本編(改)【完】
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14.Whatislove?(1)
「──佐野」
昼休み、自席に座り窓の外をぼんやり眺めていた真一郎は、沖田に声をかけられて我に返った。
「さっき、こずえちゃんから矢野の話聞いてきた」
「どんな?」
「アイツ、前科持ちだったって。前いた学校でも成績のいい女子狙って、便宜を図る代わりに関係迫ったり誑かしてたらしい……余罪も相当あったんじゃねぇかって」
「……そうか」
「本当、取り返しのつかないことにならなくて良かったよ」
あの事件から数日が経った。誉が暴力団と親族関係であることが公になることを避けるため被害届を出さなかった代わりに、神保組が動いた。矢野は、停職処分が下ると自ら辞表を提出。学校を去り、その後の行方は真一郎たちも知らない。
真一郎が柴田に聞いた話によると、「二度とオモテ出られねぇようにした」そうである。
校内では、一件の噂話が一部に広まり騒ぎになりかけたが、誉に対する二次的被害を懸念し、こずえを中心に沈静化を図った。「行き過ぎた指導があった」以上の噂が立つことはなく、この件は静かに収束へと向かっている。
あの日以来、誉は学校に来ていない。真一郎も、休んでいる間の彼女の様子を気にかけたが、あまり構っても落ち着いて休めないだろうと連絡を控えていた。
「あれから誉ちゃんと話したか?」
「いや……学校来れるようになったら、しばらくの間迎えに行ってやるから連絡くれって言ったきりまだ」
「え?でもさっきこずえちゃん、今日から誉ちゃん来てるって言ってたぞ?」
「……は?」
真一郎が眉を寄せると、沖田の顔に「しまった」と言わんばかりの冷や汗が浮かぶ。
次の瞬間には、真一郎は勢いよく立ち上がり、足早に教室を出ていった。
「あー、んー……、俺も行こ!」
背後からそんな沖田の声が聞こえたが、振り返る余裕はなかった。真一郎は、一年の教室を目指して階段を駆け下りた。
***
「──誉ちゃん、気分悪くなったりしてない?」
昼食を済ませ、他愛のない話をしている途中、こずえが誉の体調を気遣うように覗き込んできた。
「うん、もう平気だよ。ありがとう」
「保健室の先生が、誉ちゃんが急に具合悪くなったら困るからって、しばらくベッドをひとつ空けて待ってるって言ってたよ?だから何かあったらすぐ言ってね」
誉は、もう少し休めという柴田を宥め、予定よりも早く学校へ復帰していた。自分の仕事を放り出して一日中甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼に申し訳なかったし、何よりこずえたちにこれ以上心配をかけたくなかったのだ。気分もすっかり落ち着いた今、早く元気な顔を見せて安心させたかった。
「佐野先輩にはもう会った?」
「あ……それが、まだ……」
「え、なんで!?」
真一郎からは「朝、迎えに行く」と言われていたにもかかわらず、復帰の連絡をできずにいた。
あの日のこと──それを思い出し、何となく顔を合わせづらくて仕方がなかった。
「こずえちゃん……あのね、ちょっと相談が──」
その時、教室の扉が勢いよく開いた。
驚いて振り返ると、そこには真一郎が立っていた。怒っているのか、呆れているのか──形容し難い複雑な表情で佇む彼の姿を見た瞬間、誉の心臓が大音量で暴れ出す。
「し、真──っ」
ずんずんと容赦なく距離を詰めてくる彼に、誉の身体が強張る。同時に、顔に一気に熱が集まっていくのが分かった。
真一郎は誉の席の横まで来ると、ピタッと足を止めた。
「なんで連絡寄越さねーの?」
──怒っている。当たり前だ。学校へ来るときは必ず連絡すると約束していたのに、それを破ってしまったのだから。
誉は気まずさに小さくなりながら、俯いて消え入るような声を絞り出した。
「ご、ごめんなさい……」
「心配するだろ。しばらくは傍についてるって言ったよな?」
「うぅ……はい」
「……誉、こっち向けって」
「!い、ぇあ、のぉ……っ」
一向に顔を上げない誉に我慢ならなくなったのか、真一郎はその場にスッと腰を落とした。
いわゆるヤンキー座りで、俯く誉の顔を下から覗き込んでくる。
「ひぇっ」
至近距離でまっすぐに睨みつけられ、誉は小さな悲鳴を上げた。
「ん……?誉、顔めちゃくちゃ赤いぞ。熱あんじゃねーの?」
言うが早いか、真一郎の大きな手のひらが誉の額へと迷いなく当てられた。
突然の温もりにびくりと肩を揺らす。触れられたおでこから火が出そうになり、誉の顔はますます赤みを増していった。
「いや、オレとそんな変わんねーかな……?」
その瞬間、誉は弾かれたように勢いよく立ち上がった。突然のことに、今度は真一郎が驚いて目を丸くする。
「……っお、お手洗い、行ってきますッ!!」
脱兎のごとく教室を飛び出していく誉。呆然とする真一郎をその場に残し、こずえも慌ててその後を追っていった。
