続編
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新天地(前)
──ある日の東雲。
薄明の光が差し込むなか、鯉登音之進は静かに目を覚ます。
布団から出ると、枕元に畳んでいた着流しを手に取った。軍人らしい無駄のない所作で着替えを済ませ、鏡の前で寝癖を整えると、居住まいを正して廊下へと踏み出した。
まだ夜気の残る、冷え切った床板の感触。それを足裏に感じながら廊下を渡り、曲がり角の先にある扉を開けると──。
「──あ、お、おはようございます……!」
そこには、割烹着を羽織った菊乃がいた。台所の竈の中で爆ぜる薪の火が、彼女の白い頬を淡く染めている。
慌てて立ち上がる菊乃と目が合った鯉登は、その瞬間コチンと彫像のごとく硬直した。
「お、ぉぉおおおはよう!」
「えっと、お湯沸いたのでこちらを……」
「あ、あいがと……!」
菊乃がぬるま湯を張った洗面器を示せば、鯉登はその湯で顔を洗った。手拭いを差し出す手も、一方それを受け取る動作も、どこかぎこちなく映る。
「今日も、鍛錬を……?」
「あ、ああ」
「今朝もよく冷えますので、あの、程々に……」
「う、うん……」
「あ、終わる頃に新しいお湯と手拭いお持ちしますね……?」
「た、頼む」
こんな生活が始まって、はや一週間。
陸軍大学校の合格が決まって間もなく、鯉登は部隊指揮官として高みを目指すべく、晴れて新天地での第一歩を踏み出した。
しかし、本人も想定していなかった事態が起きる。陸軍大学校と然程離れていない場所に建っているとはいえ、まさかこの有坂邸が己の下宿先となってしまうとは──。
鯉登は、精一杯の威厳を保って背を向け、台所をあとにした。だが、角を曲がり菊乃の視線が届かなくなった刹那、壁に手をつき天を仰ぐ。
「……きゅもむぞかぁ ……ッ」
込み上げる熱情を押し殺すように顔を歪め、己の胸元を力一杯掴む。
二人の嬉し恥ずかし同棲生活(婚約者の実家)は、始まったばかりだ。
***
最初は、ただ緊張しているのだと思った。上官の邸宅に住まうことになるなんて、そう無いことだというのは菊乃にだって想像がつく。
しかし、一週間──。正しくは、今日で九日目を迎えるのだが、いつまで経っても鯉登のぎこちない態度は解消しない。菊乃もそれにつられ意識してしまうのか、彼との距離を測りかねていた。
「醤油取ってッ!」
朝食の時間。皆で卓を囲んだところで、この家の主、有坂が誰にともなく言った。
菊乃は、傍らにあった醤油差しに右手を伸ばす。それと同時に、対面からも手が伸びてきて──。
「あ」
「きぇぇぇぇぇえッ!?」
指先がわずかに触れた瞬間、雄鶏も飛び跳ねそうな鋭い猿叫が轟いた。あまりの衝撃波に、庭の雀たちが一斉に羽ばたき、卓の上の味噌汁が小さく波紋を描く。
猿叫した本人を見れば、まるで全力疾走した後のように肩で息をしていた。
「も、申し訳ありません……!」
「い、いやすまん!す、すすす少し驚いただけだ……!」
少し、で出たにしては五軒先まで余裕で聞こえただろう程の声量であった。
「鯉登くーんッ、深呼吸、深呼吸ぅッ!」
「は、はい……!」
有坂に促された鯉登は、言われるがままに深い呼吸を繰り返し始めた。
その隙に、と菊乃が改めて醤油差しに手を伸ばせば、
「あ」
「きぇぇぇぇぇえッ!?」
二人の息の合った(?)やり取りは、連日このように繰り広げられているのだが、
「今日も仲睦まじくて結構結構ッ!あハハハハッ!」
閣下のお茶目な戯れは、二人のぎこちなさに益々拍車をかけていた。
