本編
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情愛(一)
鯉登と共に宿の自室へ戻った菊乃は、扉を閉めると小さく息を吐いた。先ほどまでの喧噪が嘘のように静まり返る中、二人揃って腰を下ろす。
間もなくして鯉登から差し出されたのは、細かい折り目のついた小さな紙切れだった。それは、所々破れていて心許なく、まさかこれが“文書”と呼ばれていたものだとは想像もしていなかった。
菊乃は、両手を添えるようにそれをそっと受け取った。
「森岡が、お前の身を案じて残した──これには、最重要機密情報が書かれている」
芹沢の口から聞かされた話は虚構であってほしいと、夢物語であってくれと願った。だが、指先の感触が無慈悲に現実を突きつけ、願いは砂のように零れ落ちる。
「これは……なんて書いてあるんでしょうか……」
紙面に並ぶ小さな文字が形成するのは、普通の言葉ではない。片仮名と数字の組み合わせが主で、一見すれば意味のない文字の羅列がひたすらつづく。
「ロ-〇八 が当時の指揮官、芹沢寿一。ヲ-〇三 が所属工作員だった森岡義信だ。その隣りにある──」
「七〇八 ……あの人が、私のことを、そう、呼んでいました……」
それは、まるで兵器に与えられる符号のようだった。
「芹沢は指令文と呼んでいたが、これはあくまで口頭で受けた指令を書き留めたものだ。……組織は当時、ロシアで補給線の情報収集と攪乱工作をしていたらしい。主に、鉄道の建設区間において積極的に動くようにと指示が書かれている。表向きは“父娘”として動いていたんだろう。当時から、既に多くの日本人移民者が住んでいた……子どもの姿に、油断も生まれたはずだ」
鯉登の声を聞きながら、菊乃は紙に指を滑らせた。符号の示す複数の名の隣には、必ず三桁の数字が並んでいる。
「私の他にも……」
「……あぁ」
彼等の顔も名も、誰一人として覚えがない。だが、歳の変わらぬ幼い者たちだったに違いなかった。見知らぬ土地に連れてこられ、善悪の判断もつかぬまま強制され、そして“無かったもの”として消された、命。
苦しくて、想像するだけでやりきれなくて、菊乃は顔を顰めて瞼を下ろした。
暫し沈黙が流れ、ふいに肩を抱き寄せられた。驚いて顔を上げると、すぐ傍で鯉登と視線が交わる。
「大丈夫か……?」
低く投げかけられた問いは、菊乃の心の奥底を覗くようだった。
──上手い返事が返せない。
今胸を打つのは、犠牲になった子どもや森岡たち工作員のこと。自分に関してはどうかと言われると、何をどう思えばいいのか図りかねた。
「……分かりません。記憶が戻ればあるいは……自分事としてもっと怒りや悲しみも、湧いてくるのかな……」
言葉にしても、実感は追いつかない。幸か不幸か、菊乃の感情はずっと宙ぶらりんのままだ。
そんな菊乃を、鯉登は一瞬ためらいながらも、強く引き寄せ抱きしめた。胸に押しつけられる鼓動が大きく熱を持ち、心の奥まで震わせる。
「鯉登さん……」
「私は、思い出してほしくない」
返ってきたのは、ひどく押し殺した声だった。それは、まるで恐怖をかき消すような、切迫した響きを含む。
「私が軍の人間だからとか、決してそういうつもりではなく……これ以上、この件で心を傷めてほしくない。……正直、やりようによってはそいつとお前の証言を合わせて、上の連中に然るべき償いを求めることも不可能ではない。有坂中将も協力は惜しまないと仰っている。だから、森岡たちの無念を晴らすことを……もしお前がそれを望むなら、私は何があっても菊乃の味方でいる」
有り余る、覚悟の宣言だった。
「──愛しているから」
続いた一言はあまりに不意打ちで、菊乃の全身を淡い熱が駆け抜けた。
瞳から溢れる感情を止められない。堪えていた息が嗚咽となり、喉を震わせた。
