本編
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行方(一)
函館港の岸壁は、旅人と荷物を運ぶ男たちの声で賑わっていた。潮風が湿った空気を運び、夏を思わせる陽気の中、菊乃は木箱の脇に腰を下ろした。
地味な藍染の着物に濃浅葱の御高祖頭巾を纏ったその姿は、この季節にしてはあまりにそぐわない。それでも、周囲の視線を避けるため仕方がなかった。
──あと少しで、船に乗れる。静かに目を伏せ、潮の香に包まれながらこれからの行く末に思いを巡らせていると、
「おっとっとぉ、すまねぇお嬢さん」
突如、酔った男がよろけながらぶつかってきた。酒の匂いが鼻を突き、肩にかかった重みに思わず体を強張らせる。
「いえ」
極力関わらぬように、淡々と答える。
だが、その男がふらりと立ち去ろうとした瞬間、突如別の人影が割って入った。
「オッサン、そりゃいけねぇなぁ」
間延びした声に振り向けば、縞模様の半纏を腰に巻いた坊主頭の男が、にやりと口を歪めていた。半纏は着古され、袖も所々ほつれている。こんな暑い日に厚手物を装うその姿は、どうにも目を引いた。菊乃も他人のことを言える立場ではないが。
「今、懐にしまったもの置いていきな」
「はァ?なんだテメェ?」
「ほら、そこの美しいお嬢さんからスったろ、財布」
その言葉に、菊乃はハっとして足元に置いていた信玄袋を持ち上げた。しっかり締めていたはずの紐が緩み、口が半開きになっている。
「無いっ!」
半ば無意識に声が出た。半纏男が言うように、中に入れていたはずの財布が無かった。見上げると、酔っぱらい男が忌々しそうに半纏男を睨み返している。
「いたぞ!あそこだ!」
その時、遠くから叫び声と駆けてくる複数の足音がした。見ると、五人ほどの警察官が恐い顔をしながら此方へ向かってきている。
何か追っている──それが、目の前の半纏男だと知ったのは、ほんの一拍あとだった。
「やべっ、もうバレた!」
そう慌てて言ったかと思うと、突然菊乃は腕を引っ張られた。掴んできたのは、目の前の半纏男。
「えっ、なっ、え?」
「お巡りさーん!このオッサン、スリの現行犯だから捕まえてー!」
男はそう叫ぶと、勢いよく走り出した。掴まれた腕はそのままなので、菊乃も問答無用で走らされる。
「なにっ?なになになに!?」
理由も分からず、半纏男と共に逃走する羽目になった菊乃は、ひたすら港の路地を駆けた。草履の音が地を打ち、頭に纏った頭巾は風に煽られ首で引っかかったまま風を孕んで揺れる。振り切れるわけもなく、抗議する暇も与えられず、ただ無我夢中で走るしかなかった。
息が切れじわりと汗ばんできた頃、物陰へと強く腕を引かれた。ぺたりと地に座り込み、息を整えるため肩で呼吸を繰り返す。湿った潮の匂いが鼻をついた。
「やっと諦めたか……」
その脱力した声に、
「何なんですかあなた!?急にこんな、こんな……っ!」
堪えきれなくなった菊乃は、唇をわなわなと震わせ声を荒げた。
スリから財布を取り返してくれようとしたことは感謝せねばなるまいが、もしや恩を着せて良からぬことをしようとする不届き者なのでは──?
