本編
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想起(二)
チセの前では、アシㇼパと菊乃が並んでしゃがみ込み、摘んだ山菜を仕分けていた。少し離れた場所には、杉元の姿が見える。アシㇼパの叔父たちと共に、隣のチセの壁を修繕しているようで時折賑やかな掛け合いが聞こえてくる。木材を削る音や土を踏む足音。笑い声。それらを耳にしながら菊乃はふと、隣の少女の横顔を見つめた。
「……アシㇼパさんのお父さんは、どんな人だったんですか?」
まるで、木の葉が風に揺られて落ちるように、自然と出た。囚人たちを使い、金塊の在り処を娘に伝えようとした男──帝政ロシアの敵対勢力だった過去を持ち、かつて鶴見とも面識があった。意識せずにはいられない。
アシㇼパは、手元のフキの葉を仕分けながら、少しの間目を伏せた。
「父 は……強い人だった」
その声に、菊乃は手を止める。アシㇼパの視線は、遠くへと向けられていた。
「母 は、私が物心つく前に病で亡くなってな。生きる術を教えてくれたのは、全部アチャだった。山での歩き方、狩りの仕方──皆が出来ないこともアチャなら出来たし、なんでも知ってて周りに慕われてた」
「知的な方だったんですね」
菊乃が心からの声で言うと、アシㇼパはふっと照れたように目を細めた。
「ああ。だから、私も尊敬していた」
アシㇼパ声は、誇らしげな語り口の奥に、どこか切なげな翳りもある。
「もっと、たくさん話しをしたかった……アチャが考えていたこと。どんな未来を私たちに見せたかったのか」
そう呟いたアシㇼパに、菊乃は自分の胸の奥が静かに波立つのを感じた。
「……私も、です」
ぽつりと落ちたその一言は、ふたりの間で静かに溶けた。
「鶴見さんがこれまで見て、聞いて、感じていたこと。どんな国を、どんな未来を描いていたのか……。それに、私のことも──」
本当は、何か知っていたの──?
──「……そんなもの、嘘なんていくらでもつけるでしょう」
小樽の病院で聞いた月島の声が、胸の奥で静かに響く。まるで、鶴見なら嘘をついたって可笑しくない、と言っているようだったことも気になった。
だけど、自分自身のことで彼が偽りを向けていたなんてどうしても思えなかった。根拠はない。強いて言うならば、勘、だ。
「お互い、父親には振り回されるな」
「……本当にね」
ふふふ、とふたりは小さく笑い合う。こうして、冗談のように語り合えることが、自分たちが前に進めている証のような気がした。
「菊乃は、本当の父親のこと思い出せそうか?前言っていた、森岡って男の」
その問いかけに、菊乃は小さく首を横に振った。
「でも、この前夢で、絵本の物語を読み聞かせてくれていた森岡さんの声を聞いたんです」
「声?」
「絵本には文字がなくて、どんなお話か分からないはずなのに、その語りがやけに鮮明だったから……。きっと、私の記憶なんだと思うんです」
語りながら、菊乃の視線が自然と膝の上へ落ちた。
アシㇼパが、そっと菊乃の傍へと腰をずらすと、
「私は絵本というものを見たことがないんだが、それにはどんな話が書かれているんだ?」
菊乃は少し驚いたように瞬きをした。けれど、納得する。アイヌは文字を持たないから、書物類に馴染みがないのも不思議ではなかった。
菊乃は、夢の中で語られた内容を静かに語り始めた。雪深い森、外れの村、銀時計を持った兵隊、動物たち、そして漆黒の狼のことを。
その語りに、アシㇼパの眉がふと動いた。
「それ……似たような話をアチャから聞いたことがある」
「……え?」
思いがけない反応に、今度は菊乃が驚きの声を上げた。
「似ていると言っても、漆黒の狼が人間の影を食べるってところだけなんだが」
アシㇼパは、じっくり思い返すように視線を落とした。
