本編
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情愛(二)
北海道の夏は短い。季節は巡り、実りの秋を迎えた。
菊乃は、支度部屋で姿見を眺めていた。試着のために纏った仕立て上がりの着物に、呉服屋の主人が丁寧に針を入れている。その指先の細やかな動きが鏡越しに映り込んでいて、見ているだけでも楽しい。
「今日中にお直しして、明日のお座敷に間に合わせましょう」
「ありがとうございます」
礼を言って、その場で一回りすると裾が畳を撫でる。品よく揺れ、細かな文様がさらりと光を返す。洗練された職人技の冴えが美しい。
「よく似合ってるわ、菊乃ちゃん」
「えへへ」
傍らに控えていた女将の言葉に、菊乃は気恥ずかしそうに頬をかいた。
「本当にありがとうございます。こんな上質なお着物、いただけるなんて」
女将に半ば押されるかたちで贈られた、菊乃の為に仕立てられた着物だった。これまで着用していた店のもので十分、と一度は断ったのだが、こうして袖を通してみれば、なんとも満たされるものがある。
「最後のお座敷、お古じゃ格好がつかないでしょう」
あの日、東京から北海道へ戻る直前、有坂に呼ばれ陸軍省を訪ねた。これまでの経緯と菊乃のこれからの立場について説明を受け、正式に有坂の養子として過ごしていくことを承諾した。
「有坂様」と呼んでいた菊乃だが、「“おとーさん”と呼びたまえッ!!」と有坂から言われ、狼狽え擽ったくなりつつやっとのことで「お父様」と絞り出したあの日を懐かしむ。
「明日は、皆様お越しになれそう?」
「はい。お父様に、鯉登さんと月島さん。それに杉本さんとアシㇼパさんも来てくださるって」
嬉しげに語る菊乃の横で、女将はふと視線を落とし言葉を詰まらせた。こんなに招待してはまずかっただろうか、と不安に思いながらその様子を見ていると、
「いけない。つい感傷的になっちゃって……まるでお嫁に出すようなんだもの」
女将の声に微かな震えが混じる。予想していなかったその姿に、菊乃も万感胸にせまり思わず袖を握りしめた。
「こんな気持ちをもう一度味わうんだと思うと、はぁ今から憂鬱……」
「……もう一度?」
「鯉登様のところへお嫁にいくときに決まってるでしょう」
とんでもない女将の一言に、菊乃の顔は一瞬にしてゆで蛸のごとく熱く染まった。
「そっ!?そそそれはまだなんというかお傍にいたいとはお伝えしましたけどけけけ結婚の“け”の字も出ていませんしそれどころじゃ」
あわわと捲し立てる菊乃に、女将が「落ち着きなさい」と一言制した。
「何よりもまずは、有坂家の令嬢として品位ある振る舞いをしっかり学ぶこと。あなたのことを快く思わない連中がいても、堂々としていなさい。何処へ出しても恥ずかしくない娘に育てましたから、自身を持ってね」
菊乃は思わず息を詰めた。こみ上げるものを押しとどめるように、震える指先で袖口をそっと握る。声を返す代わりに、深く深く頭を垂れた。
明日は、菊乃が芸者として座敷に上がる最後の日となる。
***
一足先に到着した鯉登と月島は、出迎えた菊乃の姿をまじまじと見つめていた。
菊乃の纏う着物には、黒地の中に銀糸の水流がさらりと描かれ、その中を一匹の朱鯉が力強く跳ね上がっていた。鱗には金の差し色が散らされ、歩みのたびにほのかに光を返す。髪には小さな白菊の簪がさりげなく飾られ、芸者としての風格と愛らしさが表されていた。
「えっと。今日、おろしたんです……」
芸者が着るには珍しい意匠に、月島は合点がいったように微笑んだ。
もじもじと恥じらう菊乃へ、
「“鯉の滝登り”、ですか。門出の祝いに相応しいお着物ですね」
と言って、ふと横の上官を覗い見る。その視線に誘われるように、菊乃も見た。
口を半分開け、まるで魂でも抜かれたように微動だにしない鯉登を、とうとう月島が肘で小突いた。
はっ、と目が覚めたかのようにびくりと肩を揺らした鯉登は、
「よ……っよく似合っている゛ぅッ!?」
突然、前につんのめった。菊乃が驚き見ると、彼の後ろには杉本が立っていて、
「早く行けよ。後ろがつかえんだろ」
「……貴様、大概にしろ杉本佐一……ッ」
どうやら、杉本が鯉登の背中をどついたらしい。
「菊乃!来たぞっ」
杉本の影からひょっこりアシㇼパも姿を現す。
「お待ちしてました。杉本さん、アシㇼパさん!」