***
──勢いよく女子トイレの個室へ駆け込んだ誉は、肩を大きく上下させていた。
「誉ちゃん!どうしたの!?気持ち悪くなっちゃった?」
誉は洗面台の前にへたり込み、ボロボロと大粒の涙を流し始める。
「……っこ、こずえちゃ……」
こずえは戸惑った。真一郎が少し機嫌悪そうに当たってはいたけれど、怒鳴ったわけでもない。ただ心配して、熱はないかと手を当てていただけだ。
それなのに、今の誉の怯え方はあまりにも異常だった。あの事件のトラウマで、男性が怖くなってしまったのだろうか──こずえの胸に不安がよぎる。
「佐野先輩、怖かった……?」
「違……っ、わたし、先輩の顔を見ると、涙が出てくるようになって……ッ」
「え?」
「なんか、お家でもごはんがあんまり食べられなくなっちゃって……ずっと、先輩のことばかり頭から離れなくて……どうしよう……大好きなのに、わたし、真一郎先輩のこと嫌いになっちゃったのかな……ッ!?」
しゃくり上げながら、本気で絶望したように問いかけてくる誉。
そのあまりにも純粋で、あまりにも愛らしい「恋の病」の症状を聞かされたこずえは、思わず天を仰ぎそうになる。
こずえはしゃがみ込み、誉の小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「違うよ、誉ちゃん……嫌いになんてなってない。大丈夫だからね」
胸を焦がすような本当の恋を知って、少女は今、大人への階段を上り始めていた。
***
事の次第を教室の隅で傍観していた沖田が、しゃがみこんだまま微動だにしない真一郎のそばへとゆっくり近づく。
「……お前、完全に避けられてね?」
「ッ!?」
──薄々、そんな気はしていた。だが、あり得ない。絶対に気のせいだ。
そう心の中で必死に念じていた真一郎の胸に、沖田の容赦ない一言がトドメとして突き刺さった。
「なぁ、お前誉ちゃんに何かした?」
衝撃を受けたように放心していた真一郎は、その言葉でようやく我に返った。眉間にこれでもかと深い皺を寄せ、顎に手を当ててここ数日の記憶を必死に遡る。
「いや、あの日以来しばらく会ってなかったし、全く身に覚えが…………あ」
「なに、心当たりあんの?」
「あの日、保健室で寝てた誉にこっそりデコちゅーしたのバレてたのかな……っ!?」
「おま……っ!あんなことあった直後になんつーことしてんだよ!?」
「違う!あれはオレなりのけじめだったの!誓いのキッスだったの!!」
「キッスとか言うなキメェわ!」
ドン引きする沖田の前で、真一郎が「ハッ!」と何かに気づいたように息を呑んだ。
「まだあんのかよ!?」
「あいつを介抱してた時……し、シャツの隙間から胸元がチラチラしてて……ガン見してたの気づかれてた……?」
「どんだけサイテーなんだよお前は!!」
「だって、好きな女の子の無防備な素肌が目の前にあったら見ちまうだろ男なら!!」
一年の教室で騒ぐ不良と天然たらしの二人を、クラス中の生徒が呆れ顔で見つめていた。
***
「えええっ!?キスされたぁあむぐっ!?」
「こずえちゃん声が大きいぃぃぃ!!」
誉は慌ててこずえの口を両手で押さえた。
昼休みの中庭──二人は生い茂る木々の下、木製のベンチに並んで腰掛けていた。幸い、周囲の生徒たちに聞かれた様子はなかったが、誉は心臓が縮み上がる思いだった。
「夢!夢の話だから!」
「やだぁ、夢の中の佐野先輩、めっちゃ大胆じゃん……」
「あの夢を見てから、なんだかずっとおかしいんだ……どうしよう、きっと先輩にも変に思われた……」
両頬に手を当て、本気で思い悩んでいる親友の姿を見て、こずえは今まで以上にじれったくなっていた。
「誉ちゃん、それはね、“恋煩い”って言うんだよ」
「……こ……鯉……?」
「お魚のじゃないからね」
「恋……なの……?」
真一郎のことは、この街で初めて友達になってくれた人で、これまで兄ような存在だと思って慕ってきた。急に「恋心を抱いているのでは」と言われても、はいそうですかと素直に納得できるはずもなく──。
「そうだよ、顔を見ただけで泣くほど好きってことでしょ?」
「っす、好きで泣いちゃうことなんてあるの!?」
「あるよ。ほら、こないだ解散したXJAPANのファンだって、ライブで大号泣してるのがよくテレビに映ってたじゃん」
「そ、そうか……」
「って、それとこれとは流石にちょっと違うか。とにかく!誉ちゃんは、毎日二十四時間頭から離れないくらい、佐野先輩のことが好きってことだよ」
──真一郎が、好き。
その気持ち自体は、出会った頃から変わっていない。でも確かに、今までの「好き」とは決定的に何かが違う気もした。
そういえば、あの夢の中で彼が口にしていた「好き」の響きが、この胸の痛みの正体なのだろうか。あれは、自分でも気づかないうちに心の奥底に秘めていた恋心が、夢という形になって現れたのだとしたら──?
