本編
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想起(三)
──菊乃は、直ぐ様確信した。また、自分は過去の記憶を見ているのだ、と。
かつて見た木造の住まい。寝台に横たわる幼い自分。そして、傍らにはあの男──森岡がいた。
彼の口から、あのロシア語の歌が優しく紡がれている。
「菊乃は、一から五の星、どれが一番好きなんだい?」
歌が終わると、森岡は微笑みながら問いかけた。
「いちー!いちばん星のいちだから」
答えた声は、幼い少女のものだ。
不思議な感覚だった。まるで、ひとつの身体に二つの意思が存在しているようだった。この幼い身体には、確かに今の自分がいるのに、動けないし喋ることもできない。幼い自分が勝手に動き、喋っている。
「はは。そうか、一かぁ」
森岡は穏やかに笑う。
そして、
「おじさんは?」
幼い菊乃は屈託なく問いかけた。その呼び方に、目を瞠る。
おじさん──この人は、父ではなかったのか。ならば何故、父親でもない男と異国の家で共に過ごしているのだろう──。
そんな菊乃の心情など置いてけぼりに、二人の会話は淡々と続いていく。
「三、かな」
「なんで?」
「三は、おじさんの星の数なんだ。だから必ず思い出してくれ、菊乃」
いつか忘れてしまうと知っているかのような、そんな言い方だった。
何故、そんなことを言うの?あなたは何を知っているの──?
必死に問いかけようとしても、声は出ない。
これから自分の身に何が起こるのか。あなたの身に、何が起こるのか──。
叫びたいのに、言葉は内側で霧のように消えて無くなる。そのうち、視界がふわりと霞み、次第にぼやける。
そして遠くから、誰かが菊乃を呼んでいた。その声に引かれるように、視界は暗転し──
朝の匂いが、鼻先を掠めた。
「菊乃!」
アシㇼパの声が、耳元で響いた。
はっと目を覚ました菊乃は、ぼんやりと視線を彷徨わせ、杉元が心配そうに自分を見つめていることに気づく。
「よかった……。揺さぶっても中々起きないから心配したよ」
安堵の息を漏らす杉元の声で、菊乃はようやく事態を飲み込んだ。
どうやら、寝坊をしてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい……!」
慌てて謝り、重たい身体を無理やり起こす。居候の身で大寝坊とは。なんたる失態。
「疲れが溜まっているんじゃないか?今日はチセで大人しくしていろ」
アシㇼパも気遣わしげな顔で菊乃を伺う。その言葉に「大丈夫です」と反射的に返しかけて、菊乃はそれを飲み込んだ。
まだ、頭の中で過去と現実のあわいが曖昧で、それが言いようのない不快感を募らせた。
「すみません……お言葉に甘えても……?」
情けない声を絞り出しながら、菊乃は申し訳なさそうに俯く。二人は優しく頷き、朝餉の支度へと向かった。
ぼんやりと視線を落とし先程の光景を思い返す。あの歌は、間違いなく森岡が菊乃に聞かせていたものだった。そして彼は、「自分の数字は“三”であることを思い出せ」と言った。まるで、菊乃が忘れてしまうことを示唆するように。
三……みっつ……星みっつ……銀の時計は……
「銀、時計……?」
菊乃は思わず、枕元の時計を掴んだ。いつもと変わらずカチコチと音を奏でている。
縁を撫でたり裏返してみたりしたが、銀時計の何かに隠れた手がかりが──という期待は、儚くも頭の中で霧散する。
もしかすると、特別な個体を指しているのかもしれない。森岡自身が愛用していた銀時計があって、それに秘密が隠されているとか……?そうだとしても、今度は森岡の銀時計を見つけ出さなければ。存在するのかも定かではないのに?
