本編
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養子(一)
これは、夢だ──今までのことは、きっとすべて夢だったんだ。
では、どこからが夢だったのだろう。
アイヌのコタンへ行ったときからか……
旭川の師団本部で保護されたときからか……
ロシア人が襲ってきたときから……
鶴見と出会ったとき……
いや、魁燿亭に来たときだったのかも……
何が夢で、何が現実か分からない。確かなものだと思ってきたものが、ぼやけて闇へと消えてゆく──。
「……おや。先程の威勢は何処へいったのかね」
低く威圧のこもった声が、菊乃の思考を現実へと引き戻した。視界の焦点が定まらないまま、小刻みに揺れる。
「……うそだ……」
「嘘ではない」
「うそだッ!!」
言葉が空気を裂き、菊乃の喉はかすれていく。
芹沢の瞳は冷たく光り、倉庫の薄暗がりでなお異様に際立っていた。唇の端に薄笑いを残してゆっくりと歩み寄るその姿は、獲物を品定めする猛獣のよう。
「どうだ。少しは思い出したか?」
「知らない……!何も知らない!!私は──ッ」
「知らない、で済まされるほど事は単純ではない」
菊乃の声は震えを抑えられず、言葉は脆性的な刃のようだ。そんな状況で、なおも芹沢は菊乃を追い詰める手を止めない。
「確実に、全て無かったものとなった。上の連中に急かされ早々に暁星の解体は完了した。……だが、後になって気付いたのだ。私が保管していた“指令文”が一部失くなっていることに」
菊乃の鼓動が早まる。一方的に投げつけられる言葉が、糾弾の矢となって胸に突き刺さるようだった。
「指、令文……?」
「森岡は、日頃から事あるごとに楯突く男だった。私を陥れようと奴が盗んでいったのは明白だ……ッ!」
芹沢は苛立ちを内に秘め、倉庫の棚に手の平を叩きつける。軋む音が固く鳴り、菊乃は身体を震わせて後ずさった。
「血眼になって調べたよ。本部に一人味方を付けていた……最期まで小癪な男だった」
彼の声には、憤りと苛立ちが混じる。芹沢はゆっくりと菊乃を見下ろした。
「嫌な予感がした。これは、あの娘も死んだかどうか怪しくなってきた。消し去ったはずのものが残っていたとなれば、今の私の立場にも関わる。あの指令文とお前の存在を警戒する日々。長年私の神経をすり減らしたよ。……そんなある日、だ」
言葉の切れ目に、不気味な気配が漂った。
「森岡のことを嗅ぎ回る奴が現れた──誰か分かるかね?」
菊乃の胸が、痛いほどに跳ね上がる。
「まさか……」
「第七師団の月島だ。奴が配属された時、当然森岡は居なかったから二人に接点はない。鯉登も然り。鶴見は上手く立ち回っていたが、腹心にそこまでの知識は皆無だったようだ」
芹沢の淡々とした語り口が、菊乃の心を容赦なく抉る。
「そこからは、芋づる式にお前の存在が浮かび上がったというわけだ。都合の良いことに、魁燿亭にはロシアから“スパイ”が送り込まれていたようだっから、活用させてもらったよ」
「え……っ」
「料理人として忍び込んでいただろう?金を握らせたら二つ返事で言うことを聞いた。まぁ思っていたより少々派手にやってくれたがな」
そして、「思い出話と種明かしはこれくらいにしようか」と言った芹沢の影がじりじりと大きくなり、菊乃は帯の結び目に手をかけた。指先で布を探り、ナガンの冷たい感触を確認すると一気に引き抜いた。
「来ないで……!」
「そう早まるな。私は取り引きしたいだけだよ」
ゆったりと、だがその瞳の奥は冷淡だ。菊乃がぎゅっと指先を握ると、芹沢は一歩、また一歩と詰めてくる。
「お前が条件を飲めば、身の安全は保証しよう。それと、鯉登たちにも身に余るほどの厚遇を与えようか。彼等のお陰でお前に会えたんだ……悪い話ではないだろう?」
「……断れば……?」
「どんな手を使ってでもお前の……いや、鯉登たちをどうにかしたほうがお前は言うことを聞きそうだな?」
菊乃は頬をこわばらせた。どくどくと全身の血脈が激しく流れる。
「やめてッ!!これ以上関係ない人たちを巻き込むのは……ッ!」