誉はあれこれと思いを巡らせてみたが、それはあまりにも恥ずかしくて、受け入れ難かった。
「う、嘘だ……」
「じゃあさ、仮に私と佐野先輩が付き合うことになったって言われたら、どう思う?」
「え」
──真一郎先輩と、こずえちゃんが。
誉は、二人が並んで仲良く歩いている姿を想像してみた。
「……真一郎先輩の顔、めちゃくちゃ困惑してる」
「それどういう意味よ!?」
「あはは、ごめん。なんか二人が付き合ってる姿、全然想像できなくて」
なにより、こずえの好みは真一郎の系統とはかけ離れている。
「あ、そっか。相手を間違えたわ。じゃあ──校内一の巨乳、マイ先輩が相手だったら?」
「え……っ!」
マイ先輩という名前に、誉の心臓がどきりと跳ねた。
彼女は、こずえが所属するテニス部の先輩であり、誉が真一郎と初めて会った日、彼が告白を挑んで盛大にフラれた相手だ。
彼の告白連敗記録・十九回目の相手が同じテニス部にいると知ったこずえが、以前、誉をコートへ誘って見学させてくれたことがあったのだ。
美人で、確かにおっぱいがとても大きかった。
真一郎があの巨乳美女と付き合ったら──きっと、彼女に夢中になって自分と過ごす時間はなくなってしまうだろう。彼のバイクの後ろに乗るのも自分ではなくなる。放課後、あの堤防で夕日を見ながらおしゃべりをするのも、あの綺麗でスタイルのいい先輩になるのだ。
──想像できてしまった。もう自分へ向けられることはない、あの大好きな笑顔が。
「……や、やだ……」
「うん」
「先輩が、傍にいてくれなかったら……わたし、きっとダメになる……っ」
誰かと付き合えば、自分よりその人を優先するのは仕方のないこと。頭では分かっているのに、それはあまりにも悲しくて、寂しいことだった。真一郎のいない世界を想像するだけで、涙が出そうなほど怖かった。
そこで、誉はハッと我に返る。
「っだ、ダメ!やっぱダメだよ、こずえちゃん!」
「な、何が?」
「真一郎先輩は、おっぱいがおっきい女の子が好きなのに!わたしが先輩を好きになったら絶対にダメじゃん!」
「カーっ!」
こずえが額に手を当てて天を仰いだ。
「誉ちゃん、落ち着いて。大丈夫だよ。結局、男ってやつは最終的に『好きな女の子のおっぱい』を好きになるもんなんだから」
「し、しかしコレはあまりにも貧相でありまして……先輩の御眼鏡に適うには、程遠い代物です……」
誉は、自分のまだささやかで小ぶりな胸に両手を当てて、悲痛な声をあげた。
心配なんていらない。誉のおっぱいなら、大きかろうが小さかろうが、真一郎に差し出せば喜んで五体投地で飛び込んでくる──そんな言葉を喉まで出しかけながら、こずえは熱弁を振るう。
「大丈夫!誉ちゃんが勝負をかけるべきところは、おっぱいじゃなくていいの!」
「……やっぱり、ちっちゃいんじゃんっ!!」
特にフォローの入らなかった自分の胸に、誉はただただ絶望した。
「──佐野」
昼休み、自席に座り窓の外をぼんやり眺めていた真一郎は、沖田に声をかけられて我に返った。
「さっき、こずえちゃんから矢野の話聞いてきた」
「どんな?」
「アイツ、前科持ちだったって。前いた学校でも成績のいい女子狙って、便宜を図る代わりに関係迫ったり誑かしてたらしい……余罪も相当あったんじゃねぇかって」
「……そうか」
「本当、取り返しのつかないことにならなくて良かったよ」
あの事件から数日が経った。誉が暴力団と親族関係であることが公になることを避けるため被害届を出さなかった代わりに、神保組が動いた。矢野は、停職処分が下ると自ら辞表を提出。学校を去り、その後の行方は真一郎たちも知らない。
真一郎が柴田に聞いた話によると、「二度とオモテ出られねぇようにした」そうである。
校内では、一件の噂話が一部に広まり騒ぎになりかけたが、誉に対する二次的被害を懸念し、こずえを中心に沈静化を図った。「行き過ぎた指導があった」以上の噂が立つことはなく、この件は静かに収束へと向かっている。
あの日以来、誉は学校に来ていない。真一郎も、休んでいる間の彼女の様子を気にかけたが、あまり構っても落ち着いて休めないだろうと連絡を控えていた。
