本編
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想起(一)
むかしむかし、雪ぶかい森のはずれの村に、ひとりの兵隊がやってきました。
兵隊はわかく、ことば少なで、ふるびたマントを羽おり、頭にはかがやく銀の軍帽をかぶっていました。
彼はなにも語りませんでしたが、村人たちはすぐに気づきました。
「この人は、戦 を生き延びてきたのだ」と。
ある日、村のちいさな子うさぎたちがたずねました。
「兵隊さん、どうして笑わないの?」
兵隊はしばらく考えて、そしてこたえました。
「私は、笑顔をどこかに置いてきてしまったんだよ」
兵隊の懐には、ひとつの時計がありました。
まるくて銀色の、重たい銀時計。
けれど、どれだけながめても、針はうごきません。
「なぜその時計はうごかないの?」
小枝に止まる小鳥たちがたずねました。
「これには、止まった時をしまってあるんだ」
兵隊はそう言いました。
「いつか、思い出す日が来たら、またうごくかもしれないね」
けれど、長い年月が過ぎても、
その時計の針がうごいたところを見た者はいませんでした。
ある晩のことです。
兵隊は、雪ぶかい森の中へひとりで歩いていきました。
まっすぐな足取りで、まるでなにかを探しているように。
やがて、森の奥から声がひびきました。
「男よ、おまえはなにを求める?」
そこにいたのは、黒い毛並みの狼でした。
その目は、月のように静かにかがやいていました。
兵隊は、少しだけ考えてから言いました。
「……私は、真実を知りたい」
狼は雪の上をくるりとまわると、こう言いました。
「ならば、お前の影を置いていけ。
影なき者だけが、真実に触れられる。
やがてお前が忘れたものを思い出し、真実は目を覚ますだろう」
兵隊は黙って立ち尽くし、やがて、ゆっくりと自分の影を地面からはがします。
狼はその影を口に含み、ゆっくりと飲みこみました。
兵隊は銀時計を取り出し、雪の中に埋めると、その横に銀の軍帽をそっと置きました。
そして、ふり返ることなく狼のあとを歩いていきました。
そのすがたは、白い森の奥へとしずかに溶けるように消えていきました。
──それから、兵隊のすがたを見た者はいませんでした。
けれど、ある冬の晩。
森を訪れた旅人が、こう語ったのです。
「森の奥で、なにかが月明かりに照らされて、きらりと光った」と──。
***
うつらうつら夢から覚めると、小鳥のさえずりが窓の向こうから聞こえてきた。まるで「目を覚まして」と囁くような──その音に誘われるように、菊乃はゆっくりと上半身を起こした。微かな朝日が、窓の隙間から差し込んでいる。
布団から抜け出すと、冷たい空気に身震いしながら、菊乃は井戸へと向かった。両手ですくった水でばしゃりと顔を洗いながら、夢の余韻が心を揺らす。
「……絵本にあった、お話だ」
絵本には、本来ならあるはずの文字がなかった。まるで、刃物で削ぎ落とされたように、文字だけが不自然に削られていたのだ。
魁燿亭の女将が言うには、菊乃を保護して間もない頃、まるで正気とは思えぬ様子で、絵本の文字だけを血が滲むまで何度も何度も爪でひっかいていた、と。
ひたすら文字を削り続けていた自分──それを語る女将の困惑した顔が、今も脳裏に残っている。
「……森岡さんの、声だった……」
夢の中で聞こえた語り。
その声音は、あの人がそっと傍で歌っていたときと、どこか似ていた。優しく、穏やかに。
菊乃は大きく息を吐く。目覚めを促すように両手で頬を叩くと、気持ちを切り替え朝の支度へと向かった。
今日もまた、この胸の中に宿る手がかりを頼りに、前へ進むしかないのだ。
