本編
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想起(四)
コタンにも、すっかり夏の陽気が訪れていた。朝晩はまだ涼しいものの、昼間は動けば汗ばむほどの暖かさだ。
菊乃は、囲炉裏で茶を煎じる湯を沸かしながら、窓の外に目をやった。暑さにも負けず、外では子どもたちが元気に駆け回っている。けれど、長閑な中でも心は落ち着かなかった。絵本の調査を託した鯉登から返事がないまま、数日が過ぎていた。
「Тризвезды, часы
молчат……♪」
森岡が示したのは、“沈黙の時計”──そして今、その手掛かりは鯉登の手にある。
「鯉登さん、何か分かったかな……」
アシㇼパと杉元は、今日も狩りに出て不在。フチは、畑へ行っている。ひとり悩み待つ時間は、ちょっと憂鬱だ。
窓から入る初夏の風が、頬をそっと撫でた。穏やかすぎるこの日常が、ひどく儚く思える。菊乃はどこか、祈るように目を閉じた。
「菊乃さん、いるかい?」
その時、入口から声がして菊乃は立ち上がった。顔を出したのは、
「マカナックㇽさん、こんにちは」
「ああよかった。街に降りたついでに君宛の手紙を預かってきた」
アシㇼパの叔父だった。菊乃は、差し出された手紙を受け取った。待ちに待った“ルイナ”と記された手紙に、期待と不安が混ざり合う。
礼を告げて彼を見送ると、囲炉裏の傍へと戻り封を開けようとした。
だが、いつにない違和感に気づく。手の中の封筒に指先を這わせると、初めて感じるざらりとした硬い手触りだった。今度は裏返してみる。そこに、差出人の名はない。よく見れば、表書きの筆跡も微妙に違う。
それでも、鯉登と月島しか知り得ないルイナの名が記されている事実は、疑いようのないもの。不安を抑え込むように、菊乃は深く息をついた。差出人は書き忘れただけかもしれない、と胸中で繰り返しながら、震える指先で慎重に封を切った。
しかし、目に飛び込んできた一文に、菊乃の背筋が凍りつく。
──拝啓 初夏の候、貴女様におかれましては御健やかに御過ごしのことと拝察いたします──
柔らかく取り繕われた書き出しだった。だが、読み進めるほどにその裏に潜む毒は徐々に明らかとなっていく。
拝啓 初夏の候、貴女様におかれましては御健やかに御過ごしのことと拝察いたします。
さて、今回筆を取ったのは、お手元にある文書についてです。
本来、此方で管理すべきところ、手違いにより森岡から貴女様の元へ渡ってしまったようなのです。
誠に恐れ入りますが、当該文書を携え、近日中に私の許まで御足労願いたく存じます。
尚、貴女の御交誼先につきましては、私も承知いたしております。
不本意ながら、本件が公になることにより、思わぬ不都合が及ぶ懸念もございます。
無用な混乱を避けるためにも、内々に事を運ばれるのが最も賢明かと存じます。
呉呉も、慎重に御判断くださいますよう申し添えます。
嘗て、国家の御為共に尽力された聡明叡智な貴女様の御決断に、今一度お縋りする次第です。
御来訪を心より御待ち申し上げております。
敬具
陸軍省 芹沢寿一
読み終えた瞬間、ズキリと頭が痛んだ。
手元から力が抜けた。指先が冷たくなるのを感じながら、菊乃は震える手で頭を抱えた。床に落ちた手紙は、まるで蛇のように這い寄る不気味な影を放っているように見える。
芹沢と名乗る人物は、どうやって偽名と自分の居場所を知り得たのか。その事実が、菊乃の血の気を一瞬にして奪い去る。
「この人が、中央の……?」
このまま何もせずにいれば、確実に災厄は周囲へ及ぶ。魁燿亭も、アシㇼパや杉元、アイヌの人たち。そして、鯉登たちの軍内での立場も──芹沢の裁量ひとつで容易く揺るがされる。それが、手紙の中で巧妙に忠告されていた。