「あれから誉ちゃんと話したか?」
「いや……学校来れるようになったら、しばらくの間迎えに行ってやるから連絡くれって言ったきりまだ」
「え?でもさっきこずえちゃん、今日から誉ちゃん来てるって言ってたぞ?」
「……は?」
真一郎が眉を寄せると、沖田の顔に「しまった」と言わんばかりの冷や汗が浮かぶ。
次の瞬間には、真一郎は勢いよく立ち上がり、足早に教室を出ていった。
「あー、んー……、俺も行こ!」
背後からそんな沖田の声が聞こえたが、振り返る余裕はなかった。真一郎は、一年の教室を目指して階段を駆け下りた。
***
「──誉ちゃん、気分悪くなったりしてない?」
昼食を済ませ、他愛のない話をしている途中、こずえが誉の体調を気遣うように覗き込んできた。
「うん、もう平気だよ。ありがとう」
「保健室の先生が、誉ちゃんが急に具合悪くなったら困るからって、しばらくベッドをひとつ空けて待ってるって言ってたよ?だから何かあったらすぐ言ってね」
誉は、もう少し休めという柴田を宥め、予定よりも早く学校へ復帰していた。自分の仕事を放り出して一日中甲斐甲斐しく世話をしてくれる彼に申し訳なかったし、何よりこずえたちにこれ以上心配をかけたくなかったのだ。気分もすっかり落ち着いた今、早く元気な顔を見せて安心させたかった。
「佐野先輩にはもう会った?」
「あ……それが、まだ……」
「え、なんで!?」
真一郎からは「朝、迎えに行く」と言われていたにもかかわらず、復帰の連絡をできずにいた。
あの日のこと──それを思い出し、何となく顔を合わせづらくて仕方がなかった。
「こずえちゃん……あのね、ちょっと相談が──」
その時、教室の扉が勢いよく開いた。
驚いて振り返ると、そこには真一郎が立っていた。怒っているのか、呆れているのか──形容し難い複雑な表情で佇む彼の姿を見た瞬間、誉の心臓が大音量で暴れ出す。
「し、真──っ」
ずんずんと容赦なく距離を詰めてくる彼に、誉の身体が強張る。同時に、顔に一気に熱が集まっていくのが分かった。
真一郎は誉の席の横まで来ると、ピタッと足を止めた。
「なんで連絡寄越さねーの?」
──怒っている。当たり前だ。学校へ来るときは必ず連絡すると約束していたのに、それを破ってしまったのだから。
誉は気まずさに小さくなりながら、俯いて消え入るような声を絞り出した。
「ご、ごめんなさい……」
「心配するだろ。しばらくは傍についてるって言ったよな?」
「うぅ……はい」
「……誉、こっち向けって」
「!い、ぇあ、のぉ……っ」
一向に顔を上げない誉に我慢ならなくなったのか、真一郎はその場にスッと腰を落とした。
いわゆるヤンキー座りで、俯く誉の顔を下から覗き込んでくる。
「ひぇっ」
至近距離でまっすぐに睨みつけられ、誉は小さな悲鳴を上げた。
「ん……?誉、顔めちゃくちゃ赤いぞ。熱あんじゃねーの?」
言うが早いか、真一郎の大きな手のひらが誉の額へと迷いなく当てられた。
突然の温もりにびくりと肩を揺らす。触れられたおでこから火が出そうになり、誉の顔はますます赤みを増していった。
「いや、オレとそんな変わんねーかな……?」
その瞬間、誉は弾かれたように勢いよく立ち上がった。突然のことに、今度は真一郎が驚いて目を丸くする。
「……っお、お手洗い、行ってきますッ!!」
脱兎のごとく教室を飛び出していく誉。呆然とする真一郎をその場に残し、こずえも慌ててその後を追っていった。
***
──勢いよく女子トイレの個室へ駆け込んだ誉は、肩を大きく上下させていた。
「誉ちゃん!どうしたの!?気持ち悪くなっちゃった?」
誉は洗面台の前にへたり込み、ボロボロと大粒の涙を流し始める。
「……っこ、こずえちゃ……」
こずえは戸惑った。真一郎が少し機嫌悪そうに当たってはいたけれど、怒鳴ったわけでもない。ただ心配して、熱はないかと手を当てていただけだ。
それなのに、今の誉の怯え方はあまりにも異常だった。あの事件のトラウマで、男性が怖くなってしまったのだろうか──こずえの胸に不安がよぎる。
「佐野先輩、怖かった……?」
「違……っ、わたし、先輩の顔を見ると、涙が出てくるようになって……ッ」