自分だけがこんなに幸せでいいのか──。けれどその罪悪感を掻き消すように、そうでありたいという願望は膨らみ、心の奥でとどまることを知らない。
やがて、息を整えた菊乃は鯉登の腕を解いた。
「……はじめから、決めてたの」
そう言うと、部屋の隅に置いていた陶器製の灰皿とマッチを手に取った。
菊乃は、鯉登の目の前で灰皿の中に指令文を投げ入れると、そこに火のついたマッチをためらいなく落とした。
薄紙は呆気なく、匙一つ分もないほどの灰と化す。騒動の発端とも言える小さな紙は、まるで夏の終わりに咲く線香花火のように儚く消え落ちた。
一矢報いることも森岡の願いだったかもしれない。そんな葛藤が無かったわけではない。それでも、ただ自分の幸せを願い逃がしてくれたのだと、生き方を選ばせてくれたのだと信じたかった。
「犠牲になった命があったこと、絶対に忘れない。……でも、私は今の私として、これから先を笑って生きていきたいから。皆と──あなたと、一緒に」
地獄の底から救ってくれた森岡。一人前の芸者として育ててくれた魁燿亭の人たち。親子のようにいつも見守って導いてくれた鶴見。そして、唯一無二の情愛を教えてくれた鯉登。
みんな違う、いくつもの愛のカタチが、曖昧な自分を確かなものとしてくれていた。その事にようやく気づくことができたから、居場所を探して迷いに囚われることは、もうない。
「お慕いしております──これからも、どうかお傍にいさ」
言い終わる前に、強く手を引かれて唇を押し当てられた。
菊乃は驚いて咄嗟に後ろへ引こうとするも、鯉登の掌が後頭部に絡みついて叶わない。まるで生き急ぐような烈々たる口付けからは、逃れられそうになかった。
アイヌの集落へ向かう途中、沢の傍で想いを交わした時とは比べ物にならない熱が、全身を満たす。このまま二人溶けて混ざり合ってしまうのではとつい思う。羞恥と喜びが身体中で渦を巻き、菊乃の心を焦がした。
やがて、幸福で切ない感情をひどく持て余し、彼の軍服を強く握ったその時、違和感に気づく。それまで荒っぽく口を吸ってきた鯉登が、ゆるゆると力を無くしていく。
堪らず口を離し、目を開いて、
「……鯉登さん……?」
恐る恐る名を呼ぶと、彼の身体がびくりと揺れて、だるそうに瞼が半分開かれた。
「ん、ぁ……?あ……寝、てたな……」
寝てた?今?この状況で?
斜めゆく鯉登の返答に、菊乃はどう反応していいのやら思いあぐねて、ひたすらに目を瞬かせる。
「……お前がいなくなったと聞いてから、寝ていなかった……」
すぐにでも意識が落ちてしまいそうだった。満足に睡眠もとれないほど疲弊させていたことが心苦しい反面、自分を案じ続けてくれたことが、この上なく嬉しい。
「ねっ、寝てください!今お布団敷きますからっ」
菊乃は、慌てて立ち上がると、押し入れから布団を引っ張り出した。
お代の割にしっかりとした綿布団を備えている宿で良かったとホッとしつつ、素早く敷布団を伸ばす。自分が使っているものしかないから申し訳ないが、緊急事態だ我慢してもらうしかない。
敷き終わり、やれやれと息をついたところで後ろを振り返った菊乃は、迫る影に一瞬肩を震わせ、
「えっ?ひぁっ──!?」
あ、と言う間にその影が覆いかぶさってきた。どさり、と呆気なく布団に雪崩込む。次の瞬間には固く抱きしめられ、鯉登の香りが全身を包んだ。
「こ、鯉登さん!?えっ、あっ、あのあの私そんなつもりじゃな」
「離れよごたなか ……」
蚊の鳴くような声でそれだけ言うと、鯉登から聞こえてくるのは規則正しい寝息だけ。菊乃は必死に身を起こそうとしたが、びくともしない。本当に眠っているのか疑わしい程にしっかりと抱き締められ、逃げ場なし。
「も、もう……」
抗うのを諦める。あられもない勘違いも相まって、菊乃は顔を真っ赤にしたまま力を抜いた。やがて、互いの鼓動がゆるやかに重なり合い、心地よい温もりに満たされる。