探す当てなどあるはずもなく、菊乃はガクッと項垂れた。鶴見ならばあるいは、何か知っていたかもしれない──と、どうしようもない思いが胸を突く。
時計といえば、もう一つ思い浮かぶものがあった。先日思い出したばかりの絵本の物語。そこに出てくる兵隊が持っていた銀時計だ。
彼の時計は、壊れた時計だった。
──星みっつ 銀の時計は黙り
「……動かない……沈黙の、時計……!」
ぞくり、と粟立つ。全身の産毛が逆立つのが分かる。それは期待からか、あるいは底知れぬ不安の所為か。
確かめたい。けれど肝心の絵本は今、ここにはない。行き場のない焦燥が菊乃をかき乱す。
小刻みに震える手を握り合わせていると、背後から杉元の声が不意にかかった。
「菊乃さん、朝飯できたけど食べられそう?」
その穏やかな声に、菊乃は振り向くこともできず、ただ呆然と座り込んだまま。その強張った表情に気づいた杉元が、驚いたように駆け寄った。
「大丈夫!?さっきより顔色が……」
もう取り繕う余裕なんてなくて、菊乃は膝をついて顔を覗き込んでくる杉元の肩を縋るように掴んだ。
「え、絵本の……っ、確かめなきゃ、鯉登さんにっ、えとっ、ど、どうするのがいいんだっけ、時計の──」
言いたいことがうまくまとまらず、先走る言葉がただぽろぽろとこぼれていく。
「ちょ、ちょっと待って菊乃さん!」
杉元は声をかけ、菊乃の肩を震えごと押さえた。その手の温もりに、はっと息を呑む。
──「私の目を見ろ。──何があった?」
「一旦落ち着こう。大丈夫だから……ゆっくり説明してくれる?」
鯉登が見えて、ひとつ瞬きした後、杉元の気遣わしげな瞳と視線が交わった。
徐々に呼吸を整えた菊乃は、震える声で途切れ途切れに語りはじめた。過去の記憶、歌、絵本の繋がりを。
「菊乃さん。慌てなくていい。手紙で知らせよう」
柔らかな声で杉本が言った。気づけば、傍でアシㇼパも心配そうに菊乃を見つめている。
「昼までに出せば明日には旭川に届くよ。俺が持っていくから」
「す、すみません……ありがとうございます……」
ようやく冷静になった菊乃は、深く頭を下げた。
そうだ、焦る必要はない──自分自身に言い聞かせ、便箋を取って筆を握る。震える手を何度も握り直し、菊乃は慎重に文字を書きはじめた。
──菊乃は、直ぐ様確信した。また、自分は過去の記憶を見ているのだ、と。
かつて見た木造の住まい。寝台に横たわる幼い自分。そして、傍らにはあの男──森岡がいた。
彼の口から、あのロシア語の歌が優しく紡がれている。
「菊乃は、一から五の星、どれが一番好きなんだい?」
歌が終わると、森岡は微笑みながら問いかけた。
「いちー!いちばん星のいちだから」
答えた声は、幼い少女のものだ。
不思議な感覚だった。まるで、ひとつの身体に二つの意思が存在しているようだった。この幼い身体には、確かに今の自分がいるのに、動けないし喋ることもできない。幼い自分が勝手に動き、喋っている。
「はは。そうか、一かぁ」
森岡は穏やかに笑う。
そして、
「おじさんは?」
幼い菊乃は屈託なく問いかけた。その呼び方に、目を瞠る。
おじさん──この人は、父ではなかったのか。ならば何故、父親でもない男と異国の家で共に過ごしているのだろう──。
そんな菊乃の心情など置いてけぼりに、二人の会話は淡々と続いていく。
「三、かな」
「なんで?」
「三は、おじさんの星の数なんだ。だから必ず思い出してくれ、菊乃」
いつか忘れてしまうと知っているかのような、そんな言い方だった。
何故、そんなことを言うの?あなたは何を知っているの──?