頭が痛い──。まるで頭蓋ごと、冷たい手でギリギリと締め付けられているようだった。その痛みに抗い、菊乃は頭を大きく振る。
“国家の御為共に尽力された”──。
最後に綴られていた言葉が、強く引っかかって離れない。彼は、この閉ざされた過去について何かを知っている。そうとしか思えなかった。
痛む頭を抱えながら、周囲に悟られぬようにとそっと支度を始める。菊乃はひとり、静かに覚悟を決めた。
***
菊乃からの手紙を仕舞う間もなく、鯉登は机の引き出しに鍵を差し込んだ。
中から絵本を取り出し、急かすように頁を繰りながら目的の物語を探し当てる。
「これだ……」
“動かない銀時計”に手掛かりが隠されている可能性──。
雪に埋められた銀時計と、その横に軍帽がぽつんと置かれた絵が淡い色彩で描かれている。弾痕の焦げ跡が、その端にぽっかりと穴を開けたまま残っていて、あの日を思い出し顔を顰めた。
その時、扉を叩く音が響く。鯉登が即座に声を返すと、軽く息を切らした月島が現れた。
「少尉殿、急ぎの用とは?」
「菊乃から調べてくれと頼まれた。これを見ろ」
鯉登は絵本を指し示した。
「この銀時計に、何か意味があるらしい。気付いたことがあれば言ってくれ」
二人は肩を寄せ合うように絵本を覗き込んだ。しかし、いくら睨みつけようが、薄目で眺めようが、絵本をひっくり返そうが何も変わったところは見つからない。
「……何かないのか月島ァ!」
「そう言われましても……」
文字の削られた奇妙な絵本。それ以上はどうにも分からなかった。
「そういえば、これ表紙に鉄板が入っていたんでしたっけ」
「あ、あぁ。紙の間に挟まれた感じでな……たぶん、森岡が作ったんじゃないだろうか」
それを聞いて、不意に月島が絵本を手に取ると、パラパラと一枚一枚丁寧に確かめていった。
そして、何枚か流し見た後にその眼光が鋭くなる。
「これ……今気づきましたが、全ての絵が“貼り絵”になっているんですね」
「ん?」
貼り絵──描く対象物の形に合わせて切り出したものを、本紙に重ね貼りすることで絵に深みと立体感を持たせる手法。絵画など美術品に使われることはあっても、子ども用の絵本に取り入れられることはあまりないものだった。
「あぁ。開くと絵が飛び出したり動いたりする絵本は見たことあったが、こんな描き方をしたものは私も初めて見た。味があって面白いな」
さも当然のように言う鯉登に、月島は目を細めた。妙なところで育ちの違いを感じつつ、月島は核心に迫る。
「この鉄板のように、紙と紙の間に一枚程度なら忍ばせることも出来そうじゃありませんか?……“折りたたまれた紙片”、とか」
一瞬時が止まったように微動だにしなかった鯉登が、飛びかかる勢いで絵本を捲った。雪に埋もれた銀時計と軍帽の絵が、静かな夜の背景のもとで浮き出ている。
鯉登は小刀を取り出し、貼り絵の角へ慎重に刃先を差し込んだ。細心の注意を払い、ゆっくりと剥がしていく。ペリ、ペリ……と静かな部屋に、ひたすら紙の剥がれる音が響いた。
「あ、った……」
すべてを剥がし終えると、絵紙と本文紙の間に、絵の輪郭に合わせ巧妙に折り畳まれた紙片が姿を表した。沈黙の中、互いに顔を見合わせ固唾を呑む。逸るように脈動が全身を打った。
暫しそうしていると、鯉登は覚悟を決めたように、
「開けるぞ」
低く、腹の底から絞り出すような声で呟く。月島は無言のまま頷き、身を乗り出すようにして鯉登の手元を凝視した。
細心の注意を払いながら紙片をそっと広げていく。ようやく全てを広げると、それは“文書”と呼ぶには心許無い、掌ほどの薄紙だった。
しかし、その小ささとは裏腹に、紙面にびっしりと並んだ文字は、ひと目でただならぬものだと分かる迫力を放っている。
「何だ、これは……」
月島が驚愕の声を上げ、
「……ギョウ、セイ……?」
後に続いた鯉登の声は、まるで呪文のようだった。