「周りでアチャしか知らなかったから、たぶん樺太アイヌのウパㇱクマ だったんだと思う。アイヌで“影”っていうのは、この世に残った魂を指すことがある。漆黒の狼は、その魂を神様のもとへ導く送り手の役目をしてるんだってお話だ」
「……樺太、アイヌ……」
それは、胸の奥にのしかかるような重みがあった。夢で見た物語がアイヌの言い伝えと繋がり、それがロシアと繋がる樺太のものだとすれば、その事実はまた一つ、過去の自分を指し示す手がかりとなるのではないか──。
それは、小さなさざ波のように、菊乃の胸の奥を静かに揺らした。
🎏side story🎏
前略 変わりなく過ごしているだろうか。
無事の帰還を伝えるべく、まずは一筆。
此方、旭川においては今のところ目立った動きもなく、粛々と務めを果たしている。
あの日、君の手を離れた荷は、然るべき場所にて預かっている。くれぐれも心配なさらぬよう。
暮らしに不自由はないか。不慣れな土地にて、何かと気疲れもあろうが、どうか無理はせず身のうちを大切に。それだけを願っている。
君の声を再び聞ける日が、一日でも早く訪れるよう最善を尽くす。
何処に在りとも、針が刻む時と共に、我が心は君の傍に在る。
草々
***
鯉登は、軍帽を机に置くと、重々しく椅子に腰を下ろした。額に手をあて、ひとつ大きなため息をつく。
旭川に戻ってからというもの、まともに休まる時間がなかった。というのも、菊乃の一件について、淀川の詰問が毎日のように続いていたからだ。
「あん出歯亀レン公……っ」
本人を前に口には出せぬ本音をそっと吐露し、机上に視線を落とす。
菊乃は、見張り兵から無礼を働かれたことで、ここでの生活に嫌気がさし無断で行方をくらませた──という筋書きで通した。
これ以上騒ぎを大きくすれば、再び27聯隊の不始末として露見しかねず、鶴見による一件に一応の区切りがつきつつある今の状況を考えると、事象の大小にかかわらずどう影響するか予測がつかない。その為、菊乃が失踪したことを淀川は報告していないようだった。それは、鯉登にとっても都合が良い。
しかし、菊乃の行方を探れとアレコレ執拗に言ってきて面倒くさい。一層のこと、菊乃はお前のことなど眼中に無いわ、と吐き捨てて黙らせたい。(言おうとする度、月島に止められる。)
鯉登は、徐に机の引き出しを開けた。取り出したのは、小さな丸い入れ物。
蓋をくるりと回し開ける。その中から薄く取ったクリームを、左手の甲に落としゆっくりと指の腹で広げた。
「……菊乃……」
ふわりと立ち上る微かな香り。
あの日、彼女の髪に、頬に、そっと残っていた甘やかな匂いが、記憶の底から甦ってくる。鼻腔だけでなく、胸の奥深くを満たすような感覚に目を閉じる。まるで、すぐ傍に菊乃がいるようだった。
しかし、それも束の間。現実は甘い夢想に長く浸ることを許してはくれない。
控えめに、扉を叩く音がした。
「失礼します」
月島が静かに入ってきた。
「局留めで出してきました」
「ああ、ご苦労だった」
旭川へ戻って早々の騒ぎが落ち着いた頃合いで、小樽へと身を潜めた菊乃へ第一報をしたためた。念には念をと、お互い偽名を使い局留めで送り合う策を事前に打ち合わせていた。
「……大澤のことは、なんと?」
月島の声が低く落ちる。その名前を聞いた瞬間、鯉登の表情が僅かに翳る。
「……書けなかった」
「……そうですか」
月島はそれ以上、何も問うことはなかった。
大澤のことは、生かしておく必要があった。中央にいる黒幕を炙りだすために。信頼していた男が裏切り者となり、そして命を絶った──いや、絶たれたと言った方が正しい。
大澤は、単独で手に入れられるはずのないモルヒネの過剰摂取が死因だった。聯隊内に、まだ内通者がいるかもしれない。あるいは、万が一のときは──と初めから指示されていたのだとすれば、件の黒幕に殺されたも同然。
