本編(改)【完】
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13.A promise(1)
「次、誉ちゃんで最後だって」
三学期がひと月ほど経ったある日の放課後──。
特進コース進級希望者を対象とした面談が行われていた。学期末試験を控え、成績指導と最終的な意思確認を行うためのもの──ということらしかった。
こずえに次の番を告げられた誉は念の為と思い、メモ帳とシャープペンシルを一本ポケットに突っ込んでいると、
「なんかさー、先に終わった男子に聞いたんだけど、私たちよりも時間短かったらしいんだよね」
「え?なんで?」
「さぁ。米山くんは5分もかからず終わったって。三木さんなんて20分も話されてたよ。勉強の効率を上げるウンチクはいいとして、家で何してるとか趣味は何かとか……進級と全く関係ない話までされて」
「うーん……新しく担任になるかもしれない生徒と、交流を深めたいとか?」
「じゃあ何で全員に同じ質問をしないの?あのインテリ教師、なーんかヤらしいよね。話が長くなりそうだったら、適当に切り上げて無理やり終わらせておいでよ」
そんなこずえの忠告に少しの不安を抱きつつ、誉は立ち上がると進路指導室へと向かった。
「──相変わらず文句のつけようがない成績だ。学期末試験も問題なければ、トップで進級できるよ。この調子でいくと良い」
「はい」
面談を担当している教師の矢野は、特進コースの専属担任として今年度赴任されたばかりだという。他県の私立進学校からやってきた──そうこずえは言っていた。
「……ところで、あの不良の生徒とは未だに仲良くしているようだが、どうしてなのかな?」
──きた。
絶対に問い詰められるだろうと身構えていた誉は、毅然とした態度で背筋を伸ばす。
以前、「真一郎とは距離を置け」と言ってきたのが目の前に座るこの教師だった。容姿端麗で高身長、眼鏡の奥の瞳が知的な印象を与える矢野は、授業も分かりやすいと校内の女子生徒から密かな人気を集めている。
だが、その内面に隠された、他人を蔑むような人間性を、誉はどうしても好きになれなかった。
「前にお答えした通りです。進級と、佐野先輩のことは関係ありません」
「君の勉学の邪魔になるだけだと思うけどね。授業はサボる、試験は毎回追試対象、低レベルな連中とつるんで喧嘩ばかりしているそうじゃないか」
「……確かに、彼は不真面目な生徒かもしれません。でも、勉強の邪魔をされたり、嫌々連れ回されたことなんてありません!成績だって、ちゃんと維持しているじゃないですか。だからもう──」
「神保、君はまるで分かっていない」
遮られた言葉──次の瞬間には、無理やり顎を掴み上げられていた。
嫌でも視界に飛び込んできた矢野の顔から、先ほどまでの穏やかな笑みが完全に消え去っている。その冷徹な眼差しに、誉の血の気が一気に引いていく。
「君の将来の為にも、付き合う人間は選んだ方がいい――男は、特にね」
生理的な気味悪さと恐怖に、誉は男の手を振り払うように慌てて立ち上がった。
これ以上、ここに居てはいけないと本能が叫んでいる。
「も、もう話が終わったなら帰ります……!」
それだけを何とか絞り出すと、誉は足早に出口へ向かった。
矢野の横をすり抜け、ドアノブに手をかけた瞬間、背後から何処か挑発的な口調が響く。
「神保……君自身の立場を危うくしないためにも、教師の言うことには素直に従った方がいいと思うがね」
その意味深な脅し文句を遮断するように、誉は部屋を飛び出すと、勢いよくドアを閉めた。
「はぁ……はぁ……っ」
言いようのない恐怖心から一刻も早く逃れたくて、誉は無我夢中で階段を駆け上がっていた。
目的の階にたどり着き、壁に背を預けて呼吸を整える。
しかし、胸の奥でざわざわと嫌な泥のようなものがまとわりついて離れなかった。
