本編
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行方(二)
板張りの長椅子に腰掛けると、やがて汽笛が鳴り、蒸気船がゆっくりと動き出した。船底が水をかくたび、床下から小さな震えが伝わってくる。
菊乃は、改めて隣に座る白石由竹の方へ向き直った。
「白石さんは、北海道にお住まいなんですか? アシㇼパさん達からは東京で別れた、と聞いていたんですが」
「いやぁ、住んでるっちゃ住んでるのかな?ま、いろいろあって戻ってきたって感じ?」
ひらひらと手を振るような物言いに、軽さの奥で何かを隠しているような気配がした。
だが、詮索は無粋だ。彼には彼の事情があるのだろうと、菊乃はそれ以上追及しなかった。
「それより、菊乃ちゃんのお話聞きたいな~。今からどこまで行くのぉ?」
問いかけはどこまでも軽やかだったが、視線の奥には興味と探るような色が混ざる。
「……東京です」
「っ東京ー!?」
あまりの声量に、周囲の乗客が一斉にこちらへ振り向いた。菊乃が驚き肩を揺らし、白石も慌てて口を押えたが、時すでに遅し。
「そ、そんなに意外でした……?」
「い、いや。結構身軽だし、その……菊乃ちゃんってどっちかっつーとお嬢様って雰囲気だから、一人で東京まで行くなんて思ってなかったっていうか」
その言葉に、菊乃は小さく目を見開いた。それなりに粗末な身なりをしているはずなのに、見抜かれていた。短いやり取りの中で見せる言葉や仕草の端々からか──。白石という人物は、表面の軽薄さに反して、なかなか侮れない観察眼の持ち主のようだった。隠し事はあまり意味をなさない気がした。それに、これから協力を仰ごうという相手に、何も話さないわけにもいかない。
「……実は、陸軍省の芹沢という男のところへ行きたいんです」
「陸軍省……って、またなんでそんなところに」
困惑する白石の問いに、菊乃はこれまでの経緯を静かに語った。
魁燿亭の芸者であり、諸事情で第七師団に一時的に保護されていたこと。芹沢の差し金による刺客に攫われかけたこと。鯉登少尉の勧めで、暫くアイヌの集落に匿われていたこと──。
「鯉登少尉や月島軍曹とも知り合いなのぉ~!?」
白石の驚きように、菊乃は少しだけ頬を緩める。
「白石さんこそ、鯉登さんたちのこともご存知だったなんて」
「いやー。なんだか北海道も狭いねぇ……」
その場の空気が、少しだけ和らいだ。
「鯉登さんたちが、私のことを守ってくれたんです。……私のせいでこれ以上迷惑かけられない。私、馬鹿だから……敵が中央にいるって分かった段階で、本当は離れるべきだったんです」
そう告げた菊乃の声音には、静かな決意が宿っていた。
「だから、私が終わらせにいかないと」
「……菊乃ちゃんの決意は立派だけど、それってものすごく危険だよ?人のこと脅してくるようなやつ、絶対に碌な人間じゃないって」
「私が行けば、周りの人達を巻き込まなくて済みます……あの人の狙いは、私と──森岡さんの文書だから」
静かな沈黙の中、船窓の外には海原が広がっていた。微かに揺れる光の粒が、水面で揺蕩っている。
やがて、白石は小さく笑いながら、
「……やっぱオレ、船賃強請ってよかったわ」
「え?」
「いーや、何でもない」
薄曇りの空に浮かぶウミネコの鳴き声が、どこか遠くに消えていった。
──汽笛が響き、船は静かに青森港へと着岸した。そこから列車に乗り換え、盛岡駅に着いた頃にはすっかり日が傾きはじめていた。今は、午前中の晴天が嘘のように、風が小雨の気配を含んでどんよりとしている。
「えっと。あちらの通りに向かった突き当りにある“花影屋”という旅館です」
そこは、芸者仕事で繋がりのある贔屓の旅館だった。魁燿亭の女将と懇意の間柄で、東京に赴くときはいつも利用していると聞き及んでいた。
「たぶん、白石さんのお部屋もご用意いただけると思うので」
「いやぁ助かる~っ。あ、でもちょっと郵便局寄ってっていい?」
白石が親指で指し示したその先には、小さな木造の建物があった。目の前には、丸い収集ポストがぽつりと佇んでいる。
「はい。構いませんよ」
「じゃあ、菊乃ちゃん先行って俺の部屋頼んどいてくれる?後で追いかけるから!」
「分かりました」
