本編(改)【完】
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13.A promise(2)
誉は、クラス分の課題ノート提出する為、現代文教師の元を訪ねていた。
担当教師は、ゆったりとした喋り方にずっしりとした貫禄のある「THE・ベテラン」を全身で体現しているような人物だった。彼の子守歌のような授業の犠牲になる生徒は数知れず──。
あの面談の日から、矢野と顔を合わせることなく数日が過ぎた。真一郎から「絶対にあいつと二人きりにならないよう警戒しておけ」ときつく言われていたものの、特に話しかけられることもなく、学校生活は穏やかな日常に戻りつつあった。
「神保さんは特進希望だったっけ。このまま成績をキープしておけば東大も夢じゃないだろうね、楽しみだ」
「いや、流石に東大は……」
「大丈夫さ。何人も東大に送り出してきた、矢野先生のお墨付きだからね」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。その名前を聞いただけで、あの全身にまとわりつくような不快感が蘇ってきた。
「あーっ、いかんいかん。矢野先生に特進卒業生の科目別成績ファイル貸してくれと頼まれていたの忘れるところだった」
そう言うと、現代文の教師が慌てた様子で戸棚から数冊の分厚いファイルを取り出し始める。
「……すまない、量が多くてね。神保さん、ちょっと運ぶのを手伝ってもらっていいかい?」
「え?」
「──ああ、僕も一緒に運びましょう」
後ろから突然かけられた声に、誉はびくりと肩を震わせた。
会いたくない、聞きたくなかった声がすぐ傍に迫り、一瞬で首元が冷たくなる。
「おお、矢野先生ちょうどよかった。二人でもちょっと心許ない量でね」
「二学年が五年分ですからね。三人なら何とか運べるでしょう」
拒否する理由──誉は焦る頭で必死に言い訳を考えた。
しかし、頼まれると断るのが苦手な性格──結局、目の前の教師たちの流れに抗えず、手伝う羽目になってしまった。
──大丈夫。現代文の先生も一緒なら、二人きりになることは絶対にない。
ファイルを運び終えたらすぐ帰してもらおう。一緒に帰る約束をしている真一郎に会えば、この胸のざわつきもすぐに晴れるはず──。
自分にそう言い聞かせ、誉はファイルを胸に抱えた。
「──神保、先日はすまなかったね」
資料室への道すがら、謝罪の言葉を口にしたのは、眉尻を下げて申し訳なさそうな表情をした矢野だった。
「君の将来を心配するあまり、少々熱くなりすぎたと反省している」
あまりの豹変ぶりに、ゾワリと悪寒が走った。
だが、多くの生徒を難関大学へ送り出せるほどの実力を持つ人物だ。他の教師とはやり方も、生徒への気合いの入れようも違う可能性だってある。熱血が行き過ぎて、言葉選びを間違えただけなのかも──と、誉は無理矢理納得させた。
「いえ、先生のお気持ちは分かっているつもりです……これからも勉強、頑張ります」
「ありがとう。人間関係にまで口を出すべきではなかったね。君の内申に響くようなことは絶対にないから、安心してほしい」
内申──その言葉が頭にこびりつく。優しく微笑む眼鏡の奥の瞳から目を逸らす。
とりあえず、今は穏便に角を立てないよう、誉は一定の距離を保ってやり過ごすことにした。
──何かあれば、すぐに真一郎に相談すれば大丈夫なのだから。
「……よし、何とか運べたね。神保さんありがとう、助かったよ」
「いえ」
「矢野先生、ここに置けばいいですかな」
「えぇ……あ、この年度分は上の──」
──♪ピンポンパンポン……
矢野が何かを言いかけたその時、計ったかのように現代文教師に電話が入ったという校内放送が流れ出した。
「おっと、すまない。私は一足先に職員室へ戻らせてもらうよ」
そして、あっという間に去っていってしまった。
誉は、その場を離れるタイミングを完全に見失って焦る。思わぬ形で、一番避けたかった「二人きり」の状況が作られてしまった。
「あっ、あの、わたしも急ぐので失礼しま──」
「神保、すまない。これだけ上の臨時相談室へ置いてきてくれないか」
「え……」
「置いたら、そのまま帰ってくれて構わない」
「……わ、分かりました」
空き教室を来年度の三年生専用の相談室として開ける──そんな話を事前に聞いていた。そこに置くだけなら、数十秒で済むだろう。
──置いたら、すぐに真一郎の元へ行こう。
誉は矢野からファイルを受け取ると、逃げるように足早に上の階へと向かった。
──ガラリ、とドアを開けると、室内は少し埃っぽかった。