──鯉登のことで言葉にできない不安は、今日も菊乃の喉につかえたままだ。
「はぁ……」
「まぁまぁ、相変わらず元気があってよろしいではありませんか」
皿を洗っていると、洗濯を干し終えたらしいアキが姿を現した。何処か熟練された風格を醸し出す彼女は、ここ有坂邸にて二十年に渡り勤めている古参の女中である。
「あ、すみません!私ったらまた露骨に……」
「良いんですよ。見ている分には楽しいものぉ」
「う……」
彼女は、魁燿亭の女将と然程変わらぬ年齢というのもあって、菊乃にとって気の置けない人物だった。
「きっと最初のうちだけです。お嬢様のことを意識なさるあまり、余裕がないのでしょう。初々しくていじらしいわぁ」
「そ、そう、なんでしょうか……?」
菊乃は、眉間に皺を寄せて言い淀んだ。どこか腑に落ちない思いを無理やり飲み込む。
菊乃だって、好意を寄せる異性と一つ屋根の下で暮らす状況に戸惑いがないわけではない。ましてや、鯉登とは将来を誓い合った仲だ。恋仲らしい睦まじいやり取りだって、期待せずにはいられない。一年ぶりに顔を合わせた、あの感動的な再会が今では嘘のようだった。
「旦那様の手前、難しいこともあるのでしょう。次のお休みの日に外出のお誘いでもなさったらどうです?」
不安の種は尽きなかったが、アキの励ましに、菊乃は「くよくよしていても始まらない」と己を鼓舞する。
「そうですね、……お誘いしてみます!」
ぐっと拳に力を入れて決意を固めた菊乃は、仕事場へ出かける準備のため割烹着を脱いだ。
「ああ、待って」
そのまま戸口へ向かおうとしたところを引き留められた。アキは、菊乃の右腕を取ってそのまま袖口を捲ると、露わになった腕をまじまじと見つめる。
透き通るような白い肌には、淡い紫色の痕が痛々しく浮き出ていた。
「……うん、大分傷跡良くなりましたね」
安堵の息を漏らすアキの姿に、菊乃は眉根を下げて申し訳なさそうに視線を俯かせる。
──数ヶ月前から、度々身に覚えのない擦り傷や痣をつくるようになっていた。
「申し訳ありません、ご心配をおかけして……もう、寝相が悪すぎるなんて年甲斐もない……」
「気にしすぎるのもよくないとお医者様に言われたではありませんか。慣れない暮らしで、知らぬ間に溜まった疲れが悪さをしているのですよ」
そんな励ましの言葉に、菊乃は苦笑いを作ってそっと袖を下ろした。
「はい……やっと落ち着いてきたのかな」
「良いことです。さぁさ、引き止めてごめんなさいね。遅刻したら大変だわ」
景気づけにポン、と背を叩かれた。その手の温かさは、かつて小樽の料亭で自分を支えてくれた女将のそれに似ていて、背筋が自然と伸びる。
菊乃は、アキに礼を告げると今度こそ台所を後にした。
──浅草にある花街には、多くの置屋が軒を連ねている。その一角にある店へ足を踏み入れた菊乃は、主人と女将へ挨拶を済ませると、二階へ上がり稽古場へと入った。
「おはようございます」
声をかけて見渡せば、六人の若い娘たちが礼儀正しく座して待っていた。
「おはようございます!先生」
「本日もよろしくお願いいたします」
菊乃は、この置屋で三味線の指南役を勤めている。魁燿亭の女将が昔在籍していた店という縁だった。この仕事を認めてくれた有坂にも感謝しつつ、今日も菊乃は一糸乱れぬ撥捌きで弦を響かせる。
芸は身を助く──。親代わりの彼女が口癖のように言っていたことを、強く実感させられた。
「──ねぇ先生、素敵な殿方と住まわれているって本当なんですか?」
「私も聞きました!有坂様の御宅に、目も覚めるような美丈夫な方が出入りされていると!」