菊乃は微笑み返し、白石と分かれ旅館へと向かった。
***
執務室には、一際重苦しい空気が張りつめていた。
鯉登は、杉元から手渡された一通の手紙を、無言のまま震える手で握りしめていた。その顔には、怒り、悔しさ、そして強い喪失感が綯い交ぜとなり、深く影を落としている。
机の上には、菊乃に託していた銀時計がもの寂しげに置かれていた。
皆様に、これ以上御迷惑をおかけするわけにはまいりません。
黙って姿を消す非礼を、どうか御許しください。
鯉登音之進 様
私のようないわれも知らぬ者が、貴方様の御傍に居てよいはずがないことに、ようやっと気づきました。
これ以上、貴方様を危険に巻き込むことはできません。
これまで賜りました過ぎたる御厚情と身に余るほどの御恩情、心より御礼申し上げます。
御預かりいただいた荷は全て燃やし、私のことはどうか御忘れください。
菊乃
読み終えた瞬間、鯉登の眉間が強く寄せられた。手元が震え、手紙の端が音を立ててくしゃりと歪む。
沈黙に支配されたその場を破ったのは、少しの緊張を滲ませたアシㇼパの声だった。
「昨日、私たちが居ない間に菊乃に手紙が届いていたと叔父から聞いた。──“ルイナ”宛で」
「まさか……ッ!」
動揺を隠せない月島の声が響く。こちらからの返事は、まだ出せていなかった。
それに応えるように杉元が、
「コタンの人間以外がウロついていたって話もなかった。居場所がバレて、敵の誘いに乗った可能性が高いと思う。菊乃さんのことだ。俺たちや……鯉登少尉の名前を出されたとしたら」
その言葉を遮ったのは、紙を握る音だった。グシャリ、と潰れる手紙と共に、鯉登の全身から怒気が溢れ出す。
「ナメくさりおって……ッ!」
ギリリ、と奥歯を噛みしめる音が静寂を裂き、続けざまに拳が壁を打った。木の軋む音と重たい衝撃が、その場にいる全員の胸を打つ。
「信じちょってくれ、待っちょってくれっち言うたじゃなかか……ッ!」
その声は怒りに満ちながら、それ以上に深い哀しみと己の非力さが滲む。
その時、重い沈黙中で不意に扉が叩かれた。月島が扉を開けると、そこには同じ聯隊の歩兵少尉が立っていた。
「月島軍曹。鯉登はいるか?電話だ」
「はい……どちらから?」
「小樽の魁燿亭だ。至急、伝えたいことがあると」
「何処だ」
聞こえた声に、鯉登は素早く身を翻した。月島の肩を強く押しのけて前へ出ると、そのまま早足に廊下を渡り靴音高く階段を下りていく。待ち受ける事務室まで一直線に駆け込む姿は荒々しい。
やがて、受話器を掴むなり息もつかずに口を開いた。
「女将か」
「鯉登様。アイヌの集落から、杉元様宛に電報が届いたと知らせがございました」
「電報?」
「はい。読み上げます──“菊乃ト同道芹沢ノ元向フ時間カセギ神田デ待ツ 白石”」
「しっ……白石!?」
短く息を呑む。その名を耳にした瞬間、鯉登の脳裏には、あの脱獄囚人の小馬鹿にするような笑みがはっきり浮かんだ。
コタンへ杉元宛ての電報を打てる人物など、脱獄王 白石由竹をおいて他にはいない。
更に、聞き覚えのあるもう一つの名に驚愕する。昨年新設された陸軍省兵器局、その局長に就任した少将 芹沢寿一。──意外なかたちで黒幕の正体が炙り出された。
中央の将官である芹沢を訪ねる理由など、白石にあるはずもない。やはり、菊乃の意思で芹沢の元へ行くと決めたということに他ならなかった。
「お知り合い、なのですね?」
「あ、あぁ……」
情報の高波が頭の中でぶつかり合いながらも、鯉登は女将の声に耳を戻した。
「東京には何人か知人がおりますので、菊乃の捜索と保護を依頼しておきます」
「分かった……頼む」
「それと……これから、技術本部の有坂様がそちらに向かわれると思います」
「な、んだって……?」
思いもよらぬ名とともに、女将の声が静かに続く。
「実は、菊乃のことで魁燿亭を訪ねて来られて……詳しくは、ご本人からお聞きなったほうがよろしいと思います」
そうして電話を切った。
鯉登は混乱する頭を抱えるように額を押さえた。とにかく今は、早急に東京へ向かう許可を取り付けなければならない。踵を返した。
そして、足早に戻ってきた執務室の扉を勢いよく押し開けた瞬間、
「やぁ、鯉登くんッ!息災だったかねッ!?」
