本編
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中央(二)
翌日の日暮れ時。夜更けまでには戻ると告げ、白石が兵器局へ向かってから随分と経った。
結局、業者が出入りしたのは兵器局が創設される前のことで、局内部の様子については不明であった。だが、その業者になりすましての潜入が可能だという結論に至り、白石が実行に移しているところだ。
菊乃は、白石から「絶対に宿から出るな」と念を押され特にすることもなく、部屋で何度目かのため息を洩らす。備え付けの置き時計が、壁際でカチ、カチと乾いた音を刻んでいた。
その規則正しい響きが、胸を刺す。コタンに置き去りにしてきた鯉登の銀時計──あの小さな重みと、彼が差し出したときの真剣な眼差しを思い出した。
自分を守ってくれた二人の絆の証──この手の中にあったはずのものは、もう無い。まるで孤独を測るかのように刻まれ続ける針の音が、静まり返った室内でいっそう際立った。
指先で着物の裾を握りしめる。ただ、過ぎゆく時の流れに取り残されているようだった。
「……白石さん、まだ戻らないのかな……」
半分、気を紛らわせようと呟く。もう半分は、心の底からの心配と不安だ。やはり、自分も一緒に行くべきだったのでは、と後悔の念に駆られる。
その時、ふいに扉の外から声がかかった。
「お休み中失礼いたします。お届け物でございます」
思わず驚き、声のした方へ振り返った。
──夕暮れ時のこんな時間に?
怪訝に思いながら扉を開けると、宿の従業員が一通の封書を差し出してきた。差出人の名はない。ただ、封蝋だけが妙にきっちりとしていた。
菊乃は、震える手でそれを受け取った。そして、封を切った瞬間、冷酷な言葉が目に飛び込んでくる。
貴女の従者は此方で御預かりしています。
十九時、以下の場所まで御越しください。
芹沢
喉がひゅっと詰まり、息を呑む。
白石が、捕まった──?いや、これは罠の可能性が高い。最早、白石と行動を共にしていることを突き止められていたとしても疑問になど思わない。理性はそう告げている。だが心臓は早鐘を打ち、紙を握る手は小刻みに震え続ける。
もし、本当に囚われているのだとしたら。逃げられると言われはしたが、絶対じゃない。ここで足を止めれば、彼は二度と戻ってこないかもしれない。だが罠なら、自分も──。
それでも菊乃は、このまま放って置くなんて選択肢は選べなかった。危険を承知で、彼は自分のために協力してくれた。今度は、自分が応えねばならない、と。
「……どの道、会って話をするつもりだったんだもの……っ」
誰に向けたとも知れぬ言葉を、そっと吐き出した。それから、羽織を取り襟を正す。胸の奥で不安が渦巻くのを感じながら、菊乃は夜の町へと足早に向かった。
──指定された場所は、人気のない川沿いの倉庫だった。
入口の扉は開いていて、そっと中に入ると、がらんどうの空間を抜けたところに多くの棚が並んでいた。そこに置かれているものには布が掛けられ、何なのかは見えない。自分の足音だけが静かに響く中、煤けた梁の間から落ちる薄明かりが埃を浮かび上がらせていた。
更に奥へ進むと、一つの人影が現れた。整えられた軍服に、年齢を感じさせぬ引き締まった体躯。瞳は鋭く光り、僅かな笑みの間から見える前歯 が、獲物を追い詰める獣の牙のように映った。
「ようこそ、陸軍省へ」
低く響く声が、広い空間に反響する。
陸軍最高位の将官に属する、芹沢寿一がそこにいた。
「ここは陸軍の所有している倉庫なんだが、今では殆ど出入りもなく埃臭いがすまないね。──しかし、立派な淑女になったじゃないか七〇八 ……いや、今は菊乃という名だったかな?」
冷ややかな呼びかけに、菊乃の背筋が強張る。
やはり、この男は自分の過去を知っている──。聞き覚えのない数字の羅列に、強い嫌悪が走った。
「……白石さんは、どこにいるの?」
震えを抑え、必死に声を絞り出す。芹沢は唇の端を歪めた。
「確か、彼は網走監獄の脱獄囚だった男だね。……知りたければ、まず私の問いに答えてもらおう」
