続編
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新天地(外)
入校研修が終わったらここへ来るように──。
有坂からの指示を受け、冬晴れの空のもと、鯉登は陸大から真っ直ぐに有坂邸へと向かっていた。自然と足早になるその心中は、上官の呼び出しに対する緊張と最愛の人に会える期待とが入り交じる。
角を曲がれば、視界に飛び込んでくる大きな松の木。その木陰を超えて、邸の戸を開けた。
「──やぁッ!昨日今日とご苦労だったね、鯉登くんッ!!」
「はッ!過分なるお心遣い、恐れ入ります!」
「公務外だッ!まぁそう固くならずに寛ぎたまえッ!!」
「はいッ!失礼しますッ!」
随分と賑やかに定型の挨拶を済ませると、二人は卓を挟んで向かい合わせに腰を下ろした。
「──失礼いたします」
堅苦しさの抜けない居間に、柔く控え目な声が響いた。戸が開き声の主が現れると、鯉登は緩みそうになる顔を引き締める。
盆を抱えた菊乃と目が合った。
「今日はなんの茶菓子かなッ!?」
「本日は、小澤様の御令息から婚礼祝いのお返しにいただいたカステラを」
「イイネッ!!」
一際大きく歓喜する有坂は、菊乃が持つ盆へと手を伸ばし、せかせかと机の上へ並べていく。
「鯉登くんも、遠慮はいらんからモリモリ食べなさいッ!!」
「は、は……!頂戴いたします!」
目の前のやり取りに圧倒されつつ、鯉登は出された湯呑みとカステラを手に取った。
それから、ふと顔を上げれば穏やかに微笑む菊乃と視線が交わる。
「おしぼりも、良かったらお使いください」
「あっ、ああ……!」
菊乃が漆塗りの小さな盆に乗せたおしぼりを運び、差し出す様を目で追う。
──それが机上に着地した瞬間、
「……菊乃、その手首はどうした……?」
袖口から僅かに覗いた、禍々しい青紫色。どこかへ強く打ち付けたような痣に、鯉登の中で僅かな戦慄が走った。
「っあ、これは……!よそ見をして箪笥の角にぶつけてしまって!お見苦しいものを、申し訳ありません……」
慌てて裾を伸ばし痣を隠す菊乃は、そのままそそくさと居間を辞していった。
また、見え透いた嘘を──。その場で問い質したい衝動を辛うじて抑え、鯉登は居住まいを正すと有坂を真正面から見据えた。
「有坂閣下。本日私を呼び立てられたのは、……菊乃さんのこと、でしょうか?」
「察しがいいね鯉登くぅんッ!!半分はそうッ!!」
もう半分の真意が見えぬまま、鯉登は背筋を伸ばした。
向かいでカステラを頬張る有坂は、体勢が整った空気を察してモゴモゴと口を開く。
「一か月前のことなんだがねッ!──……菊乃が医者から神経衰弱 が疑われると診断を受けたッ!!」
「…………は?」
予想だにしていなかった話に、鯉登は面食らった。後に続く言葉が見つからず、唖然としたまま暫しの時が過ぎる。
「っそ、れは……どういう……ッ?」
やっと絞り出した問いかけは、動揺を抑えきれず、心許なく震えていた。
「『夢遊病』という名の病、聞いたことはあるかねッ?」
「は、はい……睡眠中、何かに取り憑かれたかのように意識の無いまま奇行を取る、徘徊症状が……主な……ッ」
突然問いかけられた病名が、疑問と一本の糸で結び付いた。とても良くないことが、有坂の口から出てこようとしている気配に肌が粟立つ。
「半年程前になるか……深夜に突然、菊乃が叫びながら家中を暴れ回るようになってしまってねぇ……ッ!」
「あ……、暴れる……!?」
「意識のないまま、あちこち歩き回っては家の柱や壁に身体中を打ち付けるもんだから怪我が絶えなくてねぇッ!その度に、私とアキさんで菊乃が落ち着くまで押さえ込んで、もう大騒ぎッ!!」
鯉登はごくりと唾を飲み込んだ。この先に続くであろう凄惨な光景を想像し、耳を塞ぎたくなる。それでも視線を逸らすことなく、膝の上の拳を白くなるまで握りしめ、有坂を見据え続けた。