──今日は、コタンの女性たちと作業をした。燻した魚を背に戻ってくると、ちょうど街の方へ買い出しに出かけていたアシㇼパと杉元が帰ってきたところだった。
「お疲れ、菊乃さん」
「おかえりなさい」
杉元の労いに、菊乃が返す。隣のアシㇼパは、にこにこと笑って懐から何かを取り出そうとしている。
「菊乃、郵便局で預かってきたぞ」
アシㇼパがそう言って、一通の封書を取り出した。
見ただけで紙の上質さが伝わった。どこかよそ行きの空気をまとったそれを、アシㇼパは丁寧に両手で差し出している。
「“ルイナ”宛てだ」
その名前に、菊乃の胸が微かに震える。慎重に封を受け取り、表書きをそっと目でなぞった。
ルイナ──アイヌの言葉で「香りの人」という意味だそうだ。
アシㇼパに相談し、あの日鯉登が考えた菊乃の偽名だった。そして、封書を裏返す。そこには「篠遠十一子」と記されている。しのとお・といこ──こいと・おとのし(ん)を逆読みさせた、これまた偽名。一見して男とも女とも取れぬ上手くぼかされた名前に、得意気だった鯉登の顔が脳裏に浮かんだ。
「ふふっ」
菊乃から笑いが漏れた。何より、手紙が無事に届いたこと。それが、今はたまらなく嬉しい。
「ありがとう!アシㇼパさん、杉本さん」
そう言って、二人に丁寧に頭を下げる。
燻した魚を簡単に仕舞い込むと、菊乃は囲炉裏の傍に座りこみ、封を開けた。中から丁寧に折られた便箋を取り出す。そこには、整った筆跡で綴られた文字が、まっすぐ均等な行間を保ち並んでいた。
無事に旭川へ戻ったこと、まだ新しい情報は掴めていないこと、置いてきた荷は預かっていること、コタンの暮らしについての気遣い──。
どれも端正で、淡々とした文面だ。
そうして読み進めるうち、最後の一文に菊乃の指先が止まる。
──何処に在りとも、針が刻む時と共に、我が心は君の傍に在る──
銀時計に託された、彼の心。距離を越えて届いたその想いが、菊乃の胸に満ちていく。張りつめていた不安の糸が解けた。
その時、背中に妙な視線を感じた。菊乃がちらりと振り返ると、杉元とアシㇼパがどちらからともなく背後に並び、ぐぐぐっと首を伸ばしていた。
「ちょっ、ちょっと、何してるんですか……!?」
「あ、バレた!」
アシㇼパがひょいと身を引き、杉元は悪びれる様子もなく口元を緩めた。
「いやー、何が書いてあるのかなって……な?アシㇼパさん」
「うん。読むなとは言われてないもんな?杉本」
「言わずとも分かってくださいっ」
菊乃は慌てて便箋を自分の胸元に押し当てる。
ふたりはまるで悪戯を誤魔化す子どものように、にこにことその場にしゃがみ込んだ。
「あれだけ情熱的な別れ方してたしぃ?やっぱ“会いたい"とか“寂しい"とか書いてんのかなぁ~?」
杉元が恍惚とした表情で言えば、
「アイヌは文字を持たないから、こ、恋文とはどんなことが書いてあるものなのかなと……」
アシㇼパまで、そわそわと視線を泳がせながら言う。
「こっ、これは恋文じゃなくて、ちゃんとした伝達事項のやり取りなんですっ。ごく真面目な!」
とっさに否定するも、菊乃は耳までほんのり朱に染まっていた。二人の視線に耐え切れず、顔を伏せて誤魔化す。
ただ一つ、気がかりな事があった。手紙の中には、大澤のことが語られていなかった。未だ、指示した人物のことを教えてくれていない──ということか。その沈黙が、返って不安を募らせる。
「……私も、伝えないと」
気持ちを切り替えるようにそう小さくつぶやき、菊乃は筆箱を手に取った。指先で便箋を広げながら、深く息を吸い込む。
書きたいことは、山ほどある。夢の中で蘇った絵本の物語。そして、歌に散らばる星の謎。それらがきっと、新たな手掛かりへと繋がってゆくはず──そう信じて、筆を走らせた。