「はは。まぁ難しいことではないよ。──お前が私の保護下に収まってくれればいい」
「保護下……?」
「これから死ぬまで、私の元で私の為に献身的に働いてもらう」
芹沢の非情さが、その一言に現れていた。
「最初は始末すれば済む話だと思っていたが、 指令文の在処がはっきりしないとなると簡単に殺すのも躊躇われるのでね。──それに、有効活用するもの悪くないと思い直した」
菊乃は耳鳴りに襲われながら、荒ぶる呼吸に息切れが止まらなかった。手は白みを帯び、構えるナガンの輪郭が震える。
「鶴見、鯉登に月島……大澤もだったか。随分とまぁ男を誑かすのが上手くなったものだ」
「やめてッ!!」
怒りと恐怖が菊乃を襲う。芹沢は尚も笑いながら、
「従順な兵隊となってもらおうと思うんだ。彼奴等も鶴見のお陰で立て直しに躍起だしな。私が一肌脱いでやろうじゃあないか」
その瞬間、堪えていた怒りが菊乃の内で弾け、ナガンの引き金に指がかかった。
バァンッ!──甲高い銃声が倉庫中で反響し、埃が舞い上がる。
「気をつけたまえ。ここは弾薬も並ぶ武器倉庫だ」
芹沢の冷笑が飛んだ。身体の震えで照準が合わない。やっとのことで打ち込んだ銃弾は、虚しく壁に穿たれた。
次の瞬間、恐怖で固まる菊乃の手首は、間合いを詰めた芹沢に容易く掴まれた。ガシャンと金属がぶつかり合う音を立て、ナガンが床へ叩き落される。
「いや……ッ!」
「お前を使って上の邪魔な連中を全員始末してやる。男を手玉に取るのはお手のものだし。なぁ?」
後ろ手に拘束され、片手で顎を掴まれた。力任せに押さえつけられる痛みに堪え、菊乃は震える身体で必死に抵抗するが、それは全く意味を成さなかった。
「私に逆らわない限り、お前の命も大切なモノも守られる。しかも高待遇だ。それに──父親のツケは娘が払わされるものだろう?」
耳元で放たれた無情な言葉に、抵抗の力が徐々に薄れる。叫びは喉で掴まれ、菊乃の瞳に絶望が垂れた。
「囲ってしまえばこちらのものだ。じっくり思い出してもらうとしよう……私に生かされながらな」
これは、夢だ──今までのことは、きっとすべて夢だったんだ。
では、どこからが夢だったのだろう。
アイヌのコタンへ行ったときからか……
旭川の師団本部で保護されたときからか……
ロシア人が襲ってきたときから……
鶴見と出会ったとき……
いや、魁燿亭に来たときだったのかも……
何が夢で、何が現実か分からない。確かなものだと思ってきたものが、ぼやけて闇へと消えてゆく──。
「……おや。先程の威勢は何処へいったのかね」
低く威圧のこもった声が、菊乃の思考を現実へと引き戻した。視界の焦点が定まらないまま、小刻みに揺れる。
「……うそだ……」
「嘘ではない」
「うそだッ!!」
言葉が空気を裂き、菊乃の喉はかすれていく。
芹沢の瞳は冷たく光り、倉庫の薄暗がりでなお異様に際立っていた。唇の端に薄笑いを残してゆっくりと歩み寄るその姿は、獲物を品定めする猛獣のよう。
「どうだ。少しは思い出したか?」
「知らない……!何も知らない!!私は──ッ」
「知らない、で済まされるほど事は単純ではない」
菊乃の声は震えを抑えられず、言葉は脆性的な刃のようだ。そんな状況で、なおも芹沢は菊乃を追い詰める手を止めない。
「確実に、全て無かったものとなった。上の連中に急かされ早々に暁星の解体は完了した。……だが、後になって気付いたのだ。私が保管していた“指令文”が一部失くなっていることに」
菊乃の鼓動が早まる。一方的に投げつけられる言葉が、糾弾の矢となって胸に突き刺さるようだった。
「指、令文……?」
「森岡は、日頃から事あるごとに楯突く男だった。私を陥れようと奴が盗んでいったのは明白だ……ッ!」
芹沢は苛立ちを内に秘め、倉庫の棚に手の平を叩きつける。軋む音が固く鳴り、菊乃は身体を震わせて後ずさった。
「血眼になって調べたよ。本部に一人味方を付けていた……最期まで小癪な男だった」
彼の声には、憤りと苛立ちが混じる。芹沢はゆっくりと菊乃を見下ろした。