「それでねぇッ、どうも誰かを探している様子だったんだよッ!」
「誰か……?」
──『おじさんッ!待って!!置いていかないでッ!!もっと言うこといっぱい聞くからッ!!』──
「まさか……」
「本人にそれとなく聞いたんだが、思い出した記憶の中で森岡くんのことをおじさんと呼んでいたらしいッ!」
「森岡の、ことを……」
「当初は頻繁なものではなかったんだが、日に日に症状が現れる回数が増えていってねぇッ!──もうこれ以上は限界だろうと、菊乃を巣鴨に連れていくことにしたんだよッ!!」
巣鴨病院──精神疾患の専門機関として名高いその場所は、過酷な戦場で心を病んだ兵士も多く収容されていた。
「本人には……なんと説明を……?」
「意識が無いなかのことだからねぇッ、寝ぼけて箪笥にでも打ち付けたくらいにしか思っておらんッ!『悪すぎる寝相を直せる先生がいるので行ってみようッ!!』って誘って連れてったッ!!」
「……」
その言葉に素直に従った純真さを思うと、鯉登は複雑な心境になった。しかし、余計な恐怖を与えずに診察を受けさせた有坂の配慮は、結果として正しかったのだろうと思い直す。
「原因は、やはり……」
「過去の洗脳による記憶障害と、これまで受けた精神的負担ッ!断片的に記憶が戻ったことも影響しているというのが医者の見解だッ!!」
「……その病は、治るもの、なのでしょうか……?」
鯉登が絞り出した声は、辛うじて有坂の耳に届く。もし「不治」と言われれば、目の前のカステラさえ二度と味がしなくなるのではないか──そんな恐怖が喉をせり上がる。
「それなんだがねぇッ!もしかしたら治ったかもしれないッ!!」
「え……?も、治っ……!?ほ、本当ですかッ!?」
「治った」という言葉に、鯉登は大きく目を見開く。しかし、続いた「かもしれない」という曖昧な結び。その余白に、再び心臓を冷えた手で掴まれる。絶望の淵から救い上げられたのか、あるいはまだ深い霧の中にいるのか──。
鯉登は大きく意表を突かれたまま、有坂の真意を測るよう見つめ返した。
「一週間前から症状がパタリと出なくなったッ!!……これがどういうことか、心当たりはないかね鯉登くんッ!!」
「え……?」
数秒、思考が凍りつく。鯉登は、記憶の帳をめくり、自分と彼女の時間を遡った。
一週間前といえば──あの日、陸大合格の報を携えてこの邸の門をくぐった。驚きと喜びで顔を輝かせた菊乃の瞳が、蘇る。
「一週間前、は……私が……」
「キミが合格を貰ってここを訪ねてきた日ッ!あの日から今日まで症状は出ていないッ!!まぁ静かなもんだッ!!」
有坂の言葉に、鯉登は呼吸を忘れていた。
──自分が彼女に与えたのは、再会という一時的な喜びだけではなかったのか。深く見えない菊乃の中で未だ蔓延る闇を、己の存在が押し留めているとしたら──。
「ココからがもう半分の話ッ!私からひとつ提案なんだがねッ!──近いことだし、陸大へはウチから通ったらどうだろうかッ!!」
「…………えッ!?か、閣下のご自宅から、ですか……ッ!?」
それは、厳格な陸軍に身を置く立場でありながら、あまりに常識を逸脱した提案だった。
「し、しかし……!参謀が手配した下宿先が既に──」
「そ〜んなもん、私の家で世話になることになったからって言って蹴ってしまえばいいヨッ!!」
「な……ッ」
「私からも言っておくッ!」
「で、ですが……!」
「分かっておるよッ!!……暫くは、周囲の目が醜くなるだろうがねッ」
有坂はそこで言葉を切り、手にしていた湯呑みをゆっくりと机に置いた。一切の賑やかさが消え、代わりに現れたのは、銃器の精度を測る技術者の如く真剣で、慈愛に満ちた瞳であった。
「どうもあの子には、キミが必要みたいだよッ?」
それは、娘を救うための最も確実で、唯一の解を示しているようだった。
