本編
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情愛(三)
皆、酒が入り無礼講となった客間は、笑い声が絶えず常に賑やかだ。
一息ついた菊乃は、ふと視界に入った鯉登の視線にどきりと胸を高鳴らせる。
「菊乃。少し外に出られるか」
「……?はい」
立ち上がった鯉登に誘われるように、客間から縁側へ続く雪見障子を開ける。二人は庭用の下駄を借りて、一歩中庭へ降りた。
外はしんと澄み、虫の声が響いている。秋の夜気がひんやりと肌を撫でて、それが火照った頬に丁度いい。
「……謝るべき相手がもういないから、菊乃に聞いてほしい」
「謝るべき……ですか?」
鯉登は拳を握りしめている。妙に真剣な表情なのを不思議に思いながら、彼の言葉を待った。
「鶴見中尉殿が、菊乃のことも良からぬことに巻き込まんとしていたのでは……と、ずっと疑念を抱いていた」
その告白に菊乃は目を見開いた。
「え……?」
「あの人は、自分への忠誠心を嘘で試すところがあった。だから……お前に対しても、そうであったのか、と」
鯉登の言わんとすることを考えて──ほんの少し沈黙を挟んだ後、菊乃は静かに問い返した。
「疑いが晴れた理由は……養子縁組、ですか?」
鯉登は静かに頷いた。
「お前の大事な家族を疑っていたこと、申し訳なかったと思っている」
「……鶴見さんの嘘は、鯉登さん……月島さんのことも、傷つけてしまいましたか?」
伏せられていた視線が、弾かれるように上がった。瞳が大きく揺れていて、そんな鯉登の反応に疑問は確信へと変わる。
──「……そんなもの、嘘なんていくらでもつけるでしょう」
菊乃は、入院していた時に見た月島の酷く冷めた態度を思い出した。鯉登の言う“嘘”が、彼等の共通認識としてあるのなら──今も鶴見の呪縛が絡まったまま、その原因は己の存在だったのではないのか。そう思い至り、褄を取る手に力がこもる。
「私の方こそ、私のためにお二人が心を痛めてしまっていたのなら、申し訳ありません」
「違う。菊乃が謝る必要はない。……私は、鶴見中尉殿が菊乃に対しては誠実であったと分かって、嬉しかったんだ」
そう言って、鯉登は微笑んだ。
二人への申し訳なさと、気にかけてくれていたことを喜ばしく思う気持ちが菊乃の胸の中で入り混じる。それでも、吹っ切れたような彼の表情に菊乃も安堵を覚えた。穏やかに、互いに言葉少なに笑い合う。
しかし、不意に鯉登の笑顔が翳り、視線が庭の奥へと流れた。
「……もう週末には東京か。少し、遠いな」
風が木々を揺らし、菊乃の髪を軽く揺らす。口に出された言葉に、言い知れぬ寂しさが襲った。
「鯉登さん。あの……暫くは難しいでしょうけれど、向こうの生活が落ち着いたら、お父様にお願いして、会いに行っても、いいですか……?」
その声に、鯉登はわずかに眉を上げ、驚いたように目を見開いた。
しかしそれも一瞬で、やがて表情を引き締め、真剣な瞳で菊乃を見つめると、
「いや、旭川には来るな」
「……え……?」
予想外の答えに、菊乃の言葉は途切れた。胸がずしんと沈んで、瞳の奥を熱くする。
「どうして……っ」
「陸大の受験候補者に選抜される目処がついたんだ」
聞き慣れない言葉に戸惑う。彼の声色には、強い決意が宿っていた。
「陸、大……?」
「陸軍大学校。将校の養成機関だ。厳しい試験を突破しなければ入校は許されん。少なくともこれから一年、勉学に時間を割かなければならない」
「いち、ねん……」
褄をぎゅっと掴む菊乃の瞳が揺れる。その言葉の重みを、一体どう受け止めればいいのだろうか。
鯉登が出世を望んでいる事は知っている。きっと避けて通れない関門なのも分かる。少なくとも──ということは、それ以上かかる可能性を示唆している。色恋にかまけている場合ではないと、別れを切り出されるのではないか。その不安で、菊乃は堪らず視線を落とした。