芹沢は悠然と歩みを進め、軍靴の音が乾いた床板に響く。自然と、菊乃も二歩三歩と下がってしまう。その度、鼓動が激しく波打った。
「例の物、在処は分かったかな?」
「……そんなもの、ありません」
鋭く突きつけられた言葉に、菊乃は絞り出すように答えた。それに対し、芹沢はじっと菊乃を見つめるだけで何の反応も示してこない。それが返って不気味さを増幅させた。
「それがなんの文書で何処にあるのか、私には分からない」
必死に声を張るも、かすかな震えが混じる。菊乃の返しに、芹沢の眉が僅かに動き目が細められた。まるで、菊乃の表情を値踏みするように見つめている。
「私の名を聞けばあるいは……と思ったが、見当違いだったか」
「私は何も知らない!関係ない人まで脅して利用して、一体どういうつもりなんですか!?」
声を震わせた菊乃の叫びに、芹沢は一度目を閉じ、やがて小さく鼻で笑った。
「あぁ……大澤のことか?馬鹿な男だったよ。余計な情など抱かなければ、今ごろ妹の治療費を持って故郷に帰れていたろうに」
菊乃の視界が揺らぎ、思わず足が前に出る。怒りと恐怖で握った拳に力がこもった。
「あぁそうだ。お前宛に伝言を預かっていたのだったな」
「……え」
「うわ言のように謝罪の言葉を何度も言っていたそうだよ。哀れな最期だったな」
「──ッ、大澤さんに何をしたの!?」
声が裏返り、血の気が引いた。緊張から呼吸が乱れ、浅くなった息が更に自分を追い詰める。
「そういう契約だった。あの時点で私の身元が漏れては支障があったからね」
芹沢は背筋を伸ばし、息を切らす菊乃を射抜くように見下ろした。淡々と告げるその様子は、鬼人の如く冷酷だ。
「話を戻そう。──私を陥れようと森岡がわざわざ手に入れたものだ。あれはお前の元にあるとしか考えられん。お前が生きていたのが何よりの証拠だ」
低く唸るような声に、空気がぴりぴりと張り詰める。苛立ちを隠さなくなった芹沢の目が、獲物を追い詰める猛獣のように光った。
「……あなたは、一体何者なの……?」
理不尽な圧力に、菊乃は声を震わせるしかなかった。額に冷や汗が伝い、渇いた喉が張り付く。
やがて芹沢は、気だるそうに息を吐いた。
「その様子だと、記憶が無いのは本当らしいな。……アイツの“暗示”は大層役に立ったが、今は心底疎ましいよ」
「さっき、から、何、言って……」
真意の掴めぬ言葉に、恐怖と不安が菊乃の胸をじわじわと浸食していく。
「よし。少しは思い出すかもしれんしな。教えてやろう──森岡と共にお前が何をしていたのかを」
低く響く声に耳を塞ぎたくなる。足元が揺らぎ、底無しの闇に落ちゆく感覚に、菊乃は息を呑んだ。
翌日の日暮れ時。夜更けまでには戻ると告げ、白石が兵器局へ向かってから随分と経った。
結局、業者が出入りしたのは兵器局が創設される前のことで、局内部の様子については不明であった。だが、その業者になりすましての潜入が可能だという結論に至り、白石が実行に移しているところだ。
菊乃は、白石から「絶対に宿から出るな」と念を押され特にすることもなく、部屋で何度目かのため息を洩らす。備え付けの置き時計が、壁際でカチ、カチと乾いた音を刻んでいた。
その規則正しい響きが、胸を刺す。コタンに置き去りにしてきた鯉登の銀時計──あの小さな重みと、彼が差し出したときの真剣な眼差しを思い出した。
自分を守ってくれた二人の絆の証──この手の中にあったはずのものは、もう無い。まるで孤独を測るかのように刻まれ続ける針の音が、静まり返った室内でいっそう際立った。
指先で着物の裾を握りしめる。ただ、過ぎゆく時の流れに取り残されているようだった。
「……白石さん、まだ戻らないのかな……」
半分、気を紛らわせようと呟く。もう半分は、心の底からの心配と不安だ。やはり、自分も一緒に行くべきだったのでは、と後悔の念に駆られる。
その時、ふいに扉の外から声がかかった。
「お休み中失礼いたします。お届け物でございます」
思わず驚き、声のした方へ振り返った。
──夕暮れ時のこんな時間に?