にこやかに手を広げた中将 有坂成蔵が、待ち構えていたかのように立っていた。
板張りの長椅子に腰掛けると、やがて汽笛が鳴り、蒸気船がゆっくりと動き出した。船底が水をかくたび、床下から小さな震えが伝わってくる。
菊乃は、改めて隣に座る白石由竹の方へ向き直った。
「白石さんは、北海道にお住まいなんですか? アシㇼパさん達からは東京で別れた、と聞いていたんですが」
「いやぁ、住んでるっちゃ住んでるのかな?ま、いろいろあって戻ってきたって感じ?」
ひらひらと手を振るような物言いに、軽さの奥で何かを隠しているような気配がした。
だが、詮索は無粋だ。彼には彼の事情があるのだろうと、菊乃はそれ以上追及しなかった。
「それより、菊乃ちゃんのお話聞きたいな~。今からどこまで行くのぉ?」
問いかけはどこまでも軽やかだったが、視線の奥には興味と探るような色が混ざる。
「……東京です」
「っ東京ー!?」
あまりの声量に、周囲の乗客が一斉にこちらへ振り向いた。菊乃が驚き肩を揺らし、白石も慌てて口を押えたが、時すでに遅し。
「そ、そんなに意外でした……?」
「い、いや。結構身軽だし、その……菊乃ちゃんってどっちかっつーとお嬢様って雰囲気だから、一人で東京まで行くなんて思ってなかったっていうか」
その言葉に、菊乃は小さく目を見開いた。それなりに粗末な身なりをしているはずなのに、見抜かれていた。短いやり取りの中で見せる言葉や仕草の端々からか──。白石という人物は、表面の軽薄さに反して、なかなか侮れない観察眼の持ち主のようだった。隠し事はあまり意味をなさない気がした。それに、これから協力を仰ごうという相手に、何も話さないわけにもいかない。
「……実は、陸軍省の芹沢という男のところへ行きたいんです」
「陸軍省……って、またなんでそんなところに」
困惑する白石の問いに、菊乃はこれまでの経緯を静かに語った。
魁燿亭の芸者であり、諸事情で第七師団に一時的に保護されていたこと。芹沢の差し金による刺客に攫われかけたこと。鯉登少尉の勧めで、暫くアイヌの集落に匿われていたこと──。
「鯉登少尉や月島軍曹とも知り合いなのぉ~!?」
白石の驚きように、菊乃は少しだけ頬を緩める。
「白石さんこそ、鯉登さんたちのこともご存知だったなんて」
「いやー。なんだか北海道も狭いねぇ……」
その場の空気が、少しだけ和らいだ。
「鯉登さんたちが、私のことを守ってくれたんです。……私のせいでこれ以上迷惑かけられない。私、馬鹿だから……敵が中央にいるって分かった段階で、本当は離れるべきだったんです」
そう告げた菊乃の声音には、静かな決意が宿っていた。
「だから、私が終わらせにいかないと」
「……菊乃ちゃんの決意は立派だけど、それってものすごく危険だよ?人のこと脅してくるようなやつ、絶対に碌な人間じゃないって」
「私が行けば、周りの人達を巻き込まなくて済みます……あの人の狙いは、私と──森岡さんの文書だから」
静かな沈黙の中、船窓の外には海原が広がっていた。微かに揺れる光の粒が、水面で揺蕩っている。
やがて、白石は小さく笑いながら、
「……やっぱオレ、船賃強請ってよかったわ」
「え?」
「いーや、何でもない」
薄曇りの空に浮かぶウミネコの鳴き声が、どこか遠くに消えていった。
──汽笛が響き、船は静かに青森港へと着岸した。そこから列車に乗り換え、盛岡駅に着いた頃にはすっかり日が傾きはじめていた。今は、午前中の晴天が嘘のように、風が小雨の気配を含んでどんよりとしている。
「えっと。あちらの通りに向かった突き当りにある“花影屋”という旅館です」
そこは、芸者仕事で繋がりのある贔屓の旅館だった。魁燿亭の女将と懇意の間柄で、東京に赴くときはいつも利用していると聞き及んでいた。
「たぶん、白石さんのお部屋もご用意いただけると思うので」
「いやぁ助かる~っ。あ、でもちょっと郵便局寄ってっていい?」
白石が親指で指し示したその先には、小さな木造の建物があった。目の前には、丸い収集ポストがぽつりと佇んでいる。
「はい。構いませんよ」
「じゃあ、菊乃ちゃん先行って俺の部屋頼んどいてくれる?後で追いかけるから!」
「分かりました」
菊乃は微笑み返し、白石と分かれ旅館へと向かった。