「……え?」
稽古が終わるや否や、少女たちは息荒く問いかけてきた。
半玉の「やす」と「たけ」は、年が明ければ十五という、色事に興味の尽きない年頃の娘たちだ。
「コラ、やすちゃん、たけちゃん!先生に失礼でしょ!」
すかさず二人を咎めたのは、この中で一番年が上の「澄」だった。綺麗な顔立ちで客からの人気も高く、随分と早いうちに一本芸者として座敷に立ったという有望な若手だ。
何れ周囲の耳に入るだろうことは予測がついていたものの、想定を上回る早さで噂が立っていて、菊乃が思わず苦い顔をする。
あの顔立ちに、仕立ての良い軍服。毎日欠かさぬ素振りで鍛え上げられた体躯──。
確かに、彼は黙って立っているだけで人目を引かずにはおかない男であった。
「え、えぇ……。陸軍大学校にお通いになるのに、父が下宿生としてお迎えした方で──」
「まぁ!」
きゃあきゃあと盛り上がる教え子たちを前に、菊乃は眩暈を覚えてそっと瞼を閉じた。若さゆえの眩い好奇心に当てられてしまいそうになる。
「とても凛々しいお顔立ちの方だと聞きました。将校さんだなんて……ああ羨ましいっ」
「そんな方と住まうだなんて、私だったら毎夜、夜這いでもされないかと胸が高鳴ってしまうわぁ」
「夜……ッ!?」
大人しく聞いていれば、彼女たちの妄想があらぬ方向へ暴走を始める。それには流石に菊乃も黙ってはいられず、
「鯉登さんはそんな不品行な方ではありません……ッ!」
思わず三味線の胴を叩かんばかりの勢いで叫んだ。それが必要以上にむきになった言い方になってしまって、菊乃がしまった──、と思ったときには既に遅く、静まり返った稽古場に、何とも言えない沈黙が流れる。
「ほらぁ!やっぱり先生の良い人なんだわ!」
その後、根掘り葉掘りの質問攻めに遭ったのは言うまでもない。歓声は益々黄色くなっていき、菊乃は恥ずかしさのあまり顔を両手で覆って俯いた。
その胸の内では、未だ解消に至らぬ蟠りを抱えたまま──。
──日暮れが近づく青山の繁華街で、菊乃は帰路の途中にいた。
いつも以上に疲労の色濃い表情でとぼとぼと歩いていると、ふと視界に入ったのは茶屋の看板であった。その軒先から漂う煎茶と香ばしい焼き団子の香りに誘われ、衝動的に店の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい!」
愛想の良い女将の声に迎えられる。すぐ目の前には、陳列された団子や大福が所狭しと並んでいた。
棚の脇を抜けた先には飲食用の卓と椅子が置かれ、数組の客が茶と甘味を楽しみながら談笑している。
「奥で食べていくかい?」
「あ、はい」
その問いに小さく首を縦に振ると、菊乃は目の前に並ぶ菓子を端から眺め始めた。
「──しかし、中将の邸宅に下宿とは、随分と手堅い出世策を講じたものだ」
ふと耳に届いた低く抑えた男の声。その冷ややかな響きに、菊乃の胸の奥がひくりと跳ねた。
衝動的に視線を上げると、この辺りでは珍しくない三人の陸軍将校の姿があった。
「一体どんなあさましい手段で取り入ったのやら」
耳が勝手に言葉を拾う。菊乃は菓子を眺めるふりをしつつ、慌てて彼らの死角となる柱の影に身を隠した。
「何だ、貴様知らないのか?閣下が養女を迎えられた話を」
「何?それは初耳だ」
菊乃は思わず息を呑んだ。自分と鯉登のことだと確信した瞬間、指先が急速に冷えていく。
「その女の出処、誰に聞いても判然としないのだ。おかしいと思わないか?」
「噂じゃあ、隠し子だの妾だのと言われているそうじゃないか」