「……陸大は、青山にある」
菊乃は、伏せた顔を上げた。青山は、これから菊乃が住まう有坂邸のある町だった。
「それって……!」
「必ず合格して、私から会いに行きたい。一年……待っていてくれないか?」
絶望からの希望。喜びが胸いっぱいに溢れた。その感情を抑えきれずに、着物の裾も忘れて菊乃は鯉登へ飛びついた。大切な着物が土まみれになろうが、今の心の高鳴りには及ばない。
「待ちます……!絶対ぜったい、待ってる!」
「うん……あいがと」
鯉登は小さく肩をすくめ、少し照れくさそうに菊乃の背に手を回した。
「これで不合格は許されん。まぁこれくらい追い込むのが丁度いい」
「ふふ。鯉登さんならきっと一位で合格できますっ」
「一位、か……そうだな。それくらいの実力がなければ、菊乃を満足に守ることなど叶わん」
その言い様は、菊乃は胸の内に強い引っかかりを生んだ。抱きついていた腕を解いて、彼を見る。
「どうして……。鯉登さんは守ってくださったじゃないですか」
「お前を守ったのは森岡……それに鶴見中尉と有坂中将だ。私は何もしていない」
菊乃の右手が、ぎゅっと鯉登の腕を握る。彼の真剣な瞳が、どこか苦しげに揺れていた。
「だから、この一年は戒めでもある。有坂中将が目を光らせているうちは心配ないが、それも有限だ。芹沢は失脚したが、組織に関わっていた人間はまだいる。今後もしものことがあれば、……陸大程度で躓いているようでは駄目だ」
「……私は、あなたにこれ以上荷を負わせたくありません」
「元より、私には己で課した使命がある。そこに譲れないものが一つ増えたに過ぎん。……だからそんな顔をするな」
鯉登はまっすぐに菊乃を見つめ、静かに言い切った。不安げに俯く菊乃の頬を両手で包んで、ふっと柔らかく微笑むと、
「私は、菊乃の笑った顔が好きだ」
菊乃は、その言葉に目を瞠ってから、はにかんだ微笑みを見せた。
「うふふ。むぜつらじゃ っ」
「あ……」
鯉登の顔がそっと寄ってくる。菊乃はその気配に瞼を閉じ、与えられる熱を待っていると──
「ひゃーっ」
「ばかっ杉本声が大きいっ」
「おい、気づかれるぞ」
ひそひそ……というより最早しっかり耳に届いたその声に、二人して客間の方へ振り向く。視線の先に、雪見障子の開いた隙間から除く複数の目が見えた。
「え、なっ、そこで何して……!?」
「覗きとは悪趣味だぞ月島ぁ!」
鯉登の言葉に障子がスラッと開くと、そこから杉本とアシㇼパが縁側に雪崩込んできた。その後方で、障子から手を離した月島が姿勢正しくすっと佇んでいる。
「違います。私は止めましたがこの二人が」
「はぁっ!?結局一緒になって覗いてたくせにぃ、このスケベ軍曹!」
「私は杉本にせがまれて仕方なくだな」
と、言い訳合戦が始まって、奥にいる芸者仲間や仲居たちも、なんだなんだと集まってくる。
羞恥心でどうにもならなくなり、
「う~っ。も、もう戻りますよ鯉登さ──」
部屋に戻ろうと促した菊乃の腕は、縁側と逆方向に引っ張られた勢いでよろめいた。不意をつかれた身体に抵抗する余裕はあるはずもなく──。
気づけば柔らかな熱が、菊乃の唇を覆っていた。
「いやーっ♡」
「おっ、おお……!」
「……はぁ~~~」
その他大勢の色めき立つ悲鳴につられ、静かに酒を交わしていた有坂と女将も縁側へと目を向ける。
「おやッ!若いっていいねェ女将ッ!」
「んまぁっ」
大勢の視線を浴びるという羞恥に耐えかねて、くぐもった叫びを上げながら菊乃は全力で鯉登の胸を叩いた。
やがて、ようやく解放されたかと思えば、
「どうだ貴様ら。これで満足だろう!」
紅が移った唇の両端をあげた鯉登が、得意気にふんぞり返って言うものだから、
「なん、な、なっ、何するのーッ!!」
菊乃はこれ以上無いほどに羞じらいで震えた。
穴があったら入りたい──。