むかしむかし、雪ぶかい森のはずれの村に、ひとりの兵隊がやってきました。
兵隊はわかく、ことば少なで、ふるびたマントを羽おり、頭にはかがやく銀の軍帽をかぶっていました。
彼はなにも語りませんでしたが、村人たちはすぐに気づきました。
「この人は、
ある日、村のちいさな子うさぎたちがたずねました。
「兵隊さん、どうして笑わないの?」
兵隊はしばらく考えて、そしてこたえました。
「私は、笑顔をどこかに置いてきてしまったんだよ」
兵隊の懐には、ひとつの時計がありました。
まるくて銀色の、重たい銀時計。
けれど、どれだけながめても、針はうごきません。
「なぜその時計はうごかないの?」
小枝に止まる小鳥たちがたずねました。
「これには、止まった時をしまってあるんだ」
兵隊はそう言いました。
「いつか、思い出す日が来たら、またうごくかもしれないね」
けれど、長い年月が過ぎても、
その時計の針がうごいたところを見た者はいませんでした。
ある晩のことです。
兵隊は、雪ぶかい森の中へひとりで歩いていきました。
まっすぐな足取りで、まるでなにかを探しているように。
やがて、森の奥から声がひびきました。
「男よ、おまえはなにを求める?」
そこにいたのは、黒い毛並みの狼でした。
その目は、月のように静かにかがやいていました。
兵隊は、少しだけ考えてから言いました。
「……私は、真実を知りたい」
狼は雪の上をくるりとまわると、こう言いました。
「ならば、お前の影を置いていけ。
影なき者だけが、真実に触れられる。
やがてお前が忘れたものを思い出し、真実は目を覚ますだろう」
兵隊は黙って立ち尽くし、やがて、ゆっくりと自分の影を地面からはがします。
狼はその影を口に含み、ゆっくりと飲みこみました。
兵隊は銀時計を取り出し、雪の中に埋めると、その横に銀の軍帽をそっと置きました。
そして、ふり返ることなく狼のあとを歩いていきました。
そのすがたは、白い森の奥へとしずかに溶けるように消えていきました。
──それから、兵隊のすがたを見た者はいませんでした。
けれど、ある冬の晩。
森を訪れた旅人が、こう語ったのです。
「森の奥で、なにかが月明かりに照らされて、きらりと光った」と──。
***
うつらうつら夢から覚めると、小鳥のさえずりが窓の向こうから聞こえてきた。まるで「目を覚まして」と囁くような──その音に誘われるように、菊乃はゆっくりと上半身を起こした。微かな朝日が、窓の隙間から差し込んでいる。
布団から抜け出すと、冷たい空気に身震いしながら、菊乃は井戸へと向かった。両手ですくった水でばしゃりと顔を洗いながら、夢の余韻が心を揺らす。
「……絵本にあった、お話だ」
絵本には、本来ならあるはずの文字がなかった。まるで、刃物で削ぎ落とされたように、文字だけが不自然に削られていたのだ。
魁燿亭の女将が言うには、菊乃を保護して間もない頃、まるで正気とは思えぬ様子で、絵本の文字だけを血が滲むまで何度も何度も爪でひっかいていた、と。
ひたすら文字を削り続けていた自分──それを語る女将の困惑した顔が、今も脳裏に残っている。
「……森岡さんの、声だった……」
夢の中で聞こえた語り。
その声音は、あの人がそっと傍で歌っていたときと、どこか似ていた。優しく、穏やかに。
菊乃は大きく息を吐く。目覚めを促すように両手で頬を叩くと、気持ちを切り替え朝の支度へと向かった。
今日もまた、この胸の中に宿る手がかりを頼りに、前へ進むしかないのだ。