鯉登は、膝の上で握りしめた拳をじっと見つめる。
──この手は、祖国を護るためにある。しかし、その大きな祖国を形作るのは、紛れもなく目の前にいる人々の営みだ。ただ一人のかけがえのない女性 の安らぎさえ護れぬ男に、何が成せるといえよう──。
迷いを断ち切るが如く、鯉登は卓に頭がつくほどの勢いで深く頭を下げた。
「此度のお話、謹んでお受けいたしますッ!──至らぬ身ではありますが、私の一生を賭して菊乃さんをお守りいたしますッ!!」
その決然とした叫びを聞き届けた有坂は、満足げに目を細めていた。
それから、勢いよく顔を上げた鯉登は、手付かずだったカステラを手に取り口の中へと放り込んだ。
しっかり咀嚼し、飲み込む。到底喉を通らぬと思えたそれは、驚くほど甘くどこか懐かしい味がした。
ここから始まる日々も、決して平坦ではない。それでも鯉登の心は、かつてないほど静かな熱気に満たされていた。
新天地(おわり)
-あるかもしれない日常-
「──菊乃ッ! どこにおるッ!!」
探せど探せど、菊乃の姿が見当たらない。
焦燥に駆られた鯉登は、彼女の居室の前までやってきた。
すると、中からドタドタと不審な物音が聞こえてくる。思わず戸の傍へ寄り、耳を立ててみた。
「……菊乃?おるのか?」
返事はない。しかし、たまらず戸を開けた。
まず視界に飛び込んできたのは、部屋の中央に落ちている彼女のものと思しき着物だ。それは、まるで脱ぎ捨てられたかのように無造作だった。
さらに、不可思議なことにその着物、生き物のようにモゾモゾと蠢き始めたのである。
「な、なんじゃッ!?」
鯉登が思わず身構えた、その時だった。
「……ミー……ミャーン」
着物の襟元からひょいと顔を覗かせたのは、雪のような白毛とビードロ玉のごとき瞳を持った、小さな猫であった。
「ミァー」
「お、おお……! むぜ猫じゃっ」
着物の中から這い出した猫が、トコトコとこちらへ向かってくる。足元にすり寄る愛くるしさに、鯉登は思わず膝をついて猫を抱き上げた。
その刹那、彼の脳裏にとんでもない疑惑が過ぎる。
──いくら探しても姿が見えない菊乃。
──まるで中身が消え失せたかのような、主 なき着物。
──そして、その下から現れた、この得も言われぬ愛くるしい生き物。よく見れば、その瞳の色は菊乃のそれに似ていなくもない。
「ま、まさか……ッ!?」
呪いか、あるいは怪異の仕業か。
そんな馬鹿な。いやしかし……。
「……菊乃……?」
「ミャー」
そして僅かな沈黙──その間に、鯉登の脳内では「菊乃=猫」という突飛な超理論がすっかり成立してしまっていた。
「菊乃、だいじょっ。心配せんでよかどッ!」
鯉登は猫を胸に抱きしめ、薩摩弁で必死に語りかけた。
「元ん姿に戻るっ方法を必ずオイが見つくッ!た、例え猫んまま戻れんでん、ずっと傍におっでなッ!!毎日 新鮮な 魚 をたもらせてやっし、一生こんフカフカを守り抜いてみすッ!! 」
猫に頬ずりし、悲壮なまでの決意を固める鯉登。彼の熱烈な誓いに応えるように、猫は「ミャーン」と鳴いた。
「うぅ、きもっよか毛並みぃ……」
「……鯉登さん、何をしてらっしゃるんですか?」
複雑な心境に響いた、聞き慣れた声。突然のことに鯉登が驚き振り返ると、
「きぇ……? 菊乃ッ!?」
そこには、濡れた髪を拭いながら、怪訝な顔で立ち尽くす菊乃の姿があった。
「あ!その子、さっきお庭の掃除してたら迷い込んできた猫ちゃん」
「なん、なっ、菊乃!ど、どこに行っておったのだ!?」
「え?ちょっと汚れてしまった髪を洗いに……その隙に入ってきちゃったみたいですねぇ」
床に落ちている着物を一瞥した菊乃は、微笑みながら鯉登の腕に抱かれている猫の鼻を優しく突いた。
「よかったね、鯉登さんが一生守ってくれるって」
「ミャア」
「き、聞っ、きぇぇぇぇえッ!?」
