続編
Name change
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
新天地(後)
皆で夕食を囲む中、菊乃は箸を取ったまま殆ど口をつけることができずにいた。
味も香りもぼやけていて、胸の奥に居座る重たい蟠りが喉元までせり上がってくるばかりだった。
「……申し訳ありません。食欲が出なくて……少し、部屋で休んでまいります」
そう言い残して立ち上がる。鯉登の視線と、有坂とアキが顔を見合わせる気配がした。しかし、気遣う声をかける隙も与えず、菊乃は頭を下げると逃げるようにその場を後にした。
今はこれ以上、平静を装っていられる自信がなかった。──鯉登の顔を見るのも辛かった。
それから間もなくして、背後に気配を感じた。後方から激しく床を叩く足音が近づいて来る。
「──菊乃!」
鯉登の声に呼び止められ、菊乃は反射的に立ち止まった。けれど振り返る勇気は出ず、袖を握りしめたまま俯く。
「どうした……?どこか具合が悪いのか?」
「……なんでもありません……!」
「おい……ッ!」
鯉登の制止を振り切るように、菊乃は自室へ駆け込んだ。襖を閉め、咄嗟に心張り棒で固定する。一人になった途端、張り詰めていた糸が切れ、顔が苦痛に歪んだ。
しかしその刹那、戸の向こうから強い衝撃が走る。心張り棒が悲鳴を上げ、襖の隙間から鯉登の鋭い眼光が射し込んだ。
「ひぇ……ッ!」
恐怖のあまり後退れば、直ぐ様力任せに襖が押し開けられた。無惨に拉げた戸を唖然と見つめている隙に、土足も厭わぬ勢いで入ってきた鯉登に問答無用で腕を掴まれた。
「な……ッ、離してッ!」
拘束から逃れようと身を捩るが、さらに抱え込むように抑え込まれ、菊乃の声が悲鳴のように上ずった。
「お前は嘘が下手なのだから観念しろ!」
「ッ、どうして!?今朝までちっとも触れてくださらなかったのに、なんで今更……ッ!」
「ふ、れ……?」
反芻するように言葉を漏らした鯉登が、一瞬だけ目を瞬かせた。
「謂れのない噂がたって、イヤになられたのでしょう!?これからのお立場を考えて……私を遠ざけたいのならはっきりそう仰ってくださったらいいじゃないですかッ!!」
胸の内に溜め込んでいた不安が、堰を切った涙とともに溢れ出した。
「お、おい、待て。一体何の話──」
「お茶屋さんで、軍の方達が話してました……ッ!鯉登さんがお父様と……私を利用して後ろ盾を得ようとしてるのだと……!!」
こんな状態で正式に婚約の話が出れば、火に油を注ぐだけだ。そうなれば、鯉登への悪評は益々広まる。だからこそ、彼は自分から距離を取ろうとしている──。菊乃の脳内は、その絶望的な推測で埋め尽くされていた。
「菊乃、それは──」
「分かっています!でも、その根も葉もない噂がこれからどれ程の枷になるか……ッ!気が変わったのならもう終わりにしてッ!!結婚のお話も全──」
言い切る前に、腕を引かれた。言葉が喉元に詰まったまま、逃れようのない力で抱きしめられる。
「終わりにって……何だ……ッ」
耳元で響く声は、怒りと、それ以上に震えるような悲しみに満ちていた。
「……鯉、登さん……」
「何を終わりにするというんだ!?私たちはまだ始まってもいないではないかッ!!」
必死に訴えかけてくるその勢いに、菊乃は息を呑んだ。朝のぎこちない彼からは想像もつかない、強く、痛いほどの腕の熱を感じる。
間もなくして、強ばらせていた身体から自然と力が抜ける。抵抗をやめた菊乃が腕の中で大人しくなると、鯉登の荒い息も徐々に静まっていった。
「……その程度の噂、立つことは分かっていた」
「え……?」
「それでも私は、──……私が、菊乃の傍にいたいと思ったから」