そこまで考えて、菊乃は酔っぱらい男から財布を取り返していなかったことを思い出す。
「あ!私の財布っ!」
「はい、どうぞ」
「え?」
男がにこりと微笑みながら、スッと差し出てきたもの。目の前のそれは、間違いなく自分の財布だった。半纏男のあっさりとした口調とにこやかな笑顔に、拍子抜けする。
目の前の男が善人なのか悪人なのか判断がつかず、戸惑いのまま菊乃は礼を言って、
「あ、ありが──」
財布を受け取ろうとした。だが、財布に手を伸ばした刹那、男はそれをひょいと引っ込め、代わりに反対の手を差し出してきた。
「僕、シライシヨシタケっていいます。独身で彼女はいません。付き合ったら一途で情熱的ですっ」
「……」
妙な沈黙が流れる。潮風が間抜けに吹き抜け、どこか遠くでウミネコが鳴いた。
菊乃は観念したように、やっとのことで「……菊乃です」と自己紹介をした。
「菊乃さん……素敵なお名前だ」
しぶしぶその手を取ると、ようやく財布が返ってきた。中身を確かめると、無事だったことに安堵の息が漏れる。
「はぁ……お財布、ありがとうございました」
「美しい女性が困っていたら見過ごせないタチでして」
「は、はぁ……」
歯の浮くような言葉をつくシライシに思わず後ずさりしそうになりながら、菊乃は視線を逸らすように彼の姿へ目を移す。よく見れば黒い袖無しの中衣の釦は千切れ、その中の襦袢が不格好に破れていることに気がついた。
「あ、シライシさん、襦袢が……」
「え?あー、さっき揉み合ったときだな」
彼は気にも留めぬ様子で破れたところを指先で広げた。そして、その下にあったものが、菊乃の目を釘付けにする。彼の上半身に彫られた刺青が、破れた隙間から覗いていて「あ……っ」と思わず声が漏れた。
アシㇼパと杉本から聞いていた。アイヌの金塊の在り処を示す刺青の奇妙な模様のことを。曲線と散りばめられた漢字──目の前のそれは、その特徴のままだった。
「それ、金塊の……」
声に出すつもりはなかったのに、つい口にしてしまい菊乃はハッとして口に手を当てる。次の瞬間、目の前のシライシは目を丸くして、
「……驚いた。どこでその話……」
「あ……アイヌの、女の子、から」
「え。それ、もしかしてアシㇼパちゃんか!?」
反応が早すぎて、逆に菊乃がたじろぐ。
「あ、アシㇼパさんをご存知……ならもしかして、杉本さんのことも?」
「いや、そっちこそ。杉元佐一とも知り合いなのぉ?」
脳裏に浮かんだ。二人が語った金塊をめぐる激動の旅路。その話に度々登場する、一際印象的な人物がいた。
──脱獄王 白石由竹。
お互い驚きのあまり言葉が浮かばず、沈黙が続く。
やがて、それを破ったのは白石だった。
「……菊乃ちゃんさ、なんでそんなに周囲を警戒してんの?」
「え……っ?」
唐突な問いに、菊乃は言葉を詰まらせた。柔らかくも鋭い眼差しが、菊乃の奥底を探るように向けられる。
「そ、そんなこと、ないです……」
言い倦ねる菊乃を見て、白石は口元を緩めた。
「ねぇ。“訳あり者”同士、協力しない?」
「……協、力?」
白石からの突然の提案に、菊乃は困惑の声を漏らした。
「菊乃ちゃん、船に乗って内地に行きたいんだろ?俺もいま面倒事に巻き込まれてて、一旦北海道を離れたいんだよね」
明るい調子の奥に見える本気。そこに、菊乃は不思議と引き込まれた。
「女一人だと何かと物騒だろ?俺が護衛として一緒に目的地まで付き添ってあげるからさ。その代わり──」
白石は、とびきりの笑顔で祈るように手をパン、と合わせ、
「俺の船代、出してくれないかなぁ~?」
どこかすがるように、けれど図々しさの抜けない笑顔で言った。
菊乃は思わず、呆気にとられた。彼がどこまで付いて行こうと思って言ったのか分からなかったが、目的地、東京まで一人片道で約7円。
菊乃の心の内では、冷静な計算が始まっていた。アシㇼパや杉元と共に行動していた、元囚人の脱獄王。逃げの技術に関して一流の人物であることは間違いない。陸軍の最高機関、中央の人物と対峙するという並みならぬ賭けに出る以上、一つでも多く逃げ場を確保しておきたい。選択肢を持つことは、悪いことではないはずだ──白石は、そのための切り札にもなりうる。