こうして、芸者としての最後の夜は、笑いと甘い騒動に包まれながら賑やかに更けていった。
皆、酒が入り無礼講となった客間は、笑い声が絶えず常に賑やかだ。
一息ついた菊乃は、ふと視界に入った鯉登の視線にどきりと胸を高鳴らせる。
「菊乃。少し外に出られるか」
「……?はい」
立ち上がった鯉登に誘われるように、客間から縁側へ続く雪見障子を開ける。二人は庭用の下駄を借りて、一歩中庭へ降りた。
外はしんと澄み、虫の声が響いている。秋の夜気がひんやりと肌を撫でて、それが火照った頬に丁度いい。
「……謝るべき相手がもういないから、菊乃に聞いてほしい」
「謝るべき……ですか?」
鯉登は拳を握りしめている。妙に真剣な表情なのを不思議に思いながら、彼の言葉を待った。
「鶴見中尉殿が、菊乃のことも良からぬことに巻き込まんとしていたのでは……と、ずっと疑念を抱いていた」
その告白に菊乃は目を見開いた。
「え……?」
「あの人は、自分への忠誠心を嘘で試すところがあった。だから……お前に対しても、そうであったのか、と」
鯉登の言わんとすることを考えて──ほんの少し沈黙を挟んだ後、菊乃は静かに問い返した。
「疑いが晴れた理由は……養子縁組、ですか?」
鯉登は静かに頷いた。
「お前の大事な家族を疑っていたこと、申し訳なかったと思っている」
「……鶴見さんの嘘は、鯉登さん……月島さんのことも、傷つけてしまいましたか?」
伏せられていた視線が、弾かれるように上がった。瞳が大きく揺れていて、そんな鯉登の反応に疑問は確信へと変わる。
──「……そんなもの、嘘なんていくらでもつけるでしょう」
菊乃は、入院していた時に見た月島の酷く冷めた態度を思い出した。鯉登の言う“嘘”が、彼等の共通認識としてあるのなら──今も鶴見の呪縛が絡まったまま、その原因は己の存在だったのではないのか。そう思い至り、褄を取る手に力がこもる。
「私の方こそ、私のためにお二人が心を痛めてしまっていたのなら、申し訳ありません」
「違う。菊乃が謝る必要はない。……私は、鶴見中尉殿が菊乃に対しては誠実であったと分かって、嬉しかったんだ」
そう言って、鯉登は微笑んだ。
二人への申し訳なさと、気にかけてくれていたことを喜ばしく思う気持ちが菊乃の胸の中で入り混じる。それでも、吹っ切れたような彼の表情に菊乃も安堵を覚えた。穏やかに、互いに言葉少なに笑い合う。
しかし、不意に鯉登の笑顔が翳り、視線が庭の奥へと流れた。
「……もう週末には東京か。少し、遠いな」
風が木々を揺らし、菊乃の髪を軽く揺らす。口に出された言葉に、言い知れぬ寂しさが襲った。
「鯉登さん。あの……暫くは難しいでしょうけれど、向こうの生活が落ち着いたら、お父様にお願いして、会いに行っても、いいですか……?」
その声に、鯉登はわずかに眉を上げ、驚いたように目を見開いた。
しかしそれも一瞬で、やがて表情を引き締め、真剣な瞳で菊乃を見つめると、
「いや、旭川には来るな」
「……え……?」
予想外の答えに、菊乃の言葉は途切れた。胸がずしんと沈んで、瞳の奥を熱くする。
「どうして……っ」
「陸大の受験候補者に選抜される目処がついたんだ」
聞き慣れない言葉に戸惑う。彼の声色には、強い決意が宿っていた。
「陸、大……?」
「陸軍大学校。将校の養成機関だ。厳しい試験を突破しなければ入校は許されん。少なくともこれから一年、勉学に時間を割かなければならない」
「いち、ねん……」
褄をぎゅっと掴む菊乃の瞳が揺れる。その言葉の重みを、一体どう受け止めればいいのだろうか。
鯉登が出世を望んでいる事は知っている。きっと避けて通れない関門なのも分かる。少なくとも──ということは、それ以上かかる可能性を示唆している。色恋にかまけている場合ではないと、別れを切り出されるのではないか。その不安で、菊乃は堪らず視線を落とした。
「……陸大は、青山にある」