ただその一言に、重苦しかった蟠りが溶け始める。嬉しさと、それでもまだ拭いきれない悲しみが胸の中で絡まり合い、涙になって溢れた。
「じゃあどうして……っ」
何故、あんなにもよそよそしかったのか──。納得のいく理由が見つからず、悲しみの置き場を探せば、
「あー……んん……そん……めあがっちょっとを悟られめと、ちゅうか ……」
「…………なんて?」
もごもごと言い淀んだ挙げ句、薩摩言葉らしき訛りが聞こえて、菊乃は涙目のまま鯉登をきょとんと見つめ返す。
「だ、だから……っ、同じ家で寝食を共にしているのだと思ったら、どうにも落ち着かんし……欲するままに触れて、お前に卑しい男だと思われたく、なかったし……!」
「じ、じゃあ、私とのことに嫌気が差したわけでは……」
「当たり前だッ!……有坂閣下の手前、私だって弁える」
そう言って鯉登は、大きな掌で優しく菊乃の頬を包み込み、そっと涙を拭った。
「不安にさせてすまない。こうも早くお前の耳に入るとは思わんかった。心配はいらんと前もって話しておくべきだったな」
「でも、あんな酷いこと……」
「案ずるな。菊乃のことは有坂閣下が根回し済みだ。上層部から下級の私たちのところまで情報が回るのにそう時間は掛かるまい。下らん噂もそのうち霧散する」
菊乃は、小樽の料亭で芸事に携わっていた身寄りのない娘で、有坂はその才を惜しみ、折に触れて援助と助言を与えてきた。中途半端な立場のままにしておくには忍びなく、正式に養女として迎えた。──そんな筋書きで、すでに周囲には言い含めているという。
「ああもう、私ったらまた早とちりを……」
勝手に思い詰めていた自分を恥じて、菊乃は堪らず顔を覆った。
しかし、直ぐさま鯉登にその手をそっと外される。
「……触れてほしかったのか?私に」
その言葉に不意を突かれた菊乃は、沸騰せんばかりに顔を赤らめた。見れば鯉登も負けじと頬を染めている。余計に羞恥は募り、目一杯に瞼を閉じた。
「……はい……ぃ」
観念して零した直後、かすめる程度の口付けが降ってきた。
菊乃が驚きに目を見開くと、至近距離で鯉登の真摯な瞳と合う。それも一瞬で、再び互いに瞼を閉じ、吸い寄せられるように唇を重ねた。羽のように軽く柔らかな感触に、ぞくりと身震いする。
やがて、胸の奥底から滾る熱が形を変えていく──熟れた果実を潰し合うような、深い口付けへと。
「……、菊乃……っ」
「ん……っ」
重なる吐息は次第に熱を帯び、合間に声を漏らしながら喰み合いが続いた。
鯉登の指先が、菊乃の後頭部を這う。緩くまとめただけの髪。その柔い隙間に差し込まれた手が、二人の境界をより曖昧なものへと誘おうとしていた。
「──ん゛ッ、ぅん゛ッ、ぅんッんッん゛~ッ!」
その時、何の前触れもなく鼓膜へ飛び込んできたのは、あまりにも不自然な咳払い。
二人は弾かれたように肩を揺らす。慌てて振り向けば、戸口からひょっこりと顔を出した有坂がいた。
「仲直りはできたようだねッ!菊乃ッ、食べられそうなら居間に戻っておいでッ!アキさんが待っているよッ!」
「あ……!は、はい。すぐ行きます……ッ!」
いつもの陽気な口調──。しかし、どうにも逆らえぬ空気を纏っていた。
菊乃は、一瞬だけ鯉登に目配せをして、戸惑いながらも言われるがままに部屋を出た。
──残された鯉登は、早鐘を打つ胸を押さえ立ち尽くす。その場に、なんとも言えぬ気まずさが漂った。
「二人ともいい大人だし心配はしておらんが、一応立場上言っておくんだけどねぇッ!──ここでは節度を持って過ごしてくれたまえよ、鯉登くぅんッ!!」
「き、肝に銘じます……ッ!」
「あとッ!壊した襖、直しといてねッ!!」
「キェッ」