そして、魁燿亭を襲撃したロシア人の集団自害を思い起こさせた。すべては、もっと前から仕組まれていたのでは──。
鯉登は、深く息を吐いた。次は、菊乃からの返事を待たなければ。その中に、どんな言葉があるのか。何を思い過ごしているのか。それを確かめることでしか自分の進むべき道も定まらない──そんな気がした。
恋しい、会いたい──考える度に渦巻くそれらの感情を押し留めるには、あまりにも強すぎた。
「月島。後ろを向け」
徐ろに立ち上がった鯉登が、月島に言った。
「え?」
「いいから、後ろ向け」
唐突な命令。僅かに警戒をにじませながらも、月島は素直に背を向けた。
すると鯉登は、彼の無骨な首筋に菊乃のクリームを塗りつけた。案の定、その撫でられる感触に粟立ったのか、
「こ、鯉登少尉殿!?な、何を──!」
耐え兼ねて振り返ろうとした月島の顔を、鯉登が力業で正面へ戻す。そして、
「ぃ──ッ!!?」
息を呑む月島の首元に顔を埋めて、後ろから勢いよく抱きしめた。同時に、ス~、と鼻を鳴らし求める香りを深く吸い込む。
「~~~っ、違う!!菊乃はこんなにゴツくないし暑苦しくない!!汗臭い!!」
「何やってんだあんたッ!!?」
勢いよく振りほどかれ、鯉登は渋々その場から距離を取った。腑に落ちない顔の鯉登が、形容し難い形相の月島を見やる。
「お前と菊乃は、背丈が近いから……つい」
「……っ勘弁してくれ」
これ以上ない、というほどの深い溜息が聞こえた。
だが、少し邪な気が紛れた。ような気がした。
「さて。尽くせる手は尽くしたが、手応えすら無いな」
何事もなかったかのように腕を組みながら、鯉登は誰にともなくぼやく。
「……森岡のことも、あれから真新しい情報は一切出てきません」
まだ少し息の整わない月島が、鯉登の声に反応した。
「ただ……信憑性は薄いですが、一つ妙な噂話を聞けました」
「噂話?」
「森岡が軍を離れる直前、共に任務についていた第二師団の青木中佐から、当時“天皇直下組織の新設”が囁かれていた──と」
その言葉に、鯉登の目がわずかに鋭さを増す。
「森岡は、その秘密裏組織に引き抜かれたのではないか──、そう仲間内で交わされていたそうです」
月島の言葉を受けながら、鯉登は目を伏せた。
それは本当に噂に留まる話なのか。そんな予感めいたものが胸を突いた。
チセの前では、アシㇼパと菊乃が並んでしゃがみ込み、摘んだ山菜を仕分けていた。少し離れた場所には、杉元の姿が見える。アシㇼパの叔父たちと共に、隣のチセの壁を修繕しているようで時折賑やかな掛け合いが聞こえてくる。木材を削る音や土を踏む足音。笑い声。それらを耳にしながら菊乃はふと、隣の少女の横顔を見つめた。
「……アシㇼパさんのお父さんは、どんな人だったんですか?」
まるで、木の葉が風に揺られて落ちるように、自然と出た。囚人たちを使い、金塊の在り処を娘に伝えようとした男──帝政ロシアの敵対勢力だった過去を持ち、かつて鶴見とも面識があった。意識せずにはいられない。
アシㇼパは、手元のフキの葉を仕分けながら、少しの間目を伏せた。
「
その声に、菊乃は手を止める。アシㇼパの視線は、遠くへと向けられていた。
「
「知的な方だったんですね」
菊乃が心からの声で言うと、アシㇼパはふっと照れたように目を細めた。
「ああ。だから、私も尊敬していた」
アシㇼパ声は、誇らしげな語り口の奥に、どこか切なげな翳りもある。
「もっと、たくさん話しをしたかった……アチャが考えていたこと。どんな未来を私たちに見せたかったのか」
そう呟いたアシㇼパに、菊乃は自分の胸の奥が静かに波立つのを感じた。
「……私も、です」
ぽつりと落ちたその一言は、ふたりの間で静かに溶けた。
「鶴見さんがこれまで見て、聞いて、感じていたこと。どんな国を、どんな未来を描いていたのか……。それに、私のことも──」
本当は、何か知っていたの──?