菊乃は、伏せた顔を上げた。青山は、これから菊乃が住まう有坂邸のある町だった。
「それって……!」
「必ず合格して、私から会いに行きたい。一年……待っていてくれないか?」
絶望からの希望。喜びが胸いっぱいに溢れた。その感情を抑えきれずに、着物の裾も忘れて菊乃は鯉登へ飛びついた。大切な着物が土まみれになろうが、今の心の高鳴りには及ばない。
「待ちます……!絶対ぜったい、待ってる!」
「うん……あいがと」
鯉登は小さく肩をすくめ、少し照れくさそうに菊乃の背に手を回した。
「これで不合格は許されん。まぁこれくらい追い込むのが丁度いい」
「ふふ。鯉登さんならきっと一位で合格できますっ」
「一位、か……そうだな。それくらいの実力がなければ、菊乃を満足に守ることなど叶わん」
その言い様は、菊乃は胸の内に強い引っかかりを生んだ。抱きついていた腕を解いて、彼を見る。
「どうして……。鯉登さんは守ってくださったじゃないですか」
「お前を守ったのは森岡……それに鶴見中尉と有坂中将だ。私は何もしていない」
菊乃の右手が、ぎゅっと鯉登の腕を握る。彼の真剣な瞳が、どこか苦しげに揺れていた。
「だから、この一年は戒めでもある。有坂中将が目を光らせているうちは心配ないが、それも有限だ。芹沢は失脚したが、組織に関わっていた人間はまだいる。今後もしものことがあれば、……陸大程度で躓いているようでは駄目だ」
「……私は、あなたにこれ以上荷を負わせたくありません」
「元より、私には己で課した使命がある。そこに譲れないものが一つ増えたに過ぎん。……だからそんな顔をするな」
鯉登はまっすぐに菊乃を見つめ、静かに言い切った。不安げに俯く菊乃の頬を両手で包んで、ふっと柔らかく微笑むと、
「私は、菊乃の笑った顔が好きだ」
菊乃は、その言葉に目を瞠ってから、はにかんだ微笑みを見せた。
「うふふ。
「あ……」
鯉登の顔がそっと寄ってくる。菊乃はその気配に瞼を閉じ、与えられる熱を待っていると──
「ひゃーっ」
「ばかっ杉本声が大きいっ」
「おい、気づかれるぞ」
ひそひそ……というより最早しっかり耳に届いたその声に、二人して客間の方へ振り向く。視線の先に、雪見障子の開いた隙間から除く複数の目が見えた。
「え、なっ、そこで何して……!?」
「覗きとは悪趣味だぞ月島ぁ!」
鯉登の言葉に障子がスラッと開くと、そこから杉本とアシㇼパが縁側に雪崩込んできた。その後方で、障子から手を離した月島が姿勢正しくすっと佇んでいる。
「違います。私は止めましたがこの二人が」
「はぁっ!?結局一緒になって覗いてたくせにぃ、このスケベ軍曹!」
「私は杉本にせがまれて仕方なくだな」
と、言い訳合戦が始まって、奥にいる芸者仲間や仲居たちも、なんだなんだと集まってくる。
羞恥心でどうにもならなくなり、
「う~っ。も、もう戻りますよ鯉登さ──」
部屋に戻ろうと促した菊乃の腕は、縁側と逆方向に引っ張られた勢いでよろめいた。不意をつかれた身体に抵抗する余裕はあるはずもなく──。
気づけば柔らかな熱が、菊乃の唇を覆っていた。
「いやーっ♡」
「おっ、おお……!」
「……はぁ~~~」
その他大勢の色めき立つ悲鳴につられ、静かに酒を交わしていた有坂と女将も縁側へと目を向ける。
「おやッ!若いっていいねェ女将ッ!」
「んまぁっ」
大勢の視線を浴びるという羞恥に耐えかねて、くぐもった叫びを上げながら菊乃は全力で鯉登の胸を叩いた。
やがて、ようやく解放されたかと思えば、
「どうだ貴様ら。これで満足だろう!」
紅が移った唇の両端をあげた鯉登が、得意気にふんぞり返って言うものだから、
「なん、な、なっ、何するのーッ!!」
菊乃はこれ以上無いほどに羞じらいで震えた。
穴があったら入りたい──。
こうして、芸者としての最後の夜は、笑いと甘い騒動に包まれながら賑やかに更けていった。