「コタンのみんなで作った祝い酒を持ってきたんだ」
「まぁ。ありがとうございます」
「本当は、今朝狩った鹿の脳みそ持って来たかったんだけど……ごめんな?」
「なま物は夜まで持たないでしょ、アシㇼパさん」
「お、お酒で十分ですっ。早速お座敷で振る舞わせていただきます!」
一度口にした衝撃的な味を思い出した菊乃は、そそくさと祝い酒を手に四人を客間へと案内した。
今日は、中庭を一望できる一等広い客間を用意していた。杉本とアシㇼパは、料亭の上質な雰囲気に感嘆の声を上げている。
「今日は鯉登少尉の奢りだから、お腹いっぱい食べて帰ろうね、アシㇼパさんっ」
「分かっているぞ杉本っ」
二人のやり取りに、菊乃は堪えきれずくすくす笑いが漏れた。
「あの、杉本さん。あの後、白石さんからご連絡は……」
「いや。まぁ、ああいうやつなんだよ菊乃さん。気にしないでいいって」
優しい声音に、少し胸が詰まる。倉庫で救出された日の翌朝、既に白石の姿はなかった。世話になった礼を十分果たせなかったこと悔やんでいると、「菊乃さんが全部お金出してたんだから礼なんているもんか」と説得された。
「きっと元気でやってるさ」
「はい……もしご連絡あったら教えてくださいね」
そんなやり取りをしているうちに、女将が有坂を伴って姿を現した。
「やぁやぁッ!待たせたかねッ!」
「有……っ、じゃなかった。お父様」
菊乃が慌てて言い直す様子に、有坂はうんうんと頷いた。
「いいよいいよぉッ!すっかり娘が板についてきたじゃないか菊乃ッ」
「い、板……?」
はじめて耳にする言い様に、ちょっと首をひねる菊乃だったが、有坂は構わず女将の誘導で上座へと腰を下ろした。
それを合図に、宴会の幕が開く。あとから聞けば、菊乃には黙って貸切営業にしていたらしく、魁燿亭の従業員総出で菊乃の為の座敷が準備されていた。
唄に踊り、三味線の音色が華やかに披露された。芸者たちの長く引いた裾が畳を艶やかに撫でる中、一際異彩を放つ菊乃の鯉は皆の視線を集めた。黒地を翔ける朱鯉は、己の行く先が明るいことを、そしてここに集い送り出してくれる人たちの繁栄と幸せを願い、天高く昇っていく。
その華やかな姿に強い眼差しを向ける鯉登は、穏やかで慈しみに満ちていた。
北海道の夏は短い。季節は巡り、実りの秋を迎えた。
菊乃は、支度部屋で姿見を眺めていた。試着のために纏った仕立て上がりの着物に、呉服屋の主人が丁寧に針を入れている。その指先の細やかな動きが鏡越しに映り込んでいて、見ているだけでも楽しい。
「今日中にお直しして、明日のお座敷に間に合わせましょう」
「ありがとうございます」
礼を言って、その場で一回りすると裾が畳を撫でる。品よく揺れ、細かな文様がさらりと光を返す。洗練された職人技の冴えが美しい。
「よく似合ってるわ、菊乃ちゃん」
「えへへ」
傍らに控えていた女将の言葉に、菊乃は気恥ずかしそうに頬をかいた。
「本当にありがとうございます。こんな上質なお着物、いただけるなんて」
女将に半ば押されるかたちで贈られた、菊乃の為に仕立てられた着物だった。これまで着用していた店のもので十分、と一度は断ったのだが、こうして袖を通してみれば、なんとも満たされるものがある。
「最後のお座敷、お古じゃ格好がつかないでしょう」
あの日、東京から北海道へ戻る直前、有坂に呼ばれ陸軍省を訪ねた。これまでの経緯と菊乃のこれからの立場について説明を受け、正式に有坂の養子として過ごしていくことを承諾した。
「有坂様」と呼んでいた菊乃だが、「“おとーさん”と呼びたまえッ!!」と有坂から言われ、狼狽え擽ったくなりつつやっとのことで「お父様」と絞り出したあの日を懐かしむ。
「明日は、皆様お越しになれそう?」
「はい。お父様に、鯉登さんと月島さん。それに杉本さんとアシㇼパさんも来てくださるって」
嬉しげに語る菊乃の横で、女将はふと視線を落とし言葉を詰まらせた。こんなに招待してはまずかっただろうか、と不安に思いながらその様子を見ていると、
「いけない。つい感傷的になっちゃって……まるでお嫁に出すようなんだもの」
女将の声に微かな震えが混じる。予想していなかったその姿に、菊乃も万感胸にせまり思わず袖を握りしめた。
「こんな気持ちをもう一度味わうんだと思うと、はぁ今から憂鬱……」
「……もう一度?」
「鯉登様のところへお嫁にいくときに決まってるでしょう」