最低限の机と椅子だけが置かれた、どこか寂しげな空間。誉は警戒しながらも、誰もいない室内をぐるりと見渡す。
「……あ、早く行かなきゃ」
どこか奇妙な静けさに、つい立ち止まってしまっていた。我に返って慌てて目の前の教壇にファイルを乗せる。
「──君は頭がいい割に、油断しすぎるところが玉にキズだね」
背後から響いた、冷ややかな低い声。
同時に、ガチャリ、と聞き覚えのある金属音が静かな室内に響き渡った。
誉が弾かれたように振り返ると、そこには、いつもの笑顔を不気味に張り付かせた矢野がドアの前に立っていた。
***
「──あれ、こずえちゃん、誉は?」
その頃、真一郎は誉を迎えに彼女の教室を訪れていた。しかし、本人の姿が見当たらない。迎えに行くと連絡をした日は、必ず教室で待っているはずなのに。
真一郎が問いかけると、こずえがどこか不安げな表情で振り返った。
「それが……現代文の課題ノートを出しに行ったまま、戻らないんです」
「どったのー?」
そこに、偶然通りかかった沖田が、ひょっこりと声をかけてくる。
「沖田、誉見てねぇか?」
「いや、俺は見かけてないけど」
「どこ行ったんだろ、誉ちゃん……」
「おや、神保さんは帰ってしまったかな?」
その時、現代文の教科担任が、一冊のノートを手にしてクラスにやってきた。
誉が訪ねにいったはずの本人が現れたことで、彼らの間に不穏な空気が広がる。
「提出ノートに別の教科のものが紛れていてね、返しに来たんだが」
「先生、誉ちゃんまだ帰って来てないんです。どこ行ったか知りませんか?」
「え?もうファイルは運び終わったのになぁ」
「ファイル……?」
「特進の卒業生の成績をまとめたファイルを、相談室へ運ぶのを手伝ってもらったんだよ。僕が職員室へ呼び出されたから先に失礼して、そのあとすぐ彼女も戻ったと思うんだが……」
──特進のファイル。
真一郎の鼓動が激しく音を立てた。
「先生!運んだのは誉と二人で!?」
「え?いや、矢野先生も入れて三人で──」
返答を聞くや否や、鞄を投げ捨てた真一郎が脱兎の如く走り去る。
周囲が呆気にとられる中、険しい表情をした沖田も真一郎の後を追って全速力で走り出した。
「え……何事だ?」
「先生ッ、主任の先生って職員室に居ますか!?」
置いてけぼりにされている教師の袖を、こずえが強い力で掴む。
真一郎と沖田の慌てように、誉の危機を察して怒鳴るように叫んだ。
誉は、クラス分の課題ノート提出する為、現代文教師の元を訪ねていた。
担当教師は、ゆったりとした喋り方にずっしりとした貫禄のある「THE・ベテラン」を全身で体現しているような人物だった。彼の子守歌のような授業の犠牲になる生徒は数知れず──。
あの面談の日から、矢野と顔を合わせることなく数日が過ぎた。真一郎から「絶対にあいつと二人きりにならないよう警戒しておけ」ときつく言われていたものの、特に話しかけられることもなく、学校生活は穏やかな日常に戻りつつあった。
「神保さんは特進希望だったっけ。このまま成績をキープしておけば東大も夢じゃないだろうね、楽しみだ」
「いや、流石に東大は……」
「大丈夫さ。何人も東大に送り出してきた、矢野先生のお墨付きだからね」
ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。その名前を聞いただけで、あの全身にまとわりつくような不快感が蘇ってきた。
「あーっ、いかんいかん。矢野先生に特進卒業生の科目別成績ファイル貸してくれと頼まれていたの忘れるところだった」
そう言うと、現代文の教師が慌てた様子で戸棚から数冊の分厚いファイルを取り出し始める。
「……すまない、量が多くてね。神保さん、ちょっと運ぶのを手伝ってもらっていいかい?」
「え?」
「──ああ、僕も一緒に運びましょう」
後ろから突然かけられた声に、誉はびくりと肩を震わせた。
会いたくない、聞きたくなかった声がすぐ傍に迫り、一瞬で首元が冷たくなる。
「おお、矢野先生ちょうどよかった。二人でもちょっと心許ない量でね」
「二学年が五年分ですからね。三人なら何とか運べるでしょう」
拒否する理由──誉は焦る頭で必死に言い訳を考えた。
しかし、頼まれると断るのが苦手な性格──結局、目の前の教師たちの流れに抗えず、手伝う羽目になってしまった。
──大丈夫。現代文の先生も一緒なら、二人きりになることは絶対にない。
ファイルを運び終えたらすぐ帰してもらおう。一緒に帰る約束をしている真一郎に会えば、この胸のざわつきもすぐに晴れるはず──。
自分にそう言い聞かせ、誉はファイルを胸に抱えた。
「──神保、先日はすまなかったね」