「え?」
「なんか、お家でもごはんがあんまり食べられなくなっちゃって……ずっと、先輩のことばかり頭から離れなくて……どうしよう……大好きなのに、わたし、真一郎先輩のこと嫌いになっちゃったのかな……ッ!?」
しゃくり上げながら、本気で絶望したように問いかけてくる誉。
そのあまりにも純粋で、あまりにも愛らしい「恋の病」の症状を聞かされたこずえは、思わず天を仰ぎそうになる。
こずえはしゃがみ込み、誉の小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「違うよ、誉ちゃん……嫌いになんてなってない。大丈夫だからね」
胸を焦がすような本当の恋を知って、少女は今、大人への階段を上り始めていた。
***
事の次第を教室の隅で傍観していた沖田が、しゃがみこんだまま微動だにしない真一郎のそばへとゆっくり近づく。
「……お前、完全に避けられてね?」
「ッ!?」
──薄々、そんな気はしていた。だが、あり得ない。絶対に気のせいだ。
そう心の中で必死に念じていた真一郎の胸に、沖田の容赦ない一言がトドメとして突き刺さった。
「なぁ、お前誉ちゃんに何かした?」
衝撃を受けたように放心していた真一郎は、その言葉でようやく我に返った。眉間にこれでもかと深い皺を寄せ、顎に手を当ててここ数日の記憶を必死に遡る。
「いや、あの日以来しばらく会ってなかったし、全く身に覚えが…………あ」
「なに、心当たりあんの?」
「あの日、保健室で寝てた誉にこっそりデコちゅーしたのバレてたのかな……っ!?」
「おま……っ!あんなことあった直後になんつーことしてんだよ!?」
「違う!あれはオレなりのけじめだったの!誓いのキッスだったの!!」
「キッスとか言うなキメェわ!」
ドン引きする沖田の前で、真一郎が「ハッ!」と何かに気づいたように息を呑んだ。
「まだあんのかよ!?」
「あいつを介抱してた時……し、シャツの隙間から胸元がチラチラしてて……ガン見してたの気づかれてた……?」
「どんだけサイテーなんだよお前は!!」
「だって、好きな女の子の無防備な素肌が目の前にあったら見ちまうだろ男なら!!」
一年の教室で騒ぐ不良と天然たらしの二人を、クラス中の生徒が呆れ顔で見つめていた。
***
「えええっ!?キスされたぁあむぐっ!?」
「こずえちゃん声が大きいぃぃぃ!!」
誉は慌ててこずえの口を両手で押さえた。
昼休みの中庭──二人は生い茂る木々の下、木製のベンチに並んで腰掛けていた。幸い、周囲の生徒たちに聞かれた様子はなかったが、誉は心臓が縮み上がる思いだった。
「夢!夢の話だから!」
「やだぁ、夢の中の佐野先輩、めっちゃ大胆じゃん……」
「あの夢を見てから、なんだかずっとおかしいんだ……どうしよう、きっと先輩にも変に思われた……」
両頬に手を当て、本気で思い悩んでいる親友の姿を見て、こずえは今まで以上にじれったくなっていた。
「誉ちゃん、それはね、“恋煩い”って言うんだよ」
「……こ……鯉……?」
「お魚のじゃないからね」
「恋……なの……?」
真一郎のことは、この街で初めて友達になってくれた人で、これまで兄ような存在だと思って慕ってきた。急に「恋心を抱いているのでは」と言われても、はいそうですかと素直に納得できるはずもなく──。
「そうだよ、顔を見ただけで泣くほど好きってことでしょ?」
「っす、好きで泣いちゃうことなんてあるの!?」
「あるよ。ほら、こないだ解散したXJAPANのファンだって、ライブで大号泣してるのがよくテレビに映ってたじゃん」
「そ、そうか……」
「って、それとこれとは流石にちょっと違うか。とにかく!誉ちゃんは、毎日二十四時間頭から離れないくらい、佐野先輩のことが好きってことだよ」
──真一郎が、好き。
その気持ち自体は、出会った頃から変わっていない。でも確かに、今までの「好き」とは決定的に何かが違う気もした。
そういえば、あの夢の中で彼が口にしていた「好き」の響きが、この胸の痛みの正体なのだろうか。あれは、自分でも気づかないうちに心の奥底に秘めていた恋心が、夢という形になって現れたのだとしたら──?