その夜、二人はそれ以上何を語ることもなく、ただ静かに寄り添いながら眠りについた。
──翌朝。鯉登の荒ぶる猿叫を皮切りに、ひと騒ぎあったのだが──それはまた別のお話。
鯉登と共に宿の自室へ戻った菊乃は、扉を閉めると小さく息を吐いた。先ほどまでの喧噪が嘘のように静まり返る中、二人揃って腰を下ろす。
間もなくして鯉登から差し出されたのは、細かい折り目のついた小さな紙切れだった。それは、所々破れていて心許なく、まさかこれが“文書”と呼ばれていたものだとは想像もしていなかった。
菊乃は、両手を添えるようにそれをそっと受け取った。
「森岡が、お前の身を案じて残した──これには、最重要機密情報が書かれている」
芹沢の口から聞かされた話は虚構であってほしいと、夢物語であってくれと願った。だが、指先の感触が無慈悲に現実を突きつけ、願いは砂のように零れ落ちる。
「これは……なんて書いてあるんでしょうか……」
紙面に並ぶ小さな文字が形成するのは、普通の言葉ではない。片仮名と数字の組み合わせが主で、一見すれば意味のない文字の羅列がひたすらつづく。
「ロ-
「
それは、まるで兵器に与えられる符号のようだった。
「芹沢は指令文と呼んでいたが、これはあくまで口頭で受けた指令を書き留めたものだ。……組織は当時、ロシアで補給線の情報収集と攪乱工作をしていたらしい。主に、鉄道の建設区間において積極的に動くようにと指示が書かれている。表向きは“父娘”として動いていたんだろう。当時から、既に多くの日本人移民者が住んでいた……子どもの姿に、油断も生まれたはずだ」
鯉登の声を聞きながら、菊乃は紙に指を滑らせた。符号の示す複数の名の隣には、必ず三桁の数字が並んでいる。
「私の他にも……」
「……あぁ」
彼等の顔も名も、誰一人として覚えがない。だが、歳の変わらぬ幼い者たちだったに違いなかった。見知らぬ土地に連れてこられ、善悪の判断もつかぬまま強制され、そして“無かったもの”として消された、命。
苦しくて、想像するだけでやりきれなくて、菊乃は顔を顰めて瞼を下ろした。
暫し沈黙が流れ、ふいに肩を抱き寄せられた。驚いて顔を上げると、すぐ傍で鯉登と視線が交わる。
「大丈夫か……?」
低く投げかけられた問いは、菊乃の心の奥底を覗くようだった。
──上手い返事が返せない。
今胸を打つのは、犠牲になった子どもや森岡たち工作員のこと。自分に関してはどうかと言われると、何をどう思えばいいのか図りかねた。
「……分かりません。記憶が戻ればあるいは……自分事としてもっと怒りや悲しみも、湧いてくるのかな……」
言葉にしても、実感は追いつかない。幸か不幸か、菊乃の感情はずっと宙ぶらりんのままだ。
そんな菊乃を、鯉登は一瞬ためらいながらも、強く引き寄せ抱きしめた。胸に押しつけられる鼓動が大きく熱を持ち、心の奥まで震わせる。
「鯉登さん……」
「私は、思い出してほしくない」
返ってきたのは、ひどく押し殺した声だった。それは、まるで恐怖をかき消すような、切迫した響きを含む。
「私が軍の人間だからとか、決してそういうつもりではなく……これ以上、この件で心を傷めてほしくない。……正直、やりようによってはそいつとお前の証言を合わせて、上の連中に然るべき償いを求めることも不可能ではない。有坂中将も協力は惜しまないと仰っている。だから、森岡たちの無念を晴らすことを……もしお前がそれを望むなら、私は何があっても菊乃の味方でいる」
有り余る、覚悟の宣言だった。
「──愛しているから」
続いた一言はあまりに不意打ちで、菊乃の全身を淡い熱が駆け抜けた。
瞳から溢れる感情を止められない。堪えていた息が嗚咽となり、喉を震わせた。
自分だけがこんなに幸せでいいのか──。けれどその罪悪感を掻き消すように、そうでありたいという願望は膨らみ、心の奥でとどまることを知らない。
やがて、息を整えた菊乃は鯉登の腕を解いた。