「立場って、なに……意味わかんない……っ」
「誉ー」
苦渋の表情を浮かべていた誉は、突然名前を呼ばれてハッと顔を上げる。
階段を下ってきた真一郎が足を止めたところだった。その姿を捉えた瞬間、誉の瞳にようやく安堵の色が灯る。
「沖田のくだらねー話聞いてたら遅くなってさー、面談終わっ──」
考えるより先に、身体が動いていた。
誉は、力いっぱい真一郎の胸に飛び込んだ。まだ整わない呼吸を繰り返すたび、鼻腔を満たす彼の香りが、言いようのない興奮と恐怖を鎮める万能薬のように染み渡っていく。
「……っえ!?お、おい、ちょ、誉!?こ、ここここ、学校な、んだ、っ──」
真一郎は盛大にドギマギと声を上ずらせたが、言い終わる前に、鞄を持っていない方の手をそっと誉の背中に回してきた。
「おい誉、なにがあった?」
背中に大きな手の温もりを感じた瞬間、誉は初めて自分が酷く震えていることに気がついた。
「──わたし、あの先生怖い……」
まだ少し肌寒いが、人の出入りがほとんどない中庭。そこに避難するようにやってくると、誉は先ほど進路指導室で起きた出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
優秀な生徒が、問題児と連れ立っているのを良く思わない教師──そこまでは容易に想像がつく。
しかし、それにしても指導の範疇を完全に逸脱していた。流石の真一郎も、話を聞くうちにみるみる表情を険しくさせていく。
──もはや、ただの脅迫だ。
「それ、他の先生に相談した方がいいんじゃねーのか」
「でも、あの人愛想がいいから、他の先生たちや生徒から人気らしくて……わたし一人が訴えて信じてもらえるかどうか……証拠もないし」
「君のことを心配してくれているだけ」──そんな言葉で片付けられるのは目に見えていた。
「……進級の希望、取り下げようかな……」
このまま無事に特進コースへ上がれたとして、あの男の元で学ばなければならないのかと思うと、今から気が滅入る。それなら、早々に切り替えて違う道を選択する方が賢明かもしれない──誉は本気でそう思い詰めていた。
「誉、大学行くにはやっぱ特進じゃないとダメか?」
「え?えっと、まぁ……合格するための専門的な授業受けられるみたいなので、受験には有利になるとは思いますけど……行かなくても勉強できなくはない、です」
とはいえ、塾や独学だけで現役合格を目指せるかと言われると、誉自身も定かではなかった。
「……じゃあ、進級希望はそのままにしとけ」
真一郎の言葉に、誉の心はすっと冷えていった。
今まで経験したことのない恐怖を感じたのだ。「そんな教師がいるクラスなんか行かなくていい」──本当はそう言って欲しかった。
「で、でも、わたし……っ」
「オレが絶対守ってやる」
「え……っ」
遮るように紡がれた声は、真っ直ぐで力強かった。
「またしつこいようだったら、すぐオレに言え。面談とか言って呼び出されても、オレが絶対近くで待っててやる。誉の声が聞こえるとこに居りゃあ、変なことされそうになっても、すぐぶっ飛ばしに行けるしな」
「先輩……」
「そんな変人教師に振り回されて、医者になるの邪魔されるなんてくだんねーじゃん。証拠掴んで、ソイツ引きずり降ろしてやろーぜ」
安心しろ、と告げる彼の優しい笑顔が視界に広がる。
──大丈夫。真一郎が傍にいてくれる。
先ほどまで足元から這い上がっていた不安が、一瞬にして安心感へと塗り替えられていく。こらえきれずに涙が溢れそうになった誉は、真一郎の首に手を回して勢いよく抱きついた。
「先輩!ありがとう……!!」
「えっ、だ、ちょ、誉!?だ、だからここ、ここガッコーなんですけどぉ!?」
そのゼロ距離に、屋外の寒さも気にならなくなった今の二人には、お互いの存在しか見えていない。