資料室への道すがら、謝罪の言葉を口にしたのは、眉尻を下げて申し訳なさそうな表情をした矢野だった。
「君の将来を心配するあまり、少々熱くなりすぎたと反省している」
あまりの豹変ぶりに、ゾワリと悪寒が走った。
だが、多くの生徒を難関大学へ送り出せるほどの実力を持つ人物だ。他の教師とはやり方も、生徒への気合いの入れようも違う可能性だってある。熱血が行き過ぎて、言葉選びを間違えただけなのかも──と、誉は無理矢理納得させた。
「いえ、先生のお気持ちは分かっているつもりです……これからも勉強、頑張ります」
「ありがとう。人間関係にまで口を出すべきではなかったね。君の内申に響くようなことは絶対にないから、安心してほしい」
内申──その言葉が頭にこびりつく。優しく微笑む眼鏡の奥の瞳から目を逸らす。
とりあえず、今は穏便に角を立てないよう、誉は一定の距離を保ってやり過ごすことにした。
──何かあれば、すぐに真一郎に相談すれば大丈夫なのだから。
「……よし、何とか運べたね。神保さんありがとう、助かったよ」
「いえ」
「矢野先生、ここに置けばいいですかな」
「えぇ……あ、この年度分は上の──」
──♪ピンポンパンポン……
矢野が何かを言いかけたその時、計ったかのように現代文教師に電話が入ったという校内放送が流れ出した。
「おっと、すまない。私は一足先に職員室へ戻らせてもらうよ」
そして、あっという間に去っていってしまった。
誉は、その場を離れるタイミングを完全に見失って焦る。思わぬ形で、一番避けたかった「二人きり」の状況が作られてしまった。
「あっ、あの、わたしも急ぐので失礼しま──」
「神保、すまない。これだけ上の臨時相談室へ置いてきてくれないか」
「え……」
「置いたら、そのまま帰ってくれて構わない」
「……わ、分かりました」
空き教室を来年度の三年生専用の相談室として開ける──そんな話を事前に聞いていた。そこに置くだけなら、数十秒で済むだろう。
──置いたら、すぐに真一郎の元へ行こう。
誉は矢野からファイルを受け取ると、逃げるように足早に上の階へと向かった。
──ガラリ、とドアを開けると、室内は少し埃っぽかった。
最低限の机と椅子だけが置かれた、どこか寂しげな空間。誉は警戒しながらも、誰もいない室内をぐるりと見渡す。
「……あ、早く行かなきゃ」
どこか奇妙な静けさに、つい立ち止まってしまっていた。我に返って慌てて目の前の教壇にファイルを乗せる。
「──君は頭がいい割に、油断しすぎるところが玉にキズだね」
背後から響いた、冷ややかな低い声。
同時に、ガチャリ、と聞き覚えのある金属音が静かな室内に響き渡った。
誉が弾かれたように振り返ると、そこには、いつもの笑顔を不気味に張り付かせた矢野がドアの前に立っていた。
***
「──あれ、こずえちゃん、誉は?」
その頃、真一郎は誉を迎えに彼女の教室を訪れていた。しかし、本人の姿が見当たらない。迎えに行くと連絡をした日は、必ず教室で待っているはずなのに。
真一郎が問いかけると、こずえがどこか不安げな表情で振り返った。
「それが……現代文の課題ノートを出しに行ったまま、戻らないんです」
「どったのー?」
そこに、偶然通りかかった沖田が、ひょっこりと声をかけてくる。
「沖田、誉見てねぇか?」
「いや、俺は見かけてないけど」
「どこ行ったんだろ、誉ちゃん……」
「おや、神保さんは帰ってしまったかな?」
その時、現代文の教科担任が、一冊のノートを手にしてクラスにやってきた。
誉が訪ねにいったはずの本人が現れたことで、彼らの間に不穏な空気が広がる。
「提出ノートに別の教科のものが紛れていてね、返しに来たんだが」
「先生、誉ちゃんまだ帰って来てないんです。どこ行ったか知りませんか?」
「え?もうファイルは運び終わったのになぁ」
「ファイル……?」
「特進の卒業生の成績をまとめたファイルを、相談室へ運ぶのを手伝ってもらったんだよ。僕が職員室へ呼び出されたから先に失礼して、そのあとすぐ彼女も戻ったと思うんだが……」
──特進のファイル。
真一郎の鼓動が激しく音を立てた。
「先生!運んだのは誉と二人で!?」
「え?いや、矢野先生も入れて三人で──」
返答を聞くや否や、鞄を投げ捨てた真一郎が脱兎の如く走り去る。
周囲が呆気にとられる中、険しい表情をした沖田も真一郎の後を追って全速力で走り出した。
「え……何事だ?」
「先生ッ、主任の先生って職員室に居ますか!?」
置いてけぼりにされている教師の袖を、こずえが強い力で掴む。
真一郎と沖田の慌てように、誉の危機を察して怒鳴るように叫んだ。