***
執務室には、一際重苦しい空気が張りつめていた。
鯉登は、杉元から手渡された一通の手紙を、無言のまま震える手で握りしめていた。その顔には、怒り、悔しさ、そして強い喪失感が綯い交ぜとなり、深く影を落としている。
机の上には、菊乃に託していた銀時計がもの寂しげに置かれていた。
皆様に、これ以上御迷惑をおかけするわけにはまいりません。
黙って姿を消す非礼を、どうか御許しください。
鯉登音之進 様
私のようないわれも知らぬ者が、貴方様の御傍に居てよいはずがないことに、ようやっと気づきました。
これ以上、貴方様を危険に巻き込むことはできません。
これまで賜りました過ぎたる御厚情と身に余るほどの御恩情、心より御礼申し上げます。
御預かりいただいた荷は全て燃やし、私のことはどうか御忘れください。
菊乃
読み終えた瞬間、鯉登の眉間が強く寄せられた。手元が震え、手紙の端が音を立ててくしゃりと歪む。
沈黙に支配されたその場を破ったのは、少しの緊張を滲ませたアシㇼパの声だった。
「昨日、私たちが居ない間に菊乃に手紙が届いていたと叔父から聞いた。──“ルイナ”宛で」
「まさか……ッ!」
動揺を隠せない月島の声が響く。こちらからの返事は、まだ出せていなかった。
それに応えるように杉元が、
「コタンの人間以外がウロついていたって話もなかった。居場所がバレて、敵の誘いに乗った可能性が高いと思う。菊乃さんのことだ。俺たちや……鯉登少尉の名前を出されたとしたら」
その言葉を遮ったのは、紙を握る音だった。グシャリ、と潰れる手紙と共に、鯉登の全身から怒気が溢れ出す。
「ナメくさりおって……ッ!」
ギリリ、と奥歯を噛みしめる音が静寂を裂き、続けざまに拳が壁を打った。木の軋む音と重たい衝撃が、その場にいる全員の胸を打つ。
「信じちょってくれ、待っちょってくれっち言うたじゃなかか……ッ!」
その声は怒りに満ちながら、それ以上に深い哀しみと己の非力さが滲む。
その時、重い沈黙中で不意に扉が叩かれた。月島が扉を開けると、そこには同じ聯隊の歩兵少尉が立っていた。
「月島軍曹。鯉登はいるか?電話だ」
「はい……どちらから?」
「小樽の魁燿亭だ。至急、伝えたいことがあると」
「何処だ」
聞こえた声に、鯉登は素早く身を翻した。月島の肩を強く押しのけて前へ出ると、そのまま早足に廊下を渡り靴音高く階段を下りていく。待ち受ける事務室まで一直線に駆け込む姿は荒々しい。
やがて、受話器を掴むなり息もつかずに口を開いた。
「女将か」
「鯉登様。アイヌの集落から、杉元様宛に電報が届いたと知らせがございました」
「電報?」
「はい。読み上げます──“菊乃ト同道芹沢ノ元向フ時間カセギ神田デ待ツ 白石”」
「しっ……白石!?」
短く息を呑む。その名を耳にした瞬間、鯉登の脳裏には、あの脱獄囚人の小馬鹿にするような笑みがはっきり浮かんだ。
コタンへ杉元宛ての電報を打てる人物など、脱獄王 白石由竹をおいて他にはいない。
更に、聞き覚えのあるもう一つの名に驚愕する。昨年新設された陸軍省兵器局、その局長に就任した少将 芹沢寿一。──意外なかたちで黒幕の正体が炙り出された。
中央の将官である芹沢を訪ねる理由など、白石にあるはずもない。やはり、菊乃の意思で芹沢の元へ行くと決めたということに他ならなかった。
「お知り合い、なのですね?」
「あ、あぁ……」
情報の高波が頭の中でぶつかり合いながらも、鯉登は女将の声に耳を戻した。
「東京には何人か知人がおりますので、菊乃の捜索と保護を依頼しておきます」
「分かった……頼む」
「それと……これから、技術本部の有坂様がそちらに向かわれると思います」
「な、んだって……?」
思いもよらぬ名とともに、女将の声が静かに続く。
「実は、菊乃のことで魁燿亭を訪ねて来られて……詳しくは、ご本人からお聞きなったほうがよろしいと思います」
そうして電話を切った。
鯉登は混乱する頭を抱えるように額を押さえた。とにかく今は、早急に東京へ向かう許可を取り付けなければならない。踵を返した。
そして、足早に戻ってきた執務室の扉を勢いよく押し開けた瞬間、
「やぁ、鯉登くんッ!息災だったかねッ!?」
にこやかに手を広げた中将 有坂成蔵が、待ち構えていたかのように立っていた。