「……はじめから、決めてたの」
そう言うと、部屋の隅に置いていた陶器製の灰皿とマッチを手に取った。
菊乃は、鯉登の目の前で灰皿の中に指令文を投げ入れると、そこに火のついたマッチをためらいなく落とした。
薄紙は呆気なく、匙一つ分もないほどの灰と化す。騒動の発端とも言える小さな紙は、まるで夏の終わりに咲く線香花火のように儚く消え落ちた。
一矢報いることも森岡の願いだったかもしれない。そんな葛藤が無かったわけではない。それでも、ただ自分の幸せを願い逃がしてくれたのだと、生き方を選ばせてくれたのだと信じたかった。
「犠牲になった命があったこと、絶対に忘れない。……でも、私は今の私として、これから先を笑って生きていきたいから。皆と──あなたと、一緒に」
地獄の底から救ってくれた森岡。一人前の芸者として育ててくれた魁燿亭の人たち。親子のようにいつも見守って導いてくれた鶴見。そして、唯一無二の情愛を教えてくれた鯉登。
みんな違う、いくつもの愛のカタチが、曖昧な自分を確かなものとしてくれていた。その事にようやく気づくことができたから、居場所を探して迷いに囚われることは、もうない。
「お慕いしております──これからも、どうかお傍にいさ」
言い終わる前に、強く手を引かれて唇を押し当てられた。
菊乃は驚いて咄嗟に後ろへ引こうとするも、鯉登の掌が後頭部に絡みついて叶わない。まるで生き急ぐような烈々たる口付けからは、逃れられそうになかった。
アイヌの集落へ向かう途中、沢の傍で想いを交わした時とは比べ物にならない熱が、全身を満たす。このまま二人溶けて混ざり合ってしまうのではとつい思う。羞恥と喜びが身体中で渦を巻き、菊乃の心を焦がした。
やがて、幸福で切ない感情をひどく持て余し、彼の軍服を強く握ったその時、違和感に気づく。それまで荒っぽく口を吸ってきた鯉登が、ゆるゆると力を無くしていく。
堪らず口を離し、目を開いて、
「……鯉登さん……?」
恐る恐る名を呼ぶと、彼の身体がびくりと揺れて、だるそうに瞼が半分開かれた。
「ん、ぁ……?あ……寝、てたな……」
寝てた?今?この状況で?
斜めゆく鯉登の返答に、菊乃はどう反応していいのやら思いあぐねて、ひたすらに目を瞬かせる。
「……お前がいなくなったと聞いてから、寝ていなかった……」
すぐにでも意識が落ちてしまいそうだった。満足に睡眠もとれないほど疲弊させていたことが心苦しい反面、自分を案じ続けてくれたことが、この上なく嬉しい。
「ねっ、寝てください!今お布団敷きますからっ」
菊乃は、慌てて立ち上がると、押し入れから布団を引っ張り出した。
お代の割にしっかりとした綿布団を備えている宿で良かったとホッとしつつ、素早く敷布団を伸ばす。自分が使っているものしかないから申し訳ないが、緊急事態だ我慢してもらうしかない。
敷き終わり、やれやれと息をついたところで後ろを振り返った菊乃は、迫る影に一瞬肩を震わせ、
「えっ?ひぁっ──!?」
あ、と言う間にその影が覆いかぶさってきた。どさり、と呆気なく布団に雪崩込む。次の瞬間には固く抱きしめられ、鯉登の香りが全身を包んだ。
「こ、鯉登さん!?えっ、あっ、あのあの私そんなつもりじゃな」
「
蚊の鳴くような声でそれだけ言うと、鯉登から聞こえてくるのは規則正しい寝息だけ。菊乃は必死に身を起こそうとしたが、びくともしない。本当に眠っているのか疑わしい程にしっかりと抱き締められ、逃げ場なし。
「も、もう……」
抗うのを諦める。あられもない勘違いも相まって、菊乃は顔を真っ赤にしたまま力を抜いた。やがて、互いの鼓動がゆるやかに重なり合い、心地よい温もりに満たされる。
その夜、二人はそれ以上何を語ることもなく、ただ静かに寄り添いながら眠りについた。
──翌朝。鯉登の荒ぶる猿叫を皮切りに、ひと騒ぎあったのだが──それはまた別のお話。
