような気がした。
「はー……こんなに綺麗な場所、見たことなかった」
「この星にはいっぱいある。今度連れてってあげよう」
その言い方じゃまるで宇宙人みたいだ。カラコロ笑えば楽しくて、他の場所も見たくなってしまう。ずるい、それまで死ねないじゃん。
「昼の子」
「なに、吸血鬼」
「叫んでみて」
「な、なにを……? えー……あー……あー!」
大きく叫んだつもりだったけれど、意外と小さかった自分の声は波の音に負けて消えた。だったら、だったら何言っても大丈夫かも。息を大きく吸い込んで肺に行き渡らせる。お腹に力を込めるといいんだっけ? まあいっか。
「あー! あの人のばーか!! 無理!! やだ!!」
「その意気」
「っ、千疋屋のパフェ食べたい! 自由な時間もっとほしい! ……もう、しらない……っ!」
一つ言ってみたら次々に出てきたしたかった事に溺れそうで、咄嗟に口元を抑えた。吸血鬼がそんな私の手を親指から人差し指、とゆっくり枷を外すように剥がしていく。両手を握られて手を繋いで、ぶんぶん振り回されて何してるんだか。
あほみたいだ、私たち。さっきまで泣きそうだったのに、また笑ってしまいそうになる私も大概だ。
「よくできました。大声出すのは大事」
「へ? あ~……練習って」
「そう」
そうだった、なんか練習で連れてこられたんだっけ。もうどうでも良くなっちゃったな。明日からの生活を思うとまた心が傷んで泣きそうになってしまうけれど、そうやってやだやだって泣きながらでいいんだって。私はハードルを少し上げすぎていたのかもしれない。
「吸血鬼さん」
「うん」
「また練習、付き合ってくれますか」
「ああ、任された」
彼が右手でオーケーのサインを作ると同時に一際大きい波が頭上を覆った。ざぱんっ、と水飛沫だけが頬を濡らして、最早海は何処にもない。それどころか植物園も休憩所も消えていて、私は通りに面した路地に立ち尽くしていた。……だから、別れの挨拶くらいさせてほしいって言ってるのに。
一歩踏み出せば木々に灯るイルミネーションが帰り道を照らしている。ぽつぽつと窓から降ってくる家々の光の先に、彼曰く"昼の子"の生活がある。こんなに世界って綺麗だっけ、この夜空のずうっと先に、本当にあの景色があるんだって。
肉まんでも買って帰ろう。路地の影から出たその瞬間、「またね」と聞き慣れた声が聞こえた気がした。