釈明の言葉も思い浮かばぬまま、鯉登は顔面を沸騰せんばかりに真っ赤に染め上げるのであった。
おわり
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入校研修が終わったらここへ来るように──。
有坂からの指示を受け、冬晴れの空のもと、鯉登は陸大から真っ直ぐに有坂邸へと向かっていた。自然と足早になるその心中は、上官の呼び出しに対する緊張と最愛の人に会える期待とが入り交じる。
角を曲がれば、視界に飛び込んでくる大きな松の木。その木陰を超えて、邸の戸を開けた。
「──やぁッ!昨日今日とご苦労だったね、鯉登くんッ!!」
「はッ!過分なるお心遣い、恐れ入ります!」
「公務外だッ!まぁそう固くならずに寛ぎたまえッ!!」
「はいッ!失礼しますッ!」
随分と賑やかに定型の挨拶を済ませると、二人は卓を挟んで向かい合わせに腰を下ろした。
「──失礼いたします」
堅苦しさの抜けない居間に、柔く控え目な声が響いた。戸が開き声の主が現れると、鯉登は緩みそうになる顔を引き締める。
盆を抱えた菊乃と目が合った。
「今日はなんの茶菓子かなッ!?」
「本日は、小澤様の御令息から婚礼祝いのお返しにいただいたカステラを」
「イイネッ!!」
一際大きく歓喜する有坂は、菊乃が持つ盆へと手を伸ばし、せかせかと机の上へ並べていく。
「鯉登くんも、遠慮はいらんからモリモリ食べなさいッ!!」
「は、は……!頂戴いたします!」
目の前のやり取りに圧倒されつつ、鯉登は出された湯呑みとカステラを手に取った。
それから、ふと顔を上げれば穏やかに微笑む菊乃と視線が交わる。
「おしぼりも、良かったらお使いください」
「あっ、ああ……!」
菊乃が漆塗りの小さな盆に乗せたおしぼりを運び、差し出す様を目で追う。
──それが机上に着地した瞬間、
「……菊乃、その手首はどうした……?」
袖口から僅かに覗いた、禍々しい青紫色。どこかへ強く打ち付けたような痣に、鯉登の中で僅かな戦慄が走った。
「っあ、これは……!よそ見をして箪笥の角にぶつけてしまって!お見苦しいものを、申し訳ありません……」
慌てて裾を伸ばし痣を隠す菊乃は、そのままそそくさと居間を辞していった。
また、見え透いた嘘を──。その場で問い質したい衝動を辛うじて抑え、鯉登は居住まいを正すと有坂を真正面から見据えた。
「有坂閣下。本日私を呼び立てられたのは、……菊乃さんのこと、でしょうか?」
「察しがいいね鯉登くぅんッ!!半分はそうッ!!」
もう半分の真意が見えぬまま、鯉登は背筋を伸ばした。
向かいでカステラを頬張る有坂は、体勢が整った空気を察してモゴモゴと口を開く。
「一か月前のことなんだがねッ!──……菊乃が医者から
「…………は?」
予想だにしていなかった話に、鯉登は面食らった。後に続く言葉が見つからず、唖然としたまま暫しの時が過ぎる。
「っそ、れは……どういう……ッ?」
やっと絞り出した問いかけは、動揺を抑えきれず、心許なく震えていた。
「『夢遊病』という名の病、聞いたことはあるかねッ?」
「は、はい……睡眠中、何かに取り憑かれたかのように意識の無いまま奇行を取る、徘徊症状が……主な……ッ」
突然問いかけられた病名が、疑問と一本の糸で結び付いた。とても良くないことが、有坂の口から出てこようとしている気配に肌が粟立つ。
「半年程前になるか……深夜に突然、菊乃が叫びながら家中を暴れ回るようになってしまってねぇ……ッ!」
「あ……、暴れる……!?」
「意識のないまま、あちこち歩き回っては家の柱や壁に身体中を打ち付けるもんだから怪我が絶えなくてねぇッ!その度に、私とアキさんで菊乃が落ち着くまで押さえ込んで、もう大騒ぎッ!!」
鯉登はごくりと唾を飲み込んだ。この先に続くであろう凄惨な光景を想像し、耳を塞ぎたくなる。それでも視線を逸らすことなく、膝の上の拳を白くなるまで握りしめ、有坂を見据え続けた。