──そのやり取りは、つい廊下の途中で立ち止まってしまった菊乃の耳にもしっかり届く。
再び顔が沸騰し、幸せと羞恥の狭間で身悶えするのだった。
皆で夕食を囲む中、菊乃は箸を取ったまま殆ど口をつけることができずにいた。
味も香りもぼやけていて、胸の奥に居座る重たい蟠りが喉元までせり上がってくるばかりだった。
「……申し訳ありません。食欲が出なくて……少し、部屋で休んでまいります」
そう言い残して立ち上がる。鯉登の視線と、有坂とアキが顔を見合わせる気配がした。しかし、気遣う声をかける隙も与えず、菊乃は頭を下げると逃げるようにその場を後にした。
今はこれ以上、平静を装っていられる自信がなかった。──鯉登の顔を見るのも辛かった。
それから間もなくして、背後に気配を感じた。後方から激しく床を叩く足音が近づいて来る。
「──菊乃!」
鯉登の声に呼び止められ、菊乃は反射的に立ち止まった。けれど振り返る勇気は出ず、袖を握りしめたまま俯く。
「どうした……?どこか具合が悪いのか?」
「……なんでもありません……!」
「おい……ッ!」
鯉登の制止を振り切るように、菊乃は自室へ駆け込んだ。襖を閉め、咄嗟に心張り棒で固定する。一人になった途端、張り詰めていた糸が切れ、顔が苦痛に歪んだ。
しかしその刹那、戸の向こうから強い衝撃が走る。心張り棒が悲鳴を上げ、襖の隙間から鯉登の鋭い眼光が射し込んだ。
「ひぇ……ッ!」
恐怖のあまり後退れば、直ぐ様力任せに襖が押し開けられた。無惨に拉げた戸を唖然と見つめている隙に、土足も厭わぬ勢いで入ってきた鯉登に問答無用で腕を掴まれた。
「な……ッ、離してッ!」
拘束から逃れようと身を捩るが、さらに抱え込むように抑え込まれ、菊乃の声が悲鳴のように上ずった。
「お前は嘘が下手なのだから観念しろ!」
「ッ、どうして!?今朝までちっとも触れてくださらなかったのに、なんで今更……ッ!」
「ふ、れ……?」
反芻するように言葉を漏らした鯉登が、一瞬だけ目を瞬かせた。
「謂れのない噂がたって、イヤになられたのでしょう!?これからのお立場を考えて……私を遠ざけたいのならはっきりそう仰ってくださったらいいじゃないですかッ!!」
胸の内に溜め込んでいた不安が、堰を切った涙とともに溢れ出した。
「お、おい、待て。一体何の話──」
「お茶屋さんで、軍の方達が話してました……ッ!鯉登さんがお父様と……私を利用して後ろ盾を得ようとしてるのだと……!!」
こんな状態で正式に婚約の話が出れば、火に油を注ぐだけだ。そうなれば、鯉登への悪評は益々広まる。だからこそ、彼は自分から距離を取ろうとしている──。菊乃の脳内は、その絶望的な推測で埋め尽くされていた。
「菊乃、それは──」
「分かっています!でも、その根も葉もない噂がこれからどれ程の枷になるか……ッ!気が変わったのならもう終わりにしてッ!!結婚のお話も全──」
言い切る前に、腕を引かれた。言葉が喉元に詰まったまま、逃れようのない力で抱きしめられる。
「終わりにって……何だ……ッ」
耳元で響く声は、怒りと、それ以上に震えるような悲しみに満ちていた。
「……鯉、登さん……」
「何を終わりにするというんだ!?私たちはまだ始まってもいないではないかッ!!」
必死に訴えかけてくるその勢いに、菊乃は息を呑んだ。朝のぎこちない彼からは想像もつかない、強く、痛いほどの腕の熱を感じる。
間もなくして、強ばらせていた身体から自然と力が抜ける。抵抗をやめた菊乃が腕の中で大人しくなると、鯉登の荒い息も徐々に静まっていった。
「……その程度の噂、立つことは分かっていた」
「え……?」
「それでも私は、──……私が、菊乃の傍にいたいと思ったから」