誉はあれこれと思いを巡らせてみたが、それはあまりにも恥ずかしくて、受け入れ難かった。
「う、嘘だ……」
「じゃあさ、仮に私と佐野先輩が付き合うことになったって言われたら、どう思う?」
「え」
──真一郎先輩と、こずえちゃんが。
誉は、二人が並んで仲良く歩いている姿を想像してみた。
「……真一郎先輩の顔、めちゃくちゃ困惑してる」
「それどういう意味よ!?」
「あはは、ごめん。なんか二人が付き合ってる姿、全然想像できなくて」
なにより、こずえの好みは真一郎の系統とはかけ離れている。
「あ、そっか。相手を間違えたわ。じゃあ──校内一の巨乳、マイ先輩が相手だったら?」
「え……っ!」
マイ先輩という名前に、誉の心臓がどきりと跳ねた。
彼女は、こずえが所属するテニス部の先輩であり、誉が真一郎と初めて会った日、彼が告白を挑んで盛大にフラれた相手だ。
彼の告白連敗記録・十九回目の相手が同じテニス部にいると知ったこずえが、以前、誉をコートへ誘って見学させてくれたことがあったのだ。
美人で、確かにおっぱいがとても大きかった。
真一郎があの巨乳美女と付き合ったら──きっと、彼女に夢中になって自分と過ごす時間はなくなってしまうだろう。彼のバイクの後ろに乗るのも自分ではなくなる。放課後、あの堤防で夕日を見ながらおしゃべりをするのも、あの綺麗でスタイルのいい先輩になるのだ。
──想像できてしまった。もう自分へ向けられることはない、あの大好きな笑顔が。
「……や、やだ……」
「うん」
「先輩が、傍にいてくれなかったら……わたし、きっとダメになる……っ」
誰かと付き合えば、自分よりその人を優先するのは仕方のないこと。頭では分かっているのに、それはあまりにも悲しくて、寂しいことだった。真一郎のいない世界を想像するだけで、涙が出そうなほど怖かった。
そこで、誉はハッと我に返る。
「っだ、ダメ!やっぱダメだよ、こずえちゃん!」
「な、何が?」
「真一郎先輩は、おっぱいがおっきい女の子が好きなのに!わたしが先輩を好きになったら絶対にダメじゃん!」
「カーっ!」
こずえが額に手を当てて天を仰いだ。
「誉ちゃん、落ち着いて。大丈夫だよ。結局、男ってやつは最終的に『好きな女の子のおっぱい』を好きになるもんなんだから」
「し、しかしコレはあまりにも貧相でありまして……先輩の御眼鏡に適うには、程遠い代物です……」
誉は、自分のまだささやかで小ぶりな胸に両手を当てて、悲痛な声をあげた。
心配なんていらない。誉のおっぱいなら、大きかろうが小さかろうが、真一郎に差し出せば喜んで五体投地で飛び込んでくる──そんな言葉を喉まで出しかけながら、こずえは熱弁を振るう。
「大丈夫!誉ちゃんが勝負をかけるべきところは、おっぱいじゃなくていいの!」
「……やっぱり、ちっちゃいんじゃんっ!!」
特にフォローの入らなかった自分の胸に、誉はただただ絶望した。