二人の間に、更に深い沈黙が落ちる。冷たい汗が背筋を這った。
コタンにも、すっかり夏の陽気が訪れていた。朝晩はまだ涼しいものの、昼間は動けば汗ばむほどの暖かさだ。
菊乃は、囲炉裏で茶を煎じる湯を沸かしながら、窓の外に目をやった。暑さにも負けず、外では子どもたちが元気に駆け回っている。けれど、長閑な中でも心は落ち着かなかった。絵本の調査を託した鯉登から返事がないまま、数日が過ぎていた。
「Три
молчат……♪」
森岡が示したのは、“沈黙の時計”──そして今、その手掛かりは鯉登の手にある。
「鯉登さん、何か分かったかな……」
アシㇼパと杉元は、今日も狩りに出て不在。フチは、畑へ行っている。ひとり悩み待つ時間は、ちょっと憂鬱だ。
窓から入る初夏の風が、頬をそっと撫でた。穏やかすぎるこの日常が、ひどく儚く思える。菊乃はどこか、祈るように目を閉じた。
「菊乃さん、いるかい?」
その時、入口から声がして菊乃は立ち上がった。顔を出したのは、
「マカナックㇽさん、こんにちは」
「ああよかった。街に降りたついでに君宛の手紙を預かってきた」
アシㇼパの叔父だった。菊乃は、差し出された手紙を受け取った。待ちに待った“ルイナ”と記された手紙に、期待と不安が混ざり合う。
礼を告げて彼を見送ると、囲炉裏の傍へと戻り封を開けようとした。
だが、いつにない違和感に気づく。手の中の封筒に指先を這わせると、初めて感じるざらりとした硬い手触りだった。今度は裏返してみる。そこに、差出人の名はない。よく見れば、表書きの筆跡も微妙に違う。
それでも、鯉登と月島しか知り得ないルイナの名が記されている事実は、疑いようのないもの。不安を抑え込むように、菊乃は深く息をついた。差出人は書き忘れただけかもしれない、と胸中で繰り返しながら、震える指先で慎重に封を切った。
しかし、目に飛び込んできた一文に、菊乃の背筋が凍りつく。
──拝啓 初夏の候、貴女様におかれましては御健やかに御過ごしのことと拝察いたします──
柔らかく取り繕われた書き出しだった。だが、読み進めるほどにその裏に潜む毒は徐々に明らかとなっていく。
拝啓 初夏の候、貴女様におかれましては御健やかに御過ごしのことと拝察いたします。
さて、今回筆を取ったのは、お手元にある文書についてです。
本来、此方で管理すべきところ、手違いにより森岡から貴女様の元へ渡ってしまったようなのです。
誠に恐れ入りますが、当該文書を携え、近日中に私の許まで御足労願いたく存じます。
尚、貴女の御交誼先につきましては、私も承知いたしております。
不本意ながら、本件が公になることにより、思わぬ不都合が及ぶ懸念もございます。
無用な混乱を避けるためにも、内々に事を運ばれるのが最も賢明かと存じます。
呉呉も、慎重に御判断くださいますよう申し添えます。
嘗て、国家の御為共に尽力された聡明叡智な貴女様の御決断に、今一度お縋りする次第です。
御来訪を心より御待ち申し上げております。
敬具
陸軍省 芹沢寿一
読み終えた瞬間、ズキリと頭が痛んだ。
手元から力が抜けた。指先が冷たくなるのを感じながら、菊乃は震える手で頭を抱えた。床に落ちた手紙は、まるで蛇のように這い寄る不気味な影を放っているように見える。
芹沢と名乗る人物は、どうやって偽名と自分の居場所を知り得たのか。その事実が、菊乃の血の気を一瞬にして奪い去る。
「この人が、中央の……?」
このまま何もせずにいれば、確実に災厄は周囲へ及ぶ。魁燿亭も、アシㇼパや杉元、アイヌの人たち。そして、鯉登たちの軍内での立場も──芹沢の裁量ひとつで容易く揺るがされる。それが、手紙の中で巧妙に忠告されていた。
頭が痛い──。まるで頭蓋ごと、冷たい手でギリギリと締め付けられているようだった。その痛みに抗い、菊乃は頭を大きく振る。