とんでもない女将の一言に、菊乃の顔は一瞬にしてゆで蛸のごとく熱く染まった。
「そっ!?そそそれはまだなんというかお傍にいたいとはお伝えしましたけどけけけ結婚の“け”の字も出ていませんしそれどころじゃ」
あわわと捲し立てる菊乃に、女将が「落ち着きなさい」と一言制した。
「何よりもまずは、有坂家の令嬢として品位ある振る舞いをしっかり学ぶこと。あなたのことを快く思わない連中がいても、堂々としていなさい。何処へ出しても恥ずかしくない娘に育てましたから、自身を持ってね」
菊乃は思わず息を詰めた。こみ上げるものを押しとどめるように、震える指先で袖口をそっと握る。声を返す代わりに、深く深く頭を垂れた。
明日は、菊乃が芸者として座敷に上がる最後の日となる。
***
一足先に到着した鯉登と月島は、出迎えた菊乃の姿をまじまじと見つめていた。
菊乃の纏う着物には、黒地の中に銀糸の水流がさらりと描かれ、その中を一匹の朱鯉が力強く跳ね上がっていた。鱗には金の差し色が散らされ、歩みのたびにほのかに光を返す。髪には小さな白菊の簪がさりげなく飾られ、芸者としての風格と愛らしさが表されていた。
「えっと。今日、おろしたんです……」
芸者が着るには珍しい意匠に、月島は合点がいったように微笑んだ。
もじもじと恥じらう菊乃へ、
「“鯉の滝登り”、ですか。門出の祝いに相応しいお着物ですね」
と言って、ふと横の上官を覗い見る。その視線に誘われるように、菊乃も見た。
口を半分開け、まるで魂でも抜かれたように微動だにしない鯉登を、とうとう月島が肘で小突いた。
はっ、と目が覚めたかのようにびくりと肩を揺らした鯉登は、
「よ……っよく似合っている゛ぅッ!?」
突然、前につんのめった。菊乃が驚き見ると、彼の後ろには杉本が立っていて、
「早く行けよ。後ろがつかえんだろ」
「……貴様、大概にしろ杉本佐一……ッ」
どうやら、杉本が鯉登の背中をどついたらしい。
「菊乃!来たぞっ」
杉本の影からひょっこりアシㇼパも姿を現す。
「お待ちしてました。杉本さん、アシㇼパさん!」
「コタンのみんなで作った祝い酒を持ってきたんだ」
「まぁ。ありがとうございます」
「本当は、今朝狩った鹿の脳みそ持って来たかったんだけど……ごめんな?」
「なま物は夜まで持たないでしょ、アシㇼパさん」
「お、お酒で十分ですっ。早速お座敷で振る舞わせていただきます!」
一度口にした衝撃的な味を思い出した菊乃は、そそくさと祝い酒を手に四人を客間へと案内した。
今日は、中庭を一望できる一等広い客間を用意していた。杉本とアシㇼパは、料亭の上質な雰囲気に感嘆の声を上げている。
「今日は鯉登少尉の奢りだから、お腹いっぱい食べて帰ろうね、アシㇼパさんっ」
「分かっているぞ杉本っ」
二人のやり取りに、菊乃は堪えきれずくすくす笑いが漏れた。
「あの、杉本さん。あの後、白石さんからご連絡は……」
「いや。まぁ、ああいうやつなんだよ菊乃さん。気にしないでいいって」
優しい声音に、少し胸が詰まる。倉庫で救出された日の翌朝、既に白石の姿はなかった。世話になった礼を十分果たせなかったこと悔やんでいると、「菊乃さんが全部お金出してたんだから礼なんているもんか」と説得された。
「きっと元気でやってるさ」
「はい……もしご連絡あったら教えてくださいね」
そんなやり取りをしているうちに、女将が有坂を伴って姿を現した。
「やぁやぁッ!待たせたかねッ!」
「有……っ、じゃなかった。お父様」
菊乃が慌てて言い直す様子に、有坂はうんうんと頷いた。
「いいよいいよぉッ!すっかり娘が板についてきたじゃないか菊乃ッ」
「い、板……?」
はじめて耳にする言い様に、ちょっと首をひねる菊乃だったが、有坂は構わず女将の誘導で上座へと腰を下ろした。
それを合図に、宴会の幕が開く。あとから聞けば、菊乃には黙って貸切営業にしていたらしく、魁燿亭の従業員総出で菊乃の為の座敷が準備されていた。
唄に踊り、三味線の音色が華やかに披露された。芸者たちの長く引いた裾が畳を艶やかに撫でる中、一際異彩を放つ菊乃の鯉は皆の視線を集めた。黒地を翔ける朱鯉は、己の行く先が明るいことを、そしてここに集い送り出してくれる人たちの繁栄と幸せを願い、天高く昇っていく。
その華やかな姿に強い眼差しを向ける鯉登は、穏やかで慈しみに満ちていた。