──「……そんなもの、嘘なんていくらでもつけるでしょう」
小樽の病院で聞いた月島の声が、胸の奥で静かに響く。まるで、鶴見なら嘘をついたって可笑しくない、と言っているようだったことも気になった。
だけど、自分自身のことで彼が偽りを向けていたなんてどうしても思えなかった。根拠はない。強いて言うならば、勘、だ。
「お互い、父親には振り回されるな」
「……本当にね」
ふふふ、とふたりは小さく笑い合う。こうして、冗談のように語り合えることが、自分たちが前に進めている証のような気がした。
「菊乃は、本当の父親のこと思い出せそうか?前言っていた、森岡って男の」
その問いかけに、菊乃は小さく首を横に振った。
「でも、この前夢で、絵本の物語を読み聞かせてくれていた森岡さんの声を聞いたんです」
「声?」
「絵本には文字がなくて、どんなお話か分からないはずなのに、その語りがやけに鮮明だったから……。きっと、私の記憶なんだと思うんです」
語りながら、菊乃の視線が自然と膝の上へ落ちた。
アシㇼパが、そっと菊乃の傍へと腰をずらすと、
「私は絵本というものを見たことがないんだが、それにはどんな話が書かれているんだ?」
菊乃は少し驚いたように瞬きをした。けれど、納得する。アイヌは文字を持たないから、書物類に馴染みがないのも不思議ではなかった。
菊乃は、夢の中で語られた内容を静かに語り始めた。雪深い森、外れの村、銀時計を持った兵隊、動物たち、そして漆黒の狼のことを。
その語りに、アシㇼパの眉がふと動いた。
「それ……似たような話をアチャから聞いたことがある」
「……え?」
思いがけない反応に、今度は菊乃が驚きの声を上げた。
「似ていると言っても、漆黒の狼が人間の影を食べるってところだけなんだが」
アシㇼパは、じっくり思い返すように視線を落とした。
「周りでアチャしか知らなかったから、たぶん樺太アイヌの
「……樺太、アイヌ……」
それは、胸の奥にのしかかるような重みがあった。夢で見た物語がアイヌの言い伝えと繋がり、それがロシアと繋がる樺太のものだとすれば、その事実はまた一つ、過去の自分を指し示す手がかりとなるのではないか──。
それは、小さなさざ波のように、菊乃の胸の奥を静かに揺らした。
🎏side story🎏
前略 変わりなく過ごしているだろうか。
無事の帰還を伝えるべく、まずは一筆。
此方、旭川においては今のところ目立った動きもなく、粛々と務めを果たしている。
あの日、君の手を離れた荷は、然るべき場所にて預かっている。くれぐれも心配なさらぬよう。
暮らしに不自由はないか。不慣れな土地にて、何かと気疲れもあろうが、どうか無理はせず身のうちを大切に。それだけを願っている。
君の声を再び聞ける日が、一日でも早く訪れるよう最善を尽くす。
何処に在りとも、針が刻む時と共に、我が心は君の傍に在る。
草々
***
鯉登は、軍帽を机に置くと、重々しく椅子に腰を下ろした。額に手をあて、ひとつ大きなため息をつく。
旭川に戻ってからというもの、まともに休まる時間がなかった。というのも、菊乃の一件について、淀川の詰問が毎日のように続いていたからだ。
「あん出歯亀レン公……っ」
本人を前に口には出せぬ本音をそっと吐露し、机上に視線を落とす。
菊乃は、見張り兵から無礼を働かれたことで、ここでの生活に嫌気がさし無断で行方をくらませた──という筋書きで通した。
これ以上騒ぎを大きくすれば、再び27聯隊の不始末として露見しかねず、鶴見による一件に一応の区切りがつきつつある今の状況を考えると、事象の大小にかかわらずどう影響するか予測がつかない。その為、菊乃が失踪したことを淀川は報告していないようだった。それは、鯉登にとっても都合が良い。
しかし、菊乃の行方を探れとアレコレ執拗に言ってきて面倒くさい。一層のこと、菊乃はお前のことなど眼中に無いわ、と吐き捨てて黙らせたい。(言おうとする度、月島に止められる。)