──校舎の窓から静かにその様子を覗う男のことなど、気づくはずもなかった。
「次、誉ちゃんで最後だって」
三学期がひと月ほど経ったある日の放課後──。
特進コース進級希望者を対象とした面談が行われていた。学期末試験を控え、成績指導と最終的な意思確認を行うためのもの──ということらしかった。
こずえに次の番を告げられた誉は念の為と思い、メモ帳とシャープペンシルを一本ポケットに突っ込んでいると、
「なんかさー、先に終わった男子に聞いたんだけど、私たちよりも時間短かったらしいんだよね」
「え?なんで?」
「さぁ。米山くんは5分もかからず終わったって。三木さんなんて20分も話されてたよ。勉強の効率を上げるウンチクはいいとして、家で何してるとか趣味は何かとか……進級と全く関係ない話までされて」
「うーん……新しく担任になるかもしれない生徒と、交流を深めたいとか?」
「じゃあ何で全員に同じ質問をしないの?あのインテリ教師、なーんかヤらしいよね。話が長くなりそうだったら、適当に切り上げて無理やり終わらせておいでよ」
そんなこずえの忠告に少しの不安を抱きつつ、誉は立ち上がると進路指導室へと向かった。
「──相変わらず文句のつけようがない成績だ。学期末試験も問題なければ、トップで進級できるよ。この調子でいくと良い」
「はい」
面談を担当している教師の矢野は、特進コースの専属担任として今年度赴任されたばかりだという。他県の私立進学校からやってきた──そうこずえは言っていた。
「……ところで、あの不良の生徒とは未だに仲良くしているようだが、どうしてなのかな?」
──きた。
絶対に問い詰められるだろうと身構えていた誉は、毅然とした態度で背筋を伸ばす。
以前、「真一郎とは距離を置け」と言ってきたのが目の前に座るこの教師だった。容姿端麗で高身長、眼鏡の奥の瞳が知的な印象を与える矢野は、授業も分かりやすいと校内の女子生徒から密かな人気を集めている。
だが、その内面に隠された、他人を蔑むような人間性を、誉はどうしても好きになれなかった。
「前にお答えした通りです。進級と、佐野先輩のことは関係ありません」
「君の勉学の邪魔になるだけだと思うけどね。授業はサボる、試験は毎回追試対象、低レベルな連中とつるんで喧嘩ばかりしているそうじゃないか」
「……確かに、彼は不真面目な生徒かもしれません。でも、勉強の邪魔をされたり、嫌々連れ回されたことなんてありません!成績だって、ちゃんと維持しているじゃないですか。だからもう──」
「神保、君はまるで分かっていない」
遮られた言葉──次の瞬間には、無理やり顎を掴み上げられていた。
嫌でも視界に飛び込んできた矢野の顔から、先ほどまでの穏やかな笑みが完全に消え去っている。その冷徹な眼差しに、誉の血の気が一気に引いていく。
「君の将来の為にも、付き合う人間は選んだ方がいい――男は、特にね」
生理的な気味悪さと恐怖に、誉は男の手を振り払うように慌てて立ち上がった。
これ以上、ここに居てはいけないと本能が叫んでいる。
「も、もう話が終わったなら帰ります……!」
それだけを何とか絞り出すと、誉は足早に出口へ向かった。
矢野の横をすり抜け、ドアノブに手をかけた瞬間、背後から何処か挑発的な口調が響く。
「神保……君自身の立場を危うくしないためにも、教師の言うことには素直に従った方がいいと思うがね」
その意味深な脅し文句を遮断するように、誉は部屋を飛び出すと、勢いよくドアを閉めた。
「はぁ……はぁ……っ」
言いようのない恐怖心から一刻も早く逃れたくて、誉は無我夢中で階段を駆け上がっていた。
目的の階にたどり着き、壁に背を預けて呼吸を整える。
しかし、胸の奥でざわざわと嫌な泥のようなものがまとわりついて離れなかった。
「立場って、なに……意味わかんない……っ」