「それでねぇッ、どうも誰かを探している様子だったんだよッ!」
「誰か……?」
──『おじさんッ!待って!!置いていかないでッ!!もっと言うこといっぱい聞くからッ!!』──
「まさか……」
「本人にそれとなく聞いたんだが、思い出した記憶の中で森岡くんのことをおじさんと呼んでいたらしいッ!」
「森岡の、ことを……」
「当初は頻繁なものではなかったんだが、日に日に症状が現れる回数が増えていってねぇッ!──もうこれ以上は限界だろうと、菊乃を巣鴨に連れていくことにしたんだよッ!!」
巣鴨病院──精神疾患の専門機関として名高いその場所は、過酷な戦場で心を病んだ兵士も多く収容されていた。
「本人には……なんと説明を……?」
「意識が無いなかのことだからねぇッ、寝ぼけて箪笥にでも打ち付けたくらいにしか思っておらんッ!『悪すぎる寝相を直せる先生がいるので行ってみようッ!!』って誘って連れてったッ!!」
「……」
その言葉に素直に従った純真さを思うと、鯉登は複雑な心境になった。しかし、余計な恐怖を与えずに診察を受けさせた有坂の配慮は、結果として正しかったのだろうと思い直す。
「原因は、やはり……」
「過去の洗脳による記憶障害と、これまで受けた精神的負担ッ!断片的に記憶が戻ったことも影響しているというのが医者の見解だッ!!」
「……その病は、治るもの、なのでしょうか……?」
鯉登が絞り出した声は、辛うじて有坂の耳に届く。もし「不治」と言われれば、目の前のカステラさえ二度と味がしなくなるのではないか──そんな恐怖が喉をせり上がる。
「それなんだがねぇッ!もしかしたら治ったかもしれないッ!!」
「え……?も、治っ……!?ほ、本当ですかッ!?」
「治った」という言葉に、鯉登は大きく目を見開く。しかし、続いた「かもしれない」という曖昧な結び。その余白に、再び心臓を冷えた手で掴まれる。絶望の淵から救い上げられたのか、あるいはまだ深い霧の中にいるのか──。
鯉登は大きく意表を突かれたまま、有坂の真意を測るよう見つめ返した。
「一週間前から症状がパタリと出なくなったッ!!……これがどういうことか、心当たりはないかね鯉登くんッ!!」
「え……?」
数秒、思考が凍りつく。鯉登は、記憶の帳をめくり、自分と彼女の時間を遡った。
一週間前といえば──あの日、陸大合格の報を携えてこの邸の門をくぐった。驚きと喜びで顔を輝かせた菊乃の瞳が、蘇る。
「一週間前、は……私が……」
「キミが合格を貰ってここを訪ねてきた日ッ!あの日から今日まで症状は出ていないッ!!まぁ静かなもんだッ!!」
有坂の言葉に、鯉登は呼吸を忘れていた。
──自分が彼女に与えたのは、再会という一時的な喜びだけではなかったのか。深く見えない菊乃の中で未だ蔓延る闇を、己の存在が押し留めているとしたら──。
「ココからがもう半分の話ッ!私からひとつ提案なんだがねッ!──近いことだし、陸大へはウチから通ったらどうだろうかッ!!」
「…………えッ!?か、閣下のご自宅から、ですか……ッ!?」
それは、厳格な陸軍に身を置く立場でありながら、あまりに常識を逸脱した提案だった。
「し、しかし……!参謀が手配した下宿先が既に──」
「そ〜んなもん、私の家で世話になることになったからって言って蹴ってしまえばいいヨッ!!」
「な……ッ」
「私からも言っておくッ!」
「で、ですが……!」
「分かっておるよッ!!……暫くは、周囲の目が醜くなるだろうがねッ」
有坂はそこで言葉を切り、手にしていた湯呑みをゆっくりと机に置いた。一切の賑やかさが消え、代わりに現れたのは、銃器の精度を測る技術者の如く真剣で、慈愛に満ちた瞳であった。
「どうもあの子には、キミが必要みたいだよッ?」
それは、娘を救うための最も確実で、唯一の解を示しているようだった。