必死に問いかけようとしても、声は出ない。
これから自分の身に何が起こるのか。あなたの身に、何が起こるのか──。
叫びたいのに、言葉は内側で霧のように消えて無くなる。そのうち、視界がふわりと霞み、次第にぼやける。
そして遠くから、誰かが菊乃を呼んでいた。その声に引かれるように、視界は暗転し──
朝の匂いが、鼻先を掠めた。
「菊乃!」
アシㇼパの声が、耳元で響いた。
はっと目を覚ました菊乃は、ぼんやりと視線を彷徨わせ、杉元が心配そうに自分を見つめていることに気づく。
「よかった……。揺さぶっても中々起きないから心配したよ」
安堵の息を漏らす杉元の声で、菊乃はようやく事態を飲み込んだ。
どうやら、寝坊をしてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい……!」
慌てて謝り、重たい身体を無理やり起こす。居候の身で大寝坊とは。なんたる失態。
「疲れが溜まっているんじゃないか?今日はチセで大人しくしていろ」
アシㇼパも気遣わしげな顔で菊乃を伺う。その言葉に「大丈夫です」と反射的に返しかけて、菊乃はそれを飲み込んだ。
まだ、頭の中で過去と現実のあわいが曖昧で、それが言いようのない不快感を募らせた。
「すみません……お言葉に甘えても……?」
情けない声を絞り出しながら、菊乃は申し訳なさそうに俯く。二人は優しく頷き、朝餉の支度へと向かった。
ぼんやりと視線を落とし先程の光景を思い返す。あの歌は、間違いなく森岡が菊乃に聞かせていたものだった。そして彼は、「自分の数字は“三”であることを思い出せ」と言った。まるで、菊乃が忘れてしまうことを示唆するように。
三……みっつ……星みっつ……銀の時計は……
「銀、時計……?」
菊乃は思わず、枕元の時計を掴んだ。いつもと変わらずカチコチと音を奏でている。
縁を撫でたり裏返してみたりしたが、銀時計の何かに隠れた手がかりが──という期待は、儚くも頭の中で霧散する。
もしかすると、特別な個体を指しているのかもしれない。森岡自身が愛用していた銀時計があって、それに秘密が隠されているとか……?そうだとしても、今度は森岡の銀時計を見つけ出さなければ。存在するのかも定かではないのに?
探す当てなどあるはずもなく、菊乃はガクッと項垂れた。鶴見ならばあるいは、何か知っていたかもしれない──と、どうしようもない思いが胸を突く。
時計といえば、もう一つ思い浮かぶものがあった。先日思い出したばかりの絵本の物語。そこに出てくる兵隊が持っていた銀時計だ。
彼の時計は、壊れた時計だった。
──星みっつ 銀の時計は黙り
「……動かない……沈黙の、時計……!」
ぞくり、と粟立つ。全身の産毛が逆立つのが分かる。それは期待からか、あるいは底知れぬ不安の所為か。
確かめたい。けれど肝心の絵本は今、ここにはない。行き場のない焦燥が菊乃をかき乱す。
小刻みに震える手を握り合わせていると、背後から杉元の声が不意にかかった。
「菊乃さん、朝飯できたけど食べられそう?」
その穏やかな声に、菊乃は振り向くこともできず、ただ呆然と座り込んだまま。その強張った表情に気づいた杉元が、驚いたように駆け寄った。
「大丈夫!?さっきより顔色が……」
もう取り繕う余裕なんてなくて、菊乃は膝をついて顔を覗き込んでくる杉元の肩を縋るように掴んだ。
「え、絵本の……っ、確かめなきゃ、鯉登さんにっ、えとっ、ど、どうするのがいいんだっけ、時計の──」
言いたいことがうまくまとまらず、先走る言葉がただぽろぽろとこぼれていく。
「ちょ、ちょっと待って菊乃さん!」
杉元は声をかけ、菊乃の肩を震えごと押さえた。その手の温もりに、はっと息を呑む。
──「私の目を見ろ。──何があった?」
「一旦落ち着こう。大丈夫だから……ゆっくり説明してくれる?」
鯉登が見えて、ひとつ瞬きした後、杉元の気遣わしげな瞳と視線が交わった。
徐々に呼吸を整えた菊乃は、震える声で途切れ途切れに語りはじめた。過去の記憶、歌、絵本の繋がりを。
「菊乃さん。慌てなくていい。手紙で知らせよう」
柔らかな声で杉本が言った。気づけば、傍でアシㇼパも心配そうに菊乃を見つめている。
「昼までに出せば明日には旭川に届くよ。俺が持っていくから」
「す、すみません……ありがとうございます……」
ようやく冷静になった菊乃は、深く頭を下げた。
そうだ、焦る必要はない──自分自身に言い聞かせ、便箋を取って筆を握る。震える手を何度も握り直し、菊乃は慎重に文字を書きはじめた。