「誉ー」
苦渋の表情を浮かべていた誉は、突然名前を呼ばれてハッと顔を上げる。
階段を下ってきた真一郎が足を止めたところだった。その姿を捉えた瞬間、誉の瞳にようやく安堵の色が灯る。
「沖田のくだらねー話聞いてたら遅くなってさー、面談終わっ──」
考えるより先に、身体が動いていた。
誉は、力いっぱい真一郎の胸に飛び込んだ。まだ整わない呼吸を繰り返すたび、鼻腔を満たす彼の香りが、言いようのない興奮と恐怖を鎮める万能薬のように染み渡っていく。
「……っえ!?お、おい、ちょ、誉!?こ、ここここ、学校な、んだ、っ──」
真一郎は盛大にドギマギと声を上ずらせたが、言い終わる前に、鞄を持っていない方の手をそっと誉の背中に回してきた。
「おい誉、なにがあった?」
背中に大きな手の温もりを感じた瞬間、誉は初めて自分が酷く震えていることに気がついた。
「──わたし、あの先生怖い……」
まだ少し肌寒いが、人の出入りがほとんどない中庭。そこに避難するようにやってくると、誉は先ほど進路指導室で起きた出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
優秀な生徒が、問題児と連れ立っているのを良く思わない教師──そこまでは容易に想像がつく。
しかし、それにしても指導の範疇を完全に逸脱していた。流石の真一郎も、話を聞くうちにみるみる表情を険しくさせていく。
──もはや、ただの脅迫だ。
「それ、他の先生に相談した方がいいんじゃねーのか」
「でも、あの人愛想がいいから、他の先生たちや生徒から人気らしくて……わたし一人が訴えて信じてもらえるかどうか……証拠もないし」
「君のことを心配してくれているだけ」──そんな言葉で片付けられるのは目に見えていた。
「……進級の希望、取り下げようかな……」
このまま無事に特進コースへ上がれたとして、あの男の元で学ばなければならないのかと思うと、今から気が滅入る。それなら、早々に切り替えて違う道を選択する方が賢明かもしれない──誉は本気でそう思い詰めていた。
「誉、大学行くにはやっぱ特進じゃないとダメか?」
「え?えっと、まぁ……合格するための専門的な授業受けられるみたいなので、受験には有利になるとは思いますけど……行かなくても勉強できなくはない、です」
とはいえ、塾や独学だけで現役合格を目指せるかと言われると、誉自身も定かではなかった。
「……じゃあ、進級希望はそのままにしとけ」
真一郎の言葉に、誉の心はすっと冷えていった。
今まで経験したことのない恐怖を感じたのだ。「そんな教師がいるクラスなんか行かなくていい」──本当はそう言って欲しかった。
「で、でも、わたし……っ」
「オレが絶対守ってやる」
「え……っ」
遮るように紡がれた声は、真っ直ぐで力強かった。
「またしつこいようだったら、すぐオレに言え。面談とか言って呼び出されても、オレが絶対近くで待っててやる。誉の声が聞こえるとこに居りゃあ、変なことされそうになっても、すぐぶっ飛ばしに行けるしな」
「先輩……」
「そんな変人教師に振り回されて、医者になるの邪魔されるなんてくだんねーじゃん。証拠掴んで、ソイツ引きずり降ろしてやろーぜ」
安心しろ、と告げる彼の優しい笑顔が視界に広がる。
──大丈夫。真一郎が傍にいてくれる。
先ほどまで足元から這い上がっていた不安が、一瞬にして安心感へと塗り替えられていく。こらえきれずに涙が溢れそうになった誉は、真一郎の首に手を回して勢いよく抱きついた。
「先輩!ありがとう……!!」
「えっ、だ、ちょ、誉!?だ、だからここ、ここガッコーなんですけどぉ!?」
そのゼロ距離に、屋外の寒さも気にならなくなった今の二人には、お互いの存在しか見えていない。
──校舎の窓から静かにその様子を覗う男のことなど、気づくはずもなかった。