──今日は、コタンの女性たちと作業をした。燻した魚を背に戻ってくると、ちょうど街の方へ買い出しに出かけていたアシㇼパと杉元が帰ってきたところだった。
「お疲れ、菊乃さん」
「おかえりなさい」
杉元の労いに、菊乃が返す。隣のアシㇼパは、にこにこと笑って懐から何かを取り出そうとしている。
「菊乃、郵便局で預かってきたぞ」
アシㇼパがそう言って、一通の封書を取り出した。
見ただけで紙の上質さが伝わった。どこかよそ行きの空気をまとったそれを、アシㇼパは丁寧に両手で差し出している。
「“ルイナ”宛てだ」
その名前に、菊乃の胸が微かに震える。慎重に封を受け取り、表書きをそっと目でなぞった。
ルイナ──アイヌの言葉で「香りの人」という意味だそうだ。
アシㇼパに相談し、あの日鯉登が考えた菊乃の偽名だった。そして、封書を裏返す。そこには「篠遠十一子」と記されている。しのとお・といこ──こいと・おとのし(ん)を逆読みさせた、これまた偽名。一見して男とも女とも取れぬ上手くぼかされた名前に、得意気だった鯉登の顔が脳裏に浮かんだ。
「ふふっ」
菊乃から笑いが漏れた。何より、手紙が無事に届いたこと。それが、今はたまらなく嬉しい。
「ありがとう!アシㇼパさん、杉本さん」
そう言って、二人に丁寧に頭を下げる。
燻した魚を簡単に仕舞い込むと、菊乃は囲炉裏の傍に座りこみ、封を開けた。中から丁寧に折られた便箋を取り出す。そこには、整った筆跡で綴られた文字が、まっすぐ均等な行間を保ち並んでいた。
無事に旭川へ戻ったこと、まだ新しい情報は掴めていないこと、置いてきた荷は預かっていること、コタンの暮らしについての気遣い──。
どれも端正で、淡々とした文面だ。
そうして読み進めるうち、最後の一文に菊乃の指先が止まる。
──何処に在りとも、針が刻む時と共に、我が心は君の傍に在る──
銀時計に託された、彼の心。距離を越えて届いたその想いが、菊乃の胸に満ちていく。張りつめていた不安の糸が解けた。
その時、背中に妙な視線を感じた。菊乃がちらりと振り返ると、杉元とアシㇼパがどちらからともなく背後に並び、ぐぐぐっと首を伸ばしていた。
「ちょっ、ちょっと、何してるんですか……!?」
「あ、バレた!」
アシㇼパがひょいと身を引き、杉元は悪びれる様子もなく口元を緩めた。
「いやー、何が書いてあるのかなって……な?アシㇼパさん」
「うん。読むなとは言われてないもんな?杉本」
「言わずとも分かってくださいっ」
菊乃は慌てて便箋を自分の胸元に押し当てる。
ふたりはまるで悪戯を誤魔化す子どものように、にこにことその場にしゃがみ込んだ。
「あれだけ情熱的な別れ方してたしぃ?やっぱ“会いたい"とか“寂しい"とか書いてんのかなぁ~?」
杉元が恍惚とした表情で言えば、
「アイヌは文字を持たないから、こ、恋文とはどんなことが書いてあるものなのかなと……」
アシㇼパまで、そわそわと視線を泳がせながら言う。
「こっ、これは恋文じゃなくて、ちゃんとした伝達事項のやり取りなんですっ。ごく真面目な!」
とっさに否定するも、菊乃は耳までほんのり朱に染まっていた。二人の視線に耐え切れず、顔を伏せて誤魔化す。
ただ一つ、気がかりな事があった。手紙の中には、大澤のことが語られていなかった。未だ、指示した人物のことを教えてくれていない──ということか。その沈黙が、返って不安を募らせる。
「……私も、伝えないと」
気持ちを切り替えるようにそう小さくつぶやき、菊乃は筆箱を手に取った。指先で便箋を広げながら、深く息を吸い込む。
書きたいことは、山ほどある。夢の中で蘇った絵本の物語。そして、歌に散らばる星の謎。それらがきっと、新たな手掛かりへと繋がってゆくはず──そう信じて、筆を走らせた。