ただその一言に、重苦しかった蟠りが溶け始める。嬉しさと、それでもまだ拭いきれない悲しみが胸の中で絡まり合い、涙になって溢れた。
「じゃあどうして……っ」
何故、あんなにもよそよそしかったのか──。納得のいく理由が見つからず、悲しみの置き場を探せば、
「あー……んん……そん……
「…………なんて?」
もごもごと言い淀んだ挙げ句、薩摩言葉らしき訛りが聞こえて、菊乃は涙目のまま鯉登をきょとんと見つめ返す。
「だ、だから……っ、同じ家で寝食を共にしているのだと思ったら、どうにも落ち着かんし……欲するままに触れて、お前に卑しい男だと思われたく、なかったし……!」
「じ、じゃあ、私とのことに嫌気が差したわけでは……」
「当たり前だッ!……有坂閣下の手前、私だって弁える」
そう言って鯉登は、大きな掌で優しく菊乃の頬を包み込み、そっと涙を拭った。
「不安にさせてすまない。こうも早くお前の耳に入るとは思わんかった。心配はいらんと前もって話しておくべきだったな」
「でも、あんな酷いこと……」
「案ずるな。菊乃のことは有坂閣下が根回し済みだ。上層部から下級の私たちのところまで情報が回るのにそう時間は掛かるまい。下らん噂もそのうち霧散する」
菊乃は、小樽の料亭で芸事に携わっていた身寄りのない娘で、有坂はその才を惜しみ、折に触れて援助と助言を与えてきた。中途半端な立場のままにしておくには忍びなく、正式に養女として迎えた。──そんな筋書きで、すでに周囲には言い含めているという。
「ああもう、私ったらまた早とちりを……」
勝手に思い詰めていた自分を恥じて、菊乃は堪らず顔を覆った。
しかし、直ぐさま鯉登にその手をそっと外される。
「……触れてほしかったのか?私に」
その言葉に不意を突かれた菊乃は、沸騰せんばかりに顔を赤らめた。見れば鯉登も負けじと頬を染めている。余計に羞恥は募り、目一杯に瞼を閉じた。
「……はい……ぃ」
観念して零した直後、かすめる程度の口付けが降ってきた。
菊乃が驚きに目を見開くと、至近距離で鯉登の真摯な瞳と合う。それも一瞬で、再び互いに瞼を閉じ、吸い寄せられるように唇を重ねた。羽のように軽く柔らかな感触に、ぞくりと身震いする。
やがて、胸の奥底から滾る熱が形を変えていく──熟れた果実を潰し合うような、深い口付けへと。
「……、菊乃……っ」
「ん……っ」
重なる吐息は次第に熱を帯び、合間に声を漏らしながら喰み合いが続いた。
鯉登の指先が、菊乃の後頭部を這う。緩くまとめただけの髪。その柔い隙間に差し込まれた手が、二人の境界をより曖昧なものへと誘おうとしていた。
「──ん゛ッ、ぅん゛ッ、ぅんッんッん゛~ッ!」
その時、何の前触れもなく鼓膜へ飛び込んできたのは、あまりにも不自然な咳払い。
二人は弾かれたように肩を揺らす。慌てて振り向けば、戸口からひょっこりと顔を出した有坂がいた。
「仲直りはできたようだねッ!菊乃ッ、食べられそうなら居間に戻っておいでッ!アキさんが待っているよッ!」
「あ……!は、はい。すぐ行きます……ッ!」
いつもの陽気な口調──。しかし、どうにも逆らえぬ空気を纏っていた。
菊乃は、一瞬だけ鯉登に目配せをして、戸惑いながらも言われるがままに部屋を出た。
──残された鯉登は、早鐘を打つ胸を押さえ立ち尽くす。その場に、なんとも言えぬ気まずさが漂った。
「二人ともいい大人だし心配はしておらんが、一応立場上言っておくんだけどねぇッ!──ここでは節度を持って過ごしてくれたまえよ、鯉登くぅんッ!!」
「き、肝に銘じます……ッ!」
「あとッ!壊した襖、直しといてねッ!!」
「キェッ」
──そのやり取りは、つい廊下の途中で立ち止まってしまった菊乃の耳にもしっかり届く。
再び顔が沸騰し、幸せと羞恥の狭間で身悶えするのだった。