「そうだとして、あの御歳で養子を取るとは些か不可解だ」
「そうだろう?」
「隠し子ではないか?事実を知られることを恐れる閣下に脅しをかけ、女を養子に据えさせた上でその女との婚姻を迫ったとしたら?」
「まずは養子縁組、か──成程。家との繋がりほど強固なものはない」
とんでもない憶測に心の中で仰天する。彼らにとっては、茶のついでに吐き捨てた暇つぶしの醜聞に過ぎないのだろう。しかしそれは、菊乃の心の内を脆くする猛毒だ。
「確か、奥方様には早くに先立たれ、御令息は海軍将校であったはずだ」
「あの男、第七師団だったな?殉死した上官は情報将校だったと聞く。弱みを握る手立てがあったのかもしれん」
「はっ、それはそれは……女一人で評価が変わるなら楽でいい」
下卑た笑い声が、鼓膜を震わせる。最後の言葉が、冷たい刃のように胸をなぞる。
──脳裏に、今朝の鯉登の顔が浮かんだ。彼がどれほどの覚悟と努力で陸大合格を掴み取ったのか。それを、何も知らない部外者に貶められた。その悔しさと、自分が彼の足枷になっているのではないかという恐怖が、波のように押し寄せる。
ふと気づけば、不思議そうな顔をした女将と目があった。立ち尽くしたままの菊乃に、声をかけようか迷っている様子だ。
はっと我に返った菊乃は慌てて、
「あの、やっぱり持ち帰ります……お団子、四本ください」
震えそうになる声を、どうにか抑える。勘定を済ませ団子を受け取ると、頭を下げ足早にその場を後にした。
受け取った包みは、まだほんのりと温かい。けれど、それを握りしめる菊乃の指先は、まるで氷に触れたかのように感覚が失われていた。
──夕闇が迫る青山通り。道中はまだ多くの往来があった。あちこちから視線を向けられているような錯覚に襲われ、菊乃はただ、前だけを見つめて足早に歩き続けた。
──ある日の東雲。
薄明の光が差し込むなか、鯉登音之進は静かに目を覚ます。
布団から出ると、枕元に畳んでいた着流しを手に取った。軍人らしい無駄のない所作で着替えを済ませ、鏡の前で寝癖を整えると、居住まいを正して廊下へと踏み出した。
まだ夜気の残る、冷え切った床板の感触。それを足裏に感じながら廊下を渡り、曲がり角の先にある扉を開けると──。
「──あ、お、おはようございます……!」
そこには、割烹着を羽織った菊乃がいた。台所の竈の中で爆ぜる薪の火が、彼女の白い頬を淡く染めている。
慌てて立ち上がる菊乃と目が合った鯉登は、その瞬間コチンと彫像のごとく硬直した。
「お、ぉぉおおおはよう!」
「えっと、お湯沸いたのでこちらを……」
「あ、あいがと……!」
菊乃がぬるま湯を張った洗面器を示せば、鯉登はその湯で顔を洗った。手拭いを差し出す手も、一方それを受け取る動作も、どこかぎこちなく映る。
「今日も、鍛錬を……?」
「あ、ああ」
「今朝もよく冷えますので、あの、程々に……」
「う、うん……」
「あ、終わる頃に新しいお湯と手拭いお持ちしますね……?」
「た、頼む」
こんな生活が始まって、はや一週間。
陸軍大学校の合格が決まって間もなく、鯉登は部隊指揮官として高みを目指すべく、晴れて新天地での第一歩を踏み出した。
しかし、本人も想定していなかった事態が起きる。陸軍大学校と然程離れていない場所に建っているとはいえ、まさかこの有坂邸が己の下宿先となってしまうとは──。
鯉登は、精一杯の威厳を保って背を向け、台所をあとにした。だが、角を曲がり菊乃の視線が届かなくなった刹那、壁に手をつき天を仰ぐ。
「……
込み上げる熱情を押し殺すように顔を歪め、己の胸元を力一杯掴む。