「……一つ、条件があります」
その声音を、凛と引き締める。
「脱獄王の白石さんとお見受けしました。あなたの知識、私に貸してください」
「……え?」
視線はまっすぐ一点の迷いもない菊乃の姿に、白石が目をぱちくりとさせる。
「それを承諾していただけたら、交通費をお支払いします」
そう言いながら、菊乃は信玄袋を手にぎゅっと握りしめた。
「私には、あなたが必要なんです……!」
数秒の沈黙。驚きの表情のまま、白石は固まっている。
やがて、彼の顔がパアッと明るくなった。目を煌めかせ、両の手で菊乃の手をガシリと掴むと、
「まっかせて!俺、絶対に菊乃ちゃんの役に立ってみせるから!」
「こっ……交渉、成立……でいいんですよね?」
うんうんと勢いよく頷く白石を見て、少々先行きに不安を感じつつ、菊乃は頼もしい?相棒を手に入れたのだった。
函館港の岸壁は、旅人と荷物を運ぶ男たちの声で賑わっていた。潮風が湿った空気を運び、夏を思わせる陽気の中、菊乃は木箱の脇に腰を下ろした。
地味な藍染の着物に濃浅葱の御高祖頭巾を纏ったその姿は、この季節にしてはあまりにそぐわない。それでも、周囲の視線を避けるため仕方がなかった。
──あと少しで、船に乗れる。静かに目を伏せ、潮の香に包まれながらこれからの行く末に思いを巡らせていると、
「おっとっとぉ、すまねぇお嬢さん」
突如、酔った男がよろけながらぶつかってきた。酒の匂いが鼻を突き、肩にかかった重みに思わず体を強張らせる。
「いえ」
極力関わらぬように、淡々と答える。
だが、その男がふらりと立ち去ろうとした瞬間、突如別の人影が割って入った。
「オッサン、そりゃいけねぇなぁ」
間延びした声に振り向けば、縞模様の半纏を腰に巻いた坊主頭の男が、にやりと口を歪めていた。半纏は着古され、袖も所々ほつれている。こんな暑い日に厚手物を装うその姿は、どうにも目を引いた。菊乃も他人のことを言える立場ではないが。
「今、懐にしまったもの置いていきな」
「はァ?なんだテメェ?」
「ほら、そこの美しいお嬢さんからスったろ、財布」
その言葉に、菊乃はハっとして足元に置いていた信玄袋を持ち上げた。しっかり締めていたはずの紐が緩み、口が半開きになっている。
「無いっ!」
半ば無意識に声が出た。半纏男が言うように、中に入れていたはずの財布が無かった。見上げると、酔っぱらい男が忌々しそうに半纏男を睨み返している。
「いたぞ!あそこだ!」
その時、遠くから叫び声と駆けてくる複数の足音がした。見ると、五人ほどの警察官が恐い顔をしながら此方へ向かってきている。
何か追っている──それが、目の前の半纏男だと知ったのは、ほんの一拍あとだった。
「やべっ、もうバレた!」
そう慌てて言ったかと思うと、突然菊乃は腕を引っ張られた。掴んできたのは、目の前の半纏男。
「えっ、なっ、え?」
「お巡りさーん!このオッサン、スリの現行犯だから捕まえてー!」
男はそう叫ぶと、勢いよく走り出した。掴まれた腕はそのままなので、菊乃も問答無用で走らされる。
「なにっ?なになになに!?」
理由も分からず、半纏男と共に逃走する羽目になった菊乃は、ひたすら港の路地を駆けた。草履の音が地を打ち、頭に纏った頭巾は風に煽られ首で引っかかったまま風を孕んで揺れる。振り切れるわけもなく、抗議する暇も与えられず、ただ無我夢中で走るしかなかった。
息が切れじわりと汗ばんできた頃、物陰へと強く腕を引かれた。ぺたりと地に座り込み、息を整えるため肩で呼吸を繰り返す。湿った潮の匂いが鼻をついた。
「やっと諦めたか……」
その脱力した声に、
「何なんですかあなた!?急にこんな、こんな……っ!」
堪えきれなくなった菊乃は、唇をわなわなと震わせ声を荒げた。
スリから財布を取り返してくれようとしたことは感謝せねばなるまいが、もしや恩を着せて良からぬことをしようとする不届き者なのでは──?