「嫌な予感がした。これは、あの娘も死んだかどうか怪しくなってきた。消し去ったはずのものが残っていたとなれば、今の私の立場にも関わる。あの指令文とお前の存在を警戒する日々。長年私の神経をすり減らしたよ。……そんなある日、だ」
言葉の切れ目に、不気味な気配が漂った。
「森岡のことを嗅ぎ回る奴が現れた──誰か分かるかね?」
菊乃の胸が、痛いほどに跳ね上がる。
「まさか……」
「第七師団の月島だ。奴が配属された時、当然森岡は居なかったから二人に接点はない。鯉登も然り。鶴見は上手く立ち回っていたが、腹心にそこまでの知識は皆無だったようだ」
芹沢の淡々とした語り口が、菊乃の心を容赦なく抉る。
「そこからは、芋づる式にお前の存在が浮かび上がったというわけだ。都合の良いことに、魁燿亭にはロシアから“スパイ”が送り込まれていたようだっから、活用させてもらったよ」
「え……っ」
「料理人として忍び込んでいただろう?金を握らせたら二つ返事で言うことを聞いた。まぁ思っていたより少々派手にやってくれたがな」
そして、「思い出話と種明かしはこれくらいにしようか」と言った芹沢の影がじりじりと大きくなり、菊乃は帯の結び目に手をかけた。指先で布を探り、ナガンの冷たい感触を確認すると一気に引き抜いた。
「来ないで……!」
「そう早まるな。私は取り引きしたいだけだよ」
ゆったりと、だがその瞳の奥は冷淡だ。菊乃がぎゅっと指先を握ると、芹沢は一歩、また一歩と詰めてくる。
「お前が条件を飲めば、身の安全は保証しよう。それと、鯉登たちにも身に余るほどの厚遇を与えようか。彼等のお陰でお前に会えたんだ……悪い話ではないだろう?」
「……断れば……?」
「どんな手を使ってでもお前の……いや、鯉登たちをどうにかしたほうがお前は言うことを聞きそうだな?」
菊乃は頬をこわばらせた。どくどくと全身の血脈が激しく流れる。
「やめてッ!!これ以上関係ない人たちを巻き込むのは……ッ!」
「はは。まぁ難しいことではないよ。──お前が私の保護下に収まってくれればいい」
「保護下……?」
「これから死ぬまで、私の元で私の為に献身的に働いてもらう」
芹沢の非情さが、その一言に現れていた。
「最初は始末すれば済む話だと思っていたが、 指令文の在処がはっきりしないとなると簡単に殺すのも躊躇われるのでね。──それに、有効活用するもの悪くないと思い直した」
菊乃は耳鳴りに襲われながら、荒ぶる呼吸に息切れが止まらなかった。手は白みを帯び、構えるナガンの輪郭が震える。
「鶴見、鯉登に月島……大澤もだったか。随分とまぁ男を誑かすのが上手くなったものだ」
「やめてッ!!」
怒りと恐怖が菊乃を襲う。芹沢は尚も笑いながら、
「従順な兵隊となってもらおうと思うんだ。彼奴等も鶴見のお陰で立て直しに躍起だしな。私が一肌脱いでやろうじゃあないか」
その瞬間、堪えていた怒りが菊乃の内で弾け、ナガンの引き金に指がかかった。
バァンッ!──甲高い銃声が倉庫中で反響し、埃が舞い上がる。
「気をつけたまえ。ここは弾薬も並ぶ武器倉庫だ」
芹沢の冷笑が飛んだ。身体の震えで照準が合わない。やっとのことで打ち込んだ銃弾は、虚しく壁に穿たれた。
次の瞬間、恐怖で固まる菊乃の手首は、間合いを詰めた芹沢に容易く掴まれた。ガシャンと金属がぶつかり合う音を立て、ナガンが床へ叩き落される。
「いや……ッ!」
「お前を使って上の邪魔な連中を全員始末してやる。男を手玉に取るのはお手のものだし。なぁ?」
後ろ手に拘束され、片手で顎を掴まれた。力任せに押さえつけられる痛みに堪え、菊乃は震える身体で必死に抵抗するが、それは全く意味を成さなかった。
「私に逆らわない限り、お前の命も大切なモノも守られる。しかも高待遇だ。それに──父親のツケは娘が払わされるものだろう?」
耳元で放たれた無情な言葉に、抵抗の力が徐々に薄れる。叫びは喉で掴まれ、菊乃の瞳に絶望が垂れた。
「囲ってしまえばこちらのものだ。じっくり思い出してもらうとしよう……私に生かされながらな」