鯉登は、膝の上で握りしめた拳をじっと見つめる。
──この手は、祖国を護るためにある。しかし、その大きな祖国を形作るのは、紛れもなく目の前にいる人々の営みだ。ただ一人のかけがえのない
迷いを断ち切るが如く、鯉登は卓に頭がつくほどの勢いで深く頭を下げた。
「此度のお話、謹んでお受けいたしますッ!──至らぬ身ではありますが、私の一生を賭して菊乃さんをお守りいたしますッ!!」
その決然とした叫びを聞き届けた有坂は、満足げに目を細めていた。
それから、勢いよく顔を上げた鯉登は、手付かずだったカステラを手に取り口の中へと放り込んだ。
しっかり咀嚼し、飲み込む。到底喉を通らぬと思えたそれは、驚くほど甘くどこか懐かしい味がした。
ここから始まる日々も、決して平坦ではない。それでも鯉登の心は、かつてないほど静かな熱気に満たされていた。
新天地(おわり)
-あるかもしれない日常-
「──菊乃ッ! どこにおるッ!!」
探せど探せど、菊乃の姿が見当たらない。
焦燥に駆られた鯉登は、彼女の居室の前までやってきた。
すると、中からドタドタと不審な物音が聞こえてくる。思わず戸の傍へ寄り、耳を立ててみた。
「……菊乃?おるのか?」
返事はない。しかし、たまらず戸を開けた。
まず視界に飛び込んできたのは、部屋の中央に落ちている彼女のものと思しき着物だ。それは、まるで脱ぎ捨てられたかのように無造作だった。
さらに、不可思議なことにその着物、生き物のようにモゾモゾと蠢き始めたのである。
「な、なんじゃッ!?」
鯉登が思わず身構えた、その時だった。
「……ミー……ミャーン」
着物の襟元からひょいと顔を覗かせたのは、雪のような白毛とビードロ玉のごとき瞳を持った、小さな猫であった。
「ミァー」
「お、おお……! むぜ猫じゃっ」
着物の中から這い出した猫が、トコトコとこちらへ向かってくる。足元にすり寄る愛くるしさに、鯉登は思わず膝をついて猫を抱き上げた。
その刹那、彼の脳裏にとんでもない疑惑が過ぎる。
──いくら探しても姿が見えない菊乃。
──まるで中身が消え失せたかのような、
──そして、その下から現れた、この得も言われぬ愛くるしい生き物。よく見れば、その瞳の色は菊乃のそれに似ていなくもない。
「ま、まさか……ッ!?」
呪いか、あるいは怪異の仕業か。
そんな馬鹿な。いやしかし……。
「……菊乃……?」
「ミャー」
そして僅かな沈黙──その間に、鯉登の脳内では「菊乃=猫」という突飛な超理論がすっかり成立してしまっていた。
「菊乃、だいじょっ。心配せんでよかどッ!」
鯉登は猫を胸に抱きしめ、薩摩弁で必死に語りかけた。
「元ん姿に戻るっ方法を必ずオイが見つくッ!た、例え猫んまま戻れんでん、ずっと傍におっでなッ!!
猫に頬ずりし、悲壮なまでの決意を固める鯉登。彼の熱烈な誓いに応えるように、猫は「ミャーン」と鳴いた。
「うぅ、きもっよか毛並みぃ……」
「……鯉登さん、何をしてらっしゃるんですか?」
複雑な心境に響いた、聞き慣れた声。突然のことに鯉登が驚き振り返ると、
「きぇ……? 菊乃ッ!?」
そこには、濡れた髪を拭いながら、怪訝な顔で立ち尽くす菊乃の姿があった。
「あ!その子、さっきお庭の掃除してたら迷い込んできた猫ちゃん」
「なん、なっ、菊乃!ど、どこに行っておったのだ!?」
「え?ちょっと汚れてしまった髪を洗いに……その隙に入ってきちゃったみたいですねぇ」
床に落ちている着物を一瞥した菊乃は、微笑みながら鯉登の腕に抱かれている猫の鼻を優しく突いた。
「よかったね、鯉登さんが一生守ってくれるって」
「ミャア」
「き、聞っ、きぇぇぇぇえッ!?」
釈明の言葉も思い浮かばぬまま、鯉登は顔面を沸騰せんばかりに真っ赤に染め上げるのであった。
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