怪訝に思いながら扉を開けると、宿の従業員が一通の封書を差し出してきた。差出人の名はない。ただ、封蝋だけが妙にきっちりとしていた。
菊乃は、震える手でそれを受け取った。そして、封を切った瞬間、冷酷な言葉が目に飛び込んでくる。
貴女の従者は此方で御預かりしています。
十九時、以下の場所まで御越しください。
芹沢
喉がひゅっと詰まり、息を呑む。
白石が、捕まった──?いや、これは罠の可能性が高い。最早、白石と行動を共にしていることを突き止められていたとしても疑問になど思わない。理性はそう告げている。だが心臓は早鐘を打ち、紙を握る手は小刻みに震え続ける。
もし、本当に囚われているのだとしたら。逃げられると言われはしたが、絶対じゃない。ここで足を止めれば、彼は二度と戻ってこないかもしれない。だが罠なら、自分も──。
それでも菊乃は、このまま放って置くなんて選択肢は選べなかった。危険を承知で、彼は自分のために協力してくれた。今度は、自分が応えねばならない、と。
「……どの道、会って話をするつもりだったんだもの……っ」
誰に向けたとも知れぬ言葉を、そっと吐き出した。それから、羽織を取り襟を正す。胸の奥で不安が渦巻くのを感じながら、菊乃は夜の町へと足早に向かった。
──指定された場所は、人気のない川沿いの倉庫だった。
入口の扉は開いていて、そっと中に入ると、がらんどうの空間を抜けたところに多くの棚が並んでいた。そこに置かれているものには布が掛けられ、何なのかは見えない。自分の足音だけが静かに響く中、煤けた梁の間から落ちる薄明かりが埃を浮かび上がらせていた。
更に奥へ進むと、一つの人影が現れた。整えられた軍服に、年齢を感じさせぬ引き締まった体躯。瞳は鋭く光り、僅かな笑みの間から見える
「ようこそ、陸軍省へ」
低く響く声が、広い空間に反響する。
陸軍最高位の将官に属する、芹沢寿一がそこにいた。
「ここは陸軍の所有している倉庫なんだが、今では殆ど出入りもなく埃臭いがすまないね。──しかし、立派な淑女になったじゃないか
冷ややかな呼びかけに、菊乃の背筋が強張る。
やはり、この男は自分の過去を知っている──。聞き覚えのない数字の羅列に、強い嫌悪が走った。
「……白石さんは、どこにいるの?」
震えを抑え、必死に声を絞り出す。芹沢は唇の端を歪めた。
「確か、彼は網走監獄の脱獄囚だった男だね。……知りたければ、まず私の問いに答えてもらおう」
芹沢は悠然と歩みを進め、軍靴の音が乾いた床板に響く。自然と、菊乃も二歩三歩と下がってしまう。その度、鼓動が激しく波打った。
「例の物、在処は分かったかな?」
「……そんなもの、ありません」
鋭く突きつけられた言葉に、菊乃は絞り出すように答えた。それに対し、芹沢はじっと菊乃を見つめるだけで何の反応も示してこない。それが返って不気味さを増幅させた。
「それがなんの文書で何処にあるのか、私には分からない」
必死に声を張るも、かすかな震えが混じる。菊乃の返しに、芹沢の眉が僅かに動き目が細められた。まるで、菊乃の表情を値踏みするように見つめている。
「私の名を聞けばあるいは……と思ったが、見当違いだったか」
「私は何も知らない!関係ない人まで脅して利用して、一体どういうつもりなんですか!?」
声を震わせた菊乃の叫びに、芹沢は一度目を閉じ、やがて小さく鼻で笑った。
「あぁ……大澤のことか?馬鹿な男だったよ。余計な情など抱かなければ、今ごろ妹の治療費を持って故郷に帰れていたろうに」
菊乃の視界が揺らぎ、思わず足が前に出る。怒りと恐怖で握った拳に力がこもった。
「あぁそうだ。お前宛に伝言を預かっていたのだったな」
「……え」
「うわ言のように謝罪の言葉を何度も言っていたそうだよ。哀れな最期だったな」
「──ッ、大澤さんに何をしたの!?」
声が裏返り、血の気が引いた。緊張から呼吸が乱れ、浅くなった息が更に自分を追い詰める。
「そういう契約だった。あの時点で私の身元が漏れては支障があったからね」
芹沢は背筋を伸ばし、息を切らす菊乃を射抜くように見下ろした。淡々と告げるその様子は、鬼人の如く冷酷だ。
「話を戻そう。──私を陥れようと森岡がわざわざ手に入れたものだ。あれはお前の元にあるとしか考えられん。お前が生きていたのが何よりの証拠だ」
低く唸るような声に、空気がぴりぴりと張り詰める。苛立ちを隠さなくなった芹沢の目が、獲物を追い詰める猛獣のように光った。
「……あなたは、一体何者なの……?」
理不尽な圧力に、菊乃は声を震わせるしかなかった。額に冷や汗が伝い、渇いた喉が張り付く。
やがて芹沢は、気だるそうに息を吐いた。
「その様子だと、記憶が無いのは本当らしいな。……アイツの“暗示”は大層役に立ったが、今は心底疎ましいよ」
「さっき、から、何、言って……」
真意の掴めぬ言葉に、恐怖と不安が菊乃の胸をじわじわと浸食していく。
「よし。少しは思い出すかもしれんしな。教えてやろう──森岡と共にお前が何をしていたのかを」
低く響く声に耳を塞ぎたくなる。足元が揺らぎ、底無しの闇に落ちゆく感覚に、菊乃は息を呑んだ。