“国家の御為共に尽力された”──。
最後に綴られていた言葉が、強く引っかかって離れない。彼は、この閉ざされた過去について何かを知っている。そうとしか思えなかった。
痛む頭を抱えながら、周囲に悟られぬようにとそっと支度を始める。菊乃はひとり、静かに覚悟を決めた。
***
菊乃からの手紙を仕舞う間もなく、鯉登は机の引き出しに鍵を差し込んだ。
中から絵本を取り出し、急かすように頁を繰りながら目的の物語を探し当てる。
「これだ……」
“動かない銀時計”に手掛かりが隠されている可能性──。
雪に埋められた銀時計と、その横に軍帽がぽつんと置かれた絵が淡い色彩で描かれている。弾痕の焦げ跡が、その端にぽっかりと穴を開けたまま残っていて、あの日を思い出し顔を顰めた。
その時、扉を叩く音が響く。鯉登が即座に声を返すと、軽く息を切らした月島が現れた。
「少尉殿、急ぎの用とは?」
「菊乃から調べてくれと頼まれた。これを見ろ」
鯉登は絵本を指し示した。
「この銀時計に、何か意味があるらしい。気付いたことがあれば言ってくれ」
二人は肩を寄せ合うように絵本を覗き込んだ。しかし、いくら睨みつけようが、薄目で眺めようが、絵本をひっくり返そうが何も変わったところは見つからない。
「……何かないのか月島ァ!」
「そう言われましても……」
文字の削られた奇妙な絵本。それ以上はどうにも分からなかった。
「そういえば、これ表紙に鉄板が入っていたんでしたっけ」
「あ、あぁ。紙の間に挟まれた感じでな……たぶん、森岡が作ったんじゃないだろうか」
それを聞いて、不意に月島が絵本を手に取ると、パラパラと一枚一枚丁寧に確かめていった。
そして、何枚か流し見た後にその眼光が鋭くなる。
「これ……今気づきましたが、全ての絵が“貼り絵”になっているんですね」
「ん?」
貼り絵──描く対象物の形に合わせて切り出したものを、本紙に重ね貼りすることで絵に深みと立体感を持たせる手法。絵画など美術品に使われることはあっても、子ども用の絵本に取り入れられることはあまりないものだった。
「あぁ。開くと絵が飛び出したり動いたりする絵本は見たことあったが、こんな描き方をしたものは私も初めて見た。味があって面白いな」
さも当然のように言う鯉登に、月島は目を細めた。妙なところで育ちの違いを感じつつ、月島は核心に迫る。
「この鉄板のように、紙と紙の間に一枚程度なら忍ばせることも出来そうじゃありませんか?……“折りたたまれた紙片”、とか」
一瞬時が止まったように微動だにしなかった鯉登が、飛びかかる勢いで絵本を捲った。雪に埋もれた銀時計と軍帽の絵が、静かな夜の背景のもとで浮き出ている。
鯉登は小刀を取り出し、貼り絵の角へ慎重に刃先を差し込んだ。細心の注意を払い、ゆっくりと剥がしていく。ペリ、ペリ……と静かな部屋に、ひたすら紙の剥がれる音が響いた。
「あ、った……」
すべてを剥がし終えると、絵紙と本文紙の間に、絵の輪郭に合わせ巧妙に折り畳まれた紙片が姿を表した。沈黙の中、互いに顔を見合わせ固唾を呑む。逸るように脈動が全身を打った。
暫しそうしていると、鯉登は覚悟を決めたように、
「開けるぞ」
低く、腹の底から絞り出すような声で呟く。月島は無言のまま頷き、身を乗り出すようにして鯉登の手元を凝視した。
細心の注意を払いながら紙片をそっと広げていく。ようやく全てを広げると、それは“文書”と呼ぶには心許無い、掌ほどの薄紙だった。
しかし、その小ささとは裏腹に、紙面にびっしりと並んだ文字は、ひと目でただならぬものだと分かる迫力を放っている。
「何だ、これは……」
月島が驚愕の声を上げ、
「……ギョウ、セイ……?」
後に続いた鯉登の声は、まるで呪文のようだった。
二人の間に、更に深い沈黙が落ちる。冷たい汗が背筋を這った。