鯉登は、徐に机の引き出しを開けた。取り出したのは、小さな丸い入れ物。
蓋をくるりと回し開ける。その中から薄く取ったクリームを、左手の甲に落としゆっくりと指の腹で広げた。
「……菊乃……」
ふわりと立ち上る微かな香り。
あの日、彼女の髪に、頬に、そっと残っていた甘やかな匂いが、記憶の底から甦ってくる。鼻腔だけでなく、胸の奥深くを満たすような感覚に目を閉じる。まるで、すぐ傍に菊乃がいるようだった。
しかし、それも束の間。現実は甘い夢想に長く浸ることを許してはくれない。
控えめに、扉を叩く音がした。
「失礼します」
月島が静かに入ってきた。
「局留めで出してきました」
「ああ、ご苦労だった」
旭川へ戻って早々の騒ぎが落ち着いた頃合いで、小樽へと身を潜めた菊乃へ第一報をしたためた。念には念をと、お互い偽名を使い局留めで送り合う策を事前に打ち合わせていた。
「……大澤のことは、なんと?」
月島の声が低く落ちる。その名前を聞いた瞬間、鯉登の表情が僅かに翳る。
「……書けなかった」
「……そうですか」
月島はそれ以上、何も問うことはなかった。
大澤のことは、生かしておく必要があった。中央にいる黒幕を炙りだすために。信頼していた男が裏切り者となり、そして命を絶った──いや、絶たれたと言った方が正しい。
大澤は、単独で手に入れられるはずのないモルヒネの過剰摂取が死因だった。聯隊内に、まだ内通者がいるかもしれない。あるいは、万が一のときは──と初めから指示されていたのだとすれば、件の黒幕に殺されたも同然。
そして、魁燿亭を襲撃したロシア人の集団自害を思い起こさせた。すべては、もっと前から仕組まれていたのでは──。
鯉登は、深く息を吐いた。次は、菊乃からの返事を待たなければ。その中に、どんな言葉があるのか。何を思い過ごしているのか。それを確かめることでしか自分の進むべき道も定まらない──そんな気がした。
恋しい、会いたい──考える度に渦巻くそれらの感情を押し留めるには、あまりにも強すぎた。
「月島。後ろを向け」
徐ろに立ち上がった鯉登が、月島に言った。
「え?」
「いいから、後ろ向け」
唐突な命令。僅かに警戒をにじませながらも、月島は素直に背を向けた。
すると鯉登は、彼の無骨な首筋に菊乃のクリームを塗りつけた。案の定、その撫でられる感触に粟立ったのか、
「こ、鯉登少尉殿!?な、何を──!」
耐え兼ねて振り返ろうとした月島の顔を、鯉登が力業で正面へ戻す。そして、
「ぃ──ッ!!?」
息を呑む月島の首元に顔を埋めて、後ろから勢いよく抱きしめた。同時に、ス~、と鼻を鳴らし求める香りを深く吸い込む。
「~~~っ、違う!!菊乃はこんなにゴツくないし暑苦しくない!!汗臭い!!」
「何やってんだあんたッ!!?」
勢いよく振りほどかれ、鯉登は渋々その場から距離を取った。腑に落ちない顔の鯉登が、形容し難い形相の月島を見やる。
「お前と菊乃は、背丈が近いから……つい」
「……っ勘弁してくれ」
これ以上ない、というほどの深い溜息が聞こえた。
だが、少し邪な気が紛れた。ような気がした。
「さて。尽くせる手は尽くしたが、手応えすら無いな」
何事もなかったかのように腕を組みながら、鯉登は誰にともなくぼやく。
「……森岡のことも、あれから真新しい情報は一切出てきません」
まだ少し息の整わない月島が、鯉登の声に反応した。
「ただ……信憑性は薄いですが、一つ妙な噂話を聞けました」
「噂話?」
「森岡が軍を離れる直前、共に任務についていた第二師団の青木中佐から、当時“天皇直下組織の新設”が囁かれていた──と」
その言葉に、鯉登の目がわずかに鋭さを増す。
「森岡は、その秘密裏組織に引き抜かれたのではないか──、そう仲間内で交わされていたそうです」
月島の言葉を受けながら、鯉登は目を伏せた。
それは本当に噂に留まる話なのか。そんな予感めいたものが胸を突いた。