二人の嬉し恥ずかし同棲生活(婚約者の実家)は、始まったばかりだ。
***
最初は、ただ緊張しているのだと思った。上官の邸宅に住まうことになるなんて、そう無いことだというのは菊乃にだって想像がつく。
しかし、一週間──。正しくは、今日で九日目を迎えるのだが、いつまで経っても鯉登のぎこちない態度は解消しない。菊乃もそれにつられ意識してしまうのか、彼との距離を測りかねていた。
「醤油取ってッ!」
朝食の時間。皆で卓を囲んだところで、この家の主、有坂が誰にともなく言った。
菊乃は、傍らにあった醤油差しに右手を伸ばす。それと同時に、対面からも手が伸びてきて──。
「あ」
「きぇぇぇぇぇえッ!?」
指先がわずかに触れた瞬間、雄鶏も飛び跳ねそうな鋭い猿叫が轟いた。あまりの衝撃波に、庭の雀たちが一斉に羽ばたき、卓の上の味噌汁が小さく波紋を描く。
猿叫した本人を見れば、まるで全力疾走した後のように肩で息をしていた。
「も、申し訳ありません……!」
「い、いやすまん!す、すすす少し驚いただけだ……!」
少し、で出たにしては五軒先まで余裕で聞こえただろう程の声量であった。
「鯉登くーんッ、深呼吸、深呼吸ぅッ!」
「は、はい……!」
有坂に促された鯉登は、言われるがままに深い呼吸を繰り返し始めた。
その隙に、と菊乃が改めて醤油差しに手を伸ばせば、
「あ」
「きぇぇぇぇぇえッ!?」
二人の息の合った(?)やり取りは、連日このように繰り広げられているのだが、
「今日も仲睦まじくて結構結構ッ!あハハハハッ!」
閣下のお茶目な戯れは、二人のぎこちなさに益々拍車をかけていた。
──鯉登のことで言葉にできない不安は、今日も菊乃の喉につかえたままだ。
「はぁ……」
「まぁまぁ、相変わらず元気があってよろしいではありませんか」
皿を洗っていると、洗濯を干し終えたらしいアキが姿を現した。何処か熟練された風格を醸し出す彼女は、ここ有坂邸にて二十年に渡り勤めている古参の女中である。
「あ、すみません!私ったらまた露骨に……」
「良いんですよ。見ている分には楽しいものぉ」
「う……」
彼女は、魁燿亭の女将と然程変わらぬ年齢というのもあって、菊乃にとって気の置けない人物だった。
「きっと最初のうちだけです。お嬢様のことを意識なさるあまり、余裕がないのでしょう。初々しくていじらしいわぁ」
「そ、そう、なんでしょうか……?」
菊乃は、眉間に皺を寄せて言い淀んだ。どこか腑に落ちない思いを無理やり飲み込む。
菊乃だって、好意を寄せる異性と一つ屋根の下で暮らす状況に戸惑いがないわけではない。ましてや、鯉登とは将来を誓い合った仲だ。恋仲らしい睦まじいやり取りだって、期待せずにはいられない。一年ぶりに顔を合わせた、あの感動的な再会が今では嘘のようだった。
「旦那様の手前、難しいこともあるのでしょう。次のお休みの日に外出のお誘いでもなさったらどうです?」
不安の種は尽きなかったが、アキの励ましに、菊乃は「くよくよしていても始まらない」と己を鼓舞する。
「そうですね、……お誘いしてみます!」
ぐっと拳に力を入れて決意を固めた菊乃は、仕事場へ出かける準備のため割烹着を脱いだ。
「ああ、待って」
そのまま戸口へ向かおうとしたところを引き留められた。アキは、菊乃の右腕を取ってそのまま袖口を捲ると、露わになった腕をまじまじと見つめる。
透き通るような白い肌には、淡い紫色の痕が痛々しく浮き出ていた。
「……うん、大分傷跡良くなりましたね」
安堵の息を漏らすアキの姿に、菊乃は眉根を下げて申し訳なさそうに視線を俯かせる。