そこまで考えて、菊乃は酔っぱらい男から財布を取り返していなかったことを思い出す。
「あ!私の財布っ!」
「はい、どうぞ」
「え?」
男がにこりと微笑みながら、スッと差し出てきたもの。目の前のそれは、間違いなく自分の財布だった。半纏男のあっさりとした口調とにこやかな笑顔に、拍子抜けする。
目の前の男が善人なのか悪人なのか判断がつかず、戸惑いのまま菊乃は礼を言って、
「あ、ありが──」
財布を受け取ろうとした。だが、財布に手を伸ばした刹那、男はそれをひょいと引っ込め、代わりに反対の手を差し出してきた。
「僕、シライシヨシタケっていいます。独身で彼女はいません。付き合ったら一途で情熱的ですっ」
「……」
妙な沈黙が流れる。潮風が間抜けに吹き抜け、どこか遠くでウミネコが鳴いた。
菊乃は観念したように、やっとのことで「……菊乃です」と自己紹介をした。
「菊乃さん……素敵なお名前だ」
しぶしぶその手を取ると、ようやく財布が返ってきた。中身を確かめると、無事だったことに安堵の息が漏れる。
「はぁ……お財布、ありがとうございました」
「美しい女性が困っていたら見過ごせないタチでして」
「は、はぁ……」
歯の浮くような言葉をつくシライシに思わず後ずさりしそうになりながら、菊乃は視線を逸らすように彼の姿へ目を移す。よく見れば黒い袖無しの中衣の釦は千切れ、その中の襦袢が不格好に破れていることに気がついた。
「あ、シライシさん、襦袢が……」
「え?あー、さっき揉み合ったときだな」
彼は気にも留めぬ様子で破れたところを指先で広げた。そして、その下にあったものが、菊乃の目を釘付けにする。彼の上半身に彫られた刺青が、破れた隙間から覗いていて「あ……っ」と思わず声が漏れた。
アシㇼパと杉本から聞いていた。アイヌの金塊の在り処を示す刺青の奇妙な模様のことを。曲線と散りばめられた漢字──目の前のそれは、その特徴のままだった。
「それ、金塊の……」
声に出すつもりはなかったのに、つい口にしてしまい菊乃はハッとして口に手を当てる。次の瞬間、目の前のシライシは目を丸くして、
「……驚いた。どこでその話……」
「あ……アイヌの、女の子、から」
「え。それ、もしかしてアシㇼパちゃんか!?」
反応が早すぎて、逆に菊乃がたじろぐ。
「あ、アシㇼパさんをご存知……ならもしかして、杉本さんのことも?」
「いや、そっちこそ。杉元佐一とも知り合いなのぉ?」
脳裏に浮かんだ。二人が語った金塊をめぐる激動の旅路。その話に度々登場する、一際印象的な人物がいた。
──脱獄王 白石由竹。
お互い驚きのあまり言葉が浮かばず、沈黙が続く。
やがて、それを破ったのは白石だった。
「……菊乃ちゃんさ、なんでそんなに周囲を警戒してんの?」
「え……っ?」
唐突な問いに、菊乃は言葉を詰まらせた。柔らかくも鋭い眼差しが、菊乃の奥底を探るように向けられる。
「そ、そんなこと、ないです……」
言い倦ねる菊乃を見て、白石は口元を緩めた。
「ねぇ。“訳あり者”同士、協力しない?」
「……協、力?」
白石からの突然の提案に、菊乃は困惑の声を漏らした。
「菊乃ちゃん、船に乗って内地に行きたいんだろ?俺もいま面倒事に巻き込まれてて、一旦北海道を離れたいんだよね」
明るい調子の奥に見える本気。そこに、菊乃は不思議と引き込まれた。
「女一人だと何かと物騒だろ?俺が護衛として一緒に目的地まで付き添ってあげるからさ。その代わり──」
白石は、とびきりの笑顔で祈るように手をパン、と合わせ、
「俺の船代、出してくれないかなぁ~?」
どこかすがるように、けれど図々しさの抜けない笑顔で言った。
菊乃は思わず、呆気にとられた。彼がどこまで付いて行こうと思って言ったのか分からなかったが、目的地、東京まで一人片道で約7円。
菊乃の心の内では、冷静な計算が始まっていた。アシㇼパや杉元と共に行動していた、元囚人の脱獄王。逃げの技術に関して一流の人物であることは間違いない。陸軍の最高機関、中央の人物と対峙するという並みならぬ賭けに出る以上、一つでも多く逃げ場を確保しておきたい。選択肢を持つことは、悪いことではないはずだ──白石は、そのための切り札にもなりうる。
「……一つ、条件があります」
その声音を、凛と引き締める。
「脱獄王の白石さんとお見受けしました。あなたの知識、私に貸してください」
「……え?」
視線はまっすぐ一点の迷いもない菊乃の姿に、白石が目をぱちくりとさせる。
「それを承諾していただけたら、交通費をお支払いします」
そう言いながら、菊乃は信玄袋を手にぎゅっと握りしめた。
「私には、あなたが必要なんです……!」
数秒の沈黙。驚きの表情のまま、白石は固まっている。
やがて、彼の顔がパアッと明るくなった。目を煌めかせ、両の手で菊乃の手をガシリと掴むと、
「まっかせて!俺、絶対に菊乃ちゃんの役に立ってみせるから!」
「こっ……交渉、成立……でいいんですよね?」
うんうんと勢いよく頷く白石を見て、少々先行きに不安を感じつつ、菊乃は頼もしい?相棒を手に入れたのだった。