──数ヶ月前から、度々身に覚えのない擦り傷や痣をつくるようになっていた。
「申し訳ありません、ご心配をおかけして……もう、寝相が悪すぎるなんて年甲斐もない……」
「気にしすぎるのもよくないとお医者様に言われたではありませんか。慣れない暮らしで、知らぬ間に溜まった疲れが悪さをしているのですよ」
そんな励ましの言葉に、菊乃は苦笑いを作ってそっと袖を下ろした。
「はい……やっと落ち着いてきたのかな」
「良いことです。さぁさ、引き止めてごめんなさいね。遅刻したら大変だわ」
景気づけにポン、と背を叩かれた。その手の温かさは、かつて小樽の料亭で自分を支えてくれた女将のそれに似ていて、背筋が自然と伸びる。
菊乃は、アキに礼を告げると今度こそ台所を後にした。
──浅草にある花街には、多くの置屋が軒を連ねている。その一角にある店へ足を踏み入れた菊乃は、主人と女将へ挨拶を済ませると、二階へ上がり稽古場へと入った。
「おはようございます」
声をかけて見渡せば、六人の若い娘たちが礼儀正しく座して待っていた。
「おはようございます!先生」
「本日もよろしくお願いいたします」
菊乃は、この置屋で三味線の指南役を勤めている。魁燿亭の女将が昔在籍していた店という縁だった。この仕事を認めてくれた有坂にも感謝しつつ、今日も菊乃は一糸乱れぬ撥捌きで弦を響かせる。
芸は身を助く──。親代わりの彼女が口癖のように言っていたことを、強く実感させられた。
「──ねぇ先生、素敵な殿方と住まわれているって本当なんですか?」
「私も聞きました!有坂様の御宅に、目も覚めるような美丈夫な方が出入りされていると!」
「……え?」
稽古が終わるや否や、少女たちは息荒く問いかけてきた。
半玉の「やす」と「たけ」は、年が明ければ十五という、色事に興味の尽きない年頃の娘たちだ。
「コラ、やすちゃん、たけちゃん!先生に失礼でしょ!」
すかさず二人を咎めたのは、この中で一番年が上の「澄」だった。綺麗な顔立ちで客からの人気も高く、随分と早いうちに一本芸者として座敷に立ったという有望な若手だ。
何れ周囲の耳に入るだろうことは予測がついていたものの、想定を上回る早さで噂が立っていて、菊乃が思わず苦い顔をする。
あの顔立ちに、仕立ての良い軍服。毎日欠かさぬ素振りで鍛え上げられた体躯──。
確かに、彼は黙って立っているだけで人目を引かずにはおかない男であった。
「え、えぇ……。陸軍大学校にお通いになるのに、父が下宿生としてお迎えした方で──」
「まぁ!」
きゃあきゃあと盛り上がる教え子たちを前に、菊乃は眩暈を覚えてそっと瞼を閉じた。若さゆえの眩い好奇心に当てられてしまいそうになる。
「とても凛々しいお顔立ちの方だと聞きました。将校さんだなんて……ああ羨ましいっ」
「そんな方と住まうだなんて、私だったら毎夜、夜這いでもされないかと胸が高鳴ってしまうわぁ」
「夜……ッ!?」
大人しく聞いていれば、彼女たちの妄想があらぬ方向へ暴走を始める。それには流石に菊乃も黙ってはいられず、
「鯉登さんはそんな不品行な方ではありません……ッ!」
思わず三味線の胴を叩かんばかりの勢いで叫んだ。それが必要以上にむきになった言い方になってしまって、菊乃がしまった──、と思ったときには既に遅く、静まり返った稽古場に、何とも言えない沈黙が流れる。
「ほらぁ!やっぱり先生の良い人なんだわ!」
その後、根掘り葉掘りの質問攻めに遭ったのは言うまでもない。歓声は益々黄色くなっていき、菊乃は恥ずかしさのあまり顔を両手で覆って俯いた。
その胸の内では、未だ解消に至らぬ蟠りを抱えたまま──。
──日暮れが近づく青山の繁華街で、菊乃は帰路の途中にいた。
いつも以上に疲労の色濃い表情でとぼとぼと歩いていると、ふと視界に入ったのは茶屋の看板であった。その軒先から漂う煎茶と香ばしい焼き団子の香りに誘われ、衝動的に店の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい!」
愛想の良い女将の声に迎えられる。すぐ目の前には、陳列された団子や大福が所狭しと並んでいた。
棚の脇を抜けた先には飲食用の卓と椅子が置かれ、数組の客が茶と甘味を楽しみながら談笑している。
「奥で食べていくかい?」
「あ、はい」
その問いに小さく首を縦に振ると、菊乃は目の前に並ぶ菓子を端から眺め始めた。
「──しかし、中将の邸宅に下宿とは、随分と手堅い出世策を講じたものだ」
ふと耳に届いた低く抑えた男の声。その冷ややかな響きに、菊乃の胸の奥がひくりと跳ねた。
衝動的に視線を上げると、この辺りでは珍しくない三人の陸軍将校の姿があった。
「一体どんなあさましい手段で取り入ったのやら」
耳が勝手に言葉を拾う。菊乃は菓子を眺めるふりをしつつ、慌てて彼らの死角となる柱の影に身を隠した。
「何だ、貴様知らないのか?閣下が養女を迎えられた話を」
「何?それは初耳だ」
菊乃は思わず息を呑んだ。自分と鯉登のことだと確信した瞬間、指先が急速に冷えていく。
「その女の出処、誰に聞いても判然としないのだ。おかしいと思わないか?」
「噂じゃあ、隠し子だの妾だのと言われているそうじゃないか」
「そうだとして、あの御歳で養子を取るとは些か不可解だ」
「そうだろう?」
「隠し子ではないか?事実を知られることを恐れる閣下に脅しをかけ、女を養子に据えさせた上でその女との婚姻を迫ったとしたら?」
「まずは養子縁組、か──成程。家との繋がりほど強固なものはない」
とんでもない憶測に心の中で仰天する。彼らにとっては、茶のついでに吐き捨てた暇つぶしの醜聞に過ぎないのだろう。しかしそれは、菊乃の心の内を脆くする猛毒だ。
「確か、奥方様には早くに先立たれ、御令息は海軍将校であったはずだ」
「あの男、第七師団だったな?殉死した上官は情報将校だったと聞く。弱みを握る手立てがあったのかもしれん」
「はっ、それはそれは……女一人で評価が変わるなら楽でいい」
下卑た笑い声が、鼓膜を震わせる。最後の言葉が、冷たい刃のように胸をなぞる。
──脳裏に、今朝の鯉登の顔が浮かんだ。彼がどれほどの覚悟と努力で陸大合格を掴み取ったのか。それを、何も知らない部外者に貶められた。その悔しさと、自分が彼の足枷になっているのではないかという恐怖が、波のように押し寄せる。
ふと気づけば、不思議そうな顔をした女将と目があった。立ち尽くしたままの菊乃に、声をかけようか迷っている様子だ。
はっと我に返った菊乃は慌てて、
「あの、やっぱり持ち帰ります……お団子、四本ください」
震えそうになる声を、どうにか抑える。勘定を済ませ団子を受け取ると、頭を下げ足早にその場を後にした。
受け取った包みは、まだほんのりと温かい。けれど、それを握りしめる菊乃の指先は、まるで氷に触れたかのように感覚が失われていた。
──夕闇が迫る青山通り。道中はまだ多くの往来があった。あちこちから視線を向けられているような錯覚に襲われ、菊乃はただ、前だけを見つめて足早に歩き続けた。